名瀬の史跡・文化財・石碑 本文へジャンプ
名瀬中央地区西側の史跡ギャラリー

中央地区西側

   らんかん山:くれないの塔  詳細不明の碑  殉職警察官慰霊碑  濱上翁頌徳碑 

           佐多萬膳両君殉職記念碑  白糖工場跡  保存樹林第2号  


   井根町:高千穂神社  森百太郎翁像  松野松右衛門碑  丸田兼義翁碑  谷村唯一郎生家     
         赤木名観音堂跡  大野重隆像  丸田南里の墓   
        
   矢之脇町:稲荷神社         

   金 久:円形校舎           
らんかん山
白糖工場跡
 慶応年代の白糖工場跡で、地名のらんかん(蘭館)山の名称の由来となった場所です。当時の薩摩藩主島津忠義公が、奄美で白糖を製造するため製糖機械4台を導入し、その技術指導のため二人のオランダ人技師(オートロス、マキンタイラー)を招いてこの地に住まわせた。地元の人達はその住まいをオランダ人の館という意味で「蘭舘」と呼ぶようになったが、いつしかそれがそのまま地名になった。白糖工場は現在の有村ビル辺りにあったとも言われていて定かではないらしい。奄美大島にはこの他に龍郷町瀬留、瀬戸内町久慈、宇検村須古の4ヵ所に白糖工場が建てられていた。

保存樹林第2号
 保存樹林第1号は、名瀬小学校周辺・永田川沿いにありますが、第2号はらんかん山の麓にあります。

詳細不明の碑
  招魂碑の隣に大きな石碑がありますが、不思議なことに何も文字が彫られていません。結構立派な石碑なので 何か謂われがあるのでしょうが、どなたか知っていたら教えて下さい。

                           詳細不明の碑  


警察関係の碑
準備中


        濱上翁頌徳碑           殉職警察官慰霊碑          佐多萬膳両君殉職記念碑  

井根町
高千穂神社






INFORMATION
場 所  井根町
 泉芳朗先生が断食を行った高千穂神社です。1953年8月1日午前1時に井根町の自宅を出て、高千穂神社の拝殿で5日間の断食に入りましたが、8月4日にはこの報を聞きつけた群衆1万人が名瀬小学校に集まり、先生と同じように夜を徹して24時間の断食を決行し、夜明頃かがり火を手に高千穂神社に移動し先生と合流したそうです。断食5日目に入った先生はさすがに疲れの色を隠せなかったが、拝殿の階段に立ち断食中自ら作った詩編「断食悲願」を披露したそうです。インドのガンジーを彷彿とさせるこの非暴力の抵抗は、その年の年末実を結ぶこととなったのである。





森百太郎翁像



INFORMATION
場 所  井根町
 高千穂神社の敷地内(かな?)には、三人の偉人の石碑等が建立されています。




松野松右衛門碑



INFORMATION
場 所  井根町
 松野松右衛門は、高千穂神社に珍石を寄進した人である。石碑の碑文は、当時の大島中学校長の龍野定一先生によるもので、それによると松野松右衛門氏は奈良の人で旧姓平尾という姓であったようである。


丸田兼義翁碑



INFORMATION
場 所  井根
大島紬を奄美の基幹産業にまで高めた人物。

丸田南里の墓

お墓の横の石仏

INFORMATION
場 所  井根町市営墓地近く
 黒砂糖の相場を鹿児島の商人が意のままにしていることに憤慨し、砂糖価格を自由解放させ、黒砂糖の自由販売化に尽力した。これにより奄美経済の復興を実現させた。

大野重隆像



INFORMATION
場 所  井根町
 笠利町赤木名生まれで奄美漁業の発展に尽力した人物。
火災で家が焼ける前は、ここに像があることは、まったく気がつきませんでした。(というか見えなかった。)ある日、隣の邸宅に用があり行ったところ家がなくなり空き地になっていたので、?と思い聞いたところ火事で焼けたということでした。そして、胸像があるのに気づきました。この胸像は、大野の没翌年の昭和40年名瀬漁協前に建立されていたものである。

谷村唯一郎生家




赤木名観音堂跡





INFORMATION
場 所  井根町
 高千穂神社のすぐ近くに谷村唯一郎先生の生家があります。現在は、サロンとして使用されているようです。おがみ山には胸像が建立されています。



INFORMATION

場 所  井根町
 笠利町赤木名にあったものを




矢之脇町
稲荷神社







INFORMATION
場 所  矢之脇町
 矢之脇町の住宅街の一角に奄美大島では珍しい稲荷神社があります。厳島神社は結構な数あるのですが、私の知る限り稲荷神社はここだけです。奄美青年会議所による神社の由来の看板が設置されていますが、私が画像を撮った時には庭木に隠れていて道路からはよく見えませんでした。鳥居も蔦に覆われていてよく見ないとこれが鳥居だとは気づきません。鳥居と社の間は民家の庭畑になっておりちょっと残念に思います。屋仁川(奄美経済)の景気を良くするためにも手入れした方がいいのでは!?と思ってしまいました。





金久
円形校舎
 金久中学校の校舎として使われていた珍しい円形校舎です。円形と言っても半円形なんだけど。
 残念ながら、来年(平成22年)には取り壊されるようです。大型客船が名瀬港に入港したとき等ボランティアの案内で名瀬の街中を徒歩で巡るいい観光コースになっていたのにもったいない話です。できれば観光資源として残して欲しいです。