ツル保護活動                                                 home

● 出水のツル保護活動の歴史

昔、ツルは日本全国に渡ってきていていました。
今でも残るたくさんの「鶴」のついた地名などからも、その様子が伺えます。


 縄文時代 縄文中期から後期にかけての江内貝塚(今のツル保護区の近く)から、ツルの骨が出土しています。 


 江戸時代  薩摩藩で干拓事業を開始。
元禄初期の1690年頃から今のツル保護区の地域の干拓が進められていました。
その頃は、ツルの渡来地としては有名ではなかったようです。

ツルは将軍の権威の象徴として保護され、禁猟とされていました。
また一方で、将軍家による「鶴御成り」という鷹狩では狩りの対象とされ、朝廷に献上され鶴包丁として宮中で料理されてもいました。

薩摩藩もいろいろな保護を加えて、一般の人々の狩猟を禁止していたようです。

 明治時代 徳川幕府が倒れ明治維新を迎えると、幕府が定めたツル禁猟の掟は消滅し次第に狩猟の対象となっていきました。出水平野でも他県から猟師が入り、ツルを乱獲して明治中頃には1羽も来なくなった時期があったといわれています。
 
 明治28年 狩猟法制定
ツルが保護鳥に指定され、再び出水へのツルの渡来数が徐々に増え始めます。 

 大正時代 大正5年   阿久根の波留付近を禁猟区に指定。
ツルのねぐらは阿久根市波留が中心で、江内・荘・下水流などは餌場としてツルに利用されていたようです。
  大正6年  荒崎地区を禁猟区に指定。 
  大正10年 天然記念物指定(第1号)
荒崎地区、荘地区の禁猟区が広げられました。
文部省、農林省から飼料費が交付され、給餌が始まりました。
民間によるツルの保護会もあったそうです。
  大正12年  鹿児島本線 野田郷−米ノ津間開通。
計画ではツルの生息地の真ん中を通過する予定でしたが、当時の史跡名勝天然記念物調査会考査員の内田清之助がツル生息地の迂回を鉄道省に了承させました。 

 昭和時代 昭和初期 出水郡鶴保護会が試験的に給餌を行っていたようです。
  昭和16年 戦争により出水郡鶴保護会自然消滅
  昭和18年  出水に海軍航空隊設置 
  昭和27年 特別天然記念物指定 給餌再開 
  昭和30年 防衛庁から航空学校設置の申し入れがありましたが、反対運動が起こり設置しませんでした。 
  昭和35年 荘中学校でツルクラブの前身となる活動が始まる 
    ( この頃は、高尾野中学校・野田中学校のツルクラブの活動が盛んだったらしいです)
  昭和37年 鹿児島県ツル保護会発足
  昭和38年 天然記念物保護増殖事業により、給餌が本格的に再開
  昭和39年 負傷したツルのための療養飼育舎の建設、人工ねぐらの設置。 
  昭和41年 正式に「荘中学校ツルクラブ」発足 
  昭和47年 餌まき場の借り上げを始める。 
  昭和54年 文化庁が天然記念物食害対策事業導入。 

 平成 平成8年 環境庁が特定地域鳥獣保護管理事業として、東干拓に休遊地を設定。 
  平成9年 高尾野中学校ツルクラブが東干拓の羽数調査を始める。 
  平成13年 環境省・農林水産省・文化庁共同の「出水高尾野地域におけるツル類の西日本地域への分散を図るための農地整備等による越冬地整備計画」の三カ年事業の開始。 


● 現在のツル保護活動

 保護区の借り上げ  荒崎地区約51haを11月〜3月、
 東干拓地約53haを10月〜2月の間、借り上げています。
 保護区の目かくし網設置
 保護区の周りに寒冷紗を張り、車のライトがねぐらのツルに当たらないようにします。
 人の出入りを禁止します。
 保護区にツルのねぐら設置
 保護区の中の田んぼに水を張り、ツルのねぐらを作っています。
 ツル保護監視員
 朝の給餌活動やねぐらの管理、休遊地の監視や羽数調査の協力を行っています。 
 傷病ツルの保護
 傷ついているツルを発見したら、保護・治療します。
 ツルの健康診断
 ツルのフン便調査を年4回。保護ツルの血液検査を年1回。
 死んだツルが発見された場合、解剖して原因を調査します。
 農作物の防護対策
 ツルを畑に入らせない為の防護糸などを、農家へ配布しています。
 給餌
 ツル保護のためとツルによる田畑の食害を防止する為、給餌を行っています。
 借り上げ地の返還時整備
 ツルによって崩されてしまった農道、あぜ道などを元の状態に整備して返還します。
 カモ駆除作業
 ツルの餌を目当てにカモが多くやってきます。
 近くで行われている海苔の養殖に被害をもたらすため、駆除作業を行っています。