2004年9月の編集日記

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ワダツミノキ    9.29

「ワダツミの木」は元ちとせさんの大ヒット曲ですが、先ごろ奄美大島の植物で新種が発見され、その名前が「ワダツミノキ」と命名されたのです。発見した京都大学の先生が、ちとせさんのファンだったのだとか。
 ワダツミというのは、海を尊敬する言葉で、ワダツミの木は海神の木なのだと、エピックレコードの方から教えていただきました。で、この新種の植物は、海を見下ろす場所に生え、その土壌は太古の昔、海底だったところなのでした。それに発見当時、この曲が日本中に流れ、奄美の人々はちとせさんを英雄視していたなどのいろいろな理由から、この名前になったのだそうです。しかし、和名の決め方はけっこう、面白いのですねえ。もちろん、学名はラテン?語だかですけど、学者の先生に親近感を覚えますよね。
 ところがこの植物、実は以前、既に発見されていたのです。奄美の自然を考える会会長の田畑満大先生で、今からうん十年も前。ところが、これが台湾や八重山のものと形態が少し異なるため、新種に格上げ?となったのでした。田畑先生いわく、「あの当時はあの鑑定しかなかったが、研究が進んでいけばこういうこともある。まだまだ見直せば新種となるものも出てくるだろうね」とおっしゃっていました。う〜ん、なるほど〜。、

秋名のアラセツ行事  9.25

 24日の昨日、秋名のアラセツ行事であるショチョガマと平瀬マンカイがありました。その前日の23日はツカリといって、コウソガナシをお迎えするというので、いつもお世話になっているマス姉さんのところへ。縁側に置かれた高膳には、果物とミキと焼酎と線香、、もうひとつの膳には、お茶と一本の白い箸を立てた山盛りのご飯、それにかぼちゃやサトイモ、厚揚げ豆腐の煮物の上に魚の揚げ物が載っていました。気になったのが右横の皿に、茹でてくるっと巻いてあるニラが添えられていたこと。線香が途絶えたら、また立て、「とうとがなし」と祈っていましたね。
 これらのしきたりは、家々によって違うようで、白米のところもあれば、かしきと呼ばれる赤飯のところもあるようです。マスさんのところでは、翌朝にショチョガマが倒れたら、お赤飯を上にのせ、さといもの葉にこれらの供え物を少しずつのせ、縁側の奥におくといっていました。いろいろいわれがあるようですが、詳しいことは今ではわからないとも。マスさんの嫁ぎ先のお祖父さんがしきたりにとても厳格な方だとのことで、今でもずっと続けてきたそうです。
 でも今年は、いつも三膳そなえるのに、いろいろな事情から一膳しかもらなかったとか。秋名でもツカリをちゃんとされているのは、きっと少なくなっているでしょうね。1960年ごろまでは、ヤーマワリ(家廻り)といって各家々を八月踊りを踊りながら清め、朝方まで踊ったのです。20数年前、ある偉い学者の方が調査にみえるというので、復活したことがあり、私も幸運なことに体験したのです。迷子にならないよう、写真を撮る太くんの後ろを懸命に追いかけながらちょこちょこついてまわった思い出があります。無我夢中でしたが、あのとき、調査団のなかには、奄美在住のの研究者もいっぱいいて、見慣れない私のことを、「誰?あれ」と冷たくいわれていたそうな。でも、そのとき、口のなかにするするくるっと投げ込まれたアブラソウメンの目の回るような美味しさは、今でも忘れられません。

 昨日は、未明のショチョガマは行けず、夕方4時すぎの平瀬マンカイにいってきました。ノロ役の方たちの手の動きをみていました。それにしても見物のカメラマンの多かったこと!ま、わたしもその一員でしたが。
 さて、明日は台風がくるかもしれないのに、運動会がある予定なので、昼からお弁当の準備にかかっています。20年たって、ようやく、豚の煮物がそれらしくできました。う〜ん、おいしい!明日まで残しておかなければ。
 しっかし、ただ食べるだけの男性諸君!こうした影の努力があって、おいしいご馳走がたべられるのですよん。ったく、いいなあ、たた食べるだけなんて。ね!



ウナリ叢書がスタートしました!
   9.22

20日の夜は、阿室から帰って仮眠してから、夜、またまたお出かけ。豊島田鶴子さんの半世紀を書いた「はまんやの光を受けて」の出版記念会でした。ぼ^っとしているのをなんとか化粧で隠し、いそいそといったのですが、盛大でしたね。
 ウナリとは、女性という意味で、奄美では男性を守り立てる神のような女性を指し示すようですが、この豊島さんはまさにこの叢書第一号にふさわしいかたでしょうね。著者はホライゾンでもお馴染みの出水沢愛子さん。彼女は、最近、伝記が多いようですが、この女性シリーズというのは、彼女しかできないでしょう。とりあえず、10人を取り上げるようですが、隠れた逸材や忘れたくない方たち、男性の影に隠れて、でも、この人を抜かしては語れないという人がいっぱいいるのではないでしょうか。
 船のともにいるのは白鳥ではない、あれはウナリ神様だよという歌詞が島唄「よいすら節」でも歌われています。私も歌える大好きな島唄ですが、豊島さんは楚々として凛として、しなやかで情熱的で、物怖じせず、正義感に燃えるウナリ神でしょう。
 台湾から引き上げた20歳の時にお母様を亡くされ、弟や妹の母親代わりとなり、懸命に働いたそうです。教職退職後は、商店街の活性化や名瀬市の様々な活動を引き受けられたのでした。う〜ん、逆立ちしても真似できません。


シバサシギン   9.20

宇検村阿室へ行ってきました。ここで、シバサシの日にノロの神衣を拝む行事があるというのです。以前からその存在は知ってはいたのですが、宇検村へはなかなか足を運べませんでした。今年はアラセツの日取りに混乱があり、龍郷町カレンダーなどでもアラセツを14日、シバサシを20日としていましたが、旧初丙の前日であるつかりの日まで旧八月に入っていなければならず、勘違いが起こったのでした。ところが、不思議なことに、宇検村ではこの勘違いのまま、アラセツ、シバサシが行われるというのです。
とにかく、初めての阿室入り。シバサシギンは昔はわかりませんが、今ではここだけに残されている風習です。つかりの日、しまっていたシバサシギンを盆にのせ、高膳にミキと焼酎、お線香を3本たてて、神様をお迎えする準備をし、家の門口で、シバであるススキを燃やし、その煙にのって神様が降臨されるというもの。阿室のどこの家でも行われるのではなく、やはりノロの家系の家で、今では7つの家々のみとなっているようです。ここには、かつて、女性が5人、男性が5人の計10人のノロがいらしたそうです。男性ノロが5人というのは、不思議な気もしますが、これは研究者にお任せいたしましょう。

そして20日当日となるシバサシの日、まだ明けやらぬ未明4時からトネヤと呼ばれる祭場の前の土俵まわりに集落民が集まり、かがり火を囲み、八月踊りを踊るのです。いまどき、未明のまだ真っ暗な時刻から集落人口70数名のうち、50名ほどが出てきて踊るというのは考えられないですが、とてもおごそかにそして力強く、神様をもてなしている光景は素晴らしいものでした。初めての集落でしたが、みなさん、とても穏やかで慎み深く、教養があるのです。南のシマの本来の姿なのかと心に染む思いでした。約2時間も踊り,最後は私達も踊りに加わり、すがすがしい気持ちで夜明けを迎えました。ハブが活動しなくなる明けを待ってなのか、ススキを刈ってきて、家々の四隅の軒にそれを挿すのです。これは魔よけの意味なのだとか。
 昔、民俗研究家の柳田國男が奄美の阿室にもきたそうですが、集落をみて、「神々が降りたシマ」というようなことを著書に書いているそうです。みなさん、神のシマであることを誇りに思い、僻地ともいえる故郷を守りとおしておられるのだと思います。いろいろな家でお世話になりました。朝、4時の踊りに参加するため、公民館に泊めさせていただいたり、朝ご飯やお茶もいただいたり。しかし、カレンダーの混乱を非難していた某T氏も取材にきていたのにはびっくり。日程の混乱は、カレンダーが回っていないこんなところでもおこっているのにです。ニコニコして取材していました。不思議。
 でも、阿室の人々の穏やかさには、本当に感謝いたしました。ありがとうございました。

直 川智って?  9.16

この方、ご存知でしょうか。奄美大島にさとうきびを持ち込んだ方といわれています。大和村には、平とみ神社があり、そこで彼の功績がたたえられているようです。1609年が薩摩藩による支配が始まっていますが、私の記憶では1610年にこのさとうきびが移入されたのだったとおもうのですけど、この方のご子孫という方が宇検村にいらっしゃるのですねえ。これにはびっくり。みきさんという、うら若きかわいい女性です。民俗学を勉強されていて、今後が楽しみですね。
 また、恵原義盛さんというお名前をご存知ですか。ケンムン博士としても有名ですが、奄美の民俗研究をずっとされていた方です。で、この方にはご子息が5〜6人?だったかいらして、皆さん、国内外でご活躍のすごい方たちばかりなのですが、先日、突然、その内のお二人がスタジオに出現!されて、これまたびっくり。お父様の遺品などを保管してあるお家が先日の台風で荒れたので、修理しにこられたとのこと。なあるほど。受け継がれていくものというのは、あるのですね。
 昨日の夜、オットンガエルとイシカワガエル、シリケンイモリ、それに名残のキイロスジボタルを自然観察の森で観察してきました。奄美の森を童話が画けたらいいねと、次女を連れてのドライブでした。なぜか、私だけとてもはしゃいでいたようです。


シマは豊年祭り・敬老会   9.12

 奄美のシマは今、敬老会と豊年祭りの真っ盛り。で、わたしも負けじと今日、大熊の敬老会へいってきました。途中、浦上や有屋の敬老会も見てきましたが、やはり大熊の敬老会は眼をみはるものがありますね。おととしは小宿の敬老相撲を見ましたが、ここもすごい盛大です。さて、大熊では、トネヤで子供相撲の練習をしているところから出会いました。子供のお尻がなんともかわいくて、思わずさわっちゃいたくなります。でも、あやしい変質者に思われるから、我慢我慢!
 それにしても大熊の変貌ぶりにはびっくり。都市計画が進み、みんな整然と真新しい住宅を建て、道もゆったり。ノロが祭祀をしたというトネヤは昔の古い家をそのまま移築したのだそうです。どうりで!
 だいくまの敬老者は、100人はくだらなかったのではないかなあ。見物人より、敬老者の方が多かったように感じました。挨拶をした名瀬市長もたじたじだったような。ホントは休憩後の中入りをみたかったのですが、またまた先約があり、ザンネン。
 午後2時からは郷土料理教室へ行き、ふくらかんやアン入り饅頭をつくったりしました。このお饅頭、もち粉をいれていたので、もちもち感がたまりません。おまけに、ココア入りフクラカンもしましたよ。だれか試食して〜といいたくなるほどでした。
 で、夕方は夕焼けを見に、大浜の海岸へ。バーベキュ-も美味しかったですよ。こうしていると、仕事につながらないものばかり、やっているような気がしますが、私にとって、これも大事な体験学習なのです。ま、いいわけですが。
 そうそう、大熊のすばらしいところは、敬老者へのお茶などの接待を、中学生の女子が制服姿でしていたところ。そのほかにも、ある年齢だけが頑張るのではなく、敬老者以外の方たちがそれぞれ、役割を担うところが素晴らしいです。幼児から、小学、中学、高校、青年部、壮年部、明幸会?など様々な年齢の会があるようです。
 それからダイクマと同じかつおのメッカ、大島海峡ですが、去年あたりもずっとこなかった餌のキビナゴがきているそうで、これを追いかけて、かつおが例年になく豊漁とのこと。よかったです!!。大熊は浮き漁礁があり、餌も鹿児島からもらってくることができたけど、瀬戸内は漁ができなかったですからね。で、太クンが、なんと、取れたてカツオを2匹ももらってきました。一匹はお隣へ。あしたは、かつお料理です。

「南島雑話」の世界  9.10

 9月4日は沖永良部島へいっていたので、出られなかったのですが、この日は、幕末に奄美に遠島になりながら島の風俗や自然を絵と文で書き記した名越左源太の「南島雑話」シンポジュームがあった日でした。3日からは奄美博物館で、ー「南島雑話」と名越左源太ーという企画展が開催。そこで遅ればせながら本日、行って来た次第です。左源太は、文武両道にすぐれ、和歌や書画のほか、医術や本草学にも通じていたという役人。1849年に薩摩藩のお家騒動に連座し、奄美大島に遠島となりました。しかし、遠島となっている身分でも、島の絵図書調方という役職を与えられ、自然や生活、風俗などの詳しい調査やスケッチをして、「南島雑話」という絵入り民俗誌を描いたのです。これは今でも南島研究のバイブルとして、貴重な資料となっています。
 実は以前から、この写本や左源太直筆?の草稿資料を見たことがあります。ホライゾンでも写本から何回か引用させていただいたこともあり、とても興味があるものでした。特に草稿は、絵のタッチが素晴らしく、修復したものは、躍動感が消えてしまったいるような気がしましたが、それはそれ、やはり、全体像がカラーで一般に公開されることは大変いいことだと思います。なんといっても、その観察眼の鋭さ、取材力の緻密さ、そしてスケッチの上手さには驚嘆してしまいます。島の人々も活き活きと描かれているのが素晴らしい。これらがたった約5年間の間に書いたとあっては、どんな日程で奄美を走り回ったのか、と思うほどです。走りながら書いていたのでしょうか。
 奄美野鳥の会の岩本さんがみえていて、今ではいない野鳥も描かれていて面白いといっていました。絶滅したのか、想像で書いたのかはわかりません。そうなんです、この書には、鳥だけではなく、不思議な生物もけっこう描かれていて、ケンムンなどはもちろん、人魚や海馬のほか、みたことがないものも描かれているのがまた魅力なのです。想像なのか、昔はいたのか、あるいは人々の話から描いたのかはわかりませんが、これをいろいろな角度から研究するのも面白いでしょうね。
 しかし、左源太の長男が英国へ留学してから、左源太によって奄美へ送られたということを読んでびっくり。左源太は奄美の人々に相当信頼され、愛されていたようです。(この手紙の中身がもう少し知りたかったです。なんせ、達筆すぎて読めませんでした!)洋行帰りのいきがった息子に島の面白さを伝えたかったのでしょうか。これも面白いところですね。
 企画展は、9月26日まで。奄美博物館3階、企画展示室にて。




沖永良部島から帰ってきました。  9.7

 5日に帰って来る予定が、2日間も台風で足止めとなっていました。海沿いのフローラルホテルは、強烈な風雨で停電となり、懐中電灯での夜を過ごし、翌日はラジオがある車のなかで半日を過ごしました。電気が通じたと聞いて、みんなの顔もぱっと明るくなりましたよ。やはり、現代社会では電気が無い生活というのは、とても難しいですね。台風被害はどの島も大変だったことでしょうが、エラブはさとうきびが全滅に近いのではと思うほどでした。最高峰が大山の245メートルですから、太平洋側からしぶいて来る潮風はもしかしたら、島の陸地を越えて東シナ海側にいってしまうような気配。家を建てるとき、その土地の一番悪い季節にいって判断せよという格言?があるそうですが、島の生活の大変さをこの滞在で改めて知りました。いやあ、ホント、すごかった!!
 芸能あしびはとても面白く、あっという間に終わってしまいました。もっと時間をかけてやるものなのかなとは思いますが、あとで聞いたら、エラブ島は各集落20ずつくらい芸能が残されているようです。また和泊の社会教育課で頂いたビデオに、手々知名の「あしびウドイ」が入っていて、今、ビデオでみたら、キャー!というほど、衝撃的。何故って、八月踊りの原型なのかもと思われるようなしぐさと歌詞が、時に琉球調になったり大和調になったりしているのです。これはすごい。エラブにこんな芸能があることは、あまり知られていませんよね。エラブの踊りが舞台芸能化しているとはいわれていますが、これはもしかして、琉球が中国の冊封使を接待したのと似ているのかもしれない。ほんと、この島は芸能の宝庫なのかもしれません。もっと通わなくてなりませんね。上の写真は瀬利覚獅子舞、下は上平川大蛇踊りの一場面です。室内では狭すぎるため、大蛇はスクリーンで映し出されましたが、動きが激しくてなかなか迫力ものでした。


9月になりましたね。   9.2

今年もいよいよ夏が終わり、後半戦になってきましたね。まだまだ当然暑いのですが、実はこのあたりから来年のカレンダー作成にとりかかるため、9月という月には、年末と来年の香りが漂うのです。いやあ、早いなあ。そうそう、昨日、アシビにいって麓クンに会ってきました。彼は、名瀬でFM局を開局しようといろいろ考えているのです。全国のほとんどのFMは赤字だという厳しい現実に彼らは、かなり難儀しそうですが、なんとか彼らをもりたて、是非奄美でもFMラジオを開局してほしいです。来月あたりには試験放送もするとか。資金面を、市民からの援助も考えたらどうかなあ。まずは、開局すること。そうしたら行政にはなんとかプッシュしていきたいと思っています。
 明日から沖永良部島へ行ってきます。週末に名瀬の中央公民館で「南島雑話」の講演とシンポがあるので後ろ髪を引かれる思いですが、実は、「沖永良部の芸能アシビ」なる伝統芸能祭があるので、どうしても行きたいです。一堂に様々なエラブの踊りが見られるのはなかなかありませんからね。仕方ありません。名越左源太に関しては後で要約を聞くつもり。しかし、今月は後半はとてもハードなスケジュールとなりそうです。アラセツ、シバサシ、敬老会、旧8月15日、豊年祭などなど奄美の各島々で行事がだぶります。どこに行くか大きな問題です。ううう、分身がほしい〜。

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