2004年11月の編集日記

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おおきなかしゃ餅でした!! 
11.27

行ってきましたよ〜。大和村湯湾釜のムチタボレ。餅をくださいませ、という意味でしょうか。昔、大火事があったとき、すぐ近くに水がなかったので、泥を団子にしてその火を消したことから、それを忘れないようにということで始められたとか聞きます。泥は感謝の意味でこの餅のことなのかしらと思われるほど、巨大でした。普通のかしゃ餅の2〜3倍はあるかも。びっくりです。
 デジカメが壊れているのですぐにはお見せできませんが、男女(こどももいました)が派手な女物の浴衣をつけて、頭から風呂敷などを被り、各家々の庭で踊るのです。顔がみえないから、なんかみんな勝手に楽しく踊ります。無礼講なのでしょうか。みんなニコニコしちゃいますよね。すると家では、このお餅とお金を差し出します。お餅をもらうと踊り、お金を頂いてまた踊るというにぎやかさ。集落の区長さんらしき人が(背広を着て、集金バッグをもっているのがなんだかおかしい)、その家からお盆にのせたお金をいただくと、「なになに様より、金一封をいただきました!」と声高々にいいます。、みんなまた「花もらった、いっぱいもらった」とうれしそうに歌い踊るのです。しかし2〜3分。いただけば結構あっさり次ぎに向かいます。かなりテンポがいい踊りで、三味線もチヂンも10人くらいもいたでしょうか。こんな楽しいモチモレ踊りは多分ここだけでしょう。
 しっかし、大きなお餅でしたねえ。いただいた餅を帰りの車の中でムシャムシャ食べたら、お腹にもたれた〜です。このお餅はヨモギではなく、もち米とサツマイモのふかしたものだとか。あまり甘くもありません。大きなサネンの葉をそのまま一枚使っているのも多分ここだけでしょうね。この祭りの時だけかと思ったら、いえいえ、いつもそうなんだって。おそるべし!湯湾釜。

ほっ! ただいま、帰ってきました。
    11.26

 いやあ、何も言わずに出張してしまい、申し訳ありませんでした。なんせ、2泊3日の日程をあけるため、忙しくしていたものですから。カケロマ、徳之島へいって夕方戻ってきました。実はこれ、アマシンの視察だったのです。
 今回は、メンバーに女性3人、年齢がそれほど変わらず同じような職種の経験があることから、けっこう、仲良く楽しかったです。でも視察した人数が少なかったですね。最後までいたのは委員では5人でしたから。でも審議委員会会長も年齢も若く穏やかな方でしたから前回より和気あいあい、いろいろ質問もさせて頂き、理解を深めることが出来ました。お世話になりました。ま、時間が限られ、じっくり考えるほどではなかったですけどね。それに本当の課題はこんな視察ではでないのが当然。問題点が解決策に一番近道ということもありますが、なかなか現実の厳しさは隠すこともあるでしょう。(吉見美香さんは、都会での編集長をやめ、今、龍郷に帰ってきていますね。)
 カケロマでは、26歳のお兄さんが経営する牛50頭の畜産農家、天然塩つくりの徳浜、今人気のきび酢工場など。大島紬村から奄美パーク、そして空路徳之島へ。徳之島では、ニガウリ農家、亀津港、ハブのいる保健所、さとうきび畑やかんがい施設、カムイヤキ窯跡群、徳之島ダム、闘牛場や全島一の闘牛、秋利神大橋、酒造メーカー、与名間海浜公園、むしろ瀬、クロスカントリーコース、大規模農家との懇談などなどとてもキッチュなスケジュールで結構ハードでした。カケロマでもそうですが、きび作から畜産へ移行している感じがします。でもどちらも大きな奄美の産業として有望なのですから、複合経営というのは難しいのでしょうか。徳之島では畑そうがかなり整備されてきていますから、大型農家が固まることもできるのではないかと思いました。それでも、後継者不足はどこでもあるようですね。とにかく、集まって知恵を出し合い、協力が必要ですね。
 解説付で見せていただいたので、いままで見たところも改めて取材できてラッキーだったのですが、じつは昨夜、何故か夜中に目がさめてしまい、3時から5時まで寝られなかったので、疲れました。お腹が冷えたのかも。温かいお茶を飲んでなんとか、2度寝することができたのです。いやあ、これだから旅は恐いですよね。
今日は早く眠らないと。明日はホライゾンの色校が上がってくる日。そうそう、明日は湯湾釜でムチタボレの日なので、これまたいってこなければ。とにかく、時間があればいろいろ出かけたいです。

会議が多すぎて〜!         11.21

とにかく最近会議が多くて大変。癒しツーリズム、奄美群島重要生態系地域住民説明会、川の景観フォーラム、アマシン視察、リュウキュウアユフォーラムなどなどが次から次へとやってくるのです。まったく、息がきれそう。それなのに、お腹周りがまたきつく感じるのはナゼかしらん。こんなに仕事しているのに!
 ははあん、ついついつまむ黒砂糖やら、味噌ピーだとか、おみやげで頂くかるかんだったりするのかしらん。食欲の秋なんて、若いころだけかと思っていましたが、いやはや胃袋はまだまだ青春なのでした!やばいぞ!
早く仕事を一段落させて、本を読まなくては、いつのまにやら老眼で読めなくなってしまうよ!ややや、やばいことばかり!
 ま、ホライゾンはなんとか12月初旬に発行させる予定。その際、来年のカレンダーのご案内もいれさせていただきますね。
 それにしても早くデジカメなんとかしないと。もう、寿命なのかなあ。これもまた、まずいなあ…。

永田染色工場  11.20

毎日校正と、ある記念誌の作成などでへばっているのですが、今日午前中は名瀬市の新川沿いにある永田染色工場へ行ってきました。こどもエコクラブの活動の一環なのですが、メンバーのお母さんに誘われたので、眠い目をこすりながら、9時集合して大島支庁前から奄美高校付近まで徒歩で。行った先は永田染色工場。昔はこのあたりは泥染めや染色工場がいっぱいあったとか。で、永田さんのご家族は今でも泥染めをしている数少ない方たち。それもナント息子さんで3代目なのです。テーチ木染めをしている工場には独特のタンニン酸の匂いがしていましたが、テーチ木は煮汁で役目を終えると燃料になり、それから灰になると、今度は灰汁まき用にお菓子やさんが買いにくるとか。まったく捨てるところがない素晴らしいリサイクルシステムなのですね。
 工場内は、さびているものの頑健な扇風機、現役の親子ラジオ、ねじ式の柱時計など、みな昔のものを大事にしている姿勢が素晴らしい。その後、場所を大島高校裏の泥田へ移動。え、ここで?というくらい小さな泥田でしたが、30年ほど前には、順番をまつ泥染め職人がひしめいていたそうです。なんせ、当時は名瀬に200人もの泥染め職人がいたというのですから驚き。今は40^50人となっていますね。そして、泥田には、ナント、シリケンイモリくんがウジャウジャいるのですよ。男の子たちは、泥染めどころではなく、イモリに大興奮。はじめは何しにきたのかと言う感じでしたが、教えてもらううちに、結構筋がいい子もいたりして。結局シリケンくんは泥田にもどしてやりましたが、ヤゴだけはもってかえった子がいました。もう少しでトンボになりそうだといっていました。大丈夫かな。まあ、そんなこんなで楽しいエコ探偵団でした。来月は4日にリュウキュウアユの観察会があります。これにも参加しようっと!いやあ、毎日、いろいろ忙しい。明日は料理教室で、ごま豆腐を教えてもらいます。
え、っといま、デジカメを修理点検にいれているので、写真はなしです、ごめんなさいまし。



ただいま校正中…  11.18

 もう一週間近く書き込みしていませんでした。まさか、こんなに時間が速く過ぎていくなんて!!実はホライゾンの校正が届き始め、一陣と後送分の二陣と。でも、まだまだおおまかな校正なので、明日からが本番でしょう。今回はちょっと難しいテーマになりましたが、地元新聞で藤井令一氏が「難しいのもたまにはいい」なんて書いていらしたので、20回記念号はそんな内容です。でも、全く奄美を知らない方にも、もちろん興味をもってもらえるテーマもありますので、どうぞよろしく。
 具体的には、初めに蝶を大きく取り上げました。そして、蝶からハブラ、、蝶に再生力をみたノロへと続きます。ノロを取り上げるのは初めてですが、ノロというよりそのものの見方考え方を取り上げています。また大きな特集のもうひとつに特産品の歴史。奄美の歴史はまだまだ謎だらけですが、今に残る特産品の裏には様々な歴史が隠されています。今まで当たり前に食べていたものに、こんな歴史があるのかときっと思われるでしょう。そして「島は絶景」シリーズでは、幻想的な闇〜未明の薄色、薄暮などファンタジックな瞬間をお届けします。エッセイもお楽しみに!
 そうそう、ホライゾンのカレンダーも作成中です。気が早い方からは、もう、予約のファックスが入ってきていて、こちらがせかされています。ああ、こうして来月の師走に突入するのですねえ!なんて一年は速いのでしょう!


島尾敏雄忌  11.12

 昨日、11月12日は島尾敏雄忌でした。名瀬市にある県立図書館奄美分館の庭隅にある記念碑の前で、島尾敏雄文学顕彰記念会が中心となり、ミホ夫人などを迎え、行われました。わたし、実は初めて出席したのですが、5時半からとのことでしたが、ミホさんの謝辞が述べられた時は、あたりはもう暗くなっていました。「島尾は奄美に骨を埋めたいと申しておりました。時々霊魂は天国から名瀬の市内に降りてきて歩き回っているかもしれません」という言葉が印象に残りました。20年度には、この奄美分館ではなく、県立奄美図書館となる構想が進んでいます。奄美高校の敷地内ですが、島尾敏雄記念図書館となればいいですね。島尾さんはその位の方です・
 夜7時半からは、懇親会とのことで、わたしもこんな機会はめったにないと思い、出席させていただきました。文学や親族、図書館関係の方たちが中心でしたが、ミホさんも最後には楠田豊春さんに誘われ、歌までうたわれていました。お元気そうで何よりです。

オニヒトデの生態   11.11

大島海峡で大発生しているオニことオニヒトデ。サンゴを食い荒らし、奄美のサンゴ礁に壊滅的な打撃を与えています。大島海峡では、おに退治は続けられているのですが、どうしても人海戦術でしかないのが現状です。去年の夏、全国から来島したボランティアを含めてオニヒトデ退治の取材に行きましたが、一個一個刺して殺し、それを海上に持ち上げてこなければ、ヒトデのことなので、ちぎれたところから再生することもあるらしく、ホント大変なのです。
 オニヒトデはその生態がほとんど謎。こんな嫌な奴を研究するのも嫌ですよね。だってとってもグロテスクだし、くさいし、刺されると危険だし。でも、サンゴがどんどん食べられてしまっては、奄美の美しいサンゴ礁なんてはるか昔の思い出になってしまいます。奄美ではオニヒトデの前に白化現象があって、北大島の浅瀬のサンゴはほとんどやられてしまいました。見る影もないのです。そういった状況の中だからか、オニヒトデが大発生。弱り目に祟り目だったのですねえ。

 しかし、そこで、オニヒトデの大発生のメカニズムを研究しようと立ち上がったプロジュクトがあります。東京工業大学の灘岡チームですが、地元調査員の協力を得て、石垣島から奄美大島まで緯度が違う5海域で、海水温、産卵状況、幼生の発生と行方などを調査したのですね。その結果、緯度が低く水温が高い(石垣島)ところは産卵時期が早く(5月上旬)、緯度がそこより高く水温が低い奄美(大島海峡)では、産卵時期は7月下旬でピークも短いという結果が出たのです。まだまだ研究は始まったばかりですが、今後集団遺伝子とか幼生の生態をもっともっと研究を継続していけば、産卵や大発生を抑えることができるかも!今後が期待されますね。こういった産卵や幼生の行方などの研究は日本では初めて。世界でも期待されていることでしょう!

奄美って?   11.8

合併後の新名称が、奄美市になったということを受けて、佐竹京子さんが、この「奄美」という漢字をつかっていいものか新聞紙上で疑問を投げかけていましたね。奄とは、覆い隠すことで、気息奄奄などと息絶え絶えというようなあまりいい感じではないというのです。これにはちょっとびっくりしましたね。いつぞや、地元新聞では「奄美」という文字はあまねく美しいということだといっていたのですから。どうなんでしょうね。
 話はかわりますが、今度、奄美の河川域で暮らしているアマミミナミサワガニというカニが、いままでのミナミサワガニ属ではなく、遺伝子や生殖器の形態などから、まったく異なる新属だということがわかりました。名づけられた名は、ナント、「アマミクサワガニ属」。これは、沖縄、奄美を創造したとされる伝説上の女神アマミクから名づけられたというのです。なかなかいい命名の仕方ですよね。で、このサワガニ、ほとんど上流の河川域で一生を終えて、海にでることはないというところに大きな鍵が隠されているわけ。なにかというと、海を介して繁殖することがないから、島ができたときに既にいたということになるのですね。大陸と地続きだったときに、森を介して生息したのでしょうか。だから、このアマミクという創造神の名前をもらったのは、粋な計らいというだけではなく、ホントに南西諸島の成り立ちにかかわるということになるのです。サワガニのルーツはとてつもなく壮大なのですねえ。
 で、奄美という言葉ですが、始めはこの漢字はなく、音だけだったと思います。でも、全部が母音だというところに私はとてもひかれるのです。アンマ、ママ、マンマ、など母という言葉は世界中、ほとんど母音ですよね。だからアマミという母音だけの言葉はいい意味だと思うのです。言語学者でもなんでもないですけど、なんかそう思いませんか。漢字は後からつけたものでしょうね。喜界島もそうですよね。以前は、鬼界が島だったこともあったと聞いた気がします。わたしは、アマミという音がもつ雰囲気が好きです。



新潟の地震   11.5

 いっこうに収まらない新潟の地震。余震におびえ、雨に泣き、雪の恐怖や今後の生活のことなどを考えると本当に大変なことだと思います。こんなに暖かい奄美にいて、こうして当たり前に生活していることが、本当に幸せなことなんだなあと最近つくづく感じます。実は、わたしの父は新潟の出身。それも十日町と六日町の間なので、今回の地震ではかなり被害があったものと思われます。父はすでに13年前に亡くなりましたが、もし生きていたとしても大変な心痛だったと思います。生まれ故郷の災害は身につまされることでしょう。山古志村がだんだん水没していく様をみるのは、ショックです。何もできませんが、今日、義援金を市役所で渡しました。少しばかりのお金ですが、何かの役にたてばと思って。しかし、この時期にこういったお金をくすねる不届きものがいるというのは、本当に荒廃していますね。なんだろ。
 話は変わりますが、奄美大島での市町村合併は瀬戸内が離脱したり波乱に富んでいますが、笠利、名瀬、大和、住用、宇検の中で、合併後の名称が決まりました。「奄美市」。ま、妥当なところだと思いますが、どなたか「ブルー奄美市」という提案も最後まで残っていて、形容詞的なものが入りことが面白かったですね。
 今、事務所前の側溝が工事を始めていて大変な騒音。じっと我慢でこらえています。新潟の被災地では、こらえてもこらえてもどうにもならない悔しさともどかしさがあるでしょう。早く余震が収まり、復旧の目途がたつことをお祈り申し上げます。









お祝いの日   11.1

今日は朝からお祝いの一日でした。まず、11時から28回南海文化賞式。今回は、与論島の菊 千代さん。与論民俗村を作り上げたかたです。ホライゾンでも4号で早くも特集しましたが、ホントに素晴らしい方です。高度成長期、皆が新しいものに熱をあげ、古いものを捨てていく中で、自分たちを育ててくれた道具や文化を拾い集め、民俗村を自費で建てたのでした。有村治峰さんが20歳まで住んでいたという茅葺の家をはじめ、家屋も少しづつ買って展示。当時、大島紬を織ってみんなが芭蕉布織りを止めたのに、千代さんだけは芭蕉布織りを捨てなかったのでした。お金や新しいものにはそっぽを向いてきた人。今は、与論の方言辞典を沖縄国際大学の先生といっしょにつくりはじめ、来年初頭には出版の運びとか。会場で千代さんと握手できたのは、感激でした。与論をほとんど出られなかった千代さんです。いつもの民俗村でのゆったりとした「と〜とがなし」という声がちょっと緊張していましたね。(写真左は千代さん、となりは娘さん)
 
わたしが今回この授賞式に出席できたのは、実はわたしも入会している郷土研究会も授賞したからなのでした。今年の会費をまだ払っていなくてちょっと気恥ずかしいのですが、初めての経験でちょっとうれしかった!!です。昼間から豪華な昼食をいただきました。郷土研究会は、実はS33年に島尾敏雄さんが中心になってつくったもの。この会には、たくさんの郷土史家や研究者の方がいらっしゃいました。島尾さんは、そんな方たちの発表をオープンリールの録音機を使って記録していたとか。この時期に出会えなかったことが、とても残念ですが、この今日の授賞式も歴史の一こまなのでしょうね。あとはハブの民間研究者、中本さんでした。 写真左が郷土研究会の現在の会長さんです。
 

                     で、夕方は、この郷土研究会の受賞記念会。記念講演をした山下文武さんの演題は「昭和30年台の奄美研究」。30年代の大きな動きは、九学会連合の調査があったこと。郷土研究会の活躍、名瀬市誌編纂事業が始まったこと、島尾敏雄さんが名瀬に居をかまえ、次々に賞を受賞していったことなどでした。ちなみに島尾さんは第一回南海文化賞を受賞。芸術院賞、読売文学賞などすばらしい賞をとったにもかかわらず、「この賞が一番うれしい」といったとか。島で認められることのうれしさがにじみ出ていますね。
 また今日は、博物館の高梨修さんの受賞祝賀会ともなりました。沖縄文化協会賞比嘉春潮賞を昨年受賞されました。いやあ、元気を取り戻されてきているようで何よりです。
 で、明日、またまたドデカイ賞のニュースが発表されるようです。はてさて、それは誰でしょう。ホライゾンでも特集を組んだことがある徳之島の方、デス。


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