2003年7月の編集日記

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徳之島へ行ってきました。  7.31

とはいうものの疲れたり忙しかったりとなかなか書き込めなくてすみません。朝、5時に起きて船で徳之島へ。前回、三味線の取材でお世話になったり、島唄では中島清彦さんに本当にお世話になりました。で、今回は復帰運動やら、長寿やら高倉などとちょっと欲張りの日程です。おまけに金見海岸では、オカヤドカリまで見てこようという魂胆。いやあ、しかし、徳之島の道路は走りやすいですねえ。奄美南部は山が多いので道がこれでもかこれでもかという感じでクネクネしていますが、およそ海岸線を見ながらずっとまっすぐ走っていられるのです。これはやはり気持ちいいです。しか〜し、ここが実は問題。徳之島は、これが原因かどうかはわかりませんが、交通事故が多いですね。気をつけましょう。
 亀徳に降りて、まずスタジオカガワへ。加川徹夫さんは、もと役場職員なのですが徳之島にこだわり、写真をとりつづけ、役場を辞めてから写真スタジオをつくり、闘牛の写真やら民俗写真をとりつづけています。太クンはよくお世話になっているのですが、実はわたくしはお会いするのは初めて。船のユラユラと寝不足ぎみのちょっと恥ずかしい)^o^(でお会いしてしまいました。なんと、息子さんが二人、スタジオでお仕事されていて、とってもうらやましかったですね。我が家の息子はまだ中学2年生。まだまだがんばらねば!
 で、水野修さんにお会いしてから、泉芳朗の生まれ故郷、面縄へ。いろいろな方におあいしてきましたが、今はちょっと内緒。ホライゾン18号をみてくださいね。で。伊仙歴史民俗資料館の義憲和さんにお会いし、伊仙町役場の樺山さんいお会いし、天城町を通って、金見崎の金見荘へ。オカヤドカリはまだ健在でしたよ。翌日は、またまたいろいろな方にお会いし、とっても有意義な徳之島の旅は終りました。しかし、8月に是非また行きたい。夏目踊りを是非みたいです。写真は明日!(だって既に保存してしまったのですもの。)

喜界島へいってきました  7.26

 またまたワサワサと忙しくしています。昨日、喜界島へ日帰りしてきました。飛行機のなかで大島新聞の記者に声かけられたので、何取材しにきたのと聞いたら、なにやら遺跡からかムィヤキの破損していないものが5個もでたのだとか。それといっしょに白磁と青磁、そして奄美ではとれない滑石製鍋につかわれる石もでてきたとか。へえ、とおもっていると私の隣りにお兄さんが、くわしそうに話し掛けてくるのです。どこかで見たようなと思って、きいてみると、なんと、伊仙町の四元さん。彼は、あのカムィヤキの第一発見者ですよね。もちろん、義 憲和さんの理論のもと、探し回っていた方ですが。ま、そんなこんなでわたくしも喜界についた途端、その遺跡に案内してもらっちゃいました。26〜27日と現地説明会(地元住民とマスコミ)だそうで、昨日は、まだ人がいない状態でしたから、なかなか壮観でした。ま、運がいいというか。四元さん、澄田さん、ありがとうございました。上記の3点セットが出土するのは奄美でも、例がないとのこと。時代は白磁から11世紀後半あたりではとのことでした。
 そして、喜界島でのワタクシの取材目的は復帰活動。喜界高校の生徒たちの頑張りに感動いたしました。
喜界島に高校ができたのは、昭和24年。戦後、米軍統治下、物資が乏しい中でも向学心にもえた学生たちが運動を起こして、県立の学校を誘致したというのです。校舎は自分たちで建てたといいます。教師も喜界島のなかで、選出。本当にすごい実行力と行動力があった方達なのでしたね。喜久秀人さんという立派なかたにお話を伺ったのですが、この方喜界高校を作った第一期生。でも、校舎をつくったほうで、自分たちは青空教室や、小学校のサイイゴ石とわらぶき校舎でしのぎながらの勉強だったそうです。その後、米軍の将校に直訴して昭和26年、、彼の紹介文を握り締めて、正式に許可を得て船で横浜について大学へいくことができたとのこと。すごいなあ。
 喜界島というところは、本当に穏やかな人々なのですが、やるときはすごいというのが結論。琉球に攻められたときも、奄美で一番最後まで抵抗したところなのです。周囲27キロの本当に小さな島なのですが、秘めたものはもっともっと大きいのかもしれません。遺跡は城久付近にある山田中西遺跡だったと思います。

請島 加計呂麻地学巡検  7.22

 炎天下の中、19日午後から、昨日21日の夜中まで、琉球大学の地学巡検に同行いたしました。古仁屋の地頭峠の地層が見えているところから始まり、請島のイシキョの浜、大山をめぐり、加計呂麻では安脚場、徳浜、嘉入、呑之浦を回り、島の岩石を調べたのです。総勢35名の生徒たちは、加藤先生の汗だくの現地講義にボーっとする頭をなんとか動かし、想像力を働かせたのでした。
 奄美は、古いところがジュラ紀から白亜紀(およそ2億年前から1億年ちょっと)の間にできた湯湾層のチャート(これは放散虫の遺骸が固まったものだっけ?)といわれるもの.。とっても硬い石(ハンマーでこすっても傷つかない)ですが、今回回った請島の大山や、加計呂麻各地はこの層がみられました。チャートは硬いので風化せず、残っていたために古い層が山のトップに踊り出たのだそうです。これは、時代区分でいえば中生代とのこと。恐竜が闊歩していた時代です。またマグマが地下でゆっくり冷えてできた全体に粒の粗い深成岩が花崗岩で、これの層も探しながらさながら、(これは、古第3紀で、徳の島のむしろ瀬のこれですね。花崗岩が強い風化を受けてボロボロになったところは、真砂(まさ)と呼ばれるそうです。)奄美創世紀を紐解くような壮大な旅だったわけです。
 しっかし、暑くて、名瀬と瀬戸内町を往復していた毎日に疲れがたまって、ついに昨日は、巡検中も頭がガンガン。やっとかなった巡検の喜びもどこへやら。なんだか苦行僧のような顔になっていたかもしれません。残念。でも、お疲れ〜!!のビールのおいしさに痛さがすっ飛んだのでした。なんだ〜!!
 また、島のこういった古い地層のところには、固有の植物や昆虫類の棲息場所とかなり一致していることが、随行していただいた前田芳之さんの言葉でわかり、ますます興味がわいてきたし、服部正策さんによる島々のハブや蛇の違いから奄美に棲息する生物がいつわたってきて、どう進化してきたのかということへもとても興味深くく感じましたね。このあたりは、絶対いつか何かの形で、みなさんにご報告できればと思いました。加藤先生、町、服部、前田各氏の今後のご活躍!!を期待しております♪♪。よろしく!!
(写真は、木山島を向かい島に見たイシキョの浜。請島です。木山島は昔、瀬戸内のノロたちが琉球へ年に一度出かける際、、ここに集まり、出発したという神高い島だったそうですが、今では後継者もなくなり、ただの無人島になっています。)

しょうが黒糖  7.18

今日は、黒糖をご紹介します。なにやら、キャラメル色をしていておいしそうでしょ。これは、実は生姜入りの黒糖なのでした。生姜がけっこういっぱい入っていて、おいしい!!それで見た目も美しいです。昨日、ある方に頂いたのですが、龍郷町にあるワークセンターでつくっているもの。ここは、障害者の方たちが特産品なども手掛けていて、ユニークなものもけっこうあるのです。そのうち、ホライゾンでも取材したいなあと思っています。う、なにやら台風が発生したとか。

  鶏飯うどん  7.17

 お腹がすいていたので、半分食べてしまってから、デジカメにとっておこうと撮影いたしました。食べかけですみません。上は鶏飯そのもの、スープもそのまま。でもご飯のかわりにうどんでした。これ、鳩浜にある味菜弁当の「鶏飯うどん」。今日は日代わり弁当の日なので、500円(おにぎり一ケ付き)でした。いや、いけたですよ。男性はちょっと物足りないかもしれないけど、わたしにはちょうどよかったです。そういえば、先日ビッグフィッシングのレストランで、にゅーメンのような鶏飯ソーメンをいただきましたが、これも、グーですねえ。みなさん、あの手この手で頑張って下さいね。これはとてもいいことだと思いますよ。



HORIZON 編集日記


笠利無人販売にて   7.17

ひょえ〜。うそ〜!。自分が信じられない。どうしよう!買い換えたら、10万はかかるし、フットシ君になんていわれるだろう、なんて思いながら、すっ飛ばしましたよ。昨日は、制作物の校正紙を空港止めにしていたので、笠利に走ったのですが、行きはヨイヨイ、いいねえ、新民謡はなんて、新民謡の「島影」をいっしょにききながら、(うふふ、最近、車でCDも聞けるようになったので、いままでスタジオでしかきけなかったCDをもちだして、ドライブのときに次々かけているのです)、いい気分だったのですが、そう、帰りに無人販売のニガウリが4〜5個で100円!なので、車をとめてかったのですよ。先日も買ったのに、車に置き忘れて、腐らせてしまったので、昨日はすぐ、ビニールから取り出して、座席の後においたのでした。
 その無人販売所の脇に白いハイビスカス(だと思うのですが?)が咲いているので、デジカメでとったのです。さあ、今日はこの白いハイビスカスを掲載するぞ!と、ウキウキして、またまた新民謡を歌いながらかえってきたのです。さあて、久々ホームへージでも書こうかなあ、うふふ、などと思ってデジカメデジカメと探すと、え、え、え?!ない!ない!?うそ〜!
 さんざんさがしてもデジカメはみつかりません。車のなかからデジカメを出したのは、あの無人販売所だけよ、でも既に、夕方6時前、もう、ないかも、いや、もしかしたらと思いつつ、あ〜あ、走ったのでした。走って走って〜。ドキドキドキ。どうしよう。でも田舎のことだから、もしかして〜と淡い期待をもちつつ、必死の形相でついたら、なんと、ニガウリの横に並んでいるではなりませんか!やった〜!ありがとう、サンキュウ!
うわ〜!  ということで、天にも上る気持ちで帰ってまいりました。帰りにお土産は、焼き鳥。いつもは1パックなのですが、あまりのうれしさに2パック買ってしまいました。いやあ、うれしかったですね〜!。つまり。白いハイビスカスを撮って、ニガウリに気をとられ、そのまま、棚に置き忘れてきたのでした。奄美の皆様、ありがとうございました。おかげで、焼き鳥を食べてビールとなり、肝心のホームページは今日になりました。

瀬戸内町の節子集落  7.14

 19日から琉球大学地学巡検があるので、何かと打ち合わせが大変。いえ、わたくしではなく、図書館郷土館の町学芸員、芳華園の前田さん、東大医科研の服部先生が瀬戸内町の受け入れ体制となり、お弁当の手配からホテルとの交渉、移動のバスや船の手配などなどホントお世話になります。なにせ、去年わたくししか奄美参加がいなくて、それも専門家がいなかったのが、沖縄の方達にホント申し訳なくて、見えきって今回お誘いしたのですが、この方達のおかげで自然と文化のエキスパートがそろい、わたくしとしては、ほっとしているところです。また、町の共催までとれ、琉球大学への参加費用も去年に比べ、半額。いやあ、よがったよがった〜。
 町、前田、服部お三方にここで御礼申し上げます。野生保護センターの阿部さんと、野鳥の会の鳥飼さんも一日だけの部分参加ですが、ううう、ここまでそろえば、地学と植物と昆虫と鳥の関係がなんか浮かび上がってくるような気がしませんか?ま、ワタクシとしては、そんな下心がありありで参加いたします。全くの地学音痴でも、この方たちに後で、教えてもらうって言うわけ。ほほほ、ずる〜い!
 ま、冗談はこれくらいとして、もう、すでにホライゾン18号の準備に取り掛かっております。その合間を縫って、ちょっと瀬戸内、節子集落に初めて行ってきました。
 嘉徳のちょっと手前で、節子のトミという美しくて男勝りの女性が島唄で歌われているため、いつかは行ってみたいと思った集落でした。嘉徳より、大きくて学校も節子小中学校があり、神社まであるので、びっくり。港もあり、子供達が防波堤で遊んでいました。また、近いうちにいこうと思っています。
 紹介されて入った家のおばあちゃんが、なんと数えで98歳。とってもおしゃべりで元気でヤクルトと、お菓子をいただきました。まったく見ず知らずなのに、隣りの人によく似ていたらしいのです。上がれ上がれといって50才のわたしですが、「かなしゃん〜!」といって、自分の娘のようだといって目を細めてくれたのが、なんだか申し訳ないようなでも、うれしいような面映い気持ちでした。こんど、息子さんがいるときに行きましょう。やっぱり、方言が半分もわからないからね。



奄美の夏祭り  7.10

 奄美ではそろそろ夏祭りの季節。役場や祭りに出場する方は、準備で忙しくなるでしょうね。名瀬市の「奄美まつりは7月31日(木)〜8月3日(日)に開催。31日の島唄大会にはじまり、1日は花火大会、2日は舟こぎ、3日は相撲、ドッジボール大会、パレード、八月踊り大会と続きます。今年は例年に比べ、とっても暑いように感じますが、毎年そういっているのかもしれません。
 真中のポスターは、日本エアコミューターのもので、「奄美燃ゆ」というなかなかドラマティックなキャッチコピーのもと、一本アダンを配した太君の撮影。なかなか、です。コミューターの社長が大変気に入られているようで、じきじきお電話をいただいたそうです。コピーがいいですねえ。これからの奄美と言う感じで。いままで、夕日というと、どうしても暗いとか沈むなどというイメージだったのですが、この色はやはり人にドラマを感じさせ、やすらぎと異次元の世界に誘います。発想の転換とコピーの勝利でしょうね。


クーラー病?  7.9

 最近、よく風邪声だといわれるのですが、本人はいたって元気なのに、風邪声になることがあります。なんでだろう?と思っておりましたが、もしかしたら、クーラーかなと思い出しました。なぜって、ワタクシ、扇風機でもあたりすぎると変だし、冷え性でもないのに、冬にしもやけができるのは、もしかしたら肌が温度に過敏なのかもといわれたからです。
 そんなにデリケートではないと思っていましたが、できたら外で汗をかきたいよ。わたくしは!まったく、スタジオのなかでデスクワークばっかりやっていると、体が変になりますね、やっぱりいい汗かかなくては!日曜日、ダイビングの店にいってきました。買ったのに全然潜っていないわたくしのダイビングスーツは、干からびているかもしれません。今年は娘ともう一回講習を受けようかなあ。
 ああ、やっぱり肩もバリバリ、頭も痛くなってきた。皆さん、今年は電力がパンクする可能性もあるようですから、節電をしましょう。夜、まさか、クーラーをつけてねている人はいませんか。昔、フットシ君の郷里では、海岸に布団を敷いて夜空と海の音を聞きながら、寝ていたそうです。これはちょっとマネはできませんけど、クーラーは人間と地球をダメにするような気がします。

かかしコンクールIN秋名  7.7

昨日、龍郷町秋名でかかしコンクールが開催されました。あまりに暑い日だったので、家の掃除をしてうだうだしてから、出発。どんなかなあといった心配は、笑いに変わりましたねえ。もちろん、やっつけでつくったような案山子もありましたけど、御覧のような立派なものもあり、面白かったです。特に、大賞を受賞したチャップリン人形はすごい。なにがすごいって、この衣装とこの風情。とてもかかしとは思えない凝りようです。ステッキから靴、そしてぼうしに至るまで、ほとんど手抜きせず、完璧。ビックリですよ〜!!皆さん、一度足を運んでくださいませ。秋名では今、稲刈のシーズン。案山子はただの飾りではなく、大切な役目になっているのです。人がおとずれればそれはそれでまた、効果的ですしね。


新川の橋の工事がおわりました  7.5

2年越しの工事が終わり、名瀬市にある新川大橋(こんな名前だっけ?)がこんなに立派になりました。老朽化と狭さが解消され、快適です。いつも片側通行だったため。こんな開けた風景は久しぶりです。単なるデジカメ写真なのですが、橋がこんもりしているため、ちょっと魚眼ぽい感じで撮れましたね。
 昼から奄美の森が好きで住み着いたミステリィー作家、鳥飼否宇さんの講義が県立図書館奄美分館であったので、聞いてきました。彼は現在、奄美野鳥の会の副会長もされていて、いえ、本当は水中微生物が趣味らしいのですが、とにかく、森の生きものが大好きとのことでした。
 奄美が広葉樹林の森としては南西諸島で一番で、特にイタジイが多く、そのため、シイの実を求めて鳥やイノシシなどが生息。この糞などが次の生物を生かすもとになることや、生態系が広がることが話されました。固有種が多いのは、普通の種が多いから。奄美の自然の素晴らしさは世界自然遺産への価値が十分あるのに残念なのは必要のない林道が島のいたるところに造られ、森を縦断し、森も生きものを追いやっているということだといわれました。同じようなことを高 美喜男さんもいっていましたね。分かる人はわかるのに、何故、車がほとんど通らない森の林道がアスファルトになってしまうのか。船がほとんど使わないのに立派な漁港ができてしまうのか。
 これらがアマシンの予算消化のためならば、本当にもったいないことです。最近できた自然再生法によって、奄美の自然の本来の姿に少しでも近づけていくことができれば、奄美は世界からももっと注目を浴びていくでしょうが、みなさんはどう思いますか。


豪華なゴールデンシャワー  7.4

 どうです?素晴らしいでしょう?隣りのおうちに、それはそれは美しいゴールデンシャワーの花木が咲いています。太陽に輝いてそれはそれは豪華ですよ〜。いたるところにこんな花があったら、楽しいだろうなあ。








名瀬小学校 家庭教育学級でのミホさん  7.3

もう、年の半分が終ってしまったのですね。夏休みが過ぎたら、年末の仕事に突入と言う感じで、毎年早いねえ早いねえと追われながら一年が経ってしまうのですね。お、お、恐ろしい〜。
 昨日、名瀬小の家庭教育学級があり、戦争と平和を考えるという主旨のもと、加計呂麻島で特攻隊長だった島尾敏雄さんの「出発は遂に訪れず」を題材に、島尾ミホさんが講話されました。非常時という戦争の中で愛を育み、その最愛の人の死に続いて行こうとしたことは、小学生にはどう映ったのかはわかりませんが、ミホさんが、最後に子供達と握手をしている姿が素敵でしたね。感極まったのか、ミホさんは握手しているうちに、小学生を抱きしめていました。残念ながら、写真が追いつかなかったですが、「みなさん、心の美しい立派な人になってくださいね。約束ですよ。」といいながら、最後には、みんなに手を振っているのです。こんなミホさんは初めて。
 60年近く前の小学生とは比べられないほど健康的で自由な現代の小学生を間近にして、ご自身が小学教師として教えられたあの時代と人々を思い起こしながら、平和のありがたさを実感されたのでしょうか。どんなに辛いことがあっても、生きていればいいことが必ず巡り来る。命を大切にしてください。ご自分の人生を振り返ってのメッセージでした。


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