2003年6月の編集日記

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アラーキー「奄美ノ顔」  6.30

土曜日にアラーキーの「奄美ノ顔」の撮影風景をみてきました。仕事は太クンの範囲なので、あまり手伝うこともなかったのですが、ま、ちょっと、O先生の送り迎えぐらい。「いやあ、昨日、黒糖焼酎を飲みすぎて、ちょっと下痢しちゃったよ〜」などというアラ〜キ〜氏の言葉が聞こえるや、トイレへ消えていかれました。だいじょうぶかなあ。
 しかし、そこは天才アラーキー。拍手とともに、始まった撮影の初っ端は、Y商事社長のY氏。やや緊張ぎみでしたが、そこは男と男の勝負という感じだったのでしょう。続いて、子供や家族連れがなごやかに続いていきましたが、元笠利町町長A氏になると、テンションがちょっと違ってきましたね。なんたって、満95歳です。「神様みたいだ」なんておっしゃっていました。そして、タコ取り名人や、円の追い込み漁師になると、「これが奄美の顔だねえ。遠くに海をみているような顔を撮りたかった。鹿児島の顔と全然違うね」とすこぶるご機嫌となったのでした。
 そうよ、やっぱり、クイグイの島顔がいいのよねえ。たくましくて、ホリが深くて、でもやさしくて。もっとみていたかったのですが、午後に市内で取材があったので、潮が大きくひけた真夏の浜をみながら、楽しく帰ってきました。
 商店街の土曜市は、しばらくみないうちに、随分と顧客が増えて活気を増したように思いましたね。玄米のヨモギ餅は高かったけど、おいしかった。与論の魚介類も出ていて、あ、取材のような主婦のようなハンパな気持ちで揺れてしまいました。カメラもちながら、買物していましたよ!写真は明日の朝、いれますね。今日は、瀬戸内へいって、夕方、鹿児島大学公開講座にでましたが、とっても難しい。離島における自治財政だっけ?また、これもあとで書きましょう。


梅雨が明けたよ〜  6.27

ついに、30000人突破!皆様、凝りもせずありがとうございました。
 梅雨がまだあけないと書いたのは昨日でしたが、なんと今朝10時半ころ、梅雨明け宣言が出されましたね。例年より早いそうです。昨日まで天気とうって変わって、空が随分高くみえますね。
 最近、田中一村の絵がグレーだといって、奄美を深く知っている人はグレーを好むような変な発言をきいたことがありますが、これは好みの問題であって、そうでなければ奄美を描いていないというのは、間違いだと思います。こじつけもいいとこ。一年のなかでも素晴らしい青い空を見るのはやはりそう多くはないにしても、それを見た人が記憶の一番深いところに焼き付けて、大事に思うことは、それはそれで素晴らしいのではないでしょうか。
 一村記念美術館で学芸員をされている西村先生は、元奄美高校の美術の先生で一村亡き後、遺作展のために絵に表装を黙々とされた方です。一村美術館を立ち上げる為、県の商工観光課に配属されたのでしたが、彼は来年にはまた高校の美術の先生にもどり、絵を描き続けるそうです。この間お邪魔したときに描いていらしたのは、笠利の海でした。それも梅雨明け後のさわやかな青い海と白い雲がモクモクあがる爽快なタッチでした。奄美のこんな海が大好きだそうです。
 絵でも写真でも自分が表現したいものを表現すればいいのであって、一村は一村のタッチが自分にあっていたのだと思います。みんな、自分の好きなように表現すればいいのであって、それが個性なのではないでしょうか。梅雨明けからなんか変な話になってきてしまいましたね。すみません。
 6月25日に57歳で突然、、この世を去っていかれた共同通信社鹿児島支局の折笠全利支局長のことをずっと思っていました。残念でなりません。つい、3月に奄美に来られて、楽しそうに島唄を聞かれていた姿が思い浮かびます。心からご冥福をお祈り申し上げます。

なかなか梅雨が明けませんね。  6.26

沖縄が既に梅雨明けしてしばらくたつというのに、同じようにすぐ梅雨明けをすると思っていた奄美では、まだなかなか梅雨が明けません。何故なのかなあ。来週日曜日は、瀬戸内町でシーカヤック大会があります。ま、それまでには明けてくれるでしょうが、ちょっと不安。
 そうそう、以前、7月9日に梅雨明けしたことがありましたっけ。何故、覚えているかというと、ちょうど観光ポスターをつくるので、海岸で女性モデルを撮影していたからでした。6日にはあけているだろうと、脚がとってもなが〜い女の子の撮影でした。その子は、その後シェイプアップガールズの一員になった梶原まゆみさんで、その頃、まだ20歳前後でしたが、既にすばらしくプロでしたねえ。カメラを向けるとモデルの顔なのは当たり前でしょうが、絶対いやだとかはいわず、黙々とニッコリ笑ってポーズをとってくれたのでした。わたしらのウエストあたりに股上があるその後ろ姿をみながら、熱い砂浜の上を太クンと、あっちいったり、こっちいったりしていたなあ。梅雨が明けるとばかりおもっていたのに、明けきらなくて、モデル契約を延長してウン十万円のアップにアップアップしながら、悲壮な気持ちで、雲が行ってくれるのを待ったのです。
 もう、限界と、彼女が飛行機に乗る時間のギリギリのところで30分だけ晴れ間が出て、今だ!!とばかりバシャバシャ撮ったのです。あ〜あ、だからモデル撮影は、胃が痛くなるノヨねえ。今では、笑いばなしですが、ホント、あんな思いはもう、イヤですね。

芳賀杏子さんの訃報  6.22

昨日、留守番電話にホライゾンでたいへんお世話になっている芳賀日出男さんの奥様、芳賀杏子さんがなくなられたとの伝言が入っていました。それはそれは突然だったので、びっくりいたしました。芳賀先生が九学会の写真部門として、奄美群島を調査に来られたのは、奄美が日本復帰を果した後の昭和30年〜31年。そのとき、芳賀ご夫妻は新婚時代だったそうです。新婚半年の新妻を東京に残し、芳賀日出男さんは奄美の島々を精力的に回り、2万点もの写真をとられました。そして東京でそれを項目的にまとめていったのが杏子夫人でした。だから、芳賀先生はよく、「奄美は私達の青春だったよ」とおっしゃっていました。
 芳賀ライブラリーでは、写真の依頼の電話にどこどこにあるというのが、何秒かのうちにわかるというシステムにつくられているのですが、これをつくったのは杏子夫人です。「学者並だよ」と杏子夫人の功績を話す先生は、最も信頼を置いていた同志という思いだったでしょう。慶応大学の仏文科卒業だったと記憶しております。一度、奄美にお二人で来島され、写真愛好家や宇検村、名瀬市の九学会に関係された方たちが挨拶されましたが、これが最後になってしまいましたね。奄美復帰がお二人の青春で、復帰50年の年に杏子さんがなくなられるとは。芳賀先生より一回りも若いとてもしっかりした方だっただけに信じられませんでしたが、大腸がんで2年も前から闘病されていたそうです。杏子さん、たいへんお世話になりました。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。




湯布院のまちづくり  6.21

 先日行った湯布院は、大分県にある温泉町ですが、ここの街づくりが一時とても評判になりましたよね。いつかはいって見たいなあと思っておりましたが、中学と大学時代の因縁の友人で50才記念旅行へ行ってきました。子供がいるのはわたしだけ。二人は、某有名出版社とか巨大商社へお勤めのお姉さま方。ま、いってみれば金とヒマがないのはわたしだけというので、すべてわたしにあわせてjくれたというわけ。(なぜか、旦那たちはフットシ君のいた出版社にいてそれで共通の友人になったというわけ。1人は、わたしらの奄美の結婚式で知り合ったので、私らは影の仲人かも?)
 いやあ、由布岳を眺めながらの露天風呂は最高でしたねえ。畳何十枚分かのおおきな露天風呂は湯布院一とか。以前は、男性用だったのが、男性は右端の小さな離れに移し、女性向けに変えたらしいのです。湯布院は、ほとんどすべてが女性の気持ちにたっている点でとてもきもちが安らぐ空間なのですね。どんちゃん騒ぐ宴会場はなし、お色気たっぷりの接待のお店もなし。お店だって、つい最近までコンビニもなければ、夜は一斉に店がしまってしまうのです。ゆっくり温泉でくつろぎながら、旅館からでないということらしい。旅館もでかいホテル形式は許可せず、和の雰囲気を大切にする旅館がほとんど。お土産製品も金鱗湖へいたる道にずーっと並ぶお店もみんな女性好み。ゆっくりおしゃべるしながら、歩いてお店に入るのが楽しいような感じ。お店や施設も童話チックだったり、日本昔話風だったり、昭和レトロ風だったり、おしゃれだったりと工夫がされていますね。お土産品も創意工夫がいっぱい。奄美でも参考になりそうなものがいっぱいあったです。だから、記念旅行といってもわたしは研修だったと言い訳しているのです。
 はあ、もっとゆっくりできればよかった。露天風呂で夜中12時にグレープフルーツで乾杯しましたよ。これからの人生に乾杯!こうして、自分を励ましてあげねばね、うううう!30年近く戦ってきたわたしたちなのですから。さらにガンバルゾ!しかし、次はどこにしようかな。

またまたご無沙汰!  6.19

 すっかり編集日記から遠のいていたのに、すごい来客数がったのですねえ。これはきっとフットシ君のクロウサギ効果だと思っています。
 わたくしは、13日から大分県湯布院へ、女50才の記念旅行へ出かけ、そのまま15日には、東京入りして16日のアマシン審議会に備え、17日に帰ってまいりました。が、そのまま、K通信社の島唄取材に同行。今日になってしまったというわけです。もちろん、この間にも2〜3の仕事をこなしながら、綱渡りの日々。今日は、また奄美テレビに出演して、生涯学習公民館講座生として、島唄の魅力を話して?(私が代表なんて信じられない!生元先生、勘弁してよ)参りました。あ〜あ、自分のことを通じてなんておこがましいですよね。今日は、とりあえず、言い訳に終始させてくださいまし。あとで、またいろいろなことをかければと思います。
 ところで、ホライゾンで、またまたミスを犯しました。「農村小唄」の作詞者は、政岡清蔵さんですね。宇検村に歌碑もあるのに、本当に申し訳ありませんでした。宇検村のかたを中心にクレームが発行翌日からあり、関心の深さに、うれしい面を持ち合わせた複雑な申し訳なさでした。


かくことがたまりすぎて  6.10

ひえ!もう一週間がたってしまったのですね。しまった!ホライゾンがすでに手を離れたので、油断していました。ま、他の仕事に頑張っていたといってもいいのですが。なにがあったか書くことがいっぱいでなにがあったか忘れちゃった!だから日々の日記は必要なのですね。
 昨日、沖縄沿岸で漂流しているのを15日ぶりに救助された奄美宇検村の漁師、碇 義基さんが奄美に帰ってこられたので、急きょ取材に駆り出されました。40分遅れの12時15分に到着した碇さんは、まだ歩ける状態ではなかったため、車イスでバゲージルームを次女の千賀子さんに付き添われ、でてきました。顔は浅黒く、長い漂流を語っているようでした。おみかけしたところ、お元気そうでしたが、既に目はうるんでしました。長女の和子さんによれば、救助された翌日には奄美に帰りたいと沖縄のお医者さんにお願いして驚かれれらたそうです。黒糖と手作りのヨモギ餅を食べ、生きて帰った喜びを実感されたことでしょう。奥さんに、「あんたの手料理がもうたべられないかと思ったよ」といったとか。ぐっときますねえ。奥さんいわく、「もう漁にでかけられないよう、縛っておく(笑)」といったとか。そんな気持ちにもなるでしょうね。漂流した船は、助けてくれた漁師さんにもらってもらったとか。またまた、奄美のパワーを全国にPRしたような気もしますが、でも本当によかった!!
出迎えの宇検村村長から花束をもらい、感無量といった様子で、言葉にならないようでした。
 そうそう、昨日は、NHKの不思議大自然を御覧になりましたか。双子のウサギの赤ちゃん、かわいかったですねえ。ご協力いただいた皆さん、また視聴していただいた皆様、ありがとうございました。クロウサギが棲むこの自然が守られない限り、奄美が世界自然遺産に登録されることは、むずかしいでしょうね。みなさんのご協力を!!


ホライゾン17号は6月10日発行の予定です。  6.3

 まだ、風邪はぐずついているのですが、そうしてまたまた台風5号までまたまたやってくる今日このごろ。お待たせいたしておりますホライゾン17号は、6月10日の予定で、最終調整に入っております。奄美の復帰にからみ、食、民話、民俗、歌などからその時代を浮びあがらせたつもりですが、本当はもっといっぱい特集をしなくてはならないのでしょうが、紙面が足りないです。次回の取り組みは既に始めようと思っております。なんでかというと、次回は11月初旬には発行しなくてはならないから。さあて、早く風邪をなおさなければ!
 そうそう、遅くなりましたが鹿児島大学大学院公開講座「島尾敏雄の文学研究」は、以外とわかりやすく面白かったです。石田先生は、写真でみるとなんか、恐そうだしと思っていたのですが、やはり出かけてみるものですね、受講生はいつもお見かけする方たちも多くいましたが、まったく知らない若い方たちもいて、やはりこういう試みをもっとドンドンやっていただけるといいなあと思った次第です。
 できたら、法文学だけではなく、様々な学部がやっていただけると、ま、無理なのもあるでしょうが、奄美の人々にチャンスを与えてくれる意味でとても意義深いと思います。次回は、6月30日「離島における自治体財政の将来」。これって、もっと早くやってほしかったなあ。




オトコは当てにならない!!  6.1

まったくオトコは当てにならないのが、改めてわかりました。風邪だといえば、わたしは何くれしてあげるのに、大丈夫との言葉さえなく、ほとんどほったらかしですもの。根性で直そうと思ったのに、やはり、根性なんて風邪の前にはないも等しいですね。あ〜あ。でも、明日には復活する予定です。


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