2003年12月の編集日記

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大掃除  12.29

 もう、今年も終わるのですね。ホントに早いですね。あたふたあたふた胃が痛む思いのような日常を繰り返すうち、一年がたってしまいます。毎年、目標を立てたはずなのですが、いつも道半ばというか、道はじめであっというまに挫折。子育てが終る頃には、自分の好きなことをもう少し、していたいですね。
 さて、昨日も一昨日も大掃除のかいあって、なんとかスタジオだけは正月撮影ができるようになりました。今日から明日までは家の大掃除です。家のことはなかなかはかどりません。どうしても仕事中心で、家は、ま、いいかという感じ。そういえば、腸炎が流行っているようで、みなさん、気をつけましょう。急に、下痢や嘔吐を繰り返すようです。正月がホントの寝正月になってしまいますからね。せめて三献だけでもみんなでいただきたいもの。今年も家族五人が健康で年を越せますよう、頑張らねば!!


奄美群島日本復帰50周年
               の今日  12.25

今から50年前の今日、奄美群島はアメリカ軍政府の統治から、日本へ復帰しました。今年は、こうしたことでイベントが目白押しでしたが、今日がおそらく最後の大きなイベントだったと思います。
 朝、6時に起きて7時には瀬戸内へ。8時半から、「日本復帰の歌」と作曲者である静 忠義さんの歌碑と顕彰碑の除幕式に取材に出かけたのでした。図書館郷土館の前に、大きな石碑ができ、とても立派でしたよ。静さんの二人の息子さんと奥様が出席され、役場関係のほか、東京奄美会の田中達三さんなども見えていました。田中さんも復帰署名録を東京で受取るなど功績の瀬田良一さん(なんと100歳ですよ!)も瀬戸内出身。日本ではじめてのロシア文学者である昇 曙夢さんとともにみなさん、瀬戸内では忘れてはならない人たちでしょう。その後、日の丸やノボリを立てて、復帰祈願を模したパレードが1500人規模でありました。町内の小中高の生徒達がほとんど。古仁屋中学校で、記念公演があり、尭政四さんのお話がわかりやすくてとてもよかったです。しかし、生徒たち、聞いていたかな?眠っているようにしか見えませんでした。これから、奄美は大丈夫か?
 名瀬に帰ってきましたが、名瀬では午前中に、名瀬小学校において復帰運動発祥の地碑の除幕式と、おがみ山で復帰のつどいがあり、5時20分から名瀬小学校にて、復帰メモリアルとパレードが挙行されました。夜にかかってしまって、瀬戸内のようには写真が撮れなかったかも。校庭で盛大に開催された戸口(龍郷町)の、八月踊りが素晴らしいのに感激いたしました。今度、シマへいってみよう!!。
誰もがいっているとは思いますが、これからが奄美50年の正念場なのだと思います。でも、
今日は、眠たい。何を書いているのかわからないので、また明日!!明日は大掃除です。










民話の語り  12.23

 今日、博物館の横にある民家で民話やわらべ唄を聞いてきました。昨日まで、あんなに悪い天気だったのに、今日は小春日和のポカポカ陽気。茅葺の昔ながらの民家の障子を開け、日差しが入り込むなか、うっとりきいていました。仕掛け絵本の語りがはじまると、それまではしゃいでいたこども達や、兄弟げんかなどをしていた子供たちが、ピタッとおさまってしまったから不思議。だんだん引き込まれて真剣になるにつれ、口が開いてしまうのは見ていてほほえましいです。本当は、川畑豊忠さんというフッシュ(おじいさん)がきて、奄美の方言で民話やわらべ歌を歌ってくれるらしいのですが、風邪を引いてしまったようで残念。でも「高倉とハブ」「さるの生き胆」など、奄美民話がきけて私はそれだけでうれしかったです。
 こういった語りをくりかえすうち、子供たちは自分で切り絵による紙芝居をつくるようになるのですって。民話は何回の聞いているこども達もいるようで、知ってる〜などといっていましたが、それでも話の最後の落ちでは、みんな、わ〜っと喜んだり、拍手をしたり、とっても楽しかったですよ。奄美民話の会の嘉原かをりさんたちが毎月、やっていることらしいです。また、次回も是非いきたいです。。

太りすぎ!!   12.21

 もう最近、太ってきて大変。もともとドラムカン的な体型で、ウェストというものが存在しないような男性的?体型なのですが、それに脂肪がついてきて、あ〜あ、歯止めはかけられるのか!という深刻な状態です。そこで、運動にかよっているのですが、簡単にはいきませんよねえ。若いときより食べていないのに、基礎代謝量がおちているとか、更年期によるホルモンバランスがくずれてきているのだとか、聞いてはいたのですが、はあ、やはり体が重たいし、気分が重たい。困ったものです。
 昨日は長女が帰ってきて、今日は次女が帰ってきます。一年ぶりに家族全員が揃います。そこでまたまた食べる話。太ったね、痩せたね、大人っぽくなったねなどなど、いいながら、今日は何を食べようか。やはり、人間食べることは大好きなのです。昔、息子が近所にチビッコ連中と遊ぶとき、何して遊ぼうというとき、息子が食べて遊ぼうといったのを思い出します。そう、食べるという行為は、仲良くなる手段なのですね。食べている時、人は心が楽しくなるし、お腹が満たされていると、人への思いやりが「できるのかもしれません。保育所なのでもこういったことはよくあるそうで、家庭というところは、常にこの温かさを育むところなのかもしれません。
ダイエットもいいけど、やはり、この温かさをこども達と共有できることこそ、幸せだとつくづく思います。口ではガミガミいっているようですけど、多くの「お母さん」たちは、みんなでいっしょに食卓を囲めるのは、とってもうれしいのだと思います。



世界自然遺産登録へむけて   12.17

 昨日、自然共生プラン検討委員会がありました。全島にわたる分厚い資料をやっと読み終え、はてさて割当の一時間半で何がどうなるのかなと思いながら出席いたしました。サンプラザ2階会場は、広かった〜。各市町村の地元が残したい奄美の自然をこれからどうやって保全し、活用し、伝えていけるかは、とても大変なことです。一方で開発を進め、一方で守るということが随所でおきると思いませんか。アマシンを実行する県、国土交通省と世界自然遺産登録を目指す県、環境省の認識の違いがでてくるし、予算の問題も出てくるでしょう。プラン自体はすごいのですが、これが本当に実行できるかなあ、できればすごい先進地になることには間違いありません。問題は山積みですが、例えば貴重な野生動植物が生息するところの林道は行わない、盗掘などを禁止するため、全郡的な条例をつくる、昔の海岸にもどすことがどれほど可能なのか、自然が大切だという認識をもつために環境教育を徹底する、などなど、やらねばならないことはいっぱいです。
 ま、私たちは前座で、次に学術研究会が開催され、研究者などの専門家がずらっと勢ぞろいして森や海、川、環境、自然保護などの立場から今後の共通認識をもつための第一回目の会合となりました。かなり、以前から奄美をフィールドにして研究しておられる方たちが主だったので、壮観でしたねえ。これから3年間かけて、4000万の予算でやっていくそうですが、これらは奄美の特徴や希少種の生息数などの基礎調査です。でもものによっては、私有地に入れないことも考えられ(特に森は大変!)、一筋縄ではいかないとおってましたねえ。ここが奄美の国立公園になりにくい大きな問題点ですね。屋久島は、すでにほとんどが国有林だったので、手続きはスムーズだったとか。県環境保護課が折衝にあたるそうです。頑張って!!
 今日の新聞に林道工事が中止になったと書いてありましたね。先日、野鳥の会、哺乳類研究会、クロウサギ基金などの団体が折衝してきたおかげかも。宇検村にある赤房線は、野生生物の宝庫。村もよく検討してくれました。これが、これからの大きな転換点になるかもしれません。
 しかし、アニメ映画のニモの人気はどうですか。話のあらすじとは反対にこうやって、水槽に閉じ込められたカクレクマノミがセットで売られている東京です。でも、奄美でだって、クマノミが採取されていないとも限りません。クマノミ受難とならないことを祈ります。
 

シンカン   12.12

 昨日、泉和子さんい誘われ、シンカンというお料理をUさんというお宅でいただいてきました。お正月やおめでたい時にたべる奄美の三献(さんごん)料理なのですが、シンカンは三の膳にあたるもので瀬戸内町で食べられているものだそうです。中味は、サトイモ、かまぼこ、ソウジ(魚)、ゆで卵、エビ、シイタケ、豚三枚肉、フル(ニンニクの葉)でした。有田焼のふたつきの汁椀にいれていただくのですが、この椀は初めて。瀬戸内は琉球と大和の文化が入り込んでいるので、こうなったのでしょうか。
 三献は龍郷では一と三の膳が黒椀と赤椀、ニの膳は白身魚の刺し身を酢と生姜でいただきます。うんうん、やはり、郷土料理はもうひとつの歴史ですよね。どこからの文化がいつごろ入り込んで今に受け継がれているのでしょう。シンカンとはどういう意味なのでしょう。やはり、食べ物は興味がフツフツと湧いてきますね。今度のホライゾンアンケートでも、料理の特集希望が何通もきています。次回、特集を組もうかなあ。


やっちゃば   12.9

 いやいやすごいすごい。今日、奄美の高級くだもの専門店「やっちゃば」にいって来ました。以前から、お中元とかお歳暮など奄美の果物を送るときには、よく利用していたのですが、あらためて取材は初めて。岡本末則さん(41 写真後)と前田さん(パソコン専従者)は試行錯誤の末、高品質の商品を提供してくれる農家と契約して、インターネットを通じて奄美の果物などを全国に発売しているのです。品質にこだわるため、例えば、ポンカンは最近2年間取り扱わなかったとのこと。水腐れなどで品質が悪いこともあり、全体のイメージダウンにつながるからだとか。クレームは徹底的に調べ、商品を取り替えることもあるとか。でも今年には、いいのが売られていましたよ。浦上産だそうです。みたこともないような品質でしたよ。パッションも冬のは酸味があってファンも結構いるらしい。赤黒くて真ん丸くてとってもおいしそうでした。これから出るメロンですが、今は、徳之島がとってもいいらしい等等新鮮な情報がうれしかったですね。ホライゾンでも今度農業を取りあげなくてはなりませんね。
 で、主力商品のタンカンは、来年はなんと100トンを目指しているとのこと。2000箱ですよ。すげ〜。そして今後、奄美がこれでブランド化していくためには、光センサ−で品質確保が是非ほしいとのこと。ま、自信のない方たちには酷でしょうが、今後、奄美が産地として全国に名前を知られていくには、こういったことも考えなければなりません。これってかなり高くて2〜3億円とか。でも、こういったことにアマシンがあるはずなのですよね〜。ちなみに「やっちゃば」は第4回日本オンラインショッピング大賞を2000年に受賞したとか。これってすごい賞で、このあと、ニッセンとか、千趣会が受賞しているのですよ。奄美にそれも歩いて数分のところで、こんなに素晴らしい動きをしているところがあったなんて、ウカツでした。ヤフーで見られます。

海の貴婦人、海王丸   12.7

 今日は、瀬戸内町にいってきました。まず、勝浦で稲刈り風景を取材。今時、稲刈と思うでしょ。これは8月下旬に植えた餅米の刈り取りだそうです。わずかな大きさの田んぼではありましたが、せとうちわらべチャレンジクラブの面々による、上天気の稲刈りでした。勝浦というところで、稲が作られていたのは知りませんでしたねえ。尭(たかし)さんという方の田んぼでしたが、集落もかなり大きくて、太クンもびっくりです。
 さて、それから、帆船の海王丸が寄港している古仁屋へ。そう、先日、にっぽん丸という大型客船がきたばかりですが、奄美や古仁屋はこうして最近は大型の船が着岸しているのです。少し寒かったけど、そのかわり、思わぬ上天気になった青空のもと、海の貴婦人といわれる海王丸が帆を張ってくれました。将来、航海士になるという生徒たちをのせて訓練しながらの日本各地と世界を航海しているそうです。19〜20歳の生徒には女性も含まれていて、帆をはる作業には女性が一番上のマストにものるとか。ほとんど、男女差はないようです。マストのてっぺんは、海上から50メートルもあるそうで、上から見ると、船が靴ぐらいにしかみえないと、聞きました。いやあ、とってもステキでしたよ!!


アダンのある浜辺  12.6

 奄美の海岸を見て歩く仕事で、北から南を案内して回りました。人家があるところで護岸があるところと、ない所の浜です。私が好きなのは、笠利町の崎原海岸。↑の写真のところです。アダンが浜のすぐ後にあって、奄美の原風景なのではないかなあと思っております。アダンはこうした海岸にはえる海浜植物。昔から自然の防風、防潮の役割を果してきました。砂はアダンの林のなかに潜り込み、砂は浜に残るのです。コンクリの護岸は、砂はもんどりうって海へかえり、それを繰り返して砂が大きく削り取られていくのです。案内した金曜日は、とてもいい天気でしたので、海の色も本当に美しく、青い空に白い砂浜にT氏は感激していました。続いて、用海岸。ここは太クンが好きな海岸ですが、わたしにはちょっと大きすぎて、浜辺が巨大すぎて手に負えないほど。台風が来るたびに砂が運ばれてきたのでしょうか。
 続いて、龍郷町の土連海岸。ここはすぐ近くに砕石場ができてから、それまでとても綺麗だった砂浜やサンゴは砂利だらけになったとか。40年程前のこの海岸は本当に美しかったと太君はよくいっていました。続く円の海岸と漁港は、まるで要塞のよう。美しい浜とは対照的な海岸をみると、なぜと思わずにはいられません。実はここは、太君のふるさと。沖縄のイトマン漁師が教えてくれた追い込み漁が今でも行われていて、ときどき、テレビや雑誌でも紹介されるところです。加計呂麻、諸鈍長浜、西阿室でも護岸などが風景や海とともにあった人々の生活が遮断され、奄美の心の拠り所がなくなってしまったようなきがしますね。
 嘉徳は、ご存知、元ちとせちゃんが生まれ育ったところ。盛 田信さんという区長さんが護岸をつくらせなかったために、昔の浜がいまでも残っているのだそうです。偶然、お墓参りをされている盛さんにお会いし、お話を伺うことができました。ついでに嘉徳なべ加那のお父さんのことや、屋敷跡まで教えてくださいました。なぜか、「あんた、どこかでみたことがあるなあ」とうれしそうに、わたしの顔をみて2回もいうので、ははは、どこにでもある(^o^)ですからと思いながら、ただ、わらって誤魔化しましたね。しかし、すごい収穫。やはり、1人の取材より、複数でいると話が広がりますね。よかった!!
 大和村の浜もとてもさみしい光景があります。アマシンが奄美の海をコンクリート漬けにしたという言葉がありますが、ホントになんとかしなくては、もとにもどせないのですからね。

  宝くじ    12.3

東京で買ってきましたよ、宝くじ。どこで買っても同じというわけにはいかないらしくて、太クンは有楽町で絶対かってくるようにと、いうのです。着いた日に3000円買って、翌日にまたまた買いました。それでこの写真は何だかおわかりですか。実は、これ大当たり祈願の大黒様なのです。いっぱい貼って貼り付けてあるので
何がなんだかわからないでしょうが、みんな、結構、真剣にお祈りしていました。ふふふ、当たればいいなあ。

銀座もとじ  12.2

 先月30日に東京から帰ってきました。汐留メディアタワーで半日の研修を終え、今、噂の日テレのロビーを自主見学した後、銀座へ出てまいりました。ちょっと時間が余ったので、奄美出身で銀座に4店舗も構えたもとじさんのお店に寄りました。思ったより小さなお店でしたが、店内にはもとじさんのこだわりのセンスが見え隠れしていましたね。まず、大きな石、流木の木、染めた紙などのなかで映える反物と小物たち。もとじさんは、今こそ、男の着物を提唱。おしゃれな人こそ、今、着物なのです。もっているのは、紬の糸を織り込んだ帯。そうなんです。紬の織りや糸を使った小物は是非ほしいことろ。紬の着物に紬の帯や小物がセットになればこんな強いことはないのです。着物より、帯のほうが高いのを買えっていうじゃありませんか。それを他産地に取られてしまうのはもったいない。こんなものこそ、奄美は開発していかなくてはならないのです。
 と、そんなお話をしていると、あらら、ドアからすらっとした方が入ってきたと思ったら、ナント、檀ふみさん。おやおや、お母様とごいっしょ。もとじさんがコーディネイトしたお着物でカレンダーの8月のモデルになったのだそうです。いやあ、やはり、テレビでみるより、シワは仕方ないとしても、ホントに背が高くてすらっとしていらっしゃいました。さすが、もとじさん、いい顧客の方達をお持ちなのですね。みなさん、銀座、松や裏の銀座もとじをよろしくお願いします。一度、覗いて下さいませ。


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