2003年11月の編集日記

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シズエさん  11.27

 本郷かまとさんが亡くなられましたが、奄美は長寿、それも健康なお年寄りが多いことで知られています。そのなかでも、瀬戸内町に住むこのシズエ(89歳)さんは、まさに驚異的なタフさです。まず、毎日、3時すぎに起床、新聞にチラシなどを入れ、4時から近所に住む娘さんといっしょに新聞配達。その後、前日に収穫した自分が作った無農薬野菜を無人販売所に出荷。朝食後、全部で7箇所ももっているという小さな畑へ。食事を除いて一日の多くをこの畑で過ごします。畑が大好きとか。
 シズエさんは、料理名人でもあります。今ではほとんど知られていないような郷土料理をつくります。例えば、蘇鉄のシンの汁に生姜と黒糖をいれて固めたゼリーと羊羹の中間くらいの硬さのお菓子、シン菓子。これがなかなか品があっておいしかった。蘇鉄の味噌はもちろん、すべて手づくり。マムニムンというのは、大豆や細かく切った野菜を蘇鉄のシンの汁で固めた料理。昔はお祝いでは欠かせないものだったといいます。鯖の昆布巻は、よく作るとか。クイニャと呼ぶ海草で固めたもの。ヤシ(キビナゴの入り煮)も大好き。まるごと食べるのでカルシュームたっぷりです。
 今思うに、蘇鉄のシンとかナリ、また味噌をよく使う料理でしたね。料理を作ることも、人に食べさせるのも大好きとか。シズエさんの言葉、「仕事は速く、食べるのはゆっくり」。これはまさに至言ですね。ゆっくりよく噛んでたべるそうです。でもって、一日の締めくくりは、いっぱいの焼酎。くい〜っと飲んでオヤスミだそうで、足腰はまるでスポーツウーマンのようです。自転車に重い三叉のクワをのせ、今日もシズエばあちゃんは行く〜。またまた握手をしてきました。
 

夢?  11.24

最近、とっても疲れているような気がします。特に休みになると炊事洗濯掃除などだけで、とてもしんどい。昨日もおとといも今日も、なんだかまったく仕事をする気が起こらなくて、本を読んだり、昼寝をしてしまいました。う〜、寝ても寝ても寝られるのが不思議。もしかして、これって更年期なのかもしれないなあ。このまま、寝付いてしまったらどうしようなんてちょっと不安でもありましたが。 土曜日までずっと忙しかったからたまにはいいよね。そうそう、思い出したことがあります。15日の天皇皇后レセプションで、元ちとせさんにお会いしました。せっかくだからと、お話しちゃいました。「はじままして、浜田といいます。瀬戸内町の仕事などもしているのですよ。Sさんとなんか。」「Sさんとは、娘さんと同級です。」「ホライゾンという雑誌などんも作っています。」「はい、読んでいます。」「!!!!!」「ありがとう!!握手してもらっていいですか」「はい。」てな具合。夢ではなく、ほんと握手してしまいました。ホライゾンを読んでいてくれてありがとう。翌日の式典で歌った「くるだんど」は、今回ホライゾンで取り扱ったものだったから、またまたびっくり。でも声は昔のCDの方が透き通っていたような気がします。12月7〜8日では、島唄は歌うのでしょうか。発声法が違ってしまったのかなあ。

 そうそう、土曜日に瀬戸内の加計呂麻へそのSさんと取材にいってきました。俵集落では、こどもと集落の人が島口教室を開いていて、これが認められて公民館は全国表彰までされたとか。あいにく、この日は三連休の初日だったため、こどもが少なかったのが残念でした。それから西阿室集落の教会へ。ここにはマリア観音という白磁でできた小さなマリア像があり、昭和18年に中国からわたってきたものだそうです。これを譲り受けた西阿室の人の娘さんが、夢で「マリアでござる。マリアでござる」という言葉をきいたから大変。集落の人88人は、たちまちに信心して加計呂麻ではここだけに教会ができたとか。今、教会のパンフレットをつくっています。奄美にもいろいろな歴史があってホント面白いですね。ちなみに奄美は、長崎に次ぐあるいは同じくらい、人口比率では信者数が多いとか。教会もいたるところにあります。私は幼稚園がカトリック、で、大学がプロテスタント系。信者でもなんでもありませんが、「めでたしせいちょう」は今でも覚えているから不思議ですね。Sさんと島尾敏雄さんのことなどお話しながら、加計呂麻からとびうお丸に乗って帰ってきました。



芳賀日出男さん「記録された昭和の奄美」  11.21

 11月17日は、昭和30〜32年の復帰直後、奄美群島にきて写真をとっておられた芳賀日出男さんが講演とシンポジュームをされました。今では日本写真家協会の名誉会員で、世界の祭を撮影している芳賀先生ですが、当時、九つの学会(教育、言語、民俗、民族などなど)の民族調査の一員として参加され約1・8万枚の写真を撮影。ホライゾンでも創刊号からずっとお世話になっておりますがそれだけでは紹介できる数ではなく、復帰直後の奄美の民俗的な写真を映し出しながら、普段着でとられることに抵抗感のあった当時の奄美の人々の話や、始めに記念写真を正装でとり、そのあと、写真の面白さにわかってもらってから普段の写真をとってもらったことなどを話されました。小宿中学校の生徒や大島高校の生徒たちも参加し、とても有意義な会となりました。「みなさんのおじいさん、おばあさんは大変な苦労をされながら、さまざまなものをつくりだしてきたんですね。これからの50年はここにいるみなさんが作り出してください」とメッセージされました。 続いてあった、復帰前後の運動を撮られた吉良一良さん、芳賀先生のあとにから奄美の民俗写真を志した」越間まことさんとともにシンポジューム。それぞれの時代と写真への思いがきけて面白かったです。

天皇、皇后さまの来島  11.19

またまた一週間近くがたっていたようです。この間、奄美群島は皇室来島にざわめいておりました。15日に天皇皇后両陛下が奄美に来島。沿道は歓迎の人々であふれ、警備は全国から応援隊が投入され、ほんとにものものしかったです。こんな経験は初めて。
 アマシン委員なので歓迎レセプションに招待されていたため、紬で出席しようと美容室におりました。紬は奄美では正式な場でも正装なのです。近くがご宿泊ホテルだったため、警備は厳重。レセプションがあるホテルの隣りのホテルで集合待機、で、時間になったらゾロゾロ隣りのホテルへ。持ち物検査も厳重にされました。バッグの留め金かと思われるブザーが鳴ってしまいましたが。
 ホテルはかなり改装されたようで苦労がしのばれます。ま、お金より名誉かもしれません。会場は、わたしなんか場違いな感じ。でもぐっとがまんして笑顔でおりました。しかし、天皇皇后両陛下とお話するというので、びっくり。何を話してよいものやら、頭は真っ白。結局、紬の話やアマシン委員の話となりました。皇后さまは、とても色が白く、お化粧もさほどされておらず、髪ももちろん、染めておらず、なるほど、自然のままに美しいというのが、とてもわかりました。でも、いく先々でこのようにして大騒ぎされ、ものものしい警備をされるのは大変ですね。あちこち自分で行きたいところへいくというのもままならないのですもの。
 マスコミが両側で陣取り、写真やビデオをとるなかで、恥ずかしいやら手持ち無沙汰やら。ずっと出水沢藍子さんといっしょだったから、まだ救われましたが、立食の食事も喉をとおりませんよね。そうそう、石原国土交通大臣とも名刺を交換してしまいました。東京から奄美へという紹介にびっくりしていました。
 そうそう、知事のSさんは、あの席でロックの焼酎を飲んで、(^o^)丿を赤くしていたのですから、大物といってよいのか度胸があるというのか、ね。もちろん写真はダメでした。
 翌日16日は、復帰記念式典。なんと、わたくしは前から2番目の中央の席でした。国の役職だからでしょうが、徳田トラオ、保岡オキハル両氏の後ろというのもすごい。式典では、ラ・メールの合唱や、市民合唱団による新民謡、元ちとせや坪山豊さんらの島唄も全国放送されたようです。
 天皇陛下が奄美の復帰運動への労苦をねぎらい、自然の豊かさ、とくにオオトラツグミが現在100羽ほどしか確認されていないことに、心をいためていることがわかり、うれしかったです。
 リレーメッセージでは楠田さんをはじめ、喜界、徳之島、エラブ、与論の方たちが発表し、これはとてもみなさん、よかったです。式典自体は淡々とすすんだのですが、復帰の歌として人々にずっと歌われつづけた「日本復帰の歌」が待てども歌われず、とても悲しかったですよ。
 だって、平ソノエさんや静卓甫さんなど作詞作曲家のご遺族のかたたちもきっと待ち望んでいたでしょうし、復帰の歴史はこの歌が代弁しているとも思えるからです。なにが原因なのか、歌詞が過激?なのかどうかはわかりませんが、せめてメロディだけでも流して、あの歴史をふりかえるビデオをみせてほしかったです。ほかのかたたちは万歳などをしてとても感動したという意見が多く、涙が流れたという話を聞きましたが、やはり、ほんとのシマッチュではないわたしは、ちょっと冷静でした。
 17日は芳賀日出男さんの講演とシンポジューム。小宿中学校の生徒、大高の生徒も聴講に訪れ、とても盛況でした。芳賀先生の言葉はやさしく示唆にとんでいましたね。また、次回にお話しましょう。


 奄美の日本復帰!11.14

最近、ホームページを書いていないなあと思っていたら、なんと一週間近くもだったんですね。懲りずに開いてくださった方へ、感謝とお詫びを申し上げます。オニ退治が終ったら、今週末までははもう切羽詰まった仕事はないかなあと思っておりました。ホライゾン18号も出たことだし、ちょっと本でも読んだり、遠出でもしたかったのです。

 でも、時間はあっという間にたち、明日、奄美日本復帰50周年を記念して天皇皇后両陛下が奄美にいらっしゃるのでした。それにちなんだ方々がこの日前後に多数御来島。たとえば、掲示板でもご紹介しましたが、昭和30〜32年に奄美の島々を撮影された芳賀日出男さん、日本復帰の歌の作詞者の久野藤盛さんおご遺族、島岡さんがお連れする教育関係の方々、戦後奄美で演劇をされた伊集田実さの奥さんで、伊集田ヨシさんなどなど。そうそう、石原国土交通大臣も来島とか。奄美の復帰は、楠田豊春さんがおっしゃるように、「鹿児島県の帰った喜びと国の領土が帰った喜び」なのかもしれません。県主導の式典ですが、来賓にはこうして皇室や政府要人までもが見えるのですね。この重大さをわかるには、奄美の人より外の人なのかもしれません。

 昨日は「日本復帰の歌」の作詞者、久野藤盛さんの妹さんと息子さんといっしょに地元新聞を回りました。奄美の復帰運動ではなくてはならない歌、そして今でも歌い継がれるこの歌は、詩がとても素晴らしいにも拘わらず、殆どの人が藤盛さんのことを知らないことに疑問をもった私は、ホライゾン17号でこの疑問を追いかけました。ヒョンなことから、大分県に妹さんがいるのがわかり、明日の式典へのご招待の推薦をいたしたのです。この歌は奄美の島民歌でもあります。復帰を知らないわたしでも、胸にジ〜ンとひびきます。
 久野藤盛さんは大熊で育ち、税務署職員として勤務しながら青年団活動をして、昭和26年に復帰運動が盛り上がったときに、志気を高める歌が公募されたのに応募し、当選。静忠義さんによって曲がつけられ、この「日本復帰の歌」は同年7月19日の第1回郡民大会で発表されました。その後、集会では始まる前に大合唱をしたり、復帰デモ行進においても大きな声で小学生までほとんどすべての人が歌ったのでした。この歌は当時の人々の心を代弁したもの、みんなが心を一つにできたのですね。これほど、気持ちを込めて歌い継がれたものはないのではないでしょうか。

 久野さんは、復帰直後に大分県に配属となり、その後病に倒れ、奄美に一度も帰る事無く、最後は肝臓ガンで63才で亡くなられたとか。当時は船旅だったので、体に自信がないため帰って来られなかったのでは。歌や本が好きな朗らかなでも頑固な方だったようです。お写真を拝見いたしましたが、上原謙(俳優)によく似た方。身長は173センチほどもあり、大柄な方だったらしい。「50年たった今でも奄美の人たちが歌いついでくれたことがとてもうれしい」と妹の平ソノエさんはおっしゃっていましたし、息子の晃さんは、「復帰の歌を作ったと聞いた事はあるが改めて親父を見直した」と語っておられました。この歌の検証に少しでも関われたのがうれしいです。

 今、1〜2万人規模の復帰集会などが開催されていた大きな舞台である名瀬小学校内に復帰記念碑が、そして作曲者の故郷である瀬戸内町では静忠義の歌碑ができるそうです。表には楽譜と歌詞が刻まれるとか。どちらも、12月25日の復帰記念日が除幕式。今後とも是非、久野藤盛さんのことも忘れないで下さいね。しかし、「太平洋の潮の音は〜♪」わたしがはじめて聞いた時、なんだか軍歌に聞こえたものです。いえいえ、今ではこれは禁句でした。この時代を共有していないものの、単なる感想です。あの時代にはあの歌が一番似あっていたのに違いありません。写真は故久野藤盛さんと妹さんと息子さん。

 写真は楠田さんで、自他ともに認める復帰の語り部。80歳にも拘わらず、精力的な復帰伝承活動には頭が下がります。彼のおかげで各市町村に復帰記念日の条例ができ、泉芳朗の検証がされてきたのです。そして、今後、復帰運動は、様々な立場からの検証が待たれていますね。奄美の復帰運動は、奄美の人々が自主的にまとまり、断食祈願と署名運動、密航陳情を大きな柱にして戦った偉大な歴史なのです。この自主独立の精神こそ、これからの奄美に必要なことなのです。


オニヒトデ退治  11.8.

 大島海峡へオニヒトデ退治ボランティアツアーの取材にいってきました。全国から19名を含み島内外から43名、漁業関係者もいれると90名近くが参加。瀬戸内町では、3年前からこれが異常発生し、美しいサンゴ礁が次々に食べられているのです。水温が高くなったりして白化したサンゴもありますが、これに追い討ちをかけるようにオニヒトデが大量に発生しています。
 1980年代に、今のように発生したのですが、今回と同じように人海戦術で一ケ一ケ、サンゴの裏や岩の間に入り込んでいるオニをみつけ、真中の口の部分にガギと呼ばれる駆除棒を突き刺すのです。女性はやはり、はじめは躊躇してしまうようですが、あのきれいなサンゴのことを考え、思い切ってエイヤ!といくようですねえ。
 わたしは、上からみていただけなのですが、水温も結構低くて(26度)寒いといってました。でも、昨日はホントいい天気で、あ〜あ、わたしもライセンスもっているのに、全部わすれてしまったなあ!と反省してしまいました。これからでも、もう一度、勉強しなおしていかなくてはいけませんよねえ。駆除したのは、1692ケでした。さすが、漁師さんはすごい。ボランティアの駆除した数の4倍はありましたものね。いやあ、とっても有意義な一日でした。

いい汗かいています?  11.6

最近、忙しさから少し解放されたので、体操教室(リズム体操)に通っています。ふふふ、今日で3日め。ダイエーで買った1000円のスパッツをはいて、ダブダブのTシャツでお腹を隠し、いい汗かいて来ました。なんか、毒素が出る感じでいいですよねえ。歩くのもいいけど、一人じゃこころ細いし、太くんとだと時間調整が難しいので、いまのところ、夜八時すぎの一時間がわたしのゴールデン時間なのです。なんか、動きが鈍くて、若い子ばかりのときには惨めですが、それでも同世代が結構いるときは、お互いいたわりの目になるからいいですね。ほとんど女性ばかりがまたいい。変な?気を使わなくてもいいから〜。
 わたしが通っているジムは佐大熊なので、今日初めて帰りは臨港大橋を通って帰ってきましたが、ライトアップされて、奄美でははじめての景色にハンドルがやや緊張気味で運転してきました。みんな珍しがってこちらばかり通ると、またまた渋滞になるかも?ですね。もうちょっとロマンティックかと思ったけど、それほどでもない気がしました。夕日がいいのかもしれません。
 そうそう、体操といえば、最近、予防医学が盛んに叫ばれているので、みなさん、かなり関心があるようです。7月にオープンした鳩浜のメディカルフィットネスクラブがなかなかの人気らしい。なんで知っているかと言うと、そこのパンフレットを作成したからなのです。個人に応じたメニューでインストラクターがついていろいろ指導してくれるらしい。頭でわかっていても、なかなか億劫になってしまうわたしですが、太君は通うらしいので、乞うご期待!


臨港大橋の渡り初め  11.5

いやいや、写真だけの貼り付けで申し訳ありませんでした。4日は、名瀬港マリンプロジェクトの一環で臨港道路新港佐大熊線が開通しました。前日から雨模様だったので、天候が心配されましたが、わたくしも祈願祭から渡り初めに参加してきましたよ〜。祈願祭は蒸し暑いテントのなかで、は〜、やはり、紬を着ていかなくてよかった。汗みどろになっていたところでした。親子三代(4代だったんじゃない?)の紋付袴での渡り初めは写真ではみたことがありますが、初めての経験。こういう写真は後々まで歴史の一ページとして残るノヨねえ。トラックが続いているのは、伊津部小学校のさざなみバンドの太鼓がのっていたからなのです。そして、そのあとに私らがぞろぞろ、なんとなくかっこ悪い感じでつづきました。
 旧道はいつもとても渋滞していましたから、これでかなり緩和できるのではと期待されていますが、来週に皇室(天皇)来島に備え、次々道路がきれいになっていくのは、目をみはる思いがしますね。新港から長浜に至る道路は、まさにそれ。ちょっとかっこつけすぎじゃあないの?という声もちらほら聞こえます。
 名瀬臨港道路はこれから長浜まで延長されていくそうです。奄美もこうしてどんどん変わっていくのですね。



くるだんど〜  11.3

先日、鹿児島のある著名なかたとお酒の席でごいっしょいたしました。たぶん、鹿児島県人なら多くの方が知っていらっしゃると思います。帰り際、、太くんから持たされた写真集をお渡ししたのですよ。ま、どうせ、忙しいだろうから見てくれないだろうなあとタカをくくっていたのですよ、実は。そうしたら、今朝、お礼の電話をいただいちゃって。わたし、どこのおじさんだろう、まちがいじゃないのなんて思いながら聞いていたのです。名前がよく聞こえなくて。え、もしかしてSさんですか?うそ〜!っという感じでした。まさか、うそ〜!とはいいませんでしたが。県体やら本郷かまとさんのご葬儀やら毎日あわただしく過ごしている方には、うってつけだったかもしれません。
 実はホライゾン18号の最後のチェックでなかなか外に出られません。今日は県体にいってみようかなと思っていたのですが、(今日は陸上)、なんと、急に曇り空になった黒ずんできたかと思ったら、雨が降り出してきました。その速さに、これが「くるだんど」(黒ずんできたぞ〜。雨がくるぞ〜と歌った島唄)なのだと思った次第です。今回ホライゾンでも扱ったものの1つなのでピンと来たわけですね。
 ホライゾンは10日到着で11日に発売開始予定です。

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