平成17〜21年の海外研修を振り返って

 

 

          数学科 堂薗幸夫


 

1 はじめに

 現代では海外に出ることは特別の事ではなくなってきた。私の世代よりもずっと先輩であるが,作家小田実の著作1968年『何でも見てやろう』の時代ではまだまだ庶民には手の届かないものであったようだ。しかし,その後沢木耕太郎の『深夜特急』(産経新聞に途中まで連載された後,1986年5月発刊)では広く若者に熱狂的に受け入れられた。私はこの作品に影響を受けている。実際には,高校時代,当時国鉄の「青春18きっぷ」で旅を覚え,自分でプランニングすること,現実のそのときに的確な判断をすること,トラブルに対応する力を身につけることなどを得たような気がする。父親の転勤により小学生から中学生の間,大分県に住んでおり,鹿児島と行き来をしたということも,旅へ駆り立てる遠因であると分析している。とにもかくにも,見たことのないものを見よう,写真でしか知らないものの本物を見よう,そこに普通に暮らしている人々の普段の生活に触れよう,ということが私の旅のテーマである。この報告では,その視点から5年間の旅行を振り返りたい。


 

2 これまで

 これまで海外旅行としては,スペインに新婚旅行に出かけて以来,多くの場所を訪れてきた。それぞれの場所に得たもの感じたものがあるのだが,ここでは,時期と場所を明記するだけにして,別の機会があれば,振り返ってみたいと思う。
 1994年(平成6年) スペイン………ガウディの遺産サグラダファミリアとギター
 1995年(平成7年) アメリカ西海岸………サンフランシスコの港町とケーブルカー
 2000年(平成12年) 韓国………北朝鮮板門店軍事境界線を訪ねて
 2002年(平成14年) カナダ………バンクーバーへ修学旅行引率
 2004年(平成16年) 韓国釜山………出水高校数学科での科旅行


 

3 この研修報告の原稿の意図

 奄美高校に赴任して5年が過ぎた。この5年間夏休みの間,毎年海外へ自己研修の目的で旅行することができた。パッケージのツアーでは無いため無理のあるスケジュールである。そのため,毎年一人旅で出かけた。理解をしてくれた家族や実家の両親たちに感謝しつつ5年間を振り返ってみたい。他の高校では夏の補習の時期であり,休暇は得られても限られたものになってしまうのが現実で,8月に帰省も兼ねながら毎年夏期休暇と年次有給休暇を2週間併せて確保することでこの旅行が成り立っている。

 海外の一人旅では,すべてが自己責任でありすべてを自分で計画・実行しなければならない。それこそがイレギュラーに対応する即時的な力を養うことであり,普段使わない能力を鋭くさせる最も良い方法ではなかろうか?もっとも,現実の喧噪から逃げ出して,単に見聞を広めるためにゆったりした時間を過ごすと言うことが,一番の利点であったりするわけであるのだが。
 また,旅行の際に必ず探すものがある。町中の書店に入り数学の書棚を覗いている。時に古本屋だったりするのだが,教科書(主に高校生の利用しているだろうと思われるもの)が販売されていないか,そこの学生がどのような学習をしているのか,問題集,参考書の類を自分へのお土産として購入して帰っている。数学では数式やグラフがかかれているため,分野の特定や難易度の判断が出来る。カンボジアではクメール語の独特の文字だったり,タイでもタイ語の独特さがあるが,不思議と数字が生き生きと語りかけてくれる。数学は世界共通の言語である。今まででもっとも印象に残っているのは,台湾の古本屋で見つけた大学入試用と思われる参考書で,その学生が余白に一生懸命微分積分の計算過程を書き綴っているものを手に入れたときである。日本の高校生の学習にきっと役立つ日が来ると信じて収集している。

 更に趣味でもあるのだが,インターネットを利用して現地からの生の情報を発信する事を心がけている。日本で心配して待つ家族や友人にブログ形式でライブレポートを書く事で,その国のインターネットインフラ状況がよく分かる。教科「情報」の実践的な研修とも捉えているが,今やバックパッカーの旅行者にとってはネットを利用する事は当然至極であり,今後グローバルな活動をするべき高校生に伝えるべき事があると感じている。世界は狭くなっている。

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4 最近の5年間

 ここ5年間の訪問先は下記の通りである。
 ・台湾(基隆,台北) 
 ・カンボジア(シェムリアップ),ベトナム(ホーチミン)
 ・香港,マカオ,深圳(シンセン)
 ・タイ(バンコク),マレーシア(クアラルンプール)  
 ・オーストラリア(シドニー,ウルル)
 それぞれについて少しの写真を交えながら,思い出に残ったところを振り返ってみたい。


 

(1)平成17年(2005年)8月 〜〜船による台湾までの旅〜〜

 奄美高校に赴任して初めての夏であった。赴任の際に船で一泊してきたわけだが,その際に船でどこまで行けるのだろう?という疑問があった。前々任校の修学旅行で,沖縄へ船で行ったことがあった。鹿児島を出て沖縄までかなりの時間がかかったことを覚えているが,沖縄から先は経験がなかった。それゆえ船でどこまでいけるのだろうか?ということを追求してみようと考えた。もちろん情報として南西諸島石垣島へ定期船があることは知っていたが,その先である。インターネットの情報によると,台湾まで定期船が出ていることが分かった。そこから先,中国本土や香港などへは,国際関係の状況から船では難しいことが分かった。

 名瀬から那覇までは,通常のマリックスラインかマルエーフェリーの船で早朝名瀬を出港して,夕方那覇に入る。その翌日,有村産業の船「飛龍」で夕方那覇を出港し,乗船している観光客は,翌日の午前中,国内最後の寄港地石垣島でほとんどが下船する。なぜならパスポートを持っていないからである。残った乗客は,出入国管理官が乗船してきて,船内での出国手続きとなる。初めての経験であった。船内に残った国際航路として利用していた乗客が2〜30名ぐらいだったろうか,一列に並びスタンプを押されていく。不思議な感覚であった。石垣島を出港すると,あとは基隆(キールン)まで洋上の風景である。数時間後に免税ビールの自動販売機が開始するのも非日常の感覚である。夕方台湾北部の基隆港へ入る。

 台北では,故宮博物院の歴史的資料が印象に残っている。台湾の所蔵品は北京の故宮博物院をしのぐと言われている。大戦後の中国本土の混乱から蒋介石政府が移したためと言われており,清の時代の翠玉白菜という翡翠を巧みに彫り上げたものは声も出せないぐらいの緻密さを見せている。当時は改修工事中で半分以上を見ることが出来なかったのが残念であったが,それでも当時の日記を読み返すと2時間以上見学していた。膨大な至宝の数々である。観光して回ったその他のスポットとしては,中正紀念堂という蒋介石の功績を記念して建てられた建物,総統府,国立台湾博物館,TAIPEI101展望台などである。TAIPEI101は高さ509m101階建ての世界一の高さを誇るビルである。世界最速のエレベーターで89階,高さ382mからの360°のパノラマは雲を下に見る絶景である。

 賑わいのある街を歩いていると,ふと日本語の曲を耳にした。日本が西欧諸国の流行を取り入れるのと同様に,台湾では日本の流行が若者文化らしい。日本語の看板も多く見かける。年輩の方の中には戦時中の日本占領下時の教育の影響で,流暢な日本語を話す方もいらっしゃった。日本に対しては良い印象を持っていらっしゃるようであった。また本を探しながら感じたが,台湾の学歴社会は特に有名である。駅前通りの予備校のようなところは合格者名を多数貼り出しており,また学生も多数学んでおり大繁盛していた。他にも交通費の安さ,屋台街のにぎわいなど印象に残っている。どこまでも続く夜市にどこからやってきたのかというぐらいの人hitoヒトである。夜の熱気は昼の暑さの熱気とはひと味違ったものがあった。

 

 


 

(2)平成18年(2006年)8月 〜〜悠久の歴史を訪ねてアンコールワットへの旅〜〜

 カンボジアのジャングルに埋もれた都市,アンコールワットの本物を見て触れてみたいと考えた。タ・プロームという溶樹に遺跡が絡み捕られた姿を見て圧倒された。熱帯の樹木たちの容赦なき攻撃は人間の力の小ささを感じさせるものであった。世界遺産として存在している数多くの遺跡に衝撃を受けた。それぞれの宮殿,寺院に残される緻密な造りの石を削ったレリーフやデバター(女神)にクメール文化の高さを感じさせる。仏教やヒンドゥー教の混在する神をあがめる感覚,長い歴史にカンボジア人クメール人のアイデンティティがあるのだろう。ワットを国旗にも掲げる国で,遺跡が生きた遺跡として存在している。
 歴史が記しているように,カンボジア内戦のポルポトによってその多くが破壊させられ,人的な損失も大きかった。観光として外貨に頼る部分も大きいのだろう。子供たちが学校に行っていないのか,どこに行っても「オミヤゲー」と近寄る姿にやるせないものも感じた。しかし,伝統舞踊の復興や日本語を学ぶ観光ガイドの姿に力強さが感じられた。レリーフにも数多く登場するが,アプサラダンスと呼ばれる9世紀頃生まれた宮廷舞踊は,ポルポト政権により伝える先生が処刑され伝統が途絶えたそうである。それを現在復興させようとする努力があったり,スバエクトーイという影絵芝居も社会の安定とともに復興の兆しを見せているそうである。そこにも力が感じられた。

  

 シェムリアップからすぐの場所に歴史ある寺院がたくさん並んでいる。そのどれもが悠久の歴史を感じさせるもので,江戸時代の日本人による墨で書かれた落書きも残っている。祇園精舎として日本人街も存在していたそうである。多くの観光客が訪れている。夕焼けに真っ赤に染まるアンコールワットや,時折のスコールに濡れる寺院など,深い感動を覚えた。しかし夜の暗さは発展途上を感じた。発電の設備上の課題や経済格差も山積しているのであろう,裸電球の暗い明かりの町と一流ホテルのけばけばしい明るさの対比が,はからずも問題を浮かび上がらせていたように感じる。

 帰途は,ベトナムホーチミンシティへ1泊立ち寄った。600万人を越すベトナムの活気ある商都である。旧称のサイゴンのほうが地元の人には通りがよいようである。通りに溢れる人,車,オートバイに圧倒される町だった。信号待ちのバイクが100台は軽くいただろうか?信号の縦が青の時には縦の流れが途切れなく,横の100台は止まり,青になった瞬間に縦横の力関係が逆転し,横の100台が流れ始める。次の交差点でも,その次の交差点でも同じ風景が続く。HONDAのカブに2人乗りして,これこそ縦横無尽いたるところを走り回っている。それが日中から夜中まで続き,一体どこからどこへ行こうとしていたのか,何の用事があるのか,と思うくらいである。 

 ここでもベトナム戦争の爪痕を感じた。アオザイの伝統衣装に身を包みながら,悲惨な写真の解説をするベトナム戦争証跡博物館では,戦車の実物を展示してあり,ロバートキャパの衝撃的な写真も見ることができた。それだからか,現在のフランスコロニアル様式の美しさが多く残る平和な街は,ほっとして見ることができた。特にサイゴン大教会と中央郵便局は見逃せない。

 広島長崎とは違った長期間にわたる戦争の経過は,長い期間の重い空気を感じることであった。統一会堂(旧大統領官邸)でも戦争の歴史を忘れることが出来なかった。ストップオーバー的に1日の観光をしただけで,ホーチミンシティのみしか見ることが出来なかったが,ベトナム観光をするならば南部だけはなく北部も味わい深いところがたくさんある。

 


 

(3)平成19年(2007年)8月 〜〜深夜特急の始まりを訪ねて香港への旅〜〜

 私が多くの影響を受けたのが沢木耕太郎の「深夜特急」であった。香港の熱気ある活力ある力に衝撃を受けた記述があった。廟街の屋台の人の熱さは是非この目で見たいものがあった。また,中国に返還されたとは言え,アジアのマーケットとしては絶対に外す事の出来ない都市であり,その力の源はどこからくるのかを知りたかった。

 予想通り・予想以上の力である。ひょっとすると日本人の忘れてしまった生きる力がそこら中に存在している。香港島では世界中にここだけしかない2階建てのトラム(市電)が車体いっぱいに広告を載せて走っている。100年以上の歴史を誇るスターフェリーが香港島と九龍地区を結ぶ。わずかに10分間の日本円にして50円程度の船賃は遊覧船のようである。桜島フェリーを思わせながら,しかし鹿児島以上に狭隘な場所に高層ビルが建ち並ぶ姿は,経済における雄弁な歴史的証言であった。ピークトラムに乗ってビクトリアピークのピークタワーから摩天楼を見下ろすとき中環(セントラル)地区の100万ドルの夜景を満喫できる。また,九龍の半島側からは毎晩20時から15分間程度行われるシンフォニーオブライツと呼ばれる,対岸の香港島全体のビルが光のアートになっており音楽とシンクロしながらサーチライトが飛び交う光のショーなども楽しめる。広東語の抑揚のある尖った響きが耳に残る活気あふれる街である。

 宿泊は,重慶大ビル(チョンキンマンション)という安宿に宿泊した。一泊100HK$(2000円程度)もしない16階建ての集合ビルであるが,そのフロアごとに個人経営の安宿が数件ずつ入っており,それぞれに観光客の多いところ,アフリカ系の多いところ,インド系の多いところなど個性があり,人種のるつぼであった。私は経験しなかったが,しつこい客引きやトラブルもあるとの情報がある。世界の広さを一つのビル内で感じることの出来る貴重な場所であるように思われる。

 香港からマカオへ60分弱,ターボジェットという水中翼船で移動した。60km離れているマカオは,カジノの街でよく知られるが,やはりポルトガルの街並みが残され歴史的背景を思わせた。マカオタワーから見下ろすとそこにはカジノのホテル街と,古い街並みが見事である。セナド広場のコロニアル様式の建物群を抜けて,建物正面の壁面を残すのみの聖ポール天主堂跡の趣や,その上のモンテの砦,マカオ博物館など,ゆったりとした時間の流れを感じる世界遺産の観光地である。逆に,カジノの観光客の熱気というものもほかでは決してみられないものである。ホテルリスボアとその隣のグランドリスボアに代表されるカジノでは,ダイショウ,スロットマシン,ルーレット,バカラなど,ありとあらゆるギャンブルが数フロアに渡り24時間展開されている。刺激的なものである。

 また,香港から中国本土へも行くことができる。深圳までの列車での日帰り小旅行をした。香港からKCRという電車で45分間乗り,終点の羅湖駅(ローウー)でイミグレーションを抜ける。中国本土であるが,経済特区に指定されたため,振興工業都市としてめざましい発展を遂げている。やはり中国大陸の雰囲気は香港のそれとは異なっていた。相互に買い出しなどで行き来している様子であったが,パスポートを持っての買い物というのも我々日本人にはなかなか理解できないものである。羅湖商業城というイミグレーション目の前にある巨大ショッピングセンターは,香港よりも安い衣料品や雑貨などで賑わっている。

 

 中国のようで少し違う香港やマカオ。アジア経済の中心として活気に溢れている。マーケットや市場の活気がそのまま国のような地域のような混沌とした状況でありながらも,そういったカオスの中だからこそ産まれ得る活力に底知れぬダイレクトなパワーが感じられた。


 

(4)平成20年(2008年)8月 〜〜アジアの歴史タイとマレーシアへの旅〜〜

 タイの仏教を見たいと考えた。金箔の仏像と,カラーリングされた王宮と,アジアのハブとしての地域がどのように動いているのかを知りたかった。「マイペンライ」に代表される,何とかなるさの気質もあの暑さではやむをえないものだろうと感じた。

 

 また,4年前の航路による旅にインスパイアされ,この年の旅では陸路ではどうなるのか?という疑問から,バンコクを夕方出発してジョイントバスというものでマレーシアのクアラルンプールを目指した。ジョイントバスとは,途中自分自身がリレーのバトンとなり,都市間の連絡バスに,「次はあれに乗れ」という形で,時に大型バス,時に乗用車と私の場合5回の乗り継ぎで,陸路国境を越えて2日間かけてマレー半島約1200kmを移動するものである。(ちなみに東名東京インターから九州自動車道鹿児島インターまで1385.6km)これは貴重な経験であった。隣国へ車で通過するチャンスもそうあるわけではない。国境の都市の経済活動というものも目の当たりにすると驚きであった。クアラルンプールからバンコクまでの帰途はエアアジアという飛行機で戻った。ローコストキャリアと称される新興の航空会社で,世界各国で人気である。現在JALの負債の問題を聞くが,民間のコストを徹底的にカットした運行は運賃も安く設定されており人気である。機内サービスは有料,チケットはレシートのようなもの,座席は先着順自由席,発着ターミナルが隅に追いやられているなどの点がコストカットになっている。

 もちろんクアラルンプールの洗練された都市機能にも驚きをした。まるで都庁のような452mのツインタワーに代表されるような建物にアジアの経済発展を見るところであった。都市機能を忘れるならば,バタフライガーデン,バードガーデンなど熱帯の極彩色に彩られた蝶や鳥,巨大な昆虫など,赤道に近づいた自然豊かな環境である。マレーシアは多民族で構成され,文化も言語も様々なものが存在するがイスラム教を国教としている。女性のムスリムも黒だけではなく美しいカラーのトゥドゥンを纏ったファッショナブルなものであった。


 

(5)平成21年(2009年)8月 〜〜地球遺産オーストラリア・ウルルへの旅〜〜

 奄美大島5年目の本年は,赤道を越えオーストラリアへと渡った。季節が逆転し冬の豪州であるが,砂漠の中にあるウルルは暑かった。小学生の頃,海外放送を聴きワライカワセミの鳴き声に魅了され,コアラ,カンガルーに代表される有袋類の進化の不思議さに思いを馳せた。ワルチングマチルダの響きにわくわくしていた。当時はエアーズロックと呼ばれることが一般的であったが,現在はアボリジニに敬意を表してウルルと呼ばれる。アボリジニに申し訳ない気持ちも持ちながらのウルル登山は,大地を踏みしめる大きな気持ちになる。鎖を掴みながら1時間程度の登山である。青い空と赤い大地が広がり,地球の中心を感じた。早朝の朝日に照らされるウルルと夕日が沈む際の色を変えていくウルルは,遮るものがなく360°の地平線に沈む太陽の光を受け,自分自身の長い影とグラデーションのかかった空の中に強烈な存在感を示す。エアーズロックリゾートと言う周囲500kmに街が存在しない,観光のためだけの街に宿泊し,(飛行機での離発着時,1時間以上赤い大地だけであった。)連日ウルルへとバスで運んでもらった。ウルル周辺は1周ぐるりと周れるウォーキングトレイル(ベースウォーク)がある。先住民の描いた壁画や一年中枯れることのない泉カピムティジュルなど見るべきものがたくさんある。周囲10km弱をリンゴ,パン,1リットルの水の昼食を持ち,4時間ほどかけて1周したが圧倒的な自然の偉大さを感じる事であった。

 

 シドニーでは,世界の三大美港にかかるハーバーブリッジとオペラハウスのオーストラリアのシンボルを見たかった。街通りを過ぎ港が近づいてくると,そこに事前に写真で見たものと全く同じ風景が迫力ある力で目に入ってきた。自らの足で触れたくウルル同様に橋を歩いて渡りオペラハウスまで歩いた。翌日は海上からの姿を見たく,ランチクルーズ船に乗り昼食はバッフェを摂りながら優雅に遊覧を楽しんだ。もちろんオペラハウスの内部も解説ツアーのようなものがあることを調べ参加し,ちょうどシドニー交響楽団のリハーサル風景を堪能させていただいた。ウルルの自然の大きさとシドニーの都会的雰囲気とコアラ・カンガルーも間近で見るなど,オーストラリアの良いところばかりを堪能した。

 


 

5 まとめとこれから

 旅行記録ではなく,その時々にどう思ったのかを綴ってみた。「旅は人生である」という言葉がある。若いときの旅で感じることと,年を重ねたときの旅で感じることは,見方や考え方の違いで得るものが違うと言われるが,まさにそうであろう。知らない故の感動や,知っている故の納得など,本物でしか得られないものが一期一会その瞬間にある。

 それだからこそ単なる移動ではなく,何を見たいか,何を感じたいかとテーマを持って自分自身の経験値を増やしていきたい。世界遺産を見る,歴史遺産を見る,日本人として世界の中での位置を考える,日々見逃しがちな風景が国によってこれほど違うと言うことを経験したい。なによりも,自分の行動を危機管理しながら瞬間的な最善の判断をする力を養うことが,生きていく事そのものであり,旅の面白さでもあるのではなかろうか。

 ゲーテの格言で,「人が旅をするのは到着するためでなく,旅行するためである。」とある。本で見たものを語ることと実際に体験したものを語るのでは,聞き手に伝わる度合いは全く違うと思っている。話す商売をしている以上,いい加減な話や又聞きの話ではなく,本物の感動を伝えたいと思う。そのときに感じられるものはそのときしかない。

 

 

 

 

 

 

 


平成22年3月 奄美高校研究紀要原稿から