Master’s Memory

子ども編 

小学校のころ

小さい頃から音楽が好きでピアニカや縦笛でテレビの曲を耳コピして
吹いてたのを今でも憶えてます。
小学校ではサッカー部と掛け持ちで新しくできた合唱団に入ってました。
ただし今は歌が苦手。

中学校のころ 

中学校ではお年玉でキーボードを買った事がきっかけで
2年生からバンドを始めました。すべて独学なので何も知らずに
ギターのコードを弾いてました。この頃はやりのBOOWYにどっぷり
<初めてのスタジオ練習>

高校のころ 

入学式当日,中学校の卒業ライブの話題で盛り上がり,そのままバンド結成。
しかし集まったメンバーはVo,G,B,Key(自分)。
そのとき一人がぼそっと「・・・キーボードよりドラム・・・。」
というわけで長いドラム人生が始まったのでした。
さて このあと世の中はイカ天なんかのバンドブームに突入。
はやりに乗ってBOOWYからJ(S)Wへ。
高校3年の時二人目のGが入ったことによりコピーからオリジナルへ。
卒業記念にということでCMの音楽なんかを創ってるスタジオで
全6曲入りのオリジナルアルバムをつくってみんなに売りつけました。(笑
そういえばまだ押入に10本くらい残ってる。(笑
ライブやアルバムづくり,打ち上げと楽しい一年でした。
この3年間でりっぱなバンド小僧に成長しちゃいました。
「ドラム=楽しい」の図式はパブロフの犬よりも強く小さな脳味噌に刻まれたのでした。
<3年の時のクリスマスライブ>

浪人のころ

実は親に隠れて結構スタジオに行ったりしてました。大学卒業したら地元に帰ってバンド組むぞって思ってたので,大学に入ったら軽音楽部に入部して,1年間バンドを組まずに基礎トレーニングをしようと決めてた。このころも月に2回くらい練習してた。ライブも1回やったようなやらなかったような・・・。

 

大学編

運命の出会い 

入学式前日。
 大学に行くと講堂から吹奏楽部らしき音が・・・。
その入り口ではでっかい人が僕に向かって「こいこい」をしています。
立ち止まると「こいこい」が速く,じっと見てるともっと速くなる。
「この人怪しい・・・。」と思いつつもその中に入っていくと中では20人くらい楽器を持った人達が。
でもって連れて行かれたのは一番奥のドラムの後ろで完全に逃げ道をふさがれた状態。
「やられた・・・」と思いつつも話や音を聞いてみると,何とマニアックにもジャズバンド。
 大学に入ったら軽音楽部に入って基礎トレーニング(このときドラムをするには筋力が必要と思ってた)をするぞと思っていたのでとりあえず最後まで見学することにした。
 演奏を聴きながら(見ながら)思ったのは「このドラムの人達めちゃめちゃうまい」ということ。(それもそのはず,この時いたのは6年生,4年生なんだから)
しかも「基礎からじっくりやるからうまくなるよ」とか「Jazzだから社会人になってからも続けやすいよ」というお言葉。
「う〜ん僕にぴったり」ということで入部することに決めました。
 しかし,このときはまだこんなにどっぷりこの世界にはまっていくとは予想もしていなかったのである。

基礎固めの1年生前半

 9月に曲をもらうまでずっと毎日基礎練習してました。(半年間)
基礎練習も腕の振り方や座り方なんかの超基本的なこと(今思えばこれがかなり重要)とメトロノームを使ったシングルストロークの練習だけ。
 ドラムの先輩はとてもやさしくて丁寧に教えてくれました。「セットも使っていいからね。」と言われてましたが(他の先輩は許してくれなかった),あまりに先輩達とレベルが違ってて恥ずかしいのと「まずは基礎を徹底的に!」という気持ちがあったのでセットには1ヶ月に1度座るか座らないかでした。
毎日多いときで9時間位ずっと基礎練やってました。
はっきり言って練習台が友達(byキャプテン翼)。
ひたすらフォームとシングルストローク(1,2,3,4,8連打)のみ。
 初めの頃は,たまにメトロノームの音が消えると(タイミングがぴったり合うと音が聞こえなくなる)ニヤッとしたりして・・・。端から見るとかなりマニアックな怪しい人に見えたらしい・・・。
 この時期は普段60のテンポ(1分間に60回なる速さ)で練習してたので,ストップウォッチを見ないで60秒が計れてた。
しかし,部屋に秒針の音がする時計があると基礎練が気になって眠れないのですべてデジタルに代えるはめになった。
<4月から9月までこればっかり>

デビュー曲

 さて,初めて曲をもらったのは9月に入ってから。
それまで練習台しかほとんど使ってない状態だったので半年ぶりにさわるセットはとても新鮮でした。
しかし,驚いたことに8ビートが全然叩けなくなってました。
今思えばたぶんよれよれの8ビートだったので自分でも気持ち悪くて聴いてられなかっただけかも・・・。
 そんな状態で始まった曲の練習。晴れてボクのデビュー曲となったのは「Easy Maney」(あぶく銭という意味)。
ドラムはえらくシンプルでパッとしない曲だなぁなどと思いながら,いざっと思ったが譜面がない。
そう,まだ音取りをしてなかったのでした。
結局トホホな状態で練習台へ戻りました。
 シンプルでパッとしないと思ってたほどなので,初めはすぐに取れると思っていたこの曲。
今考えてもなぜそんなに時間がかかったのか分からないのだけど,初めに曲のすべてのメロディーを憶えて(アカペラで歌える位)それからドラムの音取りをするだけで1ヶ月かかりました。
ずっと同じ部分を繰り返し聞いてると簡単なフレーズでもわけが分からなくなってくるんですねぇ。不思議と。
この状態をドツボにはまると言います。
この頃面白いようにドツボにはまってた自分を懐かしく思います。(笑
 さて,この間練習はというと先輩がセットを使ってるときは練習台で,空いてるときはセットで自分の音取りのチェックをしてましたが,思うように叩けなかったです。
しかもメトロノームともズレまくり。
後はひたすら練習台での基礎練とセットに座ってレガートと2,4拍目でハイハットを鳴らす練習(全拍で足を動かしながら2,4拍目だけ鳴らすJazz特有の奏法。これを均等できれいな音でできるようになるのは結構大変)をしてました。
 全部音取りが終わってからメトロノームに合わせて練習をするんですが,時には通り際に,時には部室のドアをガラッと開けて一言「4拍目のウラが遅い!」って感じでつっこまれる毎日でした。
時には一言では足りないので九言,十言言う人もいました。
この時はいつ部室のドアが開くかドキドキしながら練習する毎日でした。
 そんな甲斐もあって音取りも終わり,総練デビューもしましたが,大学祭,定演までの間に少なくとも20回くらいはボツをくらいました。
厳しい言葉も結構もらいましたが,楽天家のボクは次の総練でもこの曲名が出るとドラムに座るのでした。(そしてまたボツ宣告を受ける)
 ただし,ブラシはどうしても使わせてもらえなかった。(残念)

修行僧のごとく2年生

 大学祭,定演も無事に済み,2年生になりました。
ただし,問題がひとつ・・・。
この年,5回生以上3名(内バンマス1名),4年生が0名,3年生が5名。
主力メンバーが2年生という状態でした。
ビックバンドの要というとやはりドラムとトップラッパとトップアルト。
このうちドラムとラッパが2年生。(しかも夏休み明けに3年生のピアノとトップアルトの人が退部。おいおいって感じ
 そんな状態で始まったビックバンド。
7回生のドラムの先輩から一言
「今年は卒業するから全曲やってみてね。」
・・・全曲?
まだボク1曲しかやったことがないんですけど・・・。
・・・でもやらなきゃね。
みんなもがんばってるんだし。
と思ったかどうかは忘れました(別に考えてもやることには変わりない)が,全曲挑戦しました。
というか,ホントにやったとは言えなくて挑戦(無謀な)でした。
と口で言うのは簡単だけどそれはそれはキツイ状態でした。
しかもボクの場合地獄の3期(単位落とすと留年)。
授業も休めないので(それが当たり前なんだけど)睡眠時間2時間の毎日でした。
 片っ端から曲の音取りをして,昼間の授業中に睡眠をとったり,出席の後で抜け出して部室で練習したりして夕方からはセクション練習(他のリズムの人との練習)その後明け方まで曲の個人練習。
 それまでは練習後には必ず飲み会に連れて行かれ,明け方まで飲まされていたんだけど,さすがにこの時期は許してもらえました。
ただ,この時期総練ではしこたま絞られました。
靴とか投げられたこともあったし(笑。
この時期怒られすぎて,今では全然こたえないです。
というか,怒鳴られてる中からヤジなんかの必要のないところを聞き流して,自分の足りない所や直さないといけない所を聞き取るという物事の聞き方ができるようになりました。
あと,精一杯やって「今の自分にはこれが精一杯です」って胸を張って(実際に張るとよけい怒られるのでしなかったけど)開き直るってこともできるようになったかな。
でもね,あれだけ怒られてたのでドラムの後輩は入ってきませんでした。
 何はともあれ,この時期から卒業までメインドラマーとして叩くことになったのでした。(コンボは先輩にやってもらったけど)

練習の賜物?

 そういえばこんなことがありました。
ある日,練習が終わって帰ろうとしたら自転車がない。
29インチタイヤの珍しい自転車ですごく気に入っていたので,わざわざ実家から送ってきたもの。
鍵もしっかりかけていたのにと思いつつ,いろいろなところを探したけど見つからなかった。
「きっとどこかに・・・」という思いを捨てられず,公園や自転車置き場を通るたびに似たような自転車を見つけるとジロジロ見てた。
そんな時,偶然にも大学の近くで自転車に乗っているところを発見。
自転車から引きずりおろすと,どっかで見たような男。
そう,同じ音系サークルでウチの部の正面にいる同好会の先輩。
怯まず責め立てると,その人は申し訳なさそうに
「・・・いつ行っても同じ場所に置いてあるから捨ててあるのかと思った。ごめんなさい。」
たしかにウチの部室は駐輪場の一番奥で,置き捨てられた自転車も多い。
たしかにボクが部室に行く時間は周りの部室には人があまりいない時間,しかも帰る時間は深夜。
まぁ,無事発見したこともあり,その場はとりあえず分かったということで終わりました。
 それから3週間後,アパートの駐輪場でまた盗られてしまい,2度と出てくることはありませんでした。
あの自転車すごく気に入ってたのに,どこにいってしまったんだろう。
その人とは,部室の前で会うたびに挨拶をするようになりました。
 それから1年後,その人のバンドのサポートをする機会があったんだけど,「あのときはホントにごめんね」と言ってました。
そんなことがあったけど,その人結構いい人だった。

大忙しの3年生

 鹿大のJazzBand部では3年生が幹部をやります。
というわけで部長やりました。
でも,ウチの部の部長は一番偉いわけではなく,音楽的なリーダーにバンマス(バンドマスター)がいるので運営上のまとめ役。
だから,部の運営をするにもバンマスの意向を聞いてから進めていくいわゆる中間管理職。
バンマスと部長の相性次第でバンドの雰囲気も変わってきます。
この年は相性バッチリ(とボクは思う)。
ドラムの後輩も入ってきたし,コンボもビックバンドもボクがメイン。
仕事の打ち合わせや部のスケジュール。
もちろん雰囲気作りの飲み会(これが実はメインだったりもする)。結構忙しい毎日でした。
 この年はベース&ドラムが昨年と替わらなかったのもあり,結構スムーズに進みました。
ただ,ベースを弾きながら総練をやっていたバンマス柳澤さんは大変そうでした。
 ボクはというと,ビックバンドの練習はもちろん,コンボで4ビート以外のビートも刻まなければならなかったので,サンバやボサノバ,アフロキューバンやバラードなんかの練習をかなり時間をかけてやりました。
コンボで新しいことができるのがうれしくてフィルインを一生懸命練習したのもこの時期でした。
 ただ,一度にいろんなことをやってたので安定感がありませんでした。(この時走り屋の血が目覚めてしまい,曲の始めと終わりでテンポが変わってしまうという状態に)
 この年,初めてドラムの後輩ができたので基礎練を教えながら自分でもよくコソ練(コソッと隠れて練習)をよくやってました。
この頃はパラディドルやダブルを結構練習してたけど,ツブ立ちやアクセントをしっかりできる(完璧ではなかったけど)までにはかなりの時間がかかりました。
 後もう一つ,この年,最後の最後で「Magic Frea」という2,4テンポ168(4分音符=336)の曲が入りました。はっきり言って無謀な挑戦でしたが,バンマスの「やりゃできるんだ。やれ!」の一言でやることに。
定演では元のテンポを軽く超え,180をオーバーしたようです。
(それこそオーバー)
<年に一度のホールでの定演。>

そうめんとビデオの会 

 そういえば,それまでもよくやってたけど,「そうめんとビデオの会」をよくやった。
 そうめんのゆで方にこだわるボクがはじめた会で,結局最後には酒を飲みながらビデオを見て「このフレーズがすごい」やら「明日からこの練習やったる」などといった感じに終わっていく。
 実家からメロンや20世紀梨が送られてくるたびに,みんなをウチに呼んでやってたけど,みんなで楽しくやることがすごく好きだったのと,その雰囲気が演奏にも反映されると考えていたのもあった。
 冬にはカニ鍋(実家から松葉ガニが送られてきていた)とビデオの会などもやった。

Funkビートとの出会い4年生

 さて,忙しい幹部学年から解放され,ドラムの方もだいぶいろんなことができるようになりました。
ベースの柳沢さんも無事(?)大学に残っていたので,リズムのベーシック(ベース&ドラム)も慣れた仲。
結構ゆったり構えてたんだけど,この年バンマスになった同学年の河原は新しいビートが好きでいきなり持ってきた曲が16Funkビート。
「えっ!? 16ビート?しかもふぁんく?」って感じ。
8ビートもできなくなって久しかったこの頃。
勝手にサンバキックをしてしまう足を一から鍛え直しました。
とりあえずいろんなビデオや音源を聴きながら,ちょっとでもあの雰囲気が出せるように地道にベーシックリズムを創っていきました。
 この頃出会ったドラマー(今も一番好きなドラマー)が「Live Under The Sky」で「Cantaloupe Island」(一番好きな曲)をやっていたオマー・ハキムでした。
これをきっかけにFunkビートにはまっていったのでした。
この頃は連打を少しでも速く叩くことなんかも練習してて,シングルストロークで1小節に32連打(テンポ60)を入れたりもできました。(力業ではなく)
 この年はいろいろなビートパターンの練習や全体のレベルアップに結構力を入れてた気がする。
 後,他のロックバンドにサポートで参加したこともありました。

Pannonica(パノニカ)

 この年,もう一つ大きな出来事がありました。
それはコンボで定期ライブを行えるようになったこと。
昔からウチの部がお世話になってきたJazz喫茶で有名な
「Pannnonica」というお店がありました。
ここでは,それまで毎週金曜日にプロのソロピアノが行われていました。
4月にそのプロの人が全国ツアーに出るのをきっかけに,いくつかのアマチュアバンドがプロに代わって演奏をすることになりました。
その中にウチの部もピックアップメンバーで参加させてもらいました。
 このパノニカでのコンボ演奏は,ボクの演奏に対する考え方にとても大きな影響を与えました。
このころから必ず事前に2週間ほど練習し,少しでもいい演奏をできるように仕込みを入念にするようにしてました。
お客さんからもいろんな反応が返ってきました。
すごく喜んでもらえたこともあったし,ぐだぐだと説教をされたこともありました。
ただ,怒られるのには慣れていたので全然平気だった。
 常連さん達も結構細かい所を聴いてたりして,「今回はあーだこーだ」なんて言ってくれたりした。
楽しみにしてくれてる人なんかがいたりしたので,「今度はこんなことやってやろう」って仕込みをしたりするのが楽しくてしょうがない日々でした。
 この店では,いろいろなレコードを聴かせてもらったり,月に1,2回あるプロ(東京なんかからかなり有名な人達が来てた)のライブにもよく行ってました。というか毎回行ってました。
特にプロの人達はパノニカでライブをやるときにはのびのびしてて,かなり楽しいライブが多かった。(そういえば打ち上げに混ぜてもらったりもした)
 このパノニカでは卒業後も自分のバンド「Three Men」で演奏させてもらってました。
残念ながら,パノニカは2000年の4月で閉店してしまいましたが,最後まで楽しませてもらいました。
 ちなみに今は別の人が同じ場所でパノニカ(こちらはカタカナ)というお店をしてます。
開店のときに「パノニカ」という名前を使うことにはかなり反対もあったようですが,「パノニカ」という名前と演奏ができる場所を残したいというオーナーの考えで,食事主体で演奏もさせてもらえるお店として営業してます。
結局そこでも毎月第2金曜にライブをさせてもらってます。
食事主体なので,音量や曲調など制約も多いのが現状ですが,ボクとしては制約が多い分,テクニックや表現力の面でかなり上達できたと思う。
(たまにはでかい音量でドラムを叩きたいこともあるけど・・・。)

やりたいことをやらせてもらった5回生

 この年,メンバーの中で最年長。バンマスは同学年の森脇。
「ビックバンドを操るのはバンマスの指揮ではなく,ドラムの1音」とよく言われますが,メインドラムが長くなるとメンバーのクセなんかも分かってて,こう叩くとこう乗ってくるとか分かっちゃうわけで,この年は(森脇の許す限り)かなり自分の好みでビックバンドを操っちゃいました。
 バンマス森脇もやさしいから,かなり自由にしてくれました。
ドラムの見せ場のある曲を選んでくれたり(フェスティバルでもドラムソロやらしてもらったりした),よく話も聞いてくれた。
そんな森脇に答えるべく,エンターテイメント的な技からビックバンドを操る方法まで,いろんなことを考えたし,試させてもらった。
もちろん練習もたくさんやった。
 このころになると,コンボの練習もビックバンドの練習も境目がなかったので自分のテクニックを磨くといった感じだった。
 練習の中で心がけていたことはすべてを後輩にばらすこと。
今自分ができること,そのテクニックができるようになる練習や考え方,フレーズの作り方など(スティック回しとかも)。
 後輩がうまくなれば,抜かれないために自分ももっと練習しないといけないと思えるため。
新しいことをするのはアイデアを思いついて,その練習法を考えて,と結構時間がかかるんだけど,それはハンデ。
この考え方は自分の中では成功したと思う。
 後輩に新しいことを見せるために,日頃からビデオやライブをみてヒントを探したり,パズル的にフレーズを創ってみたりするクセがついた。
 そして,新しいことを思いつくとすごく練習した。
5年生だけど,多いときで昼から夜まで9時間くらい練習したときもあった。
心の中には「口先だけの先輩になりたくない」という気持ちも多少あったけど,それよりも伸び続ける自分の姿をみんなに見てもらいたかった。 

外へ

 この年,もう一つ新しいことがあった。それはアルバイトを始めたこと。この会社,中にはいると子供たちの好きなヒーローものの玩具なんかがたくさんある。
会話も「今回のセーラームーンのコスチュームは」とか「あのキメのポーズの」。
なんてマニアック。下には道場があって「おりゃー」とか声が聞こえるし。支社長は昔プロレスラーの腕を折ったとか折らないとか。
 実はこの会社,ヒーローものを中心としたイベント会社で
その名も「HERO」・・・そのまんまじゃん。
しかし,音楽にどっぷり浸かってるボクが仮面をかぶって「おりゃ〜」とか言ってもしかたない。(何度か誘われたけど)
 というわけで(どういうわけだ?)ココにある音楽部門でアルバイトを始めたのである。ココでの曲はアニメソングや童謡そしてたまにロック。練習も1,2回やって本番だから8ビート苦手だったので曲憶えとか結構大変。2年間で結構いろんなことができるようになったかな。ドンカマに合わせてやるってのもいい経験になった。
 で,初めての本番前日「明日のステージ衣装なんだけど,試しといた方がいいよね。」といって出てきたのはなんと
ペンギンのぬいぐるみ!?
(しかもご丁寧に耳のトコには聞きやすいように穴が空いてる。)
しか〜し,ボクもそういうの
好きだったりするんだな! 
(そういえば自分の食倒れ人形の衣装を持っていったこともあった)
というわけでスタジオ内でペンギンの頭とデッカイ靴だけ付けてドラムを叩いたのでした。この光景,外から見た人はびっくりしただろうな。この頃の写真が残ってないのがひじょーに残念。
 ぬいぐるみでの演奏は初めの1年間は多かったけど,徐々に減ってきて素面(普通の格好)の方が増えてきたかな。ちょっと寂しかった(笑)けど,いろんな所でいろんな演奏ができたし,いろんな人とも知り合いになれて面白かった。
 リーダーの人がすっごくいい人で演奏以外の待ち時間や行き帰りの車の中とかもめちゃめちゃ楽しかったな。
 高校以来8ビートから遠ざかっていたんだけど,8ビートってやっぱり楽しいなと思えた。そしてこの頃,ジャズが叩けるペンギンは他にはいないと変な誇りも持っていたのでした(笑。