第二十二話 「カゴノトリ」

***1***



「え、秋葉ちゃんが主役?」
 おかずの天ぷらを箸で摘み上げながら、夏生さんはさも意外そうに聞き返してきた。
「……そんなに意外ですか」
 私もごはんを口に運ぶ手を止め、心持ちジト目気味に夏生さんを見返す。
 彼女は慌てて手を振ってみせながら、
「え? あ、違うの。どっちかというと、すごくハマってるなぁって思って」
「主役なんて、お姉ちゃんにぴったりですよね」
 にこにこ顔でそう言う小春は、どこか誇らしげだった。
「きっと、とってもかっこいいですよー。ううん、絶対っ」
「そうねぇ」
 やや興奮気味に語る我が妹に対し、夏生さんが微笑みながら相槌を打つ。
 ここまで言われては、さすがに私も悪い気はしなかったけど。
 でも、なんだかなぁ。
「たまたま脚本担当のイメージと重なってただけですよ。それに私から言わせてもらえば、千歳ちゃんの方がよっぽど主役っぽいし」
 とりあえず謙遜しておく。
 でも、言葉の後半は嘘じゃない。ビジュアル的にも性格的にも、千歳ちゃんの方が舞台映えするのは間違いない。
「うーん……千歳ちゃんはダメだと思いますよ」
 と、こちらの思考を否定するように、小春が難しい顔をして見せた。
「なんで?」
「千歳ちゃん、ああ見えてすごくあがり症ですから……」
「ああ……」
 言われて、なんとなく納得した。
 確かにああいうタイプの子は、いざという時に緊張して何もできなくなりそうだと思った。
 そのくせ、先日は痴漢魔相手に真っ向から薙刀振り回してたけど……。
「千歳ちゃんって」
 小首を傾げながら、夏生さんが口を入れてくる。
「あの背の高くて綺麗な子?」
「ええ」
 私は頷いた。
 千歳ちゃんは何度かウチに遊びに来ている。そのときに夏生さんと顔を合わせていたはずだが、よくよく思い返してみれば二人の接点はそれだけだ。二人が面と向かって話をしたことは一度もない。
 夏生さんと、千歳ちゃん。
 二人の会話には、酷く興味が沸いた。
「……また今度、連れてきますよ」
 小春ではなく、私がそのセリフを口にする日が来るとは夢にも思わなかったけれど。

 ――今の千歳ちゃんには、以前ほどの刺激はないが。
 ――今の千歳ちゃんだからこそ、夏生さんに会わせてみたかった。

「あらあら、ほんとに? だったらおいしいもの作ってお迎えしなきゃね」
 そう言ってお箸を振り回してみせる夏生さんは、とても嬉しそうだった。
 そんな彼女を見つめながら、小春がにやにやしている。何を考えているのか手に取るように分かったが、一応訊いてみる。
「……どうしたの?」
「なんだか、夏生お姉ちゃんってお母さんみたいだなぁって思って」
 小春の返答は、私も考えていたことだ。
 もっともそんな可愛らしい言葉の羅列ではなく、”すっかりこの人おかん役が板についてきたなぁ”、といった感じだったが。
 夏生さんもまんざらではないようで、頬を照れで朱に染めながら、
「ありがとう。でも、おばさまにはちょっと悪い気がするかなぁ」
「小学生の娘二人をほっぽって仕事に明け暮れてるような人よりは、よっぽど母親らしいと思いますけどね」
「……そんな言い方したら駄目よ、秋葉ちゃん。おじさまもおばさまも、とても忙しい方なんだから」
「そもそも、父親の稼ぎだけで事足りてるのに、どうして共働きする必要があるんだか」
 しかも二人揃って日本自体にほとんど帰ってこないという有様。
 母親はまだ国内での仕事も多いようだが、父親に至っては完全に海外に単身赴任状態。日本に帰ってくるのは年に一度か二度しかない。
 そんな旦那の元に、母親が時々、会いに行っていることも知っている。
 娘よりも、夫の方が大事なのだ。あの人は。
「そんな一生懸命な二人だからこそ、お互いに惹かれ合ったんじゃないかしら」
 きっとそれが二人を繋いでいる絆なんだと思う――夏生さんは、そう付け足した。
 夏生さんらしくない回答だと、私は思った。
 仕事に追い回されて必死にならなければ繋ぎ止めておけないような絆なんて、ただ不安定なだけじゃないのか。
 そう思ったけど、口には出さない。
 私にはどうでもいいことだからだ。別に拗ねているからとか、そういうわけではない。
 心の底から、本気でどうでもいいのだ。
 それでもあの両親に憤ってしまうのは――小春は、そういうわけにはいかないから。
 二人が帰ってこないことで小春が寂しがっていることと、私ではその代わりにはなれない――いや、あの二人よりも優位に立つことができないということ。
 その両方が、私を苛んでいる。
「それとね、この間、おばさまと電話で話したんだけれど」
 お茶碗の上にお箸を置いて、姿勢を正しながら夏生さんが告げてくる。
「おばさま、小春ちゃんが卒業する頃には仕事を辞めて、ずっとこっちにいることにするって」
「夏生お姉ちゃん、それ本当ですかっ!?」
 ばんっ、と小春が机に手をついて立ち上がり――その振動で吸い物が波打って、少しテーブルの上にこぼれた――、夏生さんの方に詰め寄った。
「ええ。まだはっきりとそう決まったわけじゃないから、口止めされてたんだけれど……口が軽いのは私の悪いところね」
「悪くないです、夏生お姉ちゃん大好きっ」
「えと、小春ちゃん? そこは私を好きになるところじゃないと思うけど」
 いきなり小春に抱きつかれて、夏生さんは戸惑いながらも微笑んでいた。

 ……日比谷夏生。
 十七歳。
 彼女が片目を失ったのは……十の時だったか。
 あれから七年。
 私もあと五年すれば……彼女のように変わってしまうのだろうか。

「……秋葉ちゃん、どうしたの?」
 私にじっと見つめられていることに気づいて、夏生さんが少し気を遣うように声をかけてくる。
 私はかぶりを振って、
「いえ、別に」
 とだけ答えた。
「そう」
 夏生さんも、ただそれだけ。
 それから彼女は優しく小春を引き剥がし、
「ほら、先のことなんてどうなるかわからないんだから、とりあえずごはん食べてしまいましょう。冷めるとおいしくなくなるからね、天ぷらって」
「あ、そうですね、ごめんなさい」
 そう謝りながらも、席に戻る小春の顔はご機嫌だった。
「ええと……大分、話が逸れちゃったけど、何の劇をやるの?」
 お箸を持ち直して、夏生さんが訊いてくる。
「ニーベルンゲンの指輪です」
 私は答えた。
 それに対して、夏生さんの反応は――
「……ということは、秋葉ちゃんの役ってブリュンヒルデ?」
「夏生お姉ちゃん、知ってるんですか?」
「うん、そのオペラ、見たことあるから。でもあれって、小学生には難しくないかな?」
「そのへんは脚本担当がいい感じにアレンジしてくれると思いますから」
「そっかぁ。それで、文化祭っていつやるの?」
「十二月最初の土日で、劇は二日目ですから……」
 と、私はテレビの上に置かれたスタンド型のカレンダーを見やる。
「五日、ですね」
「日曜日ね。もちろん、招待してくれるんでしょう?」
「はいっ」
 大きく小春が頷く。
「夏生お姉ちゃんの方は大丈夫ですか? 何か用事があったりとか」
「次の日は期末試験があるけど、大丈夫よ」
「し、試験って……無理しなくていいんですよぅ?」
「平気平気。大体、テストって前日に頑張っていい点を取っても意味がないのよ。それまでの積み重ねを計るものだからね」
「夏生お姉ちゃん……いつもテスト前は大慌てで『勉強しなきゃー』って言ってたような……?」
「人生、開き直りが大事なのよ、小春ちゃん」
 そう言って胸を張ってみせる夏生さん。
 小春は、ぷっ、と噴き出して、
「なんだかお姉ちゃんみたいです」
「秋葉ちゃん?」
 きょとんとした顔で、夏生さんが私の方を見てくる。私もつられて、彼女の方を。
”三つ”の視線が絡み合う。
 しばらくして、
「そうだね」
 こちらから目を逸らしながら、彼女は儚げに微笑んだ。



***2***



 ぴちょん。
 小さな、小さな水音。
 風呂場という狭い空間の中では、そんな微弱な音でも大きく、反響して聞こえる。
 洗面器に溜めたお湯に映る自分の顔を覗き込みながら、私はこれまで歩んできた道のりを思い返していた。
 最初にこの手で掴み取ったのは罪だった。
 厳密には罪ではないのかもしれない。使命という名のオブラートで包めば、それは正義にすら成り得た。
 罰を与えられないことが約束された罪を、果たして罪と呼べるのかどうか。
 それでも、罪は罪だ。
 もう何度も自問してきたことだ――今更、どう曲解したところでただの言い訳にしかならない。
 次に、私は逃げ出した。
 他者からの攻撃、支配、束縛、略奪。それら諸々、私を苦しめる全てから。
 これは言葉通りの意味だ。それ以上でも以下ではない。
 問題は、罪を犯したことと、逃げ出したこと――どちらが先で、どちらが後なのか。
 そして私はまた、ここに立っている。
 逃げ出したままで良かったのに。
 そうすれば、全ては終わったのに。
 どうしてそうすることができなかったのか、痛いくらいに私は理解していた。
 だから、こんなにも――胸が苦しい。
「確かなもの……か」
 つぶやいてみる。
 水滴の落ちる音よりも小さいその声でも、この空間は容赦なく震わせた。
 いつから気づいていたのだろう。
 夕暮れ。
 血のような赤い光に包まれたあの教室で、彼女と出会ったあの瞬間から。
 いや、もしかすると逃げ出す以前から。
 あるいは、それよりももっと前から、私は理解していたのかもしれない。
 生への渇望を。
 その正体について。
 私は――

「秋葉ちゃん」

 突然。
 夏生さんに呼びかけられて、私の意識は強制的にこの世界へと引き戻された。
 磨りガラスの戸の向こう側に、彼女はいた。
 ガラスに浮かんでいる肌色のシルエットは、彼女が一切の衣服を身に纏っていないことを表していた。
「私も一緒に入っていい?」
 夏生さんからの申し出。
 断るべきだ。むしろ、断れるだけの理由があった。
 だがそうするためには、いくつかの白々しい嘘を並べ立てなければならない。
 なのに。
「……どうぞ」
 私は、受け入れた。
 嘘をつくのが億劫だったということもある。何より、彼女が小春抜きで、私と一緒にお風呂に入りたいと言ってきたのはこれが初めてのことだった。
「失礼します」
 がらがら、と背後からガラス戸の開く音――ぴしゃん、と閉じる音。
 中に入ってきたまま、夏生さんは動く気配を見せない。
 何もせずに座って洗面器を見下ろしている私の姿を怪訝に思ったからだろうか。
 咄嗟にシャワーを出して髪の毛でも洗っていれば、自然を装えたかもしれなかったが。
 彼女相手に、そんなことをして取り繕う理由が見あたらなかった。
「今日は」
 夏生さんの声と同時に、ざば――と水がタイルを叩く音がした。浴槽のお湯で掛け湯をしたのだろう。
「小春ちゃんとは一緒じゃないのね」
「生理だそうですから。後で一人で入りたいそうです」
「なるほど。秋葉ちゃんはまだなんだっけ?」
「はい」
「そっか」
 何度か掛け湯を繰り返して、そのまま湯船に浸かるかと思いきや、彼女は私のすぐ背後に座った。
 背中から、抱き締められる。
 夏生さんの豊満な胸の弾力。首に回された腕は、見た目の細さからでは想像もつかないほどに柔らかい。耳に当たっているのは――彼女の頬だ。
 洗面器に、私の顔と夏生さんの顔が並んで映る。彼女の右目を覆っている眼帯は、普段つけているやつより面積の広いものだった。それが入浴用の眼帯であることは、表面のビニール質の光沢を見ればすぐに分かった。
 彼女に残された左目が、洗面器の水の中で薄く笑う。
「洗ってあげる」
 夏生さんの手が、シャワーの蛇口をひねった。
 勢いよく、壁に掛けられたノズルから水が噴き出る。
 その冷たさに、反射的に身を反らせてしまう。徐々に温かくお湯へと変じていく水に身体を打たれながら、私は全身の力が緩和していくのを感じていた。
 一瞬の冷水に感覚までもが遮断されていたのか、いつの間にか夏生さんの手が私の胸の上に置かれていた。
 膨らみと呼ぶにはあまりにもなだらかすぎるその表面を、彼女は触れるか触れないかの間隔でそっと上下に撫でてくる。
「んくっ――」
 とても自分のものとは思えない艶のある声が漏れたことに、驚く。
 何より、こんなふうに感じることができるまでにこの身体は成長していたのだということに私はびっくりしていた。
「まだ生理も来てないっていうのに」
 首筋を、夏生さんの吐息混じりに、ぬらりとしたものが這う。
「いやらしい身体」
 彼女の指が私の胸から離れ、お腹と足の付け根を交互に愛撫する。
 そして不意打ちとでもいうかのように、二本目の指が私の”線”をなぞった。
「ひんっ……!」
 咄嗟に声を押し殺そうとしたが、失敗した。
 途中で喉を締めてしまったせいで、だらしのない嬌声がこぼれ出た。
 少し……恥ずかしかった。
「顔を上げて」
 ほとんど無意識的に、私は言われる通りに視線を上げた。
 あくまでも私の身体を弄りながら夏生さんは、空いた方の手でちょうど足下に転がっていた石鹸を持ち、それを壁に取り付けられた鏡に擦りつけた。
 湯気で曇っていた鏡の視界が、クリアになる――
「ほら、よく見て」
 鏡に映る夏生さんの顔と――自分の、顔。
 女性としての刺激を必死に耐えようとしている、健気な私の顔がそこにあった。
「どう? ずっと見たかったんでしょう?」
 石鹸のついた手で、私の胸を撫でてくる。その間、もう片方の手はずっとペースを一定に保ったまま、私の女性を愛で続けていた。
「小春ちゃんの、こんな顔を」
「――――!」
 脳が、揺れた。
 ただでさえずっとシャワーを頭から浴び続けているせいで、まともな思考が働かなくなる。それに比例して、首から下の感覚が研ぎ澄まされていく――

「あっ――――」
 その瞬間、石鹸ではなく。
 私の中から溢れた粘質が夏生さんの指に絡みついていくのを、確かに感じた。

「駄目、私――」
「何が駄目なの?」
 意地悪な笑みを浮かべて、夏生さんが訊いてくる。
 それでも刹那的な快楽に眉目をしかめるしかない自分の顔に、急に腹が立ってきた。
”線”の奥に、彼女の指の先端が沈む。
 たったそれだけのことで、私の中の憤りは全て霧散した。
 我慢していたものも、何もかも。
「――あ――」
 下半身を満たす開放感。
 シャワーの音に紛れて、別の水音がタイルを叩いている。
 夏生さんの指と手のひらに当たって跳ね返ってきた”それ”が、私のお腹のあたりにかかっているのを感じた。
 匂いは、よく分からない。
 石鹸の香りの方が強いような気がした。
 鏡の中に映る自分の、なんてだらしのない顔。
 小春なら、泣いていただろうか。
 そんなことを考えながら、私は今、自分が何をしてしまったのかを意識の底に沈め、頭の中を空白で満たした。



***3***



「後悔してる?」
 今度は普通に私の頭を洗いながら、背後から夏生さんが問いかけてきた。
 シャンプーが目に入ってしまうので、鏡越しに彼女を表情を窺うことはできない。
 それでも、なんとなく想像はできた。
「……さっきのことですか」
「違うわ。それのことだったら、私があなたに訊くのは間違ってるでしょう」
「そうですね」
「私が訊いたのは、二つの意味で。ひとつは、劇の主役を受けたこと。もうひとつは――」
「後悔なんてしていません」
 もうひとつの意味は聞くまでもなかった。だから、口早に答える。
「本当に?」
「――と、少し前の私ならそう答えていたと思います」
「でも今は?」
「辛い」
 辛い。
 こんなに辛いなんて、思ってもいなかった。
 それでも、小春がいたから。千歳ちゃんの敵意による刺激があったから、この苦痛を紛らわせることができた。
 けど。
 今日、千歳ちゃんと手を繋いで。
 小春も含めて三人で歩いて。
 ささやかな幸せの中に身を置いて。
 改めて――というより、初めて、私は自分が何であるのかを自覚してしまった。
 劇のこともある。
 たとえお芝居とはいえ、私が受けた役を演じることには正直、抵抗があった。
 否応なく、私に思い出させてくれる。
 それが、辛い。
「私はね」
 囁きながら、夏生さんが耳の裏のあたりを優しくマッサージしてくれる。
 気持ちよかった。
「最初の頃は、気が狂いそうだった。片目はこんなだし――何より、私を取り巻く環境が普通じゃなかったから」
「…………」
 かけるべき言葉が見つからなかった。
 敢えて言える言葉があるとすれば――ごめんなさい、くらいだろうか。
 そんな曖昧なセリフを彼女が望んでいるはずがない。
 だから、それは胸の奥に押し込めた。
「でも、大切なものができた。守りたいものができたから――私はこうして、ここにいる」
「それは――」
 私と小春のことですか、とは訊けなかった。
 それを訊くに値する資格を、私は持ってはいない。
「小春、ですか」
「あなたもよ、秋葉ちゃん」
 夏生さんの指が、前髪の生え際の方に移動する。
 耳の裏を洗っていたときよりも心持ち優しく揉んでくれる。
 気持ちよかった。
 さっきの行為より、ずっと。
「後悔なんてしてないわ。だって、ああしなければ私は今、ここにはいないし、秋葉ちゃんだっていない。今の小春ちゃんは、秋葉ちゃんあってのものだと思うし」
「私は小春を傷つけました」
「ただ不器用だっただけよ。そうまでしなければ、あなたは小春ちゃんを愛してあげることができなかったから」
「あの子は私を愛していてくれた。そんな相手を、私は傷つけたんです」
「小春ちゃんは、一度でもそのことであなたのことを責めたりした?」
 答えの分かり切った問い。
 そんな質問をしてくる夏生さんは、やっぱり私と同じで卑怯だ。
 私は首を横に振ってみせた。振るしかなかった。
「私もそう」
 薄目を開けて、鏡を見る。
 夏生さんは微笑んでいた。
 ひとつしかない目で、世界中の誰よりも優しく。
「辛かったけど、誰も責めようとは思わなかった。ううん、責める相手なんて、初めからどこにもいなかった。むしろ感謝したいくらい」
「夏生さんは」
 思わず、つぶやく。
 普段なら、絶対に口にはしない言葉だ。自制をかけて、喉の奥に蓋をする。
 自制していないわけではなかった。気が緩んでいたわけでもない――と思う。それでも漏れてしまったのなら、もう全てを委ねてしまってもいいだろう。
「幸せなんですね」
「うん」
 夏生さんが頷いたのが、気配で知れた。
 顔は見たくなかったから、きつく目を閉じた。
 見れば、どうなってしまうか分からなかったから。
 それが身体まで強ばらせてしまっていたのだろう。私の心境を悟ってか、夏生さんは私の頭から手を離した。
 きゅっ――と、蛇口をひねる音。
 明らかに出し過ぎな勢いで、シャワーから噴き出すお湯が私の身体を打った。
 肌には、心地の良い無数の痛み。
 全開にしているのだろう、周囲の空気すら曖昧にするほどの水音が、浴室を響かせていた。
 再び、背中に夏生さんの胸の感触。
 だが、さっきのとは全然違う。
 確かな慈愛に、私は抱き締められていた。
 耳元で。
「泣きたい?」
 そう、囁かれた。
「……うん」
「聞いててあげるね」
 心が――決壊する。
「うわあああああああああああああああああああああああああああっ!」

 シャワーの音では誤魔化し切れないほどの絶叫が。
 浴室を、夏生さんを、私を――多分、居間にいるはずの小春を、震わせた。



***4***



「小春、そろそろ電気消すわよ」
「あ、うん」
 私が声をかけると、モニターに向かって目を凝らしていた小春ははっと我に返ったようにこちらを一度振り向いてから、何やらマウスとかいう物体でカチカチやってパソコンの電源を落とした。
 きゅぃーん……と不細工な犬の鳴き声みたいな音を立てて、完全に停止する。
「画面に目を近づけすぎよ」
 私が指摘すると、小春はわざとらしく「えへへ」と笑って、
「小さいモニタで大きな解像度で使ってるから、どうしてもやっちゃうの」
 ふむ。
 まったくもって妹の言葉は意味不明だった。
「大きいモニタを買えばいいじゃない」
「うん、今度お母さんが帰ってきたら甘えてみるつもり」
 言うようになったね、我が妹よ。
「まぁいいけど。ちゃんと歯、磨いた?」
「うん」
「トイレは大丈夫?」
「大丈夫……だと思う」
「おもらししたら罰ゲームね」
「しないよっ!」
 可愛らしく肩をいからせて憤る小春。
 さっき私がナニがアレってしまったことは、胸の内に秘めておく。
「じゃあ電気消すわね」
「うん」
 ぱちん、とスイッチを押すと同時に、部屋に暗闇が満ちる。
 淡い白熱灯に切り替えることもできるのだが、私と小春の場合、真っ暗な方が落ち着いて眠ることができるのでつけない。
 小春が先にベッドに潜り込む。もぞもぞと私の寝るスペースを開けて、どうぞ、という合図とばかりに、私が入りやすいように布団をひらりとめくってくれる。
 小春が用意してくれた場所に身体を横たえ、二人で布団の位置を調整する。私はあまり好きではないのだが、唇の下ぐらいまで布団を被るのが小春のベストポジションなので、それに合わせた。
「今日は疲れたねぇ」
 はーっ、と小春が軽い溜息をつく。
 私もそれにつられて、小さく吐息。
「そうね。無駄に色々あった気がするわ」
「みやちゃん、あれって本気なのかなぁ」
 ……もう寝る前だというのに、嫌な名前を思い出させてくれた。
「どうだかね。まぁどうであれ、応えるつもりはないけれど」
「あのね、わたし、みやちゃんのこと見てて思ったんだけど」
「うん?」
「ほんのちょっぴり――ほんと、ほんのちょっぴりなんだけど、怖い、って思った」
 怖い、か。
 この子が同じ学校の生徒――それも下級生を相手にそんな言葉を持ちだしてくるなんて、思いもしなかった。
 だけど。
「小春が感じている怖さとは違うと思うけれど……そうね。そんなようなところはあるかも」
 千歳ちゃんを挑発していたあの未耶の態度。
 あのとき彼女が垣間見せたのは、裏の顔だったのか。
 それともあれが彼女の本当の顔で、私に抱きついたりしてはしゃいでいた方が欺瞞なのか。
 なんにしろ、早急に対処しなければならない相手には違いなかった。
「しばらく様子を見るわ。状況次第ね」
「そっか」
 と、小春は布団の中で小さく身じろぎしながら答えた。
 それっきり、無言。
 どことなく気まずい沈黙だった。
 目を閉じて寝てしまおうか、それとも小春に何か話しかけるべきか迷っていると、
「ねぇ、お姉ちゃん」
 小春の方から口を開いてきた。
 内心、どきりとしながら、次ぐ言葉を待つ。
「千歳ちゃんと仲良しになれて、良かったね」
 なんだ、そっちか。
 と、密かに安堵の息を漏らして、私は苦笑した。
「あれはどうなんだろうね。あの子の考えてることは私にはよく分からないから」
「お姉ちゃんも千歳ちゃんも、なんだか楽しそうだったよ?」
「恥ずかしくて照れてただけかもしれないわよ」
 三人で手を繋いでいる間、見知らぬ通行人ばかりでなく、同じクラスの子にまでその様子は目撃されている。足早に立ち去られてしまったが、あの横顔は間違いなく笑っていた。
「……楽しくなかった?」
 どことなくしゅん、とした声。
 横目で小春の顔を確認してみる。
 そこには、いつもと変わらぬ微笑みがあった。
 眼差しは、少し微睡みかけてすらいた。
「……楽しかったかも」
 曖昧に、答える。
「素直じゃないなぁ、お姉ちゃんは」
「素直じゃないお姉ちゃんは嫌?」
 悪戯心を刺激されて、私はついそんな質問をしていた。
 布団の中で、小春が身体を横に向ける。
 こちらの方へと。
「だいすきだよ」
 心臓が、跳ねた。
 私はまるで誰かにそうしろと脅迫されたかのように妹を抱き寄せて、その胸に顔を押しつけていた。
「っ……! お姉ちゃん……?」
 いつもなら私がこういうことをすれば過剰なまでに反応してみせる小春だったが、今回は少し違った。最初に息を飲んだだけで、その後は大して動揺もなく、されるがままになってくれる。
 ふと、鏡に映った自分の顔を思い出す。
 彼女の姉ではなく、女としての自分の顔。
 ぐい、と強く小春の胸に顔を押しつける。
 見られたくなかった。
 今、自分があんな顔をしているわけではなかったが、どうしても小春に顔を見られたくなかったのだ。
「頭、抱いて」
「こ、こう?」
 少しぎこちなくはあったが、小春は要求通り、優しく私の頭を両腕で包んでくれた。
 ふわり、と石鹸の匂いが鼻腔を満たした。
 それだけで。
 なんだか、泣きたくなってきた。
「背中、叩いて」
「……こう?」
 ぽん、ぽん、と一定のリズムで、小春の手が私の背筋のあたりを叩く。
 これでいい。
 後は、涙を自制するだけだ。
「……ごめんね。もし小春が寝付けないようだったら、私のこと突き飛ばしてくれていいから」
「寝付けなくてもいいよ。そしたら朝までずっとこうしててあげる」

 ぽん、ぽん。
 ぽん、ぽん。
 ぽん、ぽん。

 ――じわり。

 目元に、湿り気が拡がる。
 小春の手は止まらない。
 涙も、止まらない。

 小春のパジャマをぎゅっと掴んで。
 背中を叩く手が止まり、すぅすぅと小さな寝息が聞こえてくるまで。
 お風呂場で泣き叫んだことは小春も知っているはずだけど。
 それでも私は、必死で嗚咽を堪え続けた。



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