第二十一話 「何もかもが今更で」

***1***



 放課後のこと。
「文化祭まであと二週間と五日。準備期間に長い時間は割けないから、明日にでもそれぞれの役割を決めて、練習に入ってもらうわ」
 六年二組の教室に集まる少年少女。
 ざっと数えただけで三十人超――小春のクラスからも何人か参加しているので、いくつか見覚えのない顔もあった。
 劇の打ち合わせのために、日向と崇が招集したのだ。
「従って、怠けている人には然るべき制裁を与えます。これは遊びじゃないわ。それを肝に銘じておきなさい」
 教壇に立って偉そうに熱弁を奮っている日向が、適当な席に腰かけているみんなの顔を見回す。
 確かめるように――推し量るように。
 たっぷりと全員の顔を観察した後、彼女は満足げにつぶやいた。
「いい顔してるわ……あなたたち」
 ……私からしてみれば、どいつもこいつもやる気で満ち溢れているような顔には見えないのだが。
 少なくともやる気なさそうな顔をしている奴はいないようだったが、それでも感慨深げにそんなセリフを吐くほどのものでもない。
 ただ単に、そう言ってみたかっただけちゃうんかと。
「さて、あたしたちがやる劇はとても難しいシロモノよ。ぶっちゃけあたしもよく知らないわ。にーべなんちゃらの指輪だっけ?」
「ニーベルンゲンの指輪だよ」
 日向の傍らで書記係を務めていた恵理ちゃんがすかさずフォローを入れる。
 あははは、と笑って、日向は何事もなかったかのように話を続けた。
「そう、ニーベルンゲンの指輪よ。アレがこうなってああなるっぽい話らしいわ。とにかく大変みたいだから全力で頑張るように」
「えっと……わたしが説明していいかな?」
「……どぞ」
 と、おとなしく恵理ちゃんに場所を譲る日向。そのまま教室の端まで行って、体育座りで床の上に腰を下ろす。自分の膝に指を這わせているその姿は、なんだかもの凄く惨めだった。
 あなたなんて、所詮その程度なのよ、日向。
「この劇は元々、神話をモチーフにワーグナーが二十六年もかけて完成させたオペラなの。多分、こう言うとみんな難しそうだなーって思うかもしれないけど、そこはみんなが分かりやすいように台本を調整するので安心してください」
 丁寧に黒板に「ワーグナー」だの「オペラ」だのキーワードを書きながら、控えめな声で恵理ちゃんが説明する。
「簡単に言うと、呪われた指輪を巡って神さまたちが争うお話なんだけど、わたしたちがやる劇ではブリュンヒルデとジークフリート――登場人物の名前なんだけど、その二人のラブストーリーに重点を置いていきたいと思ってます」
 ラブストーリーという単語に、自分で言っておいて恥ずかしくなったのか、恵理ちゃんはほんのりと赤面した。
 前髪と眼鏡で顔を隠すようにうつむきながら、しかしさっきまでより大きめな声で続ける。
「本当は四部構成になっていてすごく長い劇なんだけど、それも余計なところは削って、なんとか五十分以内にまとまるようにするつもりです。一年生の子たちが見ても楽しめるように、出来るだけアクションを多めに入れていきたいと思ってます」
 そこで教室の扉が開いて、
「失礼します」
 千歳ちゃんが入ってくる。恵理ちゃんの説明が一区切りつくのを外で見計らっていたのか、凄く良いタイミングだった。
「委員会の方には申請を出しておきました。あと、月代先生も担当についてくださいました」
「ありがとう、佐倉さん」
「いえ。それより予算の方なんですが、思ったより厳しい数字でした。もう活動を始めているグループがあって、そこに優先的に回されてしまっているようです。交渉はしてみたんですが……良い返事はもらえませんでした。申し訳ありません」
「わたしたち、ギリギリの駆け込みだししょうがないよ。小道具とか衣装とか、みんなが持ってるのでいらないものをリサイクルすればなんとかなると思うし。佐倉さんが謝ることじゃないよ」
「……はい」
 そう頷いてみせるが、千歳ちゃんはまだどこか納得し切れていないようだった。
 ほんと、真面目だねぇ、千歳ちゃん。
 それから彼女は空いてる席を探し、目線を左右に漂わせ――
「さーくらせんぱーい、こっちあいてますよー」
 私の隣から上がった脳天気な声に、露骨なまでに千歳ちゃんは顔をしかめた。
 彼女は不機嫌になると澄まし顔になる。分かりやすいのは結構なことだが、見ていてかなり怖いものがあった。今まさにそんな顔をしている。
「こっちこっちー」
「…………」
 千歳ちゃんは無言でつかつかと歩き、声の主の隣にわざとらしく音を立てて座った。彼女にしては珍しい――が、それは隣に向けての威嚇のようなものなのだろう。
「あ、女の子がそんな座り方しちゃ駄目ですよぉ。さくら先輩、意外とはしたないんですねー、きゃはは」
 しかし、大して効果はなかったようだった。
 千歳ちゃんのこめかみに青い筋が浮かんでいるのが見えたような気がした。
 ついでに言えば、私はさっきからずっと血管浮かびっぱなしなわけだが。
 教室に異様な空気が張り詰め、沈黙が訪れる。
「えーと……配役の取り決めは後日にしようと思うんだけど、主役だけ今、決めてもいいかな?」
 どのくらいみんな黙っていただろうか、しばらくしてその空気に耐えられなくなったのか、頬に冷や汗を一筋垂らしつつ、恵理ちゃんがその沈黙を破った。
「誰か立候補する人はいない?」
「具体的にどんな役なんですかー?」
 メンバーの中から質問の声が上がる。
「あ、ごめんなさい、先に説明しとくべきだったね。ブリュンヒルデはワルキューレ――九人の女性だけで構成された騎士みたいなものなんだけど、その長女なの。ジークフリートは神さまが人間との間に作った双子の兄妹の間にできた子供で、英雄として神さまに育てられるの。ちなみに男性ね」
「それだったらジークフリートは崇で決まりだろー」
「え、俺?」
「英雄なんて、お前以外に誰が演れんだよ。大体、お前が主役じゃなきゃ女子が納得しねーって」
 そのとき、女子連中から「男子わかってるじゃーん」という言葉と共に黄色い声と拍手が沸き起こった。
 それに対抗するように、男子から崇をからかうような声が飛び交う。その内容は、「てめー崇、いっつもお前ばっかりいい思いしやがって」とか「もう女子全員と結婚しろよちくしょう」とか「黒チン絶好調だな」――などなど。
 さらにそれに対して、「崇くんのは黒くないもん!」だの「ちっちゃくてちょっと皮かむっててひくひくしてるんだよ!」だの「ピンクでかわいいし毛も生えてないし汚くなんか(略)」だのといった女子の妄想が炸裂する。
 どうでもいいけど、なんでそんな具体的なんだ、お前ら。
「それじゃあ、ジークフリートは二葉君でいい?」
「なんか嫌だって言えるような雰囲気でもないしね。いいよ」
 そう言う割にはあまり嫌そうでない口調で、崇は了承してみせた。
 黒板に「ジークフリート 二葉崇」と書き、恵理ちゃんは再び私たちの方に向き直って、
「次はブリュンヒルデなんだけど――」
 それを引き金に、過半数の女子が手を挙げた。
「わたしわたしっ! 絶対わたしが適任だと思いまーす!」
「ちょっと、先に手を挙げたの私じゃない! 引っ込んでなさいよ!」
「何、アンタ!? そのブサ顔でヒロインやろうなんて、鏡見てから言いなさいよね!」
「崇君っ! アタシよね!? パートナーにはアタシがピッタリよね!?」
 ……とんでもないことになった。
 普段、仲が良いように見えても、男が絡めばあっさりとボロが出るのが女子という生き物だ。
 でも、これはいくらなんでも行き過ぎだと思うけど。
 さっきまで女子と言い合っていた男子も、彼女らの気迫に気圧されて押し黙っていた、ていうか引いていた。
 見やると、教室の端で未だ体育座りをしたまま、日向も手を挙げていた。
 あまりにもこっそりとしているので、恵理ちゃんにも気づいてもらえていないようだったが。
「ちょ、ちょっと待ってみんなっ! 一旦、手を下ろして! 手を下ろしてくださーい!」
 恵理ちゃんが慌てて制止の声を上げるが、女子たちのテンションは下がることを知らず、逆にヒートアップしていく一方だった。
 そんな中、恵理ちゃんの叫んだ一言が――
「ブリュンヒルデには秋葉ちゃんにお願いしようと思ってるんですっ!」
 彼女たちの熱気を、一瞬にして氷結させた。
 つか。
 ……え?
「最初から言っておかなかったわたしが悪いんだけど、ブリュンヒルデのイメージには秋葉ちゃんがぴったりだと思うの。秋葉ちゃんが嫌っていうなら仕方がないけど……ダメかな?」
 真っ直ぐ私の方を見て、恵理ちゃんが頼んでくる。
 ブリュンヒルデ、か。
 私がその役をやるのは、何か運命的なものを感じざるを得ない――
 のだが、女子連中から漂ってくるこの険悪な殺気めいた気配はどうにかならないものか。
「……なんで私なの?」
「だって秋葉ちゃん、いつでもクールで頭も良いし――たまにすごくかっこいいなって感じることがあるから。わたしより身体つきとか小さいのに、とても同い年とは思えないんだもの。おねぇさんっぽいって言うのかな」
 そう答える恵理ちゃんの言葉は、どれもこれもが的確であり、的外れでもあった。
 まったく、この学校にはいい目を持った奴が多すぎる。
 もっとも、だからこそこの学校において、私は退屈せずに済んでいるわけなのだが。
「いいわよ。やってあげるわ、その役」
「きゃーっ! あきは先輩すごーいっ!
 私が頷くと、女子がブーイングを飛ばすよりも早く、一際高い声がすぐ左隣から上がって、私の耳を痺れさせた。
「主役ですよぅ、主役! あきは先輩にぴったりですよねっ! ていうかそうなるのは当然だと思ってました! そこらの雌豚どもに主役なんてできるはずないですもん!」
 私の左腕を掴んで、”ソレ”は超音波じみた奇声を上げまくる。
 あー、うるせー。
「……さっきから言おうと思ってたんだけれど……なんであなたがここにいるのよ」
「みやも劇に参加するんですよぅ、最初にそう言ったじゃないですかぁ!」
「――――っ」
 キーン、と鼓膜に痛みが走る。
 私は片目を閉じてそのダメージに耐えながら、
「そんな大きな声で言わなくても聞こえてるから……せめてもう少し静かに喋ってちょうだい」
「……愛は耳元で甘く囁かれるのがお好みですかぁ?」
「違ぇよ! そういうことじゃなくて!」
「わかりました。じゃあ今度からみやの声はせんぱいにだけ届くように言いますね。ふっ」
「ひぃっ!? なに耳に息吹きかけてんのよあんたは!」
「いやぁん♪ あきは先輩、怒った顔もとっても素敵♪ キスしてもいいですかぁ?」
「するな! って、承諾を求めておいて何、強引に事を為そうとしてんのよ!」

 ――今まさに私の唇を奪わんとしているこの少女の名は、芹園未耶。
 私よりもふたつ下で、四年生らしい。
 昼休みに唐突に教室に飛び込んできた彼女に告白され、さらに何故か放課後もこうやって何喰わぬ顔で側に張り付かれていたりする。
 私はこの女の顔に見覚えがない。
 まったくの初対面のはずなのに、相手は私のことをよく知っているようだった。
 上級生や下級生の名前を知る機会なんてそうそうあるはずがないのだが、我が校では全校レクリエーションなどという危篤な定期的に催されるイベントがある。そのときに知られてしまったということも考えられる――のだけど。
 彼女とは一度も同じグループになったことがない。
 基本的に全校レクリエーションでは、全学年が必ず一人ずつ含まれるようにグループ分けされる。前回と同じメンバーと組むこともあれば、初対面同士で組むこともある。日によって決め方が違うからだ。
 私が組んできた面子の中に、彼女の顔はない。少なくとも、私の記憶には。
 単に忘れてしまっただけという可能性もあるが、こんな意味もなく無闇やたらにインパクトのある奴の顔なんて、一度覚えてしまったらなかなか忘れられるものではない。
 まあ、私と小春は双子ということもあって、その珍しさ故に何かと知られやすい存在ではあるのだが。この間も痴漢退治の一件で、学校中で噂されまくったし。良い意味でも悪い意味でも。
 どうやって少女――未耶が私のことを知ったのかなんて、そんなことは実はどうでもいいのである。

「暑苦しいっ! 離れなさい!」
「やーですぅー! みやはせんぱいとお付き合いしてるんだから、絶対ぜーったいはなれません!」
「いつ承諾した、そんなこと!?」
「明日にはきっと!」
「ただの希望的観測でしかないでしょうが、それは!」
「信じていなければ自分の望む明日は来ないんですよぅ!」
 ――わがまま、自己中心的、猪突猛進、暴走したらしっぱなし。
 彼女は、私が一番、関わり合いになりたくないタイプだった。
 この手の輩はできるだけ避けるようにしているのだが、向こうが一方的にこちらを知っているとなるとどうしようもない。
 せめてまともに会話が成立するのであれば、うまく言いくるめて手玉に取ることもできようが――この女が相手では、どんなことを言っても都合の良いように解釈されてますます調子づかせることになりかねない。
 助け船を出そうにも、どいつもこいつも目を逸らして我関せずといった顔をしてやがるし。
 面倒事には首を突っ込まない――平穏に生きたいなら、身に付けておくべき処世術のひとつだ。
 しかし、なにもこの歳で身に付ける必要もなかろうに。
 ……主に私の影響によるところが大きそうではあったが、それは考えないことにした。
 とにかく、他人をアテにできないのなら自分でなんとかするしかない。
「信じていてもどうにもならないから諦めなさい! 私はそっちの気はないんだから!」
「嘘ですぅ! そんなこと言って、こはるせんぱいとはラブラブじゃないですかぁ!」
「小春はっ……!」
 そんなのとは違う、と言いかけて止める。
 厳密に言えば――念を押すが、あくまでも厳密な意味において――私の小春への気持ちはそういう感情とは異なるのだが、決してそうとも言い切れない部分もなくはないわけで。
 いや、まぁ……イエスかノーの二択で問われれば、イエスと答えるしかないのだけど。
 得体の知れないやましさを覚えて、思わず未耶とは反対隣にいる小春を横目で見やる。
 すると、妹は何故か目を爛々とさせて、私の肩越しに未耶を見つめていた。
 譫言のように、何事かつぶやいてもいる。
「せんぱい……せんぱい……せんぱい……」
 ……なんか先の展開が読めすぎて困るくらいベタな反応をしてくれちゃっていた。
「お姉ちゃん。わたしね、未耶ちゃん、いい子だと思うな」
「その短絡さがあなたのキュートな部分でもあるのだけれど、それはちょっと単純すぎるとお姉ちゃんは思うな……」
「ほらほら、こはる先輩もみやたちの仲を認めてくださってますぅ!」
「あんたはまず日本語学ぶところから始めなさい」
 ジト目で告げてやる。
 唯一の頼りと思われた小春も懐柔(?)されてしまった。
 もう私に打つ手はないのか……。
「あなた」
 そのとき。
 千歳ちゃんが未耶の肩を掴んで、強引に彼女を自分の方に振り向かせた。
「さくらせんぱい?」
「…………」
 見つめ合う――正確には、睨み合う二人。
 教室中に、嫌な空気が張り詰める。恵理ちゃんなんて教壇に隠れて、顔を半分だけ覗かせてこちらを窺っていた。
 しばしの硬直状態。
 千歳ちゃんが、口火を切る。
「……先輩が困ってる。少しおとなしくしていて」
「……むー……?」
 未耶は下唇に指を添えて、何やら考え込むように頭を左右に揺らした。
「みやの調べでは、さくらせんぱいとあきはせんぱいの仲は悪かったと思うんですけどー」
 そんなことまで知ってるのか、この女……。
「仲直りされたんですかぁ?」
「そういうことじゃなくて……あなたが騒がしいと、先輩だけじゃなく、他の人も迷惑するから……」
「あ、さくらせんぱい、今ごまかしましたね? みやは嘘には敏感だから、絶対騙されないんですよぅ!」
 今のは嘘に敏感であろうとなかろうと、千歳ちゃんのどぎまぎした態度を見れば誰の目にも一目瞭然だったのけど……。
「するとこはるせんぱいだけでなく、あきはせんぱいともラブラブになって、あわよくば双子げっとー♪ とかとか考えてるわけですね!?」
「違っ……! そもそも小春とは、そんな――」
「みや知ってるんですよぅ! さくらせんぱいが毎晩、こはるせんぱいをオナペットにしてあんあんしてることぐらい!」
 ――――!
 教室全体に、確かな衝撃の波紋が拡がったのが見えたような気がした――
 といっても全員がその言葉の意味を理解したとは思えないが、さっきの崇に対する女子の妄想の数々から推測するに、理解できなかった者の方が少数派なのではなかろうか。
 ひそひそ――とあちこちから小声で話し声が聞こえてくる。
 早くも文化祭の会議そっちのけで、千歳ちゃんのレズ疑惑討論会場になりつつあった。
 悲惨だねぇ。
 ……なーんて、他人事ながらに思ってみる。
「な――何を言うの!? そ、そんなことしてない!」
 顔を真っ赤にして千歳ちゃんは否定するが、微妙にどもっているあたり、説得力に欠ける発言だった。
 ……ダメだよ、千歳ちゃん。こういう輩に対して、自ら急所をさらけ出すような真似をしちゃ。
 案の定、未耶は小悪魔的な意地の悪い笑みを浮かべて、
「ふーん、へぇー。さくらせんぱい、オナペットがどういう意味なのかご存じなんですねぇー。おっぱいがおっきぃと、やっぱりそういうことに詳しくなれるんでしょうかねぇー」
「あ、あなただって、知っているからそういうことを言ったんでしょう!?」
「えー、みや、四年生だからわかんないですよぅ。おにいちゃんから聞いたことあるだけで、適当に言ってみただけですもん」
 四年生の妹との会話にオナペットなんていう単語を持ち出すお兄ちゃんってのも相当病んでるな。
 それが嘘だということは明らかではあったが、まぁ一応脳内突っ込みってことで。
「そんなのっ……今時、知らない子の方が少ないわ!」
「そーなんですかー。こはるせんぱい、だそーですけど、オナペットってどういう意味かご存じですかぁ?」
 と、未耶はマイクを向けるようなジェスチャーで小春に返答を迫った。
「……パソコンのメールソフト?」
 実に真摯で穢れを知らなさそうな小春らしい回答だった。
「小春……それは、ポストペット――」
「きゃーんっ♪ こはるせんぱいかわいいーっ♪」
 突っ込みを入れようとしていた千歳ちゃんを遮って、未耶が小春に向かってダイヴする――が、ジャンプ力が足りず、私の膝の上に落下してきた。
「ピュアですねーっ、愛らしいですねーっ、女の子ですねーっ♪ そんな真っ白で天使みたいなこはるせんぱいもすごく魅力的ですけど、それでもみやはあきはせんぱいのドス黒い悪魔のような心で支配されたいので、こはるせんぱいにはごめんなさいなのですぅ」
「誰が悪魔よっ!? ていうかどさくさに紛れてひとの股間に顔を埋めるなっ!」
「せんぱい、いい匂い……♪」
「ちょっ……! どこの匂い嗅いでんのよあんたはっ!」
「もう我慢できん! 丘野! 俺にもそのドラスティックな香りを嗅がせて――」
「だからお前は起きてくるなぁぁぁっ!」
 三つも後ろの席から飛びかかってきた胡桃木に向かって、咄嗟に自分の座っていた椅子を投げつけるのと――
 教室の隅っこで体育座りしていた日向が立ち上がって叫んだのとは、ほぼ同時のことだった。
「あああああああああもう、うるさぁぁぁぁぁい! そこの百合っ子どもっ! 乳繰り合うんなら余所でやれぇぇぇっ!」



***2***



 そんなことがありまして。
 私と未耶を筆頭に、千歳ちゃんと小春まで追い出されてしまった。
「……あんたのせいよ」
「えーっ、みや、なんにもしてないじゃないですかぁ」
「騒ぎの張本人が、いけしゃあしゃあと……」
「ねー、こはるせんぱーい? みや、全然悪くないですよねー?」
「待ちなさい、なんでそこで小春に振るのよ」
「えーと……今度からは静かにしなきゃだめですよ」
「はーい♪」
「はぁ……」
 夕日で赤く染まった地面に伸びる自分の影に向かって、私は深く溜息をついた。
 四人で肩を並べて帰ることは、私たちの日常においては珍しいことではない。むしろ当たり前のことになっていた――四人という数のみに限っての話だが。
 いつもなら未耶の代わりに、日向がいる。彼女は何故か私と一緒に帰りたがる。そこに小春を加えれば、当然のごとく千歳ちゃんもついてくるので、必然的に四人で帰ることになる。
 そんないつもの顔ぶれから一人外れて未耶が加わっただけで、世界は別物へと変化してしまった。
 平たく言うと、ずっと違和感がつきまとってる感じ。
 そりゃ、今日知ったばかりの奴と一緒に帰路についているのだから、多少の違和感はあって当然なんだろうけど。
 それだけじゃない。さっきの未耶と千歳ちゃんの、口論にすらなっていない言い合いがあってから、別の違和感が私の心を惑わしていた。
「…………」
 それとなく、四人のそれぞれのポジションを確認してみる。
 未耶は良い味方を見つけたとばかりに小春にべったりとくっついて。
 二人から数歩ほど後ろを歩く形で、私は千歳ちゃんにべったり――とまではいかないにしろ、真横をぴったりとついてきていた。

 ……ほら。
 すっごい違和感ない、これって?

「で、こはるせんぱいはー、あきはせんぱいとぶっちゃけどのくらいラブラブなんですかぁ?」
「えっ……ラブラブ……?」
 なんて、何の前振りも捻りもない唐突極まりない会話が聞こえてきた。
「ですです。なんかお二人って、なんてゆーかぁ、仲良しさんとか、そういうのとは違うような感じがするんですよねー」
「うーん……今はそうでもないかもしれないけど、わたしとお姉ちゃんの関係って、色々と複雑なことがありましたから……」
「ということは、お二人は幾多の試練を乗り越えて愛し合う関係になられたということですねっ!?」
「そ、そうなのかな……でも愛し合うっていうのは、未耶ちゃんの考えてるのとは違うと思いますけど……」
「えー、さっきキスしようとしてたじゃないですかぁ」
「あ、あれはっ、お姉ちゃんが無理矢理してこようとしてただけでっ……」
「人目があったから嫌がってただけじゃないんですかぁ? いつもはおうちでちゅっちゅしてるんでしょー?」
「ちゅ、ちゅっちゅ……あぅ……」
「わー、赤くなったー♪ してるんだぁ、毎日ちゅっちゅしてるんだぁ♪」
「し、してませんっ……」
「いいなー、ちゅっちゅいいなー、みやもあきはせんぱいとちゅっちゅいだっ!?」
 半ば衝動に任せて、私はランドセルで未耶の後頭部を殴っていた。
 頭を押さえて、涙目で未耶が振り返ってくる。
「な、なにするんですかぁ!? って、そんなのでみやの頭を叩かないでくださいっ! バカになっちゃうじゃないですかぁ!」
「もう手遅れでしょうが。私の妹を困らせて楽しんでるんじゃないわよ。限度というものを知りなさい」
「楽しんでなんかいませんよぅ! むしろみやとこはるせんぱいはライバルなんですから、馴れ合うつもりはもーとーありませんっ! ぷんっ!」
 思いっきり一方的に馴れ馴れしくしてたじゃねぇか。
 ていうかその語尾、むかつく。殺したい。
「私と小春は固い姉妹の絆で結ばれているのよ。あなたがごときが入り込める余地なんて最初からないの。諦めなさい」
「そ、そうですよぅ。わたしとお姉ちゃんは双子だから、他の兄弟とかよりちょっと仲がいいだけで、別にラブラブとかそんなんじゃ全然ないんです。ですよね、お姉ちゃんっ」
「…………うん」
 何もそんなにはっきりと否定しなくても――と胸中でいじけながら、私はなんとかそう頷いてみせた。
「じゃあこはるせんぱいは、さくらせんぱいとラブラブ?」
「千歳ちゃんは大事なお友達で、それ以上でも以下でもありませんよ」
「そうなんですかぁ、さくらせんぱい?」
「…………うん」
 がっくりと肩を落として、それでも平静を装いながら頷く千歳ちゃん。
 ……犠牲者二号誕生。
「そっかー。じゃあラブラブなのは、みやとあきはせんぱいだけなんですねー」
「ちょっと待て! いつから私とあなたがそんな関係になった!?」
「明日にはきっと!」
「だから有り得ない未来を前提に今を決めつけるなっ!」
 未耶のあまりの自己中心的っぷりに、私は思わず地団駄を踏んだ。
 こういう悪い意味での「思いこんだら一直線」的なところは日向や胡桃木にも言えることだが、この女のそれはあいつらの比ではない。
 えらいのに目をつけられたなぁ……私。
「そもそも私は今日、初めてあなたのことを知ったのよ。そんなのでどうやって愛し合えるっていうの?」
「みやはせんぱいのこと知ってましたよぅ」
「そのようね」
「それに出会ってすぐにラブが始まることも世の中にはあると思いますぅ」
「……無い、とは言わないけどね」
 ブリュンヒルデと――ジークフリートのように。
「大体、あなたはどうやって私のことを知ったの? いえ、どうして好きになったのか、って訊いた方がいいのかしら?」
「一目惚れ♪」
 両拳を顎につけて、小首を傾げながらそう告げてくる。
 ああ、もうその仕草だけでぶん殴ってやりたい。
「……どこで私を見たの」
「変なこと言いますねー。同じ学校に通ってるんですから、たまたま擦れ違うことくらいあるじゃないですかぁ」
「あなたみたいな性格だったら、擦れ違ったその場で告白してきてもおかしくはなさそうだけれどね」
「これでも、みやがおかしなことを言ってるってことは分かってるつもりですよぉ」
 分かってんのかよ。
 と、私が突っ込む隙すらないくらいに、未耶はべらべらと喋り出していた。
「だから気になった人のことはよく調べるようにしてるんですぅ。相手にその手の理解がないなら、やっぱりそれなりの付き合い方をしていかないといけないわけじゃないですかぁ。下手すると、話してるときにボロが出ちゃいますからねー。おかげでお友達を作るのに苦労しましたよぉ」
「……意外ね」
「なにがですぅ?」
「四年生だっけ? とてもそんなふうには見えなくてね」
「せんぱいもとても小学生には見えないくらい大人っぽいですよぉ♪」
「……それはどうも」
 まぁ、そんなことはどうでもいいのだ。
「で? 私のことも調べたわけだ。小春や千歳ちゃんのことまで」
「周囲の人間関係って大事ですからねー。前にそれで一回、失敗しちゃってますから。念には念を入れて、徹底的にやっちゃいました。て言っても、ここ数ヶ月くらいの情報でしかないですけど」
「数ヶ月、ねぇ」
 つぶやいて、私はここ半年くらいの自分の行いに思いを馳せてみた。
 何か致命的なことはなかっただろうかと探るのも馬鹿馬鹿しくなるくらい、どうということのない思い出ばかりだった。
 強いて挙げるとすれば、先日の痴漢魔退治の件くらいか。
「なんでもせんぱいたちは、ちょっと前まで学校を騒がせていた痴漢魔を捕まえたっていうじゃないですかぁ。それでますますあきはせんぱいのことが気になって」
 ……思いっきりビンゴだった。
 でも確かにあんなに目立つことすれば、学校中で噂になってもおかしくはないことだけど。
「せんぱいは第一印象でレズっぽいって思ってたんですけど、調べていくうちにだんだんとその雰囲気が感じられなくなってきたんですよねぇ。こはるせんぱいとは仲がいいみたいでしたけど、それは姉妹だからってずっと思ってて。それで今日、いつものように昼休みにせんぱいのことをこっそりと見つめてたら、なんとお二人がキスしようとしてるじゃないですか!」
「ていうか、私は昼休みの間、ずっと監視されてたのか……」
「昼休みだけじゃありません、登下校はもちろん、トイレに行くときもバッチリですぅ! あ、覗いたりはしてないんで安心してくださいね♪」
 と、訊いてもいないのに、未耶は監視ルートを自白してきた。
 そんなストーカー紛いな未耶の行動に、私は呆れるよりもまず、戦慄を覚えていた。
 自分が監視されているなどと、そんな気配は微塵たりと感じなかったからだ。
 対象に感づかれずに監視や尾行をするというのは、実は相当に難しい。
 そもそも、一人の人間が街中で何もせずにただじっと立っているというだけで違和感は生じてしまう――その者に他意があろうとなかろうと、だ。
 ましてや、一定の距離を置いて自分の後ろを歩いてくる者がいようものなら、違和感よりも先に危機感を覚えてもおかしくはない。学校という狭い場所でなら、なおさら。
 気配を殺す――とはよく言うが、実際にそんなものを消せる人間などいない。この世界に形と命を持って存在している以上、気配は常に周囲に放たれている。
 だから、殺すのは違和感の方だ。傍目からすれば誰が見ても異常だと思うような行為を、自然に流れていく周囲の風景の一部に溶け込ませて、他者に「そんなこともあるかもしれない」と思い込ませなければならない。
 人間は案外、視界に映るものを曖昧に捉えているものだ。はっきりと知覚しているのはごく限られた範囲でしかない。要は、その隙に入り込めばいい。
 もし未耶が何を意識するわけでもなくそれを実践していたとするなら、彼女のストーキング能力は天性のものだと言える。
 生粋のナイトウォーカー。
 つきまとわれている身からすれば、ある意味、これほど恐ろしい存在はいない。
 極端な例を挙げれば、彼女はいつでも私を殺すことができるのだから。
 ……まぁ、それはいくらなんでも有り得ない話だ。さすがにそんなことになりそうなら気づくだろうし。
「で、今日の昼休みも私のことを見ていた、と」
「そうですぅ。こはるせんぱいにキスしようとしてたから、あーやっぱりそっち方面の人なんだぁ、って思って。それで勢いに任せて告白しちゃった次第です、はい」
 軽率すぎる行動は、身を滅ぼす。
 分かってはいるのだが、あのときの私はどうかしていた。
 あんなキーワードひとつで自分が錯乱してしまうなんて、思ってもいなかったのだ。
 あの状況を上手く誤魔化せるような手段なんて、私はそういくつも知らない。
「……あれは、私が考え事してたのをみんなが何か妙に深刻に捉えてたもんだから、場を和ませるための冗談のつもりだったんだけれどね」
「えー、でもでも、普通はいくらなんでも妹さんにキスなんて迫らないと思いますよぅ」
「肉親じゃなきゃ、あんな冗談できないわよ」
「ということはー」
 未耶は両手の指でこめかみを押さえて、
「こはるせんぱいとはそういう関係ではないと?」
「……だから最初からそう言ってるでしょうが」
「ということはー」
 にんまり――と、彼女の唇の端が笑みに歪んだ。
「みやとあきはせんぱいがエッチしまくろうと何の問題もないというわけですねっ!?」
「話が飛躍しすぎだっ!」
 何をどう考えてそんな結論に至ったのか、思考経路をトレースしてやりたくなる。
「ダメですかぁ?」
「ダメも何も、そもそも有り得ないから」
「じゃあ交換日記からということで」
「……いきなり話がスケールダウンしたわね」
「してくれるんですかぁ?」
「しない」
「そうですよね、交換日記なんてまだ早すぎますよね。まずは手を繋いで歩くところから始めましょう」
「ちょっ……触るな!」
「えー、いいじゃないですか、手ぐらい」
「なんか知らないけどあんたには触られたくないの!」
「汚くなんかないですよぅ! ちゃんとさっきもトイレした後に洗いましたし!」
「そういう問題じゃなくて……ああっ、もうっ、ひっつくなっ!」
「せんぱい、いい匂い……」
「嗅ぐなぁっ!」
「せんぱいせんぱいせんぱ――」
 と。
 私の身体に張り付いて胸の辺りに頬ずりをしていた未耶が、突然何かに弾かれたように離れていった。
 いや、正確には。
 引き剥がされたのだ。
 ――千歳ちゃんに。
「先輩、嫌がってる」
 未耶の襟首を掴んで、千歳ちゃんは静かに憤りを湛えた眼差しでそう告げた。
 私は――小春も、そんな千歳ちゃんの行動に唖然としていた。
 この状況で彼女が動くことは、全くの予想外だったから。
「好意の押し売りは迷惑なだけよ」
 千歳ちゃんは尚も鋭く未耶を睨み据える。
 それに対して未耶は、それほど動じてはいないようだった。気味が悪いくらい落ち着いた様子で、千歳ちゃんの眼光を見返している。
「さくらせんぱいには関係ないじゃないですか。あ、そっか、なるほど」
 はっとしたように両手を打ち合わせながら、くるりとその場で身を翻して千歳ちゃんの手から逃れる未耶。
「そっちの気があるのは、さくらせんぱいの方でしたか」
「――――!」
 千歳ちゃんの口から、言葉の代わりに怒気が漏れる。彼女は右手を振り上げ――
「おっとーあぶなーい」
 その手が振り下ろされるより早く、未耶はぴょんぴょんと数歩ほど後方に跳ねて、千歳ちゃんから距離を置いていた。
「さくらせんぱいは手が早い方じゃないって思ってたんですけど、それはみやの勘違いだったみたいですねー。あははっ」
 と、未耶は軽口を叩いて、さらに千歳ちゃんを挑発してみせる。
「あなた、何のつもりで――」
「あきはせんぱいっ!」
 千歳ちゃんの声を遮る形で大声を上げ、未耶が私の方を振り返ってくる。
「みやがせんぱいのこと好きなのはほんとですよ。突然の告白で、せんぱいはきっとびっくりしたと思いますけど」
 ふらふらと左右に振り子のように身体を揺らしてみせるその態度は今までと同じくおちゃらけてはいたものの、その声からはしっかりとした彼女の強い意志を感じ取れた。
「だからみや、あきらめません。なので――」
 未耶は踵を返し、笑顔で手を振りながら、
「明日もまた遊んでくださいねーっ♪」
 そう言い残して、走り去っていってしまった。
「…………」
 私たち三人はその場で呆然と立ち尽くし、未耶の後ろ姿が見えなくなった頃、小春が口を開いた。
「なんだか……色んな意味で凄い子でしたね……」
「まぁ……頭痛の種がひとつ増えただけよ」
 妹の言葉に、私は肩をすくめた。
「でもとりあえず」
 と、千歳ちゃんの方を振り返って、軽く頭を下げてみせる。
「ありがとう」
「え?」
 私の行動に面食らって、千歳ちゃんがたじろぎながら裏返った声を上げた。
「さっきのって私が困ってたから、助けてくれたんでしょう? だからお礼を言っておこうかなって思って」
「わ、私はただ……あの子のことが気に入らなかっただけで……」
「理由はどうあれ、結果的に私は助かったんだし。素直に受け取っておきなさい」
「……はい」
 怒りのせいで赤くなっていた千歳ちゃんの顔がさらに赤くなる。照れたときの頬の色は、悔しいけど小春にそっくりだった。
「あ、いいこと思いつきました」
 突然、小春が顔を輝かせて、言ってくる。
「三人で手を繋いで帰りましょう」
『……は?』
 見事に私と千歳ちゃんの声がハモる。
 どう考えてもこの三人には相応しくない言葉だったからだ。
 ――つい少し前までは。
「ほらほら、千歳ちゃんは真ん中っ。こうするとバランスがとてもいいです。お姉ちゃんはこっち」
 小春に手を引っ張られて、私は強引に千歳ちゃんと手を繋がされた。
 最後に小春は千歳ちゃんの空いた方の手を取り、にこにこと笑った。
「さあ、行きましょう」
「え、ええと……小春、私は……」
「千歳ちゃん、嬉しくないんですか?」
 泣きそうな目で小春に顔を覗き込まれて、慌てて千歳ちゃんは首をぶんぶんと横に振る。
 それを見て、小春の表情がころりと笑顔に変わる。
「なら何の問題もないです」
 流石、毎日一緒にいるだけあって小春は千歳ちゃんの扱いが上手い。
 どこかぎこちなく――小春以外の部分が――私たちは歩きだした。
 その様子を第三者が見たら、お姉さんに手を引かれている双子の姉妹、といった感じに映っただろう。
 少なくとも、悪い気はしない。
 千歳ちゃんとはまた違った意味で私も最初は躊躇したが、しばらく歩いているうちにそんなのはどうでもよくなってきた。
 むしろ、心地良い。

 ああ。
 そうか。
 私はこんなふうに――普通に生きることもできたんだ。

 千歳ちゃんの手から緊張が解けていく。
 次第に強ばっているのとは違う、明らかな彼女の意志による圧力が、私の手を優しく包んだ。
 ふと横目で見やると、千歳ちゃんと目が合った。
 表情はまだぎこちなかったけれど――それでも微かに、笑いかけてくれたような気がした。

 今更。
 本当、今になって、私は気づいた。
 罪を重ねて、逃げ出して。
 それでも私は――こんな世界を、望んでいたのだと。

 ぎゅっ、と千歳ちゃんの手を握り返す。
 顔を見ずとも、彼女が驚いたのが、文字通り手に取るように分かった。
 だけどそれも一瞬のこと。
 すぐに自然に、私たちは手を繋ぎ合っていた。
 小春がちらちらと私たちの方を窺っては、幸せそうに目を細めている。

 何もかもが今更で。
 もう手遅れなのだけど。
 それでも今だけは、この世界に抱かれていようと思った。
 記憶に、身体に、全てに、今この瞬間の気持ちを刻み込むためにゆっくりと。
 私は前をまっすぐ見て、二人と一緒に歩いた。

「あ、そだ。ついでだから歌とか歌っちゃいますか?」
『いや、それは勘弁して……』
 速攻で断った私と千歳ちゃんに、小春は不機嫌に頬でも膨らませるかと思ったが。
 それでも妹は、楽しそうに笑っていた。



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