第十九話 「リボンズドア(エピローグ)」

***1***



「栗山啓介、三十七歳。不動産会社の営業マン」
 男――栗山が忘れていったアタッシュケースの中に入っていた男の社員証を読み上げて、私は嘆息した。
「……こんなもんしまったカバンを持ち歩きながら通り魔やるなんて、相当な馬鹿でしょ、あんた」
「か、会社帰りだったんだからしょうがねぇだろ!」
 木の幹に縄でぐるぐるに固定された栗山が、涙目で言い返してくる。
 逆境に立たされると気弱になるのね、こいつ。
「まぁ、そんなわけで痴漢魔を捕獲したわけだけど」
 と、さっきから私の胸に抱きついて離れてくれない妹に話しかける。
「ひとことくらい何か言ってやるんじゃなかったっけ?」
「おねぇぢゃんがっ……げがじでてっ……ちぃとかいっばいでっ……じぬがもしれながったがらぁっ……えぐっ……えぐっ……」
 何を言っているのかよく分からなかったが、要約すると「お姉ちゃんカッコイイ、大好き愛してるかっこはぁとかっことじ」ということだろう。
 鼻水まで垂らして泣いて喜んでくれるとは思わなかった。
 私は良い妹を持った。
 ……ということにしておこう。
「このぐらいでいいですか?」
 私の足に包帯を巻き終わった千歳ちゃんが、確認を求めてくる。
 強すぎず弱すぎず。じくじくと痛むのは、消毒薬を塗ったせいだろう。立とうと思えば立てるが、歩くとなると少々きつい。
 それでもかなり痛みが和らいだのは確かだった。
 私は草むらの上に座ったまま、千歳ちゃんに頭を下げた。
「ありがとう。あなたには助けられっぱなしね」
「私は何もしていません。ただみっともないところをお見せしてしまっただけです」
 顔を赤くして、千歳ちゃんが謙遜する。
 あの薙刀の腕前は充分、賞賛に値すると思うのだけど……。
 それと、私が使ってたナイフも元々は千歳ちゃんの持ち物だし。
 そういう意味でも、彼女には感謝しておかなければならない。
「ありがとうって言われたぶんだけ、人は生まれてきた意味を得ることができるんだ――とは思わない?」
「先輩にしては随分と凡庸な価値観ですね」
「哲学的に考えに考え抜いて辿り着いた真理の方が、こじつけ臭くて安っぽいと思うけどね。こういうのはシンプルだからこそいいのよ」
 だからといって、感謝の言葉が人生の意味に繋がるとは信じているわけではないが。
 私が言いたいのはそういうことじゃない。
 千歳ちゃんはそれを見抜いたようで、ぎこちない微笑と共に肩をすくめた。
 うん、やっぱり彼女のこういうところ、私は大好きだ。
「崇、あなたにもありがとうって言っておくわ」
「……俺は何もしてねーよ」
 私たちから少し離れたところで、腕を組んで木にもたれていた崇は、こちらに目を合わそうともせず、ぶっきらぼうにそう答えてきた。
「その割には結構、乗ってたみたいだけれど?」
「ただ、やることをやっただけだろーが」
「そうでもなかったら、サッカー部員を差し置いてオーバーヘッドキックなんて出来ないと思うわよ」
「あ、あれはっ……! なんとなく、だな……出来そうだと思ったから、さ……」
 暗くてよく見えないが、そう憤慨してくる崇の顔はりんごのように赤く染まっているに違いない。
 さらに突っ込んだ憶測を立てるなら、世のショタ好きなお姉様方が喜びそうな表情をしているはずだ。
 それは、彼が学校では決して他の人には見せない顔のひとつでもある。
「前々から言おうと思ってたことがあるの」
 まだすんすんと鼻を鳴らして泣いている小春の頭を撫でながら、私は告げる。
「あなたとはアレがあーで、コレがそーなって今はこんな感じになっちゃってるけど、決してあなた自身のことは嫌いじゃないのよ」
「……そんなこと、信じられるかよ」
「私はあなたを信頼したからこそ、ここに呼んだのだけれど?」
「…………」
 沈黙。
 単純に私のせりふに驚いたせいか、余計に疑惑が深まって警戒しているせいか。
 いつまで待っても、彼からレスポンスを得ることはできなかった。
 そんな私と崇の様子を、千歳ちゃんが訝しげに眺めている――そんな時間が、十数秒ほど続いた。
「ふむ」
 痴漢魔栗山の鞄を物色する手を止めて、胡桃木がその静寂を破った。
「先程の二葉崇との連携、あれは事前に打ち合わせたものではなかった。土壇場で俺が考えた作戦だ。声に出して伝えるわけにはいかなかった――彼に気づかれてしまう恐れがあったからな」
 と、胡桃木は親指で栗山を示して、続ける。
「最悪は俺一人で成し遂げるつもりだったが、二葉崇は何の躊躇いもなく俺についてきた。たまたま考えた作戦が同じだったという可能性もあるだろう。だが、あの状況下において、俺と二葉崇の動きは訓練を施された軍人に近い領域に至っていた。一切の無駄もなく、迅速に最短の時間でやってのけたのだ」
「あのときは無我夢中だったからな……丘野も殺されそうだったし。考えてる余裕なんてなかったから、お前に合わせただけだ」
「丘野だけではなく、自分も殺されるかもしれなかったのに、お前は自分の命運を他人に預けたと言うのか?」
「それは……」
 崇は口ごもった。
 答えられないわけではないだろう。
 ただ、言い訳が思い浮かばなかっただけだ。
 そんな気がする。
「確かにお前はさっき丘野に言ったように、付き合いでここにいるのかもしれない。だが、あのとき――あの瞬間、確かに俺たちは互いを信頼し合った。だからこそあのような急造の作戦を成し遂げることが出来たのだ。そうだろう?」
「一方的に決めつけるなよ」
「それすら否定すると言うならば、答えてみろ。俺たちが今、生きてここに立っているのは何故だ?」
「…………」
 また、口ごもる。
 都合が悪くなるとすぐに黙っちゃうのは、あの頃から変わらないねぇ、崇くん。
「俺は今、二葉崇のことを唯一無二のパートナーだと思っている」
 何かものすっごい青臭いっていうか、こいつが言うと単にキモいだけっていうか、そんなような戯れ言をのたまいながら胡桃木が崇の方へと歩み寄って行く。
「あの作戦が失敗していれば、俺たちは丘野もろとも殺されていた。そうならなかったのは、お前というパートナーがいたからだ。俺はそう信じている」
「胡桃木……」
 向かい合って、二人が立つ。
 そのとき、タイミングよく夜空を覆う雲が晴れ、月光が彼らを照らし出した。
 ……いや、いくらなんでもタイミング良すぎだろ。
「二葉崇。これからは是非、お前のことを友と呼ばせてくれ」
 学校での二人の立場は正反対。
 胡桃木はとにかく変態で、エロくて、何を考えているのか分からなくて、男子のおもちゃ的存在で、女子に評判が悪くて。
 崇は勉強ができて、スポーツ万能で、クラスの人気者で、男子のヒーロー的存在で、女子の恋心をきゅんきゅん高鳴らせていて。
 そんな接点のない二人が今、熱い友情で固く結ばれようとしていた。
「失敗したら死んでいた……胡桃木、お前確かにそう言ったよな」
「ああ」
「だったら訊くけどさ……俺たちがもっと早くあの場に駆けつけていれば、そもそも木から飛び降りて不意打ちなんて無茶なことやらずに済んだんじゃないのか?」
 ……………………。
 あー、そうだ、なんかさっきから引っかかるなぁと思ってたことがあったんだった。
「ねぇねぇ、そういえばさ、当初の予定では私が囮になって、あなたたち二人がそのバックアップに回るってことになってたんだったわよね?」
 私の言葉に、胡桃木と崇は同時にうなずいた。
「だったらさ、一番最初に私が襲われたとき、なんですぐに現れなかったの?」
 てっきりこいつらは茂みの中に隠れるなりしながら、私の後についてきていたものだとばかり思っていたのだけど。
 ちゃうんか?
「ふむ……それについて説明は後にしよう。とても複雑なことだ。一言では、丘野といえど到底、理解できるはずがないのでな……」
「お前が塾帰りの女の子に声をかけまくってたせいで丘野を見失ったんだろ」
 淡々とした崇の解説に、眉間を指で押さえて何やら難しい顔をしたまま、胡桃木が硬直する。
「しかもお前、倒れてる佐倉さんを介抱するふりして、胸とか揉んだりしてなかったか?」
 そこにさらに崇の追い打ち。
 なるほど。
 話はよーく分かった。
「まぁ……私はね、いいんだけどさ」
 一人でどうにかするつもりだったし。
「その、なんだ。千歳ちゃん、殴るときは拳を痛めないように気を付けてね」
 私が声をかけると、千歳ちゃんはまるで幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。
 そのまま胡桃木の側に近づいていく。
 大きく腕を振り上げて、叫ぶ。
「うわああああああああああん!」
 予想していたより可愛らしい泣き声が上がり、千歳ちゃんの拳が胡桃木の顔面にめり込んだ。
 虚空に鼻血で放物線を描きながら、胡桃木の身体が地面に転がる。
「うわああああん、うああああああんっ!」
 げしっ、げしっ、げしっ、と。
 何度も胡桃木を蹴りつける千歳ちゃん。
 ……私もそこまでやったことはないな……。
「うぇぇぇぇえぇん!」
 ひとしきり暴行を振るった後、両手を顔を覆った千歳ちゃんが私の方に向かって走ってきた。
 正確には、小春の方に。
 私に抱きついている小春にさらに抱きついて、彼女はえんえんと泣き喚いた。
「小春にだって触られたことなかったのにぃぃぃっ!」
 どさくさに紛れて聞き捨てならないこと言ってるし。
 それはおねーちゃんが許しません。
 小春のおっぱいは私のです。
 てゆーか。
「どいて……重い……」
 腕だけでは二人の体重を支えきれず、押し潰される形で、私は草むらの上に倒れた。



***2***



 ようやく小春が私から離れ、身体が軽くなる。
 自分に抱きついてめそめそ泣いている千歳ちゃんの方に優先順位が切り替わったのか、小春はそんな彼女の頭を撫でてあやしてやっていた。
 楽にはなったけど……ちょっと寂しい。
 
「さて……さんざん無視した後でなんだが、尋問タイムだ」
 鼻血にまみれた顔で、復活した胡桃木が栗山の方に詰め寄る。
「ち、近寄るなっ! つーか血ぃぐらい拭けよお前っ!」
 栗山が恐怖で暴れ出そうとするが、ロープに縛られた状態では身じろぎと何ら変わらない。
 ちなみにこのロープとか、私の足の処置に使った包帯とか消毒液は、胡桃木が持参してきたものだ。あらかじめこうなることを予見していたのだろう。
 どこにしまって持ち歩いていたのかは謎だが。
 既にブツは私の足にも巻かれているわけだし、あまり深く考えたくはない。
「近寄らなければ尋問はできないが?」
 身動きの取れない栗山に、胡桃木はぬっ、と顔を思い切り近づけた。
「う、うわああああああっ!? 夢っ! 夢に出るからやめてくれっ!」
「ふむ」
 さらに恐慌状態に陥った男を見据えて、胡桃木は嘆息した。
「ついぞ先刻、人を殺そうとしていた人間の発言とは思えんな」
「殺人なんて、一度もやったことねぇよ! さっきのはつい、興奮しててだな……!」
「確かに、あのときの貴殿は異常な昂揚状態にあった。もし丘野を殺してしまっていたら、今頃は本物の猟奇殺人犯になっていただろう」
「な、なんでだよ……?」
「幼女愛好者が幼女を殺して性的興奮を覚えるというのは、よくある話だ。それに、レイプと殺人はよく似ている――これは俺の持論だがね」
 胡桃木の言うことはもっともだった。
 もし今日のことがなかったとしても、いつか彼がただの痴漢行為では満足できなくなり、ハサミで少女の肉を切り裂くことで性欲を満たそうとしていた可能性は否定できない。
 私を本気で殺そうとしてきたのを見ると、むしろその可能性は高かったと言える。
「切り裂きジャック――夜な夜な街に血の花を咲かせ続け、誰にも正体を知られることなく消えて行った伝説の殺人者。貴殿のことは切り裂きならぬ、”切り取りジャック”として尊敬すらしていたのだが……」
 大袈裟に芝居がかった仕草で腕を振るいながら語る胡桃木。
「正直、失望した。こんなことを言うと女性陣に怒られそうなのだがね――貴殿のパンツのリボンへのこだわりには、崇拝思想的な何かを感じたのだよ」
「いや……ぶっちゃけそんな大層なもんじゃないが……」
「俺は女性のパンツは天使だと思っている」
 またなんかとんでもないこと言い出したよ、この男は。
「そしてリボンは翼だ。貴殿の行為はすなわち、天使を地上に堕落させることと同義。違うか?」
「はぁ……」
「イカロスの話を知っているだろう。彼は蝋で羽を固めて翼を作り、空を飛んだ。だが太陽に近づくにつれ、蝋はその熱で溶け、やがて翼は四散した。そして彼は墜落し、深い海の底へと沈むことになったわけだが――イカロスが翼を失う行程はまさに、少女が大人へと成長していく姿のようではないか」
 そこに繋がんのかよ。
 なんかもう、話の展開が読めてきたんですけど……。
「そう、少女が女になるとき、パンツから翼――リボンが失われるのだ。天使は堕ち、海と一体化することにより、母として生命を、子を育むひとりの親として歩み始めるのだ」
「えーと……」
 胡桃木の熱弁に、栗山も困っているというか、かなり引いているようだった。
「貴殿は太陽の神ヘリオスの代行者として、パンツのリボンを狩り歩いていたのではないかね? それはメモリーの物理的保存。少女が純潔であった証をこの世に刻むため。俺の予想では、貴殿の最終目標はリボン黙示録の創造にあると考えていたのだが」
「……なぁ、ひとつ言わせてもらっていいか」
 何故か栗山は私の方を見ながら言ってきた。
「俺よりこいつの方が遙かにヤバいっぽい気がするんだが……」
「あー、やっぱりそう思う?」
 私としては、出来ることなら胡桃木もブタ箱に放り込んでやりたいところなんだけど。
 というか、本物の痴漢魔にまでヤバい人扱いされる胡桃木の将来って、一体どんなんになるんだ……。
 このままではいつまで経っても終わりそうにないので、私は口を入れることにした。
「とりあえず胡桃木、あんたはちょっと黙ってて」
「む? しかしだな、丘野。俺はまだリボンを切り取る行為と神への背約行為の類義点について語り終えていないわけで――」
「うっさい、喋んなボケ!」
 叫んで、私はちょうど近くにあった石を取って、それを胡桃木の顔面に投げつけた。

 ぼぐんっ!

 何やらえげつない音と共に、ど真ん中にクリーンヒット。
 再び鼻から鮮血を撒き散らしながら、胡桃木は派手にぶっ倒れた。
「崇、悪いんだけれどそれ、どこかに捨ててきてくれない?」
「え? あ、ああ……」
 呆気に取られた顔で、崇は半ば条件反射的に私の言葉に従って、胡桃木の身体をずるずると引きずっていった。
 自分でお願いしといてなんだけど……死体遺棄の現場を見てるみたいだなぁ。
「さて、じゃあまずは動機から訊かせてもらいましょうか」
「……その前に、嬢ちゃんにも言っておきたいことがあるんだが……」
「却下よ」
「そうか……」
 と、心底残念そうに、栗山。
 それから彼は遠い目をして、ぽつぽつと語り始めた。
「あれは二十年前……当時、高校生だった俺に初めての彼女ができたんだ」
「ふーん」
「何もかもが順風満帆だったよ……彼女が俺の家に泊まりに来るのに、そう長い時間はかからなかった」
 そのときのことを思い出しているのだろう、栗山の顔はどこか楽しそうだった。
 だが、それも一瞬のこと。すぐに彼の表情には翳りが落ちた。
「嬢ちゃんには分からないと思うがな、あの頃はエロ本とかビデオとか、今みたいに簡単に手に入る時代じゃなかったんだ。そのせいで免疫がなかったことも原因のひとつかもしれない……今にして思えば、俺は女ってものに幻想を抱きすぎていたんだろうな」
「んー、初エッチのとき、その彼女が穿いてたパンツが汚れてたとか、そんなオチ?」
「いや、リボンがついていなかったんだ」
「…………」
 ふと、今までの栗山の話の内容を思い返してみた。
 エロ本やらビデオやらがないせいで膨らんだ幻想イコール、パンツのリボン?
 どう繋がってんの、それ?
 マジ意味わかんねー。
「スカートも今みたいに長くなかったのさ。パンツなんてそうそう見れるもんじゃなかったし、頭の中にあるパンツっていえば、小学校のときスカートめくり遊びで見たリボン付きパンツか、母ちゃんのダッサいおばはんパンツのどっちかしかなくてな」
 私が訝しげにしていることに気づいたのだろう、ご丁寧にも栗山はそう注釈を入れてきた。
 おかげで、なんとなくではあるが分かったような気がする。
「それを見て俺は、おばはんパンツなんて穿いてんじゃねーよ、とキレてしまったんだ」
「はぁ……」
「そこで持参してきたリボン付きのいちご模様パンツを穿かせようとしたんだが、全力で抵抗されてしまってな」
「なんでそうなることを予知していたかのようにそんなもん持参してきてんのよ!」
「若かったんだよ!」
 何故か分からないけど、栗山に逆ギレされた。
 おっさんってのはどうして、なんでもかんでも若気の至りのせいのするのかしらねぇ……。
 とりあえず私は気を取り直して、
「どう考えてもその時点であんたに変な性癖があったことは明らかだけど、そのときのことがショックでリボン狩りなんておっ始めたってことでいいのよね?」
「いや、別にそれはショックでもなんでもなくて、最終的に土下座して持ってきたパンツは穿いてもらえたんだが――ちょっ、待て! 石を投げんな!」
 栗山が喋っている最中に、つい衝動に任せて投石したわけだが、適当に狙いを定めただけでは掠りすらしなかった。
 それでも栗山の頭ふたつぶん右を抜けていったので、いい線いっていたのではないかと自画自賛。
「最初に胡桃木が言ってたでしょう。これは尋問だって。次にくだらないこと言ったら、顔面潰すからね」
「本当に小学生かよ、お前……」
 栗山は苦虫を噛み潰すような顔で舌打ちしつつも、夜闇でもはっきり分かるくらい青ざめていた。
「まぁ、それでだな……勃たなくて、結局その日は出来ずじまいだったわけだ」
「なんで、って訊いた方がいいの?」
「恥ずかしい話だけどな。確かにリボン付きパンツを穿いてもらっているうちは絶好調だったさ。カチカチのコチコチで入れる前に出るんじゃないかって冷や冷やもんだったよ」
「あー、えっと、ちょっと待って」
 と、未だに千歳ちゃんをあやしている小春の耳を両手で塞ぐ。
 きょとんとした顔でこちらを見てくる小春――今にも発火しそうなほど、赤い顔で。
 手遅れだったか……。
 今までの内容だけでも充分に致命的だったが、これ以上、小春の情操教育に影響を及ぼすわけにはいかない。
「小春ー、今からエッチしよっかー」
「え、えと、わたし、き、聞いてないですヨ? なんにも聞いてませんヨ?」
 小春はぐるぐる目を回しながらしどろもどろにそう繰り返すだけで今、私が言ったことは聞こえていないようだった。
 よし、防音体勢は完璧だ。
「おっけ。続けて」
「あ、ああ……で、まぁ……その、あれだ。セックスする以上、パンツは脱がさないといけないだろ? それでだな……」
「パンツのリボンに固執するあまり、それを脱がした途端に一気に萎えちゃったってわけね」
「その通りだ……彼女には呆れられて、一ヶ月後には別れることになった……それからも何人かの女と付き合ってみたが、やっぱり駄目だった。俺にはパンツのリボンが必要だったんだ、どうしても」
 下唇を噛み締め、彼は自嘲するようにかぶりを振ってみせた。
「学校を卒業したら、周りの女はどいつもこいつもケバくなっていきやがって……かといって社会人になっちまったら、学生の子となんて簡単に付き合えるもんでもないだろ」
「そういうもんかしらね?」
 正直、そのへんのことはよく分からなかったが。
「じゃあせめて見るだけでもと、初任給でエロ本を買い漁ったり、近所の中学やら高校をウォッチしたり、色々試してみたんだが……」
「……とことん駄目な奴ね、あんた」
「どうも何か違ったんだよ。俺が求めていたものは、そこにはなかった。そしてある日、俺は気づいたんだよ。小学生やっべーマジかわえー、ってな」
 しかも真性のロリコンだった。
 要するに、パンツのリボンは彼にとって、女性の幼児性の象徴のようなものだったのだろう。そこに執着していくうちに、どんどん好みの女のタイプも若年齢化していったと。
 ……なんかもうこれ以上話してても無駄な気がしてきた。
 頭も痛くなってきたし。
「つまり俺は、小学生のパンツのリボンでしか自分を満たすことができなくなっちまったってわけさ。それでもな、たまに思うことがあるんだよ……もしあのとき、ちゃんと俺が童貞を捨てることができていれば、こんなことにはならなかったかもしれない……ってさ」
「そのことについて思うんだけどさ。言っていい?」
「ああ……」
「パンツずらして入れるって選択肢はなかったの?」
 私がそう言い放つと、すっかり哀愁に浸ってしまっていた栗山の顔から、みるみるうちに感情が消え去っていった。
「そ、そんなプレイがあるとデスカ……?」
 パクパクと、腹話術の人形のように顎を上下させながら、彼が問うてくる。
 私はうなずいてみせた。
「普通は嫌がるだろうけど。でも土下座までして別のパンツ穿いてもらえたんだから、頼み込み方次第じゃなんとでもなったんじゃない?」
 栗山の口がみるみる大きく開いてゆく。
「さよなら青春――――っ!」
 そして全てを吐き出すように、彼は絶叫した。

 言ってることは意味がわからなかったけど。


***3***



 それから警察を呼んだ。
 私たちは栗山共々、連行されることになった。
 そりゃそうだろう――小学生が痴漢を捕まえようなんて、危険なことをやってたんだから。
 おかげでたっぷりとお説教された。
 本来なら保護者を呼んで詳しく事情聴取をするところだったが、時間的にもう遅かったのと、私が足を怪我していることもあり、担当の警官が後日、各人の家に訪問して聴取の続きをするということで、割と早く解放された。

 ――最後に、千歳ちゃんが栗山に切り取られたパンツのリボンを返してと言っていたが。
 どうやら、既に飲み込んだ後らしかった。
 千歳ちゃんはまた泣き出した。
 嗚咽混じりに「男なんてみんな死んじゃえ」とか言っていたような気がするが。
 これをきっかけに真性百合っ娘に覚醒するんじゃないぞ、千歳ちゃん。

 車で家に送ってもらえることになったのだが、途中で病院に寄ることになった。
 私の足の処置のためだ。
 小春だけじゃなく、他の面子もついてきてくれた――崇も。
 三針縫うことになった。
 麻酔なしだったので、凄く痛かった。
 でも、それだけだ。
 大したことじゃない。
 それでも当面は傷口の痛みが足に響くだろうからと、松葉杖で歩かなければならない羽目になった。
 アキレス腱を切られていたかもしれないことを考えれば、このくらい安いものだけれど。

 家に帰ると、玄関の前で夏生さんが待っていた。
 頬でもぶたれるかな、と覚悟していたら、小春と一緒に抱き締められた。
 夏生さんは泣いていた。
 またひとつ、彼女のことが分からなくなった。



 翌日。
 登校途中に日向と会った。
「あれ、松葉杖なんかついちゃって、どうしたの? 事故った?」
「いえ、そういうわけじゃないんだけれど。軽い怪我だから、すぐに治ると思うわ」
「そお? だったらいいんだけど。あ、それより聞いてよ秋葉、小春ちゃん! 今朝目が覚めたらね、なんでかしらないけど公園のベンチで寝てたのよ!」
「…………」
 つんつん、と小春がこっそりと私の腕のあたりをつついてくる。それから小声で、
「お姉ちゃん……麻生先輩、もしかして……」
「そのようね」
 しれっ、と私も小声で返してやる。
 日向はそんな私たちの内緒のやりとりに気づいていないようで、腕組などしながら続けている。
「しかもベンチのすぐ下で胡桃木君が血まみれで倒れててねー。もうびっくりしたわよ。最初、胡桃木君って気づかなかったもんだから、顔の上にゲロしちゃってねー、あははは」
「血が苦手というのも大変ね」
 私は彼女に対して、あくまでもクールに接する。
 何事もなかったかのように。
 小春はおろおろとして終始、私の後ろに隠れるようにしていたが。
「あれは血が苦手じゃなくても吐くわよー。寝起きにあんなもん見せられたらヤバいって、マジマジ」
「ふふ、それもそうね」
「でもさー、なんか昨日一日の記憶がいまいちはっきりしないのよねー。学校から帰ってきてからのあたりが特に。秋葉、何か知らない?」
「公園こそがあたしの人生の舞台よ! とかいってホームレス体験学習に行くとか言ってなかった?」
「うそんっ!?」
 まぁそんな感じで日向をからかいながら。
 今日も一日が始まる。



***4***



 時は遡って。

「なぁ、訊いてもいいか?」
 公園で警察を待っているときのこと。
「嬢ちゃん、人を殺したことあるか?」
 顔を伏してこちらとは視線を合わせずに、栗山が尋ねてきた。
 その問いに、栗山だけではなく、小春に千歳ちゃん、崇までもが私の方を注視してきた。
 ……やれやれ。
「どうしてそう思うの?」
「嬢ちゃんとやり合ってるとき、殺さないとこっちが殺られるって思ったからさ。しかもあの身のこなし――素人の俺にだって分かるぜ。お前さんが普通じゃないってことくらいはな」
 栗山は、そこで顔を上げた。
「……あるんだろ?」
 それは彼にとって、最後の反撃のつもりだったのだろう。
 目を見れば分かる――栗山は私を睨みながらも、笑っていた。
 その狡猾さこそが彼の本質。
 やはり彼には殺人者としての、生粋の素質がある。
 だから、こちらもそれに応えようと思った。
「あるわ」
 私の言葉に、その場にいた全員が息を呑む気配が伝わってくる。
 栗山だけが、にやにやと私を見つめていた。
「私はこの手で――」
 せめて道化らしく。
 舞台で舞い踊る、姫君の華でいよう。
 それがこの場で、私が見せる全てだ。
「妹を殺そうとしたわ」
 予想通り。
 それを告げて、いち早く反応したのは千歳ちゃんだった。
 私の胸倉でも掴み上げて、どういうことか問い詰めようとでも思ったのだろうが、こちらに手を伸ばす寸前で小春が彼女を止めに入った。
 千歳ちゃんは、どうして、と言いたげな顔で小春と向かい合っていた。
 小春の頭が、小さく横に振られる。
 私の方からでは小春の顔は見えなかったが、大体の想像はついた。
 きっとこの子は今、微笑んでいる。
「妹のことが疎ましかった。あの子は私が許容できないものを、全部受け入れてみせた。はじめは、それがあの子の処世術で、強さであると同時に弱さでもあると思っていた」
 だから――絶望を与えようと考えた。
「でも、違ったのよ。私がどれだけ辛く当たっても、あの子はその全てを甘受した……それは強さでも弱さでも、処世術ですらなかった。妹はただ一途に、私のことを愛してくれていただけだったの」
 胎児の愛。
 傍らで眠る、もうひとりの自分への愛。
 原初より来たる愛。
「そんなピュアなあの子の気持ちを、私は踏み躙っていた。それに気づいたのは、小春を殺そうとしたその瞬間だったわ」
 ふと見やれば、栗山の顔からは笑みが消えていた。
 千歳ちゃんも手を両脇に下ろして、まだ少し冷静さに欠ける表情ではあったが、落ち着いて私の話に耳を傾けている様子だった。
 崇は唖然と口を開いたままで、とてもクラスの女子には見せられないような顔をしていた。
 二枚目が台無しね、崇君?
 そんな彼らの反応をたっぷりと楽しんでから、私は続けた。
「だからあのとき殺したのは、それまでの私。妹を愛してあげることのできなかった、私」
「……お姉ちゃん……」
 小春が振り返ってきて、私の側に膝をついた。
 そして、私の首に腕を絡ませてくる。
「お姉ちゃんは、死んでなんかいないよ」
 涙声で――きっと、嬉しさを含んだ色で、妹が私の耳元で囁く。
「昔からずっと、ずーっと……わたしの大好きなお姉ちゃんだよっ……」
 ぎゅっ、と。
 強く――強く、小春の腕に抱き締められた。
「ま、そういうことにしといてよ。なんだったら、悪の心が滅びて生き返った、みたいな都合のいい設定でもいいし」
 と、小春の背中を優しく撫でてやった。
 そのとき、私の顔の前にあった小春のツインテールのうちの一本が、激しく前後に揺れて私の顔を叩いた。どうやら小春が首を横に振っているせいでこんな現象が起こっているらしかったが。
 つか、結構痛い。
 ちょっとだけ首を逸らして、小春のツインテール攻撃の軌道から脱出する。
 変な方向に首が曲がってはいるが、これでなんとか普通に喋れそうだった。
「それ以来、妹に害を為した者にはどんな手段を使ってでも報復してやることにしてるの。こんな感じかしらね……満足していただけたかしら?」
「ああ」
 何かを必死で耐えるように、顔を引きつらせながら、栗山が答えてくる。
「つまり嬢ちゃんは殺人者じゃなく、騎士様だったってわけだ」
 そう言い終えると。
 彼は堤防が決壊したみたいに、大声で笑い出したのだった。



 と、まぁそんなことがあったせいだろう。
 学校の校門のすぐ手前で、
「おはよう、丘野、麻生! 今日も一日、頑張ろうなっ!」
 私と小春、それと日向を後ろから追い越しついでに、崇が寒気がするほど快活な挨拶を残していった。
 私たち三人は立ち止まって、校舎の方に駆けていく彼の背中を見送る。
 いや……あれは”駆ける”とかそんな次元の走り方じゃないな。
 あれは……そう、”逃げていた”。
 なんて分かりやすい。
「照れ隠しのつもりなのかしらね」
 くつくつと喉の奥で笑いを噛み殺しながら、私はひっそりとつぶやいた。

 それから、
「崇くんがおはよう麻生っておはよう麻生っておはよう麻生ってラブコールしてくれたわーっ! 夜明けのモーニングコーヒーイベントへのフラグがまた一本立ったって感じっ!?」
 授業が始まるまで、日向の思い上がりトークを聞かされ続けたことを、最後に記しておく。
 ていうかどっちかっちゃフラグ立てたの私じゃんよ。
 ……それはそれで鬱だな……。



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