第十八話 「リボンズドア(完結編)」

***1***



 女の子の中を、割って突き進む感触。
 柔らかいその肉を裂いて、深く――深く、破滅の楔を打ち込む。
 少女を殺すという作業は、私にそんな淫猥な妄想を抱かせた。
 刺した部分から流れた血を吸って、小春の服が徐々に赤く染まっていく。
 刃を引き抜けば、それはもっと勢いを増すだろう。
 けど、そうはしない。
 そんなことをしたら、あなたはすぐに死んでしまうだろうから。
 ゆっくり、時間をかけて死へと誘ってあげる。
 だから今は、声を聞かせて。
 あなたの口から零れる、絶望を。
「……わたし、お姉ちゃんのことが大好きだった」
 それなのに。
 彼女の声はこちらが怖くなるくらい落ち着いていた。
「わたしが苛められてたらすぐに助けに来てくれて。普段はすごく素っ気ないのに……わたしのことになると、目の色を変えて飛んでくるの」
 横目で、小春の顔を窺った。
 微笑んでいた。真っ直ぐ――夕日の斜陽を見据えて、眩しげに目を細めながら。
「頭もよくて、お料理だって上手で……わたしなんかが、お母さんの代わりになるわけなかったんだよね。だって、お姉ちゃんのがよっぽどお母さんらしいもん」
 息をするのも苦しいはずなのに。
 どうしてそんな、普通に喋っていられるのか。
「そんな強いお姉ちゃんのことが……大好きだった」
 もしかして。
 いや、”もし”なんかじゃない。この子は気づいていたのだ。
 今日、この場所で、こうなることを。
「わたしがいけなかったの……お姉ちゃんに憧れて……お姉ちゃんの後ろをずっとついて歩くだけで……手を引っ張ってもらうだけで……自分で前に進もうとしなかった、わたしが悪いの」
 何故だ。
 死を前にして、どうして笑っていられる。
「わたしがそんなだから……お姉ちゃんも愛想を尽かしたんだと思った」
 違う、そうじゃない。
 ただ実験の道具としてしか見ていなかった。それ以外の目で、あなたのことを見れそうになかったから。
 だって、私はあなたの――
「お姉ちゃんに嫌われて……毎日、辛くて……そうだよ、お姉ちゃんの言う通り、わたしにはお姉ちゃんしかいないの」
 それが、全て。
 彼女にとっての世界そのものだった。
「だからね……お姉ちゃんに殺されるなら……わたしはとっても幸せ」
 ……ああ。
 ようやく気づいた。
 この子は確かに強くはないけど、弱くもない。
 だけど決して、私なんかが汚していいものではなかった。
 なんて、気高い。
 ある究極的な一点において、彼女は歴史上のどんなお姫様よりも高潔だった。
 それを、私は踏み躙った。
 こんな低俗な手段で、彼女の玉座に傷をつけてしまった!

「……ごめんね、こんな妹で……」

 徐々に掠れていく小春の声。
 彼女の体重が私の方にのしかかってくる。私は慌ててナイフから手を放して、その身体を抱き止めた。

「……ごめんね、好きになって」

 血の匂いに混じって、小春の髪の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 だが、すぐにその匂いは認識できなくなった。
 鼻が詰まったのか、どうも呼吸がしづらい。代わりに口から息をしようとしたが、ぱさぱさに乾いていて喉がちくりと痛んだ。
 気がつけば――視界が、揺れる水面のように波打っていた。

「――だいすき、だよ……おねぇ……ちゃ……」

 その言葉を最後に。
 小春の意識は、世界から断絶された。
「……こはる?」
 呼びかける。返事はなかった。
 ゆっくりと小春の身体を地面に寝かせる。小刻みに胸を上下させている――それにつられて、彼女のお腹から生えたナイフの柄も揺れる。
 まだ生きている。
 でも、まばたきした次の瞬間には死んでいるかもしれない。
「こはる」
 もう一度、彼女の名を呼ぶ。
 返事は……ない。
「うわ」
 溢れ出す。
 昏い光の奔流が、胸を突き破るように。
 私は――叫んだ。
「ああああああああああああああああああああああああああ!」
 殺してはならないものを殺してしまった。
 他者からの攻撃、支配、束縛、略奪。
 そのいずれも、彼女は許容なんてしていなかった。
 私から与えられるものなら、何でもよかったのだ。
 例えそれが苦痛であろうと、絶望であろうと――死であろうと。
 それが彼女が持ちうる唯一の誇りだったから。

 ワルキューレの長女、ブリュンヒルデは。
 最愛の夫、ジークフリードに裏切られてもなお、その愛を貫き通した。
 彼女は、彼が生まれるよりも以前から、彼のことを愛していた。
 何故なら、彼女が彼の名付け親だったから。
 母胎の中で息づく子供の存在が、彼女に愛を教えたのだ。

 もしかして小春は――母の胎内にいるときから、私のことを愛していたのだろうか。
 自分と一緒に身体を丸めて眠る、もう一人の自分のことを。
 そうなのだとすれば、これは人間同士が軽々しく口にしているような俗世的な愛などではない。
 神様だって知らない。言葉で表すことすら冒涜的。
 この世のどんなものより純粋で、美しい――そんな愛の形だった。

 それを、私が蹂躙してしまった。
 この手で。
 こんな汚い手で!
「……死なせない……」
 涙でぼろぼろになった顔を拭って、私は呻いた。
 この手で奪ったものなら、この手で奪い返してみせる。
 あなたが愛に生きるなら、私はそれを護ってみせよう。
 あなたの望む理想の私を演じてみせよう。あなたを騙しきった果てに、それが真実となるように。
 そして今から私の剣は、ジークフリードに向けよう。
 彼には渡さない。
 この愛は、彼女だけのものだ!
「だから、絶対に……死なせやしない!」
 私は小春を担ぎ上げ、走り出した。
 夕日も沈み、闇に染まった街を駆け抜ける。
 病院の場所なんて知らなかったから、ただがむしゃらに走った。
 やがてそれらしき建物を見つけた。
 小さな診療所だった。入り口には鍵がかかっていて、窓から見える待合室に明かりはついていなかった。
 今日は休業日なのか、それとも既に診察時間を過ぎてしまったのか――そんなことは入り口の横の壁にかけられている営業日案内の看板を見れば一目瞭然だったというのに、そのときの私はそこまで頭が回らないくらいに混乱していた。
「開けて! 開けてください!」
 一旦、小春を地面に下ろし、拳で扉を叩く。
 何度も、皮が剥けて血が出てもなお、叩く。
「お願いだから開けてください! 開けて! 小春がっ……小春が死にそうなんです!」
 自分で殺そうとしておいて、勝手なものだ。
 そう胸中で自虐する――が、そんな雑念はすぐに振り払った。
 これは、自分が犯した過ちなのだから。
 無かったことになんてできない。償うことも。
 だが、自分で自分を罰するくらいは許されてもいいだろう。
 そのためなら、どんなにみっともなくても叫んでやる。
 どんなに惨めでも、泣いてやる。
 小春を助けるためなら、どんなことだって。

「助けて――妹を助けてっ! お願いだからぁっ!」

 大声を出し過ぎて喉が破れ、口の中に血の味が広がってきた頃。
 待合室に明かりが点き――私が殴りつけていた扉から、鍵の外れる音がした。



***2***



 強烈な斬撃が虚空をえぐり、地を穿つ。
 薙刀の描く曲線はどこまでも優雅で美しく、そして刃の通り過ぎた後には死の可能性だけが残った。。
 対するは柄の赤いただの裁縫バサミ。間断なく迫り来る死の衝撃を、事も無げに受け止めては、弾き返す。
 優美さなんてカケラもない。ただ凶悪な、猟奇的な軌跡を夜の闇に映しては、消えて行く。
 まぁ、なんていうんだろうね。
「めちゃくちゃだ……」
 二人の攻防を傍観しながら、私はメンタル的に痛みだした頭を抱えた。
 ホンモノの薙刀を振り回している千歳ちゃんも、それをハサミだけで対抗している男も、
同じくらい何かが間違っていた。
「やぁっ!」
 気合いを吐き出して、千歳ちゃんが大きく前に踏み込む。同時に、上段から袈裟懸けに彼女の薙刀が迅る。
 膝よりも低い位置まで腰を沈めている。全体重を乗せた渾身の一撃。ハサミごときで防げるものではない。
 防げない攻撃なら、そもそも防がなければいい。
 男もそう考えたようで、その攻撃に対して前進した。
 扱う武器が大きければ大きいほど、スピードが重要となってくる。今みたいな大振りの一撃はどうしても最初の動きに無駄が生じてしまうし、太刀筋も読まれやすい。
 現に男はそれを見切っていたらしく、あっさりと薙刀の軌道の外側に身体を移動させていた。
 そして何より、タッパの長い武器は接近戦には向かない。
 小回りが利かないし、次の攻撃に移るまでにある程度のディレイが生じる。そういった武器は両手で持つことになるため、上半身が無防備になってしまう。密接されたらそれで終わり。もし仮に千歳ちゃんが防具を身につけていたとしても、手首などの関節にある隙間から刃物を刺し入れれば、容易に無力化することができる。
 男の狙いはまさにそれだった。刺したりはしないだろうが、体当たりをしてそのどさくさにパンツのリボンを切断するくらい、今までの彼の身のこなしを見ていれば簡単にやってのけるだろうと思えた。
 が。
「ふっ――」
 それは千歳ちゃんの吐息か、空気の弾ける音か。
 彼女が振り下ろした刃が、コンクリートの地面に接触するかしないかのスレスレのところで水平に旋回し、千歳ちゃんの身体もまた、渦を巻くように回転していた。
 ちょうど敵に背を向ける形になる。それに覆い被さろうと男が小さく跳躍したとき――薙刀の柄の底の部分が彼の腹部に深く突き刺さっていた。
「ぐ、ぶっ……!?」
 汚らしい苦悶の声をあげて、男の身体がほんの短い距離ではあったが宙を飛び、背中から地面に叩きつけられる。
「やるぅ」
 私は思わず、感嘆の息を漏らしていた。
 薙刀のことはよく分からないが、千歳ちゃんの動きはどう見ても競技的なそれではない。実戦に特化した、戦士のものだった。
「ていうか、千歳ちゃんて薙刀やってたのね」
「あ、うん。小さい頃から趣味でやってるみたい」
 独り言のつもりだったのだが、傍らの小春が答えてきた。
 もしかして道場にでも通っているとか? 或いは家自体が道場だとか。それもただの道場ではないはずだ――こんな時代であっても、常に刃と刃で語り合える敵を求めてやまない修羅が営んでいるに違いない。
 あれこれ考えていると、小春が続けてきた。
「通信教育で」
「ちょっと待ておい」
 小春相手に突っ込んでも仕方ないことと知りつつも、口が勝手に言葉を発していた。
「毎週、参考書とビデオが送られてくるんだって。千歳ちゃん家のお庭ってウチと同じくらい広いから、そこで練習してるんだって」
「マジで……?」
「千歳ちゃん、そう言ってたけど……あ、そうそう。あの薙刀も、参考書についてた応募券とお金を送ったらくれたんだって。なんでも全プレキャンペーンとかなんとかで」
 少女漫画雑誌かよ。
 通信教育程度であそこまでやれるようになるなんて……一体、どんな内容なんだその参考書とビデオ。すげー見たい。
 あるいは――見よう見真似で体得できてしまうほど、千歳ちゃん自身がセンスの塊なのかもしれなかったが。
 ……後者、ということにしておこう。
「ねぇねぇ千歳ちゃん」
 薙刀の柄を脇に挟んで、ふぁさっ――と小憎たらしい仕草で、空いた方の手で後ろ髪を払ってみせる千歳ちゃんに声をかけた。
「……何ですか?」
「今度、千歳ちゃんちに遊びに行っていい?」
 目的は、その通信教育の教材だが。
「小春と一緒であれば……構いません」
「おっけー。ちゃんとお土産も包んでいくからね」
 アポ取り完了。
「……で」
 と、千歳ちゃんは私の方から視線を外すと、未だ地面で身体をくの字に折り曲げて痙攣している男の方に向き直った。
 今は彼女にそっぽを向かれていて分からないが、ちょっとだけほっぺたを赤くしていたかもしれない。
 可愛らしいこと。
「まだやりますか?」
「…………」
 男は答えない――いや、答えられないと言った方が正確だろうか。
 あんなに痙攣していては、声を発することさえ辛いはずだ。
「警察が来るまでの間、あなたを拘束させてもらいます。おとなしくしていてくださいね」
 そう告げて、千歳ちゃんが近寄ろうとしたとき。
 男の痙攣が、止まった。

 ――まずい。

「逃げて、千歳ちゃ――!」
 叫んでも、もう遅い。
 バネ仕掛けの人形のように跳ね起きた男の右手が、千歳ちゃんの腰の辺りを撫でた。
 次の瞬間、彼女のスカートがふわりと舞い上がった。突然の上昇気流に為す術なく、ピンクと白のストライプが顕わになる。
 ただ、それだけ。
 それだけのことで――千歳ちゃんのパンツから、ひとつの形が失われていた。
「このぉっ――!」
 千歳ちゃんは半歩身を引いて、男の脳天めがけて薙刀を振り下ろす。
 先程と同じ、渾身の一撃。
 男は、今度は避けなかった。大きくハサミを開き、刃を受け止める。

 次の瞬間。
 お腹の中まで響くような衝撃音と共に、薙刀は刃と柄を分離させていた。
 まるで――ハサミで断ち切られたかのように。

「そんな……!?」
 狼狽している千歳ちゃんに向かって、男が突進する。
 そして、手加減している様子など微塵たりと感じられない強烈な膝蹴りで、彼女のお腹を打ち据えた。
「ぐっ……あっ!」
 今度は千歳ちゃんが地面をのたうち回る番だった。お腹を抱えて、激しく咳き込む。
「千歳ちゃん!」
 金切り声を上げて、小春が倒れ伏す千歳ちゃんの元へと走り出す。
 咄嗟に止められなかったのは失敗だった。男の足は、既に小春の方に向いている。このままでは千歳ちゃんと同じ目に遭わされてしまう。
 私は足下のナイフを拾い、小春の後を追った。左手を伸ばして、妹の肩を掴み、引き寄せる。
 遅れて、一瞬前まで小春の身体があった空間を、男のハサミが薙ぎ払う。
 私が小春を後ろに突き飛ばしてナイフを前に突き出すのと、男が返した手で追撃をかけてくるのは、ほぼ同時だった。

 ぎぃん!

 光の華が咲く。
 一歩間違えれば朱の色に支配されてしまいかねない、戦慄の輝きが。
「丘野!」
 と。
 遠くの方から、胡桃木のものらしき声がした。
「ちっ……邪魔が入ったな」
 男は舌打ちして、踵を返した。そのまま動物が身を隠すように、茂みの中へと飛び込んで行く。
 逃がさないって。
「小春、ここから動いたら駄目よ。いいわね?」
「お姉ちゃん、待っ――!」
 小春の制止の声を無視して、私は男の後を追った。



***3***



 ――小春はなんとか一命を取り留めた。
 診療所の先生の腕が良かったのか、応急処置を施した時点で小春の顔色は随分と良くなっていた。
 それから救急車を呼んで大病院に移動し、すぐに手術室に入ることになった。
 五時間。
 一般的な手術時間としては、長いのか短いのか分からないが――私にとってその時間は、永遠の地獄とも思えた。
 手術中のランプが消えた瞬間、私は泣いた。
 何度も担当の先生に「ありがとうございます」と感謝した。
 その夜、小春はとても苦しそうだった。
 何回か目を覚ましたが、私が話しかけても、その言葉すら認識できないようで、低い呻き声を漏らすばかりだった。
 小春の目尻から流れてくる涙を拭いてやる。
 数え切れないほど、拭いてやった。

 朝になると、小春は落ち着きを取り戻した。
 病院の誰かが連絡したのだろう、昼前になってようやく両親が駆けつけて来た。
 二人とも海外にいたはずなのに。
 別に当てもなく各地を放浪しているわけではないので、連絡を取るのは難しいことではない。
 海外のどこにいたのか、そこから夜の便の飛行機で日本まで何時間かかるのか分からないが――事の起こりから約十五時間。かなり早い方だと思った。
 二人の目は真っ赤だった。ずっと不安で、飛行機の中でも眠れなかったのだろう。
 そんなに心配なら、どうしていつも小春の側にいてやらないのか。
 今更、私がそれを憤れるような立場でもなかったが。
 どうしてこんなことになったのか、と二人に訊かれた。
 医者には、通り魔に刺されたと言った。
 私は両親にも同じことを告げた。
 だが、それは嘘だと見抜かれていた。
 二人は被害届を警察には提出しなかった。病院側にも、このことは内々に処理をしたいと、事が大きくなる前に抑止をかけた。
 通り魔事件となれば普通なら、いくら家族の意向でも病院としてはそれを押し切って警察に連絡するはずだろうが。
 というか、既にされていた可能性もあったが。
 以後、警察が動くことはなく、医者たちも腫れ物を触るように小春の治療に当たった。
 そういうことができる人たちなのだ。この両親は。
 二人は私を怒らなかった。ただ泣きながら、私のことを抱き締めてきた。
 ごめんね、と耳元で謝られた。
 その言葉は、小春が目を覚ましたときに言ってやれ。
 何故か私は、その言葉を言い返すことができなかった。
 本当に、何故だろう。
 今になっても分からない。

 小春は丸一年、入院することになった。
 ナイフが内臓をかなり傷つけていたらしい。そうなると傷口が塞がっても、腸閉塞などの合併症が起こり得るため、長期の治療が必要となる。
 再手術の可能性もあったが、なんとか無事に小春は退院の日を迎えることができた。
 だが、小春のお腹に残った傷は一生つきまとうものだ。それを少しでも目立たなくするため、その後も数ヶ月に渡って整形外科に通うことになった。
 そして季節は春、私は六年生に。
 小春は――五年生に。
 一年の入院期間中、小春はの形上だけでは五年生に進級していたのだが、結局その間、一度も通うことはなかった。
 このまま六年に進級したくない。
 それは小春本人からの希望だった。
 小学校で留年とするのは、決して不可能なことではない。私たちの通っている学校が私立ということもあったし、でまかせとはいえ通り魔事件を無かったことにしてしまえる両親からの口添えがあれば、むしろ簡単だとすら言えた。
 しかし、怪我で入院していたから留年した――それを容易に理解してもらえるほど、小学生というのは扱いやすいものではない。
 案の定、最初の登校日、小春は今まで以上にきつい仕打ちを受けることになった。
 男子からは直接的な中傷を。女子からは密やかな言葉の暴力を。
 だけど、放課後――私が小春を迎えに行くと、彼女は笑っていた。
 妹の側には、友達がいた。
 佐倉千歳。
 彼女は強かった。
 相手が男子でも、怯むことなく立ち向かっていった。
 小春のためなら、どんなことでもやってのけた。
 そんな彼女が、私は少し羨ましかったのだと思う。
 誰かのために、あんなふうに必死になれる千歳ちゃんが妬ましかった。

 形は違うけれど。
 邪な気持ちなのかもしれないけれど。
 私は、私のために、小春のことを大切にしようと思った。
 いつだったか、病院のベッドで寝ている小春の唇にキスをした。
 彼女は知らないだろうが。
 それは、私からの一方的な盟約の証だった。
 そう――盟約。

『これから私は、あなたにたったひとつの確かなものを見せてあげる』
『だからあなたは、私をさがして』
『これはそう遠くない未来、再び巡り逢うための誓約』

「私は……秋葉」
 あなたのたったひとりのお姉ちゃん。
 私がどこにいるのか分からないと、あなたは言った。
 これから長い時間をかけて、私はあなたを守り、愛する。
 だからその代わり、私をみつけて。
 これは戯曲。
 私とあなたが本当の意味で巡り逢うための。
 切なく、愛しい――物語。



***4***



 茂みを掻き分けて、走る。
 スカートで草の生い茂った道を移動するのは困難だった。素足の露出した部分を葉っぱで切ってしまうからだ。
 丈の長い靴下を履いているからまだマシだが、それでもちくちくと痒みの伴う痛みがした。
 おかげで、男との距離はどんどん開いていくばかりで――やがて完全に姿を見失い、肩を上下させながら立ち止まった。
「はぁっ、はぁっ……はぁ……」
 乱れた息を、ゆっくりと整える。
 静かだった。自分の吐息以外に聞こえるものは何もない。虫すら鳴いていない。
 まだ気を抜くなと、頭の中で警鐘が響いている。
 右手のナイフに意識を集中しながら、目を細めた。
 視線の先の闇がブレた――ように見えた。
 何か、恍惚にも似た感情が、私の唇を吊り上げた。
「――――!」
 大きく息を吸って、止める。次いで、ナイフを闇に向かって真横に振るう。
 ちょうど刃先が私の視界の一番端を薙いだ瞬間、固い何かにぶつかって弾かれるのを感じた。
 それが何かは、確認せずとも分かっていた。
 前方の地面に身体を転がし、立ち上がると同時に背後へとナイフを一閃。
 再度、衝撃。
 そこには赤い柄のハサミと――凄絶な笑みに歪んだ男の顔が、闇の中に浮かんでいた。
「これだよこれぇ!」
 奇声に近い声で男が叫ぶ。
 地形条件的にはこちらが圧倒的に不利。男に踏み込まれないように牽制しつつ横軸に移動しながら、狂ったように突き出されてくるハサミをナイフで弾く。
「さっきの嬢ちゃんにはこれが足りなかった!」
 興奮のせいか、どうもさっきより男の滑舌が悪いことに気づく。
 ふと男の口元を見ると、何か小さな赤っぽいものを舌で転がしていた。
 それは、リボンだった――恐らく、千歳ちゃんのパンツについていたもの。
「一歩間違えば死に至る――この感覚だよ! 最高だな、おい!?」
 これまで私の胸元周辺ばかりを狙っていたハサミの軌道が、急に上方に逸れた。
 視界の中心に、破滅の光点が二つ。
 私は咄嗟に身を屈め、左手で男の腹を突き飛ばした。
 男が僅かによろめいた隙に後方に跳躍して、間合いを取る。
 ――気持ち悪いくらいに目が乾いていた。ナイフを握る手は、それとは逆に汗ばんでいる。
「目を、狙ったわね」
「嬢ちゃんもさっきやったじゃねぇか。おあいこだろ?」
 私の言葉に、男は肩をすくめて事も無げに答えてきた。
「ここからは本当にパンツのリボンだけじゃねぇぞ――命に貞操帯はつけてきたか!?」
 死の宣告。
 闇の中、男のハサミが踊る。
 凌がなければ、確実に致命傷になる。即死すら有り得た。
 それらを何度もナイフで弾きながら、相手のスピードが早くなっていくのを感じる。
 もしくは、こちらの体力が追いついていっていないのか。
 ……駄目だ。
 この身体は、あまりにも幼すぎる。
「ヒャハハハハ! 最高ぉー!」
 男がハイテンションに吼える。
 元々、殺人者としての素質があったのだろう。ハサミの扱い方を人間離れなレベルまで極めることによって、同時に凶器としての特性も磨かれていったに違いない。
 男の体格や風貌を見るに、特に鍛え抜かれているというわけではなく、過去に実戦経験があるとは思えなかった。
 つまり――さっき、たった一度の殺し合いを体験しただけで、この男はその”素質”を開花させてしまったのだ。
「人間離れしてるにも程があるっての……!」
 毒づいて、その勢いで――というわけでもなかったが、攻撃の合間を見計らって、相手の懐に飛び込む。
 そして、ナイフを突き出す。
 これだけの至近距離だ。かわすことも、防ぐことも不可能。
 ――の、はずだったのに。
 刃は虚空を貫いただけで、皮膚を切り裂いた感触すら伝わってこないばかりか、男の姿自体がその場から消失していた。
「そんな……!」
 呻く、と――
 足下から放たれてくる強烈な殺気を感じ取って、目線だけでその発生源を追跡する。
 まるでトカゲのように男が四つん這いになっていた。ぎょろりと剥いた目は、この角度で見ているからかもしれないが、まさしく爬虫類のそれだった。
「アキレスゲットォー!」
 男の右手が鞭――いや、蛇のようにしなる。
 こちらの足首を目がけて、その毒牙は襲いかかってきた。

 ――やられた――

 内心、諦めながらも、数瞬前に前方に突き出したナイフを逆手に持ち替える。
 適当に角度を調整して、私は柄の部分にあるスイッチを押した。

 ――イチかバチか!

 ばちん、とバネの弾ける音がして、ナイフの柄から刃の部分が飛び出す。
 鋭い激痛が、くるぶしの辺りに走った。
 次いで、足下から金属音が聞こえてくる。それが私の足に何の衝撃ももたらさなかったことを確認してから、痛まない方の足で男の顔面を蹴り上げた。
「ぐぶっ――!」
 カエルが後ろにジャンプすれば、きっとこんな感じになるだろう――男は背中を反らせて、後頭部から地面叩きつけられる形で倒れた。
 その隙に、自分の足を見下ろす。
 私が射出したナイフの刃が、かかとのちょうど真横の辺りの地面に突き刺さっていた。その際にくるぶしを傷つけてしまったのだろう、ぱっくりと切り開かれた靴下が、凄い勢いで赤黒く染まっていく。
 柄に刃を戻すため、その場にしゃがみ込もうとしたが、足に電気が流れたような痺れを伴う激痛が走ったせいで、思わずバランスを崩して尻餅をついてしまった。
 まるでその瞬間を待ち望んでいたと言わんばかりに――ゆらりと、男が立ち上がってくる。
「ゲームオーバー、だな? 嬢ちゃんよ」
 私が蹴ったせいで少しひん曲がった鼻から血をだくだくと垂らしながら、男が接近してくる。
 周囲は闇に包まれているというのに、彼の手の中にあるハサミが一度だけ強く光ったような気がした。

 ……これまでか。
 ナイフを元の状態に戻しても、この足では到底、立ち回れそうにない。
 足を怪我していなかったとしても、いつかは体力負けしていただろう。
 元より勝ち目のない勝負だった。
 悔しいが、そう言わざるを得ない。

「まずはリボンを貰うぜ……貫通式はその後だ。俺がイッてもそれで終わりだと思うなよ? 嬢ちゃんのアソコじゃ俺のはきついだろうからな、オモチャ突っ込んでちょうどいい緩み具合になるように矯正してやるよ」
「……ふん、爪楊枝風情が、高望みな妄想してるんじゃないわよ」
「お望みとあれば、後で尿道も爪楊枝で拡張してやる」
 ケラケラケラ、と男の下卑た笑い声が闇に響く。
「さあ」
 口元には笑みを貼り付けたまま、
「舌を噛み切って死ぬなら、今のうちだぜ?」
 告げてきた、その直後。

 何かが、空から降ってきた。
 それは人の形をしていて、高く振り上げられた足――と思われるもののかかとの部分が、男の脳天を痛打する。
「ごっ――!?」
 だが、男は苦悶に喘いだだけだった。
 ざっ――と、男の背後にそれは着地した。
 男の股越しに、その姿を視認する。

 胡桃木だった。クラウチングスタートみたいな体勢で地面に両手と片膝をついている。
「誰じゃぅらぁぁぁぁぁあ!?」
 言葉になり損ねた絶叫を発しながら、男が胡桃木の方を振り返る。
 男がハサミを動かすより早く、胡桃木が叫ぶ。
「崇っ!」
 がさっ、と木々が揺れる音がして、再び視界に人の形をしたものが舞い降りてくる。
 胡桃木のときとは違い、そいつ――崇は身体を縦に反転させ、オーバーヘッドキックで男の後頭部を蹴り飛ばした。
 それと同時に、胡桃木がスタートを切る――といっても走り出したわけではなく、ただ立ち上がっただけだ。
 崇に蹴られて前のめりに倒れかけた男の顎に、胡桃木の頭突きが突き刺さる。
 骨と骨のぶつかり合う衝撃音が響いて、男の身体が今度はエビ反りになる。
 そこにさらに崇からの追撃――と言っても、無造作に男の腰の辺りを蹴っただけだったが。
 それでおしまい。
 男は白目を剥いて、大地を掻き抱くように昏倒した。



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