第十七話 「リボンズドア(死闘編)」

***1***



「ごめんなさいっ……ごめん、なさいっ……」
 泣く。
 鳴く。
 玄関で、靴も脱がずに立ち尽くしたまま、啼く。
 先に家の中に上がった私は、そんな小春を半眼で見据えていた。
 本当に悪いことをしたなんて、これっぽっちも思ってはいないくせに。
「ドアくらい閉めなさい。もし誰か来たらどうするの? みっともないったらないわ」
「ご、ごめんなさい……」
 開きっぱなしになっていた扉を、急いで閉める小春。
 慌てていたせいか、彼女のスカートが扉の間に挟まった。本人も穿き慣れていないような――そもそもサイズからして合わない――丈の長いスカートなのだから、咄嗟に気を付けることができなくても当然だろうが。
「あ……」
 小春は再びドアノブを回して、スカートを引き抜こうとした。
「待ちなさい」
 私が制止の声を上げると、小春の身体はぴたりと硬直した。
「私はドアを閉めろと言ったのよ」
「だ、だって……スカートが挟まって……」
「引き千切ればいいでしょう?」
「できないよ、そんなことっ……!」
「そんな簡単なことが出来なくても、私には逆らえるっていうのね」
「違うっ!」
「どう違うっていうの? あなたは私の言葉に従ってドアを閉めた。それをまた開けるだなんて、逆らっているとしか思えないじゃない」
「そんなつもりじゃ……っ!」
 小春は憤慨しながら私の方に向き直って――だが、それまでだった。
 こちらに詰め寄ろうにもスカートは挟まったまま。反論するための言葉のボキャブラリーはあっても、彼女の怯えたような泣き顔を見れば、絶対に言い返してなどこないと確信できた。
「本当、情けない子」
 ありったけの侮蔑を込めて、私は告げてやった。
「そうやって中途半端に刃向かって止めるくらいなら、最初からおとなしく私の言うことに従っていればいいのよ」
「……はい」
 弱々しく、小春が頷く。
 それで自分が少しだけ調子づいたことを、私は自覚した。
「私が無茶なことばかり言っているの、お馬鹿なあなたにだって分かるでしょう? なのに、どうしてそんな簡単に認めたりするわけ?」
「お姉ちゃんのこと好きだから……だから……」
「好きだから、何?」
「……嫌われたく……なくて……」
 は。
 思わず、笑みがこぼれた。
 好きだから? 嫌われたくないから?
 何を言っているのだ、こいつは。
「私のどこが好き?」
「……優しい……から」
「こうやって今、あなたを苦しめている私のどこが優しいっていうの?」
「それは……」
「分かったわ。あなたが苛められているのも、私の責め苦を優しいと言うのも、全てはあなたが異常性癖の持ち主だったからというわけね。このマゾ女」
「違うよぉ……そんなんじゃなくて……わたし、本当にお姉ちゃんのことが……」
 小春はうつむいて、しゃくり上げ始めた。
 また、泣いた。
 ――女の涙は武器になると言うが。
 この子のそれに、そんな強靱さは微塵たりと感じられない。
 まるでやわ毛で人の心を逆撫でして楽しまれているみたいで、イライラした。
「だったら――あなたはどこにいるの?」
 小春に問いかける。泣きじゃくってばかりで、答えてくる様子はなかったが。
「好きだから嫌われたくない――それが矛盾しているってことに、どうして気づかないの? そんなものが対等な関係だなんて信じているわけ? あなたのその気持ちは交差していないどころか、一方通行ですらない。ただずっと私の後ろをついてきて、振り返ってもらえるのを待っているだけじゃない」
 ああ、私も馬鹿だ。
 こんなこと、別に言わなくてもいいのに。どうかしてる。
 でも、言い出してしまったからには止まらない。
「それなのに、肝心なあなたはどこにもいない。自分を私に仮託して、そこにいるつもりになっているだけ。そんなの気持ち悪いだけよ」
 本当に誰かのことが好きなら、自分のことも好きになってもらえるように努めるべきだ。
 その過程を無視してただ嫌われたくないだなんて、押しつけがましいにも程がある。
「あなたは私のことが好きなんじゃない。私しか頼れるものがないから、必死になっているだけよ」
 だから、嫌われたくない。
 そこにいる自分を認めて欲しくて――感じて欲しくて、人は他人を求める。
 彼女の側には、ちょうど双子の姉という便利な存在がいた。
 学校では苛められ、友達もいない。
 そんな彼女には、もはや家族くらいしかすがれるものがなかった。
 一番気に入らないのは、彼女が家族ならば無条件で自分を認めてもらえると思っているところだ。
 だから交差しない。一方通行にぶつかってもこない。
 ただそこに浮かんでいるだけの影のようなものだ。
 闇の中から、ねっとりと私のことを見つめているだけ。
 形のない存在を、どうして認めることができるだろう――手を取って、引っ張ってやることができるだろう。
 そんなモノを――
「好きになんて、なれるはずない」

 今にして思えば。
 あのとき私があんなことを言わなければ、違う未来が待っていたのかもしれない。
 全てはこれから始まったのだと、今だからこそ思える。

「でもわたしは好きなんだよぉっ!」
 びりびりっ――と。
 何かを引き裂くような音がすると同時に、小春の身体が動いていた。
 足首のあたりからふとももの中間まで、斜めに千切れたスカートを翻しながら、彼女は私の身体に抱きついてきた。
 胸の中で、叫ぶ。
「わたしはここにいるよ――こうやってここにいるんだよっ! ほんとにいないのはお姉ちゃんの方じゃない!」
 いない。
 私が、いない?
「わたしにはお姉ちゃんがどこにいるのかわかんないの! 頑張って捜してみたけど、やっぱりどこにもいなかった! お姉ちゃんこそ、どこにいるのよぉ!」
「私は――」
 今度は、こちらが口ごもる番だった。
 何も言い返せない。上辺だけのせりふなら、いくらでも言えた――けど、そうする気になれなかった。
 ここで狼狽えてしまったら、全てが台無しになりかねない。
 言うべきだ。
 悟られたくなければ、言うべきだ!
「好きだよ……大好きだから……返して――わたしのお姉ちゃんを、返して!」
 ――駄目だ。
 早く、ケリをつけなければ。
 イライラする。ああ、イライラする。
 イライラするイライラするイライラするイライラするイライラするイライラするイライラする!
 他者からの攻撃、支配、束縛、略奪。
 そんなものが嫌だったから、私は逃げ出したのだ。
 にも関わらず、また私は舞い戻ってきてしまった。
 うまくやれると思っていた。
 けど、それら全部を許容してしまえる彼女の存在が私を苛立たせた。
 そんな彼女が――初めて、私に牙を向けた。
 彼女の言葉は、私に絶望を思い出させた。
 どこにもいない私。
 逃げ出して、戻ってきたのに、まだどこにもいない。
 認めるのか。それを認めてしまうのか。
 私は、ここにいるのに!

 ――ここに、いるのに――



***2***



 闇の中を、なるべく自然な足取りで進む。
 頼れるものは各所に取り付けられた街灯だけ。だが光量は乏しく、道の端の茂みの中まで見通すことはできそうになかった。
 こういった薄暗い視界というのは、距離感を喪失させる。足下だけ見て歩いていると、時々圧倒的な閉塞感に襲われて目眩がした。
 作戦開始から、かれこれ三十分ほどこうしている。
 三十分かけて、ようやく私は理解した。
 どうして夜道では人が襲われやすいのか。
 ただ暗いからだけでなく、闇は人を孤立させ、不安を煽り、冷静な判断力を奪う。
 そして何より、疲労の蓄積速度が昼間の比じゃない。
 感覚が敏感になりすぎているのと、いつ襲いかかってくるか分からないという恐怖心のせいもあるだろう。
 一歩前に足を踏み出すだけで、鉛のような重さが膝から下にのしかかる。少し息も切れてきた。動悸も激しさを増している。
 想像以上に――これはきつい。
「まぁ……失敗してもパンツのリボンを持って行かれるだけなんだけどね」
 そう考えると、少しだけ気が楽になった。
 何も向こうは、こっちを殺すつもりではないのだから。
「私はその気だけどね」
 まだ見ぬ変質者に向かって、そう宣言する。

 もうしばらく歩くと、小春と千歳ちゃんのいるベンチに着くはず。
 それとなく前を通り過ぎて安否を確かめておくのも良いだろう。
 その道すがら、何台かの自転車が通り過ぎて行った。乗っているのは、いずれも私と大して変わらないくらいの年頃の子たち。
 胡桃木が、この公園はよく塾帰りにショートカットとして使われると言っていたが、あの子たちがその利用者なのだろう。
 出入り口が近いせいか、それからも何人かの人とすれ違った。その中に小春の証言にあったサラリーマン風の男もいるにはいたが、何の接触もなかった。
 そして今も一人、アタッシュケースを片手にぶら下げたビジネスマンが横を抜けて――
「――――!」
 小春はそれを、突風が吹いたみたいだと言った。
 これは――そんな生易しいものではない。
 まるで大口を開いた蛇が飛びかかってくるがごとく。
 一条の鋭利な殺意が、つま先の方から突き上げるように放たれてきた。

『常に冷静さを保ち、自分が置かれている状況に最も適した行動を瞬時に模索し、躊躇うことなく遂行しろ』

 不意に、胡桃木の言葉が脳裏に浮かんで、消えてゆく。
 そんなこと言われるまでもない。
 そうしなければ生きていけない時代があったことを、お前は知っているのか――!

 腰に手を回す。
 半歩だけ後ろに身を引いて、同時に手を前へ。
 あらかじめ対抗策として頭の中に描いていたイメージを――躊躇うことなく、遂行する。
 そして。

 がぃんっ!

 闇の中に、火花が散った。



***3***



 実験は失敗だ。
 どんなことをしても、彼女を屈しさせることはできない。
 彼女のはただ私の言いなりになっているだけ。それでは意味がない。
 心まで支配してしまわなければ。
 昨日はついに私に牙を向けた。借り物のスカートを破いてまで。
 私は常に致命的な一打を、彼女に加えていると思っていた。
 だけど、違った。
 その痛痒の数々のことごとくを彼女は耐え切って、あまつさえ許容してみせた。
 そう――私は勘違いしていたのだ。
 彼女を絶望に至らせるための手札は、私の手の内には無かった。
 切り札を持っていたのは、実は彼女の方だったということに気づかなかった。
 このままでは、いつかは私の方が彼女に喰われてしまう。
 先手を打たなければ。
 だったら、どうすればいい?

 そのときの私には、たったひとつの手段しか思い浮かばなかった。
 それしか、私にはなかったから。

 あなたに謝りたい。今日の放課後、屋上に来て。
 そんな内容の手紙を、彼女の枕元に置いた。
 その日の朝、彼女は終始、嬉しそうだった。
 彼女はこんなふうに笑えるのだと――まだ、笑えるのだと知って、私はさらに苛立った。
 イライラ。
 用意しないといけないものがあるから後で行くと告げて、先に家を出て行く彼女を見送った。
 イライラ。
 台所に立つ。ステンレスの流し台に映る私の顔は、引きつるようにして笑っていた。
 イライラ。
 ああ、こんなことでしか私は笑えないのだと。
 イライラ。
 目的を果たして、家を出た。
 空を見上げた。良く晴れていた。
 イライラ。
 これから起こることは、今までのようなごっこ遊びじゃないわよ、小春。

「お姉ちゃん、遅れてごめんなさい」
 空が夕日の色に染まった頃、のこのこと小春が屋上にやってきた。
 フェンスを背にして、私は彼女の顔を見つめた。
 頬を紅潮させて、軽く息を荒らげている。走ってきたのだろう。
「わたし、今日は日直と掃除当番がかぶっちゃって……その、他の当番の子たちはみんな帰っちゃったから」
 厄介事を押しつけられて、それを全部ひとりでこなしていたために遅くなったのだと彼女は言う。
 それは彼女にとっては弱さなのか――強さなのか。
 私にはもう分からなかった。
「いいのよ、私も今来たところだし」
 笑顔を繕って、応える。
 周囲一帯、朱の世界。この時間は、私の領域だ。
 今なら、何でもできるような気すらした。
「それでね、小春。話っていうのは――」
「あっ、そのっ……わたしっ!」
 私の言葉を遮って、小春が声を張り上げてきた。
「別にその、謝って欲しいとかそんなんじゃなくて、というかどうでもよくてっ……昨日お姉ちゃんが言ってくれたこと、あれってやっぱりわたしの影が薄いからとか、そういうのが悪いんだって教えてくれたんだと思うし……そもそも、わたしがもっとしっかりしてれば、こんなことにはならなかったんだよね」
 早口で、時折舌を噛みそうになりながら。
 それでも彼女は自分に非があるのだと主張してくる。
 また、イライラ。
 胸中で煮え立つものを押し隠して、私は口を開いた。
「そうね、もしそうだったら……きっとこんなことにはならなかった」
 フェンスから離れて、小春に近づく。
 右手は腰の後ろに。左手を彼女の方へと差し出す。
「だから――今までの私たちには、さよならをしましょう」
「……お姉ちゃん……」
「おいで、小春」
 促す。
 小春はおずおずと、私の手に触れてきた。
 初めてのキスに戸惑うように、何度も軽く触れては離れてを繰り返す。
 やがて決然と、強く握り締めてくる。彼女の手のひらは少し汗ばんでいて――凄く、柔らかかった。
 その手を勢いよく引っ張って、私は小春の身体を抱き寄せた。
「あ――」
 小さな吐息が、小春の口から漏れた。
 それを聞いて、私は満足した。
「バイバイ」
 そして最後の囁きを、彼女の耳元に吹きかける。
「生きていたら、また会いましょう」
 ゆっくりと、たっぷり時間をかけて。
 私は右手に隠し持っていた銀の輝きを、小春のお腹の中へと沈めた。



***4***



 右手に握った銀の輝きを、すくい上げるように一閃させる。
 甲高い金属音と共に火花が散り、その刹那の瞬きの中で、驚愕に目を見開いている男の顔を、私は確かに見据えた。
「く――!」
 低く呻いて、男が二撃目を繰り出してくる。
 それは愚行だった。男は私の右手を見ていない。何か金属板のようなもので偶然、自分の攻撃が防がれたのだと思いこんでいるからこそ、そんな迂闊なことができる。
 初撃を捌いたときより、私の心は冷静になっていた。
 敵の攻撃の軌跡は二つ――別に二本の刃物を片手に持っているというわけではない。
 ハサミだった。恐らく、裁縫用。まさに大蛇の顎のごとく上下に開かれたそれを、咄嗟に逆手に持ち替えたナイフで受け止める。
 再度、火花が周囲を照らし出した。
 その瞬間、男も気づいただろう。私が何を使って、自分と交戦しているのか。
 明らかに狼狽している男の懐に、一歩だけで踏み込む。その足を軸に身体を回転させ、相手の眼球を狙ってナイフを突き出す。
 が――肉をえぐる感触は伝わって来ず、代わりに空気を引き裂く虚無感だけが指先に残った。
 見ると、男はスーツが汚れるのも厭わず、持っていたアタッシュケースも放り出し、ごろごろと地面を転がっていた。
 ……へぇ。
 言葉通り、目の前に迫った致命的な一撃に対して、咄嗟に対処できるだなんて……ただの変質者じゃないわね、この男。
 確実に片目を拾えたと思ったのに。残念。
 ある程度、私と距離を置いたところで男は素早く立ち上がり、信じられないものを見るような目で私を睨んできた。
「……お前、昼間のおにゃのこじゃないな?」
 うっわー……。
 おにゃのことか言ってるよ、こいつ。
 この緊迫した状況でそれはないだろ……すっごい興醒めするんですけど。
「妹が世話になったわね、変態さん」
 だけどあらかじめ告げようと考えていた一言だけは、言っておく。
「妹? ……そうか、双子か」
「そういうこと」
「妹と同じ可愛い顔をして――姉の方は随分とえげつないことをするんだな」
「襲う相手を間違えたわね。悪いけどあなたのこと、全力で潰させてもらうわ」
「さっきは油断していたせいで遅れを取ったがな」
 と、男はぴっちりと七三に分けられた髪をくしゃくしゃと掻き回した。お世辞にも多いとは言えない前髪を額に垂らし、続いて深く腰を沈める。
「次はねぇぞ……パンツだけじゃねぇ、そのツインテールを結んでるリボンも戴いていくぜ!」
「いや、だからどうしてそんな緊張感を殺ぐようなことばっかり言うかなぁ」
 つい、呆れるがあまりにそう言い返していると。
 男が弾丸のような勢いで飛び込んできた。
 やばい、ミスった――どんな状況であれ、決して気を抜いてはならなかったのだ。
 慌ててナイフを疾らせるが、タイミングが合わない。相手はこちらの身体を狙っているわけではないのだ――下手に軌道を逸らせば、逆に皮膚を引き裂かれかねない。
 こうなれば相打ち。
 リボンを切り取られるのは覚悟を決めて、私は刃先を男の身体の方に向けた。
 こちらはパンツのリボンを失い、相手は刺されて血を失う。うまくいけば、絶命。
 リスクとしてはまったく釣り合っていないが、これは大人と子供の喧嘩だ。このくらいのハンデはあってもいいだろう……!
「ち……!」
 男が舌打つと同時に、ナイフを持つ手に衝撃が走った。
 肩まで響き、一時的に握力を失った手からナイフが落ちる。
 さすがにリボンと命を天秤にかける気にはなれなかったのだろうか、男は私の狙いに気づいてこちらの攻撃を防いだようだった。
 なんにしろ、このままではまずい。ここで追撃をかけられたら、かわしきれる自信は私にはない。
 私が武器を拾うのが早いか、男が動くのが早いか。
 一か八か、私は足下に転がったナイフに手を伸ばし――
 そこで、男がこちらを見ていないことに気づいた。
 しかも背中まで見せている。
 逃げるつもりなのだろうかと思った途端、男の身体が横に跳んだ。
 それを追いかけて――何か、死神の鎌のようなものが横一線に光の筋を描いていた。
「うわぁっ!?」
 私は咄嗟にその場に四つん這いになって、頭上を通り過ぎていく巨大な刃をやりすごした。
 見上げる。
 長身の女の子が、薙刀を振り回していた。
「千歳ちゃんっ!?」
 思わず、彼女の名を叫んでしまう。
 千歳ちゃんは手の中でくるくると優雅に薙刀を回し、決めとばかりに柄を地面に打ち下ろした。
 そして私の方を見ずに、口を開く。
「大丈夫でしたか、先輩」
「……ありがとう、もうちょっとで首が飛んでいたところだったわ」
 あんたのその物騒なエモノでね。
 だけど千歳ちゃんはこちらの皮肉にまったく気を止めず、悠然と変態男と対峙していた。しかも何だか私のときより緊迫感のある空気が二人の間に流れていたりして。
 ……おいてけぼりかよ、私。
「先輩、それ」
「え?」
 千歳ちゃんがちらりと見てきたものは、私が持ってきたナイフだった。
 ああ、そっか。元々はこれ、千歳ちゃんのものだったわね。
「あー。ごめんね。こないだ秋葉原に行ったときに千歳ちゃんの鞄からくすねて、返すの忘れてたの」
「……それは気づいてましたから別にいいですけど」
 やっぱり。
 あれから何も言ってこないからそうだろうと思っていたけど。
「そんなもの、どこに忍ばせていたんですか」
「冬服って、厚みがあってこういうとき便利よね」
 私は羽織ってきたジャケットの内側を覗かせてみせた。
 クリップを縫い付けて、鞘を引っかけられるように細工しただけだ。
 それを見て、千歳ちゃんが小さくため息をついたのが聞こえた。
「……殺し屋みたいなことしますね」
「千歳ちゃんのそれに比べたらこんなの可愛いもんでしょ」
 今度こそ、彼女は私の皮肉に肩をすくめてくれた。
「お姉ちゃん、千歳ちゃん!」
 遅れて、小春の声がした。
「大丈夫っ!?」
 地面にしゃがみ込んでいる私を見て、どこか負傷したのだと思ったのだろう。一直線に私の元に駆け寄ると、強く肩を抱き寄せてくれた。
 いい子だねぇ、ほんとに。
「なんともないから。平気よ」
「良かった……」
 安堵のあまりか、ぽろぽろと涙をこぼす小春。
 私はそんな妹の顔を自分の胸に押しつけて、やましい気持ちと共に抱きしめた。
 危機的状況万歳。
「…………」
 あ。
 見てる見てる。千歳ちゃんがこっち見てる。すっごい怖い目で見られてるよ私。
「くくく……次から次へと鴨がネギしょってやって来たな」
 まるっきり三流悪役のせりふを吐いて、ビジネスマン風の変態男はハサミをカチカチと鳴らした。
 その声に、私も千歳ちゃんも小春も、我に返った。
 男はなおも感極まったように、続けてくる。
「たまんねぇー……お前らのパンツからリボンの匂いがぷんぷんとするぜぇ……朝から穿いてんだろ? だったらたっぷり汗を吸ってるよなぁ? あーもー、おじちゃんしゃぶりたくてしゃぶりたくておかしくなっちゃいそうだぜぇ?」
 いや、もう充分おかしいから。あんた。
 ていうか百歩譲ってリボンの匂いが嗅げたとして、それってパンツ自体の匂いとどう違うんだ?
「喜べ。お前らのリボンは特別に、俺のケツの穴に突っ込んで味わってやるからよぉー!」
 だ、駄目だ、こいつ。
 ホンモノのドキチガイだ。
「先輩、小春をお願いします」
 その凛々しい眉目に決然とした強い意志を湛えて私にそう告げ、千歳ちゃんが薙刀を踊らせる。
 最初に三撃まではただの牽制。男もそれを見抜いていたのか、微動だにしない。
 四撃目。

 じゃぎんっ!

 斜め上方から振り下ろされた強烈な白刃を、男はハサミで摘むようにして防いでいた。
 ……うそぉん。
「ったく、今時の小学生は平気で刃物を振り回してくるんだな」
 いくら千歳ちゃんと男に根本的な力の差があるとはいえ、薙刀は決して軽い武器ではない。それをハサミなんかで受け止めたのだから、指の一本や二本、どうにかなっていてもおかしくはないというのに、まったくそんな様子が見られない。
「くっ……!」
 後ろに跳んで、男との距離を空ける千歳ちゃん。
 男は追撃をかけない。動揺しまくった今の彼女が相手なら、簡単に事を為し遂げられたはずだろうに。
「気が変わった。お前らにはおしおきが必要のようだ」
 ハサミを手の中でくるくると回しながら、男が笑った。
「今宵、お前らが散らされるのはリボンだけじゃねぇ。リアルな純潔、守れるもんなら守り通してみろよ!」
 咆吼。地を蹴り、駆けてくる。
 千歳ちゃんの薙刀も、空に浮かぶ月のごとく弧を描く。

 そして、何度目かの剣戟が夜の公園に鳴り響いた。



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