第十五話 「リボンズドア(中編)」

***1***



「まずい」
 テーブルの上にお箸を投げ捨てるように置いて、私は憮然とそう告げた。
 お茶碗を片手に、今すぐにでも泣き出してしまいそうなほど、小春の目が潤む。
 顔がどんどん赤くなっていく。
 怒ったわけではない。我慢しているのだ。我慢しすぎて――苦しんでいる。
 目尻に宝石のような涙の玉が浮かぶ。
 完全に自制することはできなかったらしい。
 それでもそれが頬を伝うことはなかった。
 服の袖で軽く拭い、さも気にしていないと主張せんがばかりに、真っ赤な顔に笑みを灯してみせてくる。
「そ、そっか。ごめんね、わたし、いつまで経ってもお料理、うまくなんなくて……」
「まったくだわ」
 そんな彼女の精一杯に、容赦なく追撃をかける。
 小春の笑顔が崩れた。
 また泣きそうになる。
 私はそれを横目に、内心ほくそ笑みながら席を立った。
「あ、お姉ちゃん……どこいくの?」
「出かけてくる。今日は帰らないから」
「出かけるって……もう夜だよ? 危ないよ」
 小春も慌てて席を立ち、コートを羽織ろうとしていた私の腕にしがみついてくる。
 ああ、鬱陶しい。
「夕食がおいしくなかったから、外で食べてくるだけよ」
「そんなっ……! わたし、作り直すから! すぐに支度するから、どこにも行かないで!」
「そこにあるものがあなたの限界でしょう? 今からちょっと頑張ったくらいで料理が上手くなるなら、最初からそれを出しなさい」
 あくまでも怜悧に。
 言葉のナイフで、ざくざくと小春の心を痛めつけてやる。
 だけど、小春はめげない。
 ナイフによる一撃は確実に私に手応えを伝えてくるものの、彼女の頬を濡らすには至らない。
 致命傷には、程遠い。
「今日、帰ってきたとき、ストーブの石油が切れていたわね」
「……え?」
「朝、私が寒いって言ったのを覚えていなかった?」
「あ……そのっ、今朝はわたしも日直で、急いでたから、それで……」
「普段、足りてない頭でも、言い訳だけはぽんぽんと思いつけるようね」
「そんなんじゃっ……」
 言い返してくる小春の言葉に力はない。
 その脆弱さの中には、彼女にとってのありったけの勇気が見て取れた。
 可笑しい。
 この僅かにしか感じることのできない勇気で、私に立ち向かおうだなんて。
「お母さんがいなくても、わたしが頑張るから――誰の言葉だったかしら」
「それは……わたしの……」
「今のあなたにそれが少しでも出来ていると思うのなら、答えなさい。あなたは、私の何?」
「わ、わたしは……」
 小春の手が、私の腕から離れていく。
 顔を伏せて――だが、決してこちらから目を逸らそうとはしなかった。
 潤んだ眼差しで、答えてくる。
「お姉ちゃんの……妹」
「……小春」
 コートに袖を通し、ソファにかけてあったマフラーを手に取る。
「勘違いしないで。私はこの家の境遇を呪ってなんかいない。むしろ心地よいくらいだわ。ほとんど家に帰ってこないくらいなら、いっそ親なんて死んでしまえばいいとさえ思ってる」
「そ、そうだね。わたしもそう思う」
「小春」
 もう一度、彼女の名を呼ぶ。
 怯えた小動物のように、その小さな肩が震える。
 私はゆっくりとマフラーを小春の首に巻いて、うつむいたままの小春の顔を覗き込んだ。
「嘘をつかないで。殺すわよ」
 マフラーの両端を、勢いよく引き絞る。
「…………っ!」
 息を詰まらせ、小春が双眸を見開く。
 そう、その顔よ、小春。
 今にも果ててしまいそうなその醜い顔なら、私はあなたを愛してあげることができる。
「かわいそうな子。友達もいなくて、男子には苛められて、家に帰ってもおかえりと言ってくれる人もいない」
「ふっ……ぐっ……ぇっ……!」
「ああ、かわいそう……可哀想可哀想可哀想可哀想可哀想可哀想! 今、あなたを殺そうとしているこんな姉ぐらいしかすがる者のいないあなたは、なんて可哀想!」
 とても気分が良かった。
 マフラー越しに伝わってくる、肉を締め付ける感触。
 小春の喘ぎ声、苦悶の表情。
 鼓膜を破らんばかりの、小春の心の絶叫が。
 何もかもが私を陶酔させ、快楽の淵に陥れた。
 だが、本当に殺してしまうわけにはいかない。
 それだけが残念だった。
 彼女はある意味、実験材料のようなものだったから。
 いなくなってしまったら、それはそれで困る。
 私は手の力を緩め、マフラーを小春の首から抜き取った。
 床に手をついて、激しく咳き込んでいる小春を見下ろす。
 そっと小春の隣に膝を下ろして、私は彼女のスカートの中に手を差し入れた。
「ひ――!?」
 言葉にも、声にもなっていない悲鳴。
 私に股間を下着の上からまさぐられながら、小春は身を固くしてただじっと耐えていた。
 生暖かくてじとじとしたものが、指先に絡みついてくる。
「汚い」
 ぴくっ――と、小春の身体が震える。
 それが言葉通りの意味だということは、彼女自身がよく分かっているはずだ。
「怖かったの?」
 耳元で囁く。
 小さく小春はうなずいた。
「そう」
 スカートから手を出し、それを小春の眼前に突き付ける。
「よく鼻を利かせて。あなたが出した恐怖の匂いを、よく覚えておきなさい」
 小春の視線が私の指先と、自分が尻餅をついている床の上とを三回ほど往復する。
 さながら破水でもしたかのように、彼女のお尻を中心に床が濡れていた。徐々に拡がっていく黄色の湖の上で、小春は声を殺して泣いた。
 泣いていたけど。
 そこにまだ絶望の色は浮かんでいなかった。
 ああ、むしゃくしゃする。
「そうね、じゃあこういうのはどうかしら」
 立ち上がって、マフラーを今度は自分の首に巻き付けながら、私は告げた。
「私が帰ってくるまでずっとそうしていなさい。そしたら次は少しだけ優しくしてあげるわ」
 小春の横を通り過ぎ、台所で手を洗ってから、私は家を後にした。
 雪が降っていた。
 明日の朝は積もるだろうか。
 想像して、憂鬱になる。
 寒いのは苦手だ。
 行く当てはない。
 私は無意味に街を徘徊することにした。



 家に戻ったのは午前六時前後のことだった。
 予想通り、街中は雪の白さで覆われていた。
 霜焼けになりそうな手を自分の息で暖めながら、玄関をくぐって居間に向かう。
 アンモニアの匂いが、ツンと鼻腔を突いた。
 昨夜の夕食の香りも混ざっていたような気がする。。
 小春はそこにいた。
 ずっと、そこにいた。
 家を出て行く寸前に見た姿のまま。
 虚ろな眼差しを、じっと玄関の方に向けて。
 しばらく私が帰ってきたことに気づかなかったのか、数十秒ほど経ってから、彼女は私の顔を見上げてきた。
「あ……おかえりなさい……お姉ちゃん……」
 その声は掠れていて、少し鼻がかっていた。
 ストーブも付けず、下半身を濡らしたままで、こんなところで一晩を明かしたのだから、風邪を引いたとしても何らおかしいことはない。
 そうなることは予想できたはずだ。
 それでも彼女には、そうするだけの理由があった。
 私に、少しでも優しくしてもらうため。
 嘘なのに。
 そのくらい、小春も気づいていたはずだ。
 馬鹿すぎて。
 どうしようもなく馬鹿すぎて。
 もっと――もっと、この子を傷つけたくなってしまった。
「家の中が臭くなるから、早く片づけなさい」
「う、うん」
 私の言葉で僅かに生気を取り戻したのか、よろつきながら立ち上がる小春の顔には微笑が浮かんでいた。
「それからね、今日は雪が降っているから外に洗濯物を干せないの」
「うん」
「だから下着も洗えないわ。そのままで学校に行きなさい。いいわね?」
 洗面所に雑巾を取りに行こうとしていた小春の足が止まった。
 振り返ってはこない。
 こない、が――その向こう側で、無理に笑おうとしている小春の顔が、容易に想像できた。
「……うん」
 そうやって頷いてしまえる小春に対して。
 喜べばいいのか、腹を立てればいいのか。
 よく分からないまま、私は彼女に背を向けた。



***2***



「誰のパンツが汚いだってコラ!? もっかい言ってみろやヴォケ、あぁっ!?」
 私の怒声と共に小鳥は囀るのをやめ、ジョギングをしていた爺さんは腰を抜かし、クソガキ共は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 小春は、そんな私の胸に抱きついて、小刻みに身体を震わせていた。
 辛かったろうに。苦しかったろうに。
「もう大丈夫よ、小春。あなたの純潔を辱めようとしてきた餓鬼共は去ったわ」
「い、いや……あのね、そうじゃなくて……すっごい恥ずかしいんだけど……」
 と、こちらの胸元から上目遣いで見上げてくる小春の顔は林檎のように真っ赤だった。
 こんな道のど真ん中でスカートをめくられた挙げ句、陽光の角度と影のせいでお尻のところが汚れているように見えたからといって、それを安易に「このねーちゃんうんち漏らしてるぞ」などと大声でガキ共に叫ばれたのだ。恥ずかしくても仕方あるまい。
「大丈夫よ、私の毎朝のチェックに抜かりはないわ。小春のパンツは今日もとっても綺麗で美しいから安心なさい」
「どっちかというと、その言い方の方がよっぽど恥ずかしいんだけど……」
 顔中から血を噴き出してしまいそうなくらい、小春の顔の赤みが増す。
 何かおかしなこと言ったか、私?
「……って、毎朝チェックなんてしてたんだ……?」
 ばっ、と私の胸から離れ、三歩ほど小春が後ずさりする。
 やばい。
 思いっきりおかしなこと口走ってるじゃん、私。
「私と小春の下着を入れてるタンスって、上と下で分かれてるでしょう? そのときにちゃんと洗濯できているかどうか確かめているだけよ」
 なるたけ平然と答えてやった。
 ――実際のところは、小春の背後に回って手鏡をスカートの中に入れて確認しているのだけれど。もしくは、あらかじめ床に設置しておいたランドセルを拾い上げるときに、ちらっと。
 そんなことをぶっちゃけてしまったら、しばらく――どころか一生――口を利いてくれそうにないので、誤魔化す以外に選択肢はないわけだ。
「あの子たちって一年生か二年生くらいでしょ? スカートめくりくらい、可愛い悪戯ってことで許してあげようよ」
「でもあなた、ドジっ子だからね……」
 他人にパンツを見られる機会というのは、何もスカートをめくられた瞬間だけじゃない。
「トイレの帰りにスカートの後ろのところを上着と一緒に中にしまったりしたことない?」
「あ、三ヶ月くらい前かな。それやっちゃって、千歳ちゃんに怒られたよ」
 やったんかい。
 つーか激見たかった、それ!
「小春ちゃんはパンチラの大安売りしすぎです」
 私は人差し指を立て、先生口調でそう告げた。
「わたしだって気を付けてるつもりだよー」
 拗ねたように、小春が唇をとんがらせる。
「それでもそういう状況にハマりやすいんだよね……自分でも、運命的な何かで呪われてるんじゃないかって思ってるくらいなんだから」
「まぁ……運命的と言えなくもないけどねぇ」
 ドジっ子属性とは、身に付けようとしてできるものではないからだ。
 それはもはや、先天的な資質と言っていい。
「これからはより一層、細心の注意を払いなさい。特にウチのクラスでのパンチラは厳禁」
「なんで場所が限定されてるのかよくわかんないんだけど」
「さらに限定するなら、胡桃木の前ね」
「胡桃木先輩は、お姉ちゃんのにしか興味ないんじゃないのかな?」
「朝からそんな気持ち悪いこと言わないでよ……でもパンツに関しては話が別よ。あいつのあの異常な性癖は、私がどうとかそういう次元の問題じゃないんだから」
「ますますわかんないんだけど……もしかして聞かない方が幸せっぽいお話?」
 小春の瞳に警戒の色が浮かぶ。
 だが、私は伝えなくてはならない。
 女の子の抱く男性像など、所詮はただの幻想に過ぎないということを。
 これはつまるところ、そういう話なのだ。
 多分。
「女の子自体より、その子の穿いてるパンツの方が好きな男ってどう思う?」
「…………」
 ぴたっ、と小春の足取りが止まる。
 たっぷり数十秒ほど硬直した後、小春は青ざめた顔で、虚ろげにつぶやいた。
「欲望に素直な男の子は朝が元気でパルプ製品の使用量は全人種の中でも最大で無駄に死んでいった儚い命たちが三日間で輪廻転生して……アレ……?」
 とても他の人には聞かせられないことを口走っていた。
「お姉ちゃん……なんだか知らない知識がいっぱい頭の中をぐるぐる回ってるの……これ、なんだろう……?」
「それはね、あと五年くらい知らないでいた方が貞淑な女性として華開く確率が高くなると思われる知識だから、綺麗さっぱり忘れなさい。いいわね?」
「うん、頑張ってみる……」
 小春は両手の人差し指でこめかみを押さえながら、「忘れろ、忘れろ」と念仏を唱えるように自分に言い聞かせ始めた。
 この子、少女漫画とか好きだしなぁ。
 すごい典型的な理想の男性ヴィジョンがあったんだろうなぁ。
「わたし、しばらく胡桃木先輩には近づけそうにないかも……」
「いいことだわ。是非ともそうしなさい」
「そういうの聞くと、女の子同士が好き合っちゃうのもなんとなく分かる気がするよね」
 オーイェス。
 思わぬ方向に小春の思考が飛躍してくれた。
 これはもしかして、男の汚い部分を見せつけまくれば、立派な百合っ子の出来上がり?
 おお。決して届かないと思っていた桃源郷が、今まさに目の前まで!
 ……でも、そうなると真っ先にこの子は千歳ちゃんとくっついちゃうような気がするな……。
 やめだやめ。
 百合っ子育成計画は中止。
 生粋のお姉ちゃん大好きっ子への道は遠く険しい。
「あ、もうこんな時間だ。早く行かないと遅刻しちゃうよ」
 小春が腕時計を私の眼前にかざしながら急かしてくる。
「そうね」
 私は頷いて、少しだけ歩調を早めた。
 別に私は遅刻してもどうってことはなかったりするのだが。
 物わかりのいい先生が担任だと、そこらへん楽ができていい。
 それに一時間目は体育だし、つまらない授業を聞かなくて済む――
「あ」
 そこで私は、体操着を忘れたことに気づいた。
 胡桃木の返り血がなかなか落ちてなくて、夕べもう一度洗濯したのがまずかった。
 小春が取り込んでいなければ、まだベランダに干してあるはずだ。
「ごめんなさい、小春。先に行ってて。忘れ物、取りに戻るわ」
「忘れ物って……もしかして体操着?」
「ええ」
「それなら取り込んで、いつものところにまとめて置いてあるはずだよ」
 さすがマイ妹。姉妹のコンビネーションは今朝も抜群に冴え渡っていた。
 ……本当に冴えてたらそもそも忘れ物なんてしないだろう、という考えには敢えて至らないようにしつつ。
「ありがとう。月代先生に会ったら、体調悪くて遅れて登校するとかなんとか適当なこと言っておいて」
 それだけ告げて私は、今歩いて来た道を駆け足で引き返した。

 些細なポカミス。
 どうってことはない、人間なら誰しもが犯す過ち。
 それが、まさかあんな惨劇を起こすことになるだなんて。
 そのときの私は、まだ何も気づいてはいなかった。



***3***



「丘野、ブルマから漂ってくる湿気が俺を悩殺しようとしているのだが、この責任の所在は一体、何処に在るのだろうか」
 強く、拳を握りしめる。
 真っ直ぐに打ち出した先には、胡桃木の顔面が。
 軽く宙を舞い、奴の身体は地面に転がった。
「痛いではないか」
 むくりと起きあがってくる。
「相変わらずタフだよねー、胡桃木君」
 けらけらと日向が笑う。いつも通りの展開だ。
 一度家に帰って、ダッシュで学校まで走ってきたせいで、体操着の下は既に汗だくだった。
 素直に見学しとけば良かった。こんなの、ただ胡桃木を喜ばせるだけじゃないのさ。
「私に付随するもの全てに無条件に発情してしまうあんたが一番、責任ありそうな気がするけど」
「何を言うか。丘野が魅力的すぎるからいけないのだ」
 そういうこっ恥ずかしいことを臆面もなく言えるのは、一種の才能だと思う。
 嬉しくもなんともなかったが。
「ホームルームが始まっても丘野は来ず、今日の体育ではお前のハミパンが見れないのだと嘆くあまり、首を吊ろうかとすら考えてしまったぞ」
「そのままいっそのこと死ねば良かったのに……」
 咄嗟にブルマのお尻のところを指で直しながら、私は胡桃木を睨み付けた。
「次、男子B組と女子D組! 整列!」
 月代先生の号令がグラウンドに響く。
「秋葉、あたしたちの番だよ」
「そうね」
 日向に腕を引っ張られる形で、女子の列に混ざる。
 体育祭の組体操の練習も大詰めで、だんだんとやることがハードになっていた。
 ここ数回の体育の時間で、何人かの生徒が怪我をしている。
 気を抜けば、大怪我に繋がる可能性もある。
 ……そんなの小学生にやらせるなよ、と学校側に抗議したい気持ちもあるにはあったが。
 ちゃんとできたときは、これはこれでなかなか達成感があって楽しい。
 誰かのミスひとつで、別の誰かが怪我をする可能性が生じる。
 そしてその責任は、必要以上に追及されることはない。
 なんて素敵な不可抗力。
 そんな危ういバランスの上で人間と人間の身体が絡み合っているということに、並々ならぬ昂揚を覚えざるを得ない自分が確かにいた。
「……秋葉ってさ」
 隣にいた日向が、私の顔を横目で眺めながら、ぽそりとつぶやてくる。
「たまに、そういう顔するよね」
「どんな顔?」
「人間じゃないみたいな」
 すごい人形っぽい感じ。
 彼女は語尾に、そう付け足してきた。
「人形、ね」
 もしかしたらこの学校で、私という存在のことを最もよく理解しているのは日向なのではないだろうか。
 そう思ってしまうほど、時として彼女は鋭いときがあった。
「次!」
 月代先生の声。
 男子らは素早く円陣を組み、四つん這いになる者と、その上に乗って肩を組み合う者とに分かれた。
 女子はこのさらに上に立つことになる。
 人間で築かれた塔。
 生命の頂。
 象徴すべきは、歴史における人の力そのもの。
「次!」
 今度は、女子が一斉に動き出す。例に漏れず走り出そうとしていた日向に、私はたった一言だけ告げてやった。
「でも、人間なのよ。悲しいけどね」
 日向が訝しげな顔で振り返ってくるのを無視して。
 私は、肉質の塔を駆け上がった。



***4***



 無事に体育の時間も終わり、教室に戻る途中の廊下で。
 こちらの行く手を遮るようにして立っている千歳ちゃんと鉢合わせた。
「どうしたの? すぐに二時間目が始まるわよ」
 そう声をかけるが、反応はない。
 いつもの千歳ちゃんの雰囲気ではない。いや――いつも私に向けているあの刺々しさを究極化したものが今、目の前にいるあるといったところか。
「丘野先輩に訊きたいことがあります」
「なに?」
「小春は今回もまた風邪ですか」
「……は?」
 一瞬、何を言っているのだろうと考えた。
 もしかして、小春がしんどそうな顔をしていてその原因が風邪か”私”にあると思ってここまで来たとか、そういう流れなんだろうか。
「今朝、一緒に来たときは普通に元気だったけれど?」
「……一緒に来た?」
「ええ」
 うなずく。
 すると、千歳ちゃんの目が鋭利に細められた。
 突き刺すような、凶器の眼差し。
 確かな殺意の炎が点る。
「そんな嘘をついてどうするつもりなんですか?」
「いや、嘘じゃないし」
「小春、学校に来てません」
 ……………………え?
 学校に、来てないですって?
 だって、今朝は一緒に家を出て、それで――
 あ。
「忘れ物を取りに帰ったときに、別れた……」
 愕然と、うめく。
 別れたのは、並木道の手前。あそこから学校までの間に、小春に何かが起こったということか。
「……別れた……?」
 再度、うなずく。
「あなたがついていながら、なんてこと――!」
 凄い勢いで千歳ちゃんに胸倉を掴まれて、後ろに倒れてしまいそうになる。
 それはなんとか踏みとどまったが、真っ向から千歳ちゃんの激昂を受け入れる羽目になった。
「どうしてそんなに落ち着いてるんですか!? 今、こうしている間にも小春が辛い目に遭っているかもしれないっていうのに!」
「ちょ、ちょっと、千歳ちゃん、落ち着いてっ」
 今まで傍らで様子を見守っていた日向が、慌てて止めに入ってくる。
 だが彼女は、千歳ちゃんの腕に振り払われて、壁に叩き付けられてしまった。それは今の千歳ちゃんには見境や自制というものがないということを証明していた。
「そうですよね、私も忘れていました。先輩はそういう人だった。小春が苦しんでいても何とも思わない。むしろ喜んでさえいる!」
 これ以上、好き放題言わせてはいけない。
 止めなければ。
 殺してでも。
「だって、先輩は――!」
 五月蠅い。
 私は、千歳ちゃんの首に手を伸ばした。
 そのとき。

『六年二組、丘野秋葉さん。至急、職員室まで来てください。繰り返します。六年二組、丘野秋葉さん――』

 校内放送が鳴り響いた。
 汗に濡れた体操着が、今更気持ち悪くなってきた。悪寒がする。吐き気もする。開けっ放しにされた廊下の窓から吹き込んでくる秋風が脇の下と股の間を通り抜けて、ますます寒気がひどくなる。心臓が、跳ねた。
 気がつけば私は千歳ちゃんを突き飛ばし、がむしゃらに走り出していた。
 体操着のまま廊下を駆け抜けていく私の姿を見て、何人かの生徒が怪訝そうに見やってくるが、そんなことはどうだっていい。
 そう、どうだっていいんだ。
 あの子以外のことなんか、私にはどうだって!
「先生!」
 叫ぶが早いか、扉を開けるのが早いか――
 ともあれ職員室の中に入ると、見慣れない背広姿の男二人と目が合った。
 二人の前には、月代先生と五年三組の担任の姿が。
 その四人の間に隠れるようにして、気まずそうに椅子に腰かけている小春を見つけて。
 ようやく、私は冷静さを取り戻すことができた。
 今朝、一緒に登校してきたときの姿のまま。
 衣服に汚れはない。髪の毛は――少し、乱れているかもしれなかったが。
「丘野秋葉さん、ですね」
 いち早く私に気づいた背広の男のうちの一人が近づいてきた。
「私、こういう者です」
 と、男は上着の内ポケットから、黒い手帳を取り出して見せた。
 中心には、金色の紋がひとつ。
 警察手帳だった。
「授業もあることですし、手短にご説明いたしましょう」
 男――警察はそう言うと、手帳を上着の中にしまった。
 手帳を見せただけで自分が何者であるか、すぐさま察した私に対してか――警察という身分によっぽど誇りを持っているのか。なんにしろ、男はどこか満足げだった。
 そして彼の接いだ言葉は――

「まずは、小春さんが痴漢に遭われたことについて」

 私から、全ての光を奪った。



PREV<>NEXT