第十四話 「リボンズドア(前編)」

***1***



 最初に惹かれたのは。
 彼女が私を見つめる、その視線だった。
 優しくもあり、怯えているようでもあり。
 まるで鏡映しのように、自分の顔が様々な感情に歪む様は美しくすらあった。
 角度とか視線とか、物理的な問題だけではない。
 決して自分では見ることのできない――自分では表現することのできない自分の姿がそこにある。
 本来ならば、羨んだり妬んだりするのが全うな感覚なのであろうが。
 私は、違うから。
 元々ひとつであったはずの存在が、何の偶然の悪戯か、二人の固有の人間としてこの世に生を受けたことに対して。
 私が真っ先に試してみたくなったのは、支配だった。
 一卵性双生児であろうと、人として生まれたからには対等であるはずがない。
 優劣というものは、必ず存在する。
 だから、傷つけてみようと思った。
 言葉では、彼女に苦痛は与えられなかったから。
 少なくとも決定打にはならなかった。
 まだ幼かったこともある。
 だが、それ以上に彼女は私の攻撃を全て受け入れようとする傾向にあった。
 自分が悪いことをしたのだから、怒られても仕方がない。
 今となっては分からないが、きっと彼女はそう考えたはずだ。

 イライラしていた。
 他者からの攻撃、支配、束縛、略奪。
 そんなものが嫌だったから、私は逃げ出したのだ。
 にも関わらず、また私は舞い戻ってきてしまった。
 許容できるはずがない。
 それができてしまうもうひとりの自分が目の前にいることに腹が立っていた。
 あの日、私は彼女に手紙を書いた。
 朝、寝ている間に彼女の枕元に忍ばせた。
 内容は、こうだ。

 今まであなたに辛く当たってごめんなさい。
 ちゃんと謝りたいから。
 今日の放課後、屋上に来て。
 誰もいないところで、ちゃんと話をしましょう。

 その日は彼女よりも後に家を出た。
 手紙についての話は、一切しなかった。
 何を聞かれても、また後でね、と突っぱねた。
 それでもとても嬉しそうに、笑顔で家を飛び出していく彼女の姿が、ますます私を昂揚させた。
 ああ、ようやっと、彼女に分からせてやることができる。
 嬉しいよ。
 私も嬉しいよ。
 キッチンにあったナイフを一本、丁寧に布でくるんで、ランドセルに忍ばせた。
 どこに刺そうか、それとも斬りつけようか。
 どっちでも良かった。
 彼女に絶望を与えられるなら、なんでもよかった。
 たとえ、殺してしまうことになったとしても。
 もうひとりの自分に殺されるのは、どんな気持ちなのだろうか。
 最期の瞬間、どんな目で彼女は私を見てくるだろう。
 うきうきしながら、私は学校に向かった。
 傷つけるために。

 そしてその日は。
 本当の意味で私が彼女の姉になった日でもあった。



***2***



「――であるから、女子生徒は決して一人では登下校をしないように。以上」
 ぼけーっとしている間に、相変わらずのテンションの低い月代先生の朝のホームルームが終わった。
 あれ、先生が教室を出て行っちゃった。
 あー……そうか。今日の一時間目は体育だった。
 着替えるのめんどくさいなぁ。
「おらー、男子ー。さっさと出てった出てったー」
「うっせーな、色気づいてんじゃねーぞ女子ども」
 毎度おなじみの男子と女子のやりとり。
 女子は教室で着替えて、男子はふたつ隣の空き教室で着替えるのが決まりだった。
 別に小学生のガキ共に見られたところでどうってことはない。
 みんながみんな私のような考えを持っているわけではないから、仕方がないのだけど。
「秋葉ー」
 鞄から体操着を引っ張り出していると、駆け足で日向が近寄ってきた。
 彼女は既に着替え済みだった。
 ……早すぎだろ、お前。
 こいつのことだから、私服の下にあらかじめ着ていたとしてもおかしくはない。
 まぁ馬鹿のやることだから多少は大目に見ていかないと、こっちが疲れるだけだ。
「秋葉、パンツ見せて!」
 言うが早いか、日向の手が問答無用で私のスカートをまくり上げていた。
 教室には、まだ男子の姿がちらほらと。
 女子も含め、その全ての視線が私の股間に注がれている。 
 ……見られたところでどうってことはない、とはいえ。
 やっぱり好奇の視線に晒されるのは、あまり気分がよろしくない。
 私はスカートを追いかけるように右足を振り上げ、そのままかかとを日向の脳天に叩き下ろした。
「異常なーし!」
 意味の分からない悲鳴を上げて、日向の身体が床に沈む。
 なんなんだ、いったい……。
「どう考えても異常があるのはあなたの頭の方だと思うんだけれど?」
 スカートを片手ではたいて直しながら、嘆息混じりに告げてやる。
「ふ、普通はきゃーとか叫びながらスカートを押さえて恥じらうのが年頃の女の子の反応だと思うんデスケド……」
 頭を抱え、ふらふらと日向が起きあがってくる。
 これでも手加減してやった方だというのに。日向のくせに情けない。
「相手が胡桃木だったらかかと落としくらいじゃ済まさないけどね」
「それはマジか、丘野!」
 ――私の声が思いの外大きかったのか、それとも奴の耳が地獄という名の肩書きを冠しているからか。
 教壇から私の席まで、ざっと十メートル。
 腰よりも低い姿勢で、一瞬で距離を詰めてくる胡桃木の姿があった。
 それに向かって、無造作につま先を蹴り出す。
 めりっ、と確かな感触が伝わってきた。
「おおおおおおおおおおおお!? 俺の鼻がぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
 盛大に鼻血を噴き出しながら床をのたうち回る胡桃木。
 ……そりゃあね、あんなに低いところに顔があったら、普通に蹴りやすいでしょうに。
 躊躇いさえしなければ、だが。
「で? 二人とも自分が本能に忠実に生きてるってことを証明して、どうしたいわけ?」
「人を動物みたいに言わないでよね! あたしは秋葉が無事かどうか心配しただけなんだから!」
 肩をいからせて、日向が言い返してくる。
「心配って……スカートめくることが?」
「そうよ」
「日向――あなた、とうとうそれがまともな行動じゃないってことまで分からなくなってしまったの」
「そんな哀れむような目で見ないでよっ!」
 八重歯を覗かせて、日向が声を荒らげてくる。
「秋葉、知らないの? さっきも先生が言ってたじゃない」
「なんて?」
「痴漢よ、痴漢。最近このへんに出没するっていう」
 そういえばそんな話をしていたような気がする。
 この間も、日向から途中まで聞いた覚えが……。
 すっかり忘れてた。
「何だったっけ……触れてるわけじゃないけど触れてるかもしれない痴漢だっけ?」
「そそ。秋葉がその痴漢に襲われてないかどうか確かめてたってわけ」
「それってスカートめくっただけで分かるものなの?」
「うん、簡単にね」
「どうやってよ」
「その痴漢に遭遇した女の子たちはね、すれ違った瞬間、言葉通り目にも止まらぬ早さで切り取られてしまうからよ」
 と、日向は手をチョキの形にしてみせた。
「何を?」
「パンツのリボン」
 ……あ。
 軽く目眩がした。
「秋葉のパンツにはちゃんとリボンがついてたからねー。そこを見れば無事かどうかは一目瞭然ってわけよ」
「いやもうなんていうか……驚いていいのか呆れていいのか分かんないわ……」
 すれ違いざまにそんなことをやってのけられるなら、何かもっと別のことで活躍できそうな場はいくらでもあるような気がするのだけど……。
「件の痴漢殿の思想は、もはや美学と言ってもいいだろう」
 いつの間にか復活していた胡桃木が、何事もなかったかのように私たちの間に言葉を挟んできた。
 顔の下半分は血まみれだったけど。
「痴漢といえば、ただ身体に触れるだけの軽いものもあれば、強引に事を成してしまうような性的暴力などが一般的だが、そんなものは所詮、凡人が自我を制御できずに本能の赴くがまま暴走してしまっただけの負け犬。ただの変態に過ぎない」
「うわー、あんたがそういうこと言ってもすっごい説得力ないし」
「しかし! その御仁には本能を超越した揺るぎなき理性の力を感じる。そう、言うなれば悟りの領域だ」
 拳を固く握りしめ、胡桃木が力説する。
 類は友を呼ぶと言うが、変態には変態のことが理解できるものなのだろう。
 いいけど鼻血拭けよ、お前。
「麻生。例えば君が将来的に穿いてみたいと思うパンツはどのようなものだ?」
「は、あたし? そーねぇ、黒くてレースのついた大人っぽいやつかな?」
 いや、お前も正直に答えるなって。
 というかそんなのお前には似合わないから。
「そう、人間が成長するように、下着の趣味もまた、年相応に変遷していくものなのだ。コットン、プリント柄、そしてリボン……これら”子供っぽい”と称されるパンツのパーツは、女性が大人への階段を上る過程で、遅かれ早かれ淘汰されてしまう運命にある」
「他のはともかく、コットンっていうのはパーツじゃないと思うわよ」
「であるからして! 例の痴漢殿の行為は、いわば絶滅種の保護なのではないだろうか!」
 またしてもこちらの突っ込みを無視して、胡桃木は高らかに吠えた。
「どんなに美化して説明しようが、ただの変態に違いはないでしょうが」
 私は肩をすくめてそう言い切ってやった。
「そう、行き着く先はそこだ……根元にあるものは、結局のところ性衝動に過ぎない。いや、どのような崇高な行いでさえも、その一言で片づけられてしまうのが現代の実情だ……」
 むきになって反論してくるかと思ったが、胡桃木は顔を伏せ、うめくようにつぶやくだけだった。
「世界のデジタル化が容易に人々に受け入れられたのも頷ける……アニメやアダルトゲームの世界では、パンツにリボンがついていて当たり前なのだから。男の欲望を形にしたのがそれらならば、逆にデジタルのアナログ化を望んで何が悪い!?」
「だからそういう人種が世の中をダメにしてるってのよ!」
 いきなり顔を上げて、ほっとけば掴みかかってきそうな勢いの胡桃木を制しながら、私は叫び返した。
 ……ていうか……やっぱりこいつ、エロゲーとかやってたのね。
「ごほんっ……すまない、少し話が脱線してしまったようだな」
 咳払いひとつして、胡桃木が続ける。
「そもそもだ――何故、女子のパンツはこうも男子を惹き付けてやまないのか? 命題はそこにある。所詮はただの下着。人体の最もデリケートな部分を衛生的に保護するだけの布切れに過ぎない。であるにも関わらず、どうして求めてしまうのか?」
「ねぇ、話が脱線したまんまなんだけど」
「卑怯なのだよ! 女子のパンツは!」
 何故か怒られた。
 あーもうわけわかんねぇ。
「女体の神秘とはよく言ったものだ。ブラにパンツは、女性のそれらをものの見事に外界から断絶する役割を果たしている。未知への探求心は、人間の本能だ。ヘヴンズドア。人はその向こう側を夢想し、近づくことで世界の真理をこの手に掴み取る。それが年頃の男子ならば気になって仕方ないはずの女性の身体に関わることならば尚更だ」
「スケベ心もそこまで正当化した言い方されるとなんとなくそれっぽく聞こえるわねー」
 もっとも、本当にそう思っているわけではなく、ただの皮肉だけれど。
「それも無造作に包み隠されているだけではない。ぶかぶかな子供っぽいものから、本当に保護する気があるのかと疑わしくなるくらい面積の少ないものまで、女性用下着のデザインは多岐にわたっている。苺模様など、非常に女の子らしい。青と白のストライプは青空を連想させる――もし空を飛べたなら。無垢であった幼少の頃の気持ちが蘇ってくるというものだ」
「ぶっちゃけ最後のはあんたの趣味なんじゃないの?」
「ストライプと口にするだけで胸がドキドキしてくるが、何か問題あるかね?」
 そんな胸を張って自信満々に言われてもなぁ。
 今ので調子づいたのか、胡桃木は両腕を広げて悠然と続けてきた。
「こんな話を知っているか? ある探求者の話だ。彼はある存在の真理を知るために日々、研究に明け暮れていた」
「はぁ」
「何度も紆余曲折と試行錯誤を繰り返し、やがて彼は真理に辿りついた。しかし、どうしてか素直に喜べない。人生の半分を費やしてまで得た真実だというのに、彼の胸が満たされることはなかったのだ。何故だと思う?」
「あー、ごめん。なんかすっごいオチが読めてきたわ」
「そう、彼は真理そのものよりも、そこに至る過程――つまり、ある存在それ自体の魅力に取り憑かれてしまっていたのだ」
 そこで胡桃木は自分の眉間に指を添え、たっぷりと”溜め”を作ってから、口を開いた。
「ならば、女性そのものよりも、パンツに恋をしてしまう者がいたとしてもおかしくはあるまい?」
「女からしてみたらすっごい失礼な話よね、それ」
「でもさー」
 と、今まで黙って聞いていただけの日向が割って入ってきた。
「それだったら普通にお店でパンツ買ってくればいいんじゃないのー? そしたら好きなだけ手に入るのに」
「フ――麻生。君は何も分かっていない」
 ふぁさ、と前髪を掻き上げて、胡桃木が答える。
 どうでもいいけど、殴っていい? 今のむかつく。
「女性の足をくぐり、股と密着したその瞬間から、パンツはこの世に息づくのだ。それは女性による、パンツの支配の始まりとも言える」
『言わねーよ』
 私と日向の声が見事にハモった。
 胡桃木は気にしたふうでもなく、続ける。
「愛は奪うものと言う。件の変態殿の行為は、いわば狩猟。女性の支配からパンツを解き放つためのひとつの方法として、彼の者はリボンを切り取るという行為に及んでいるのだろうと思う。リボンと言えば女の子の代名詞。それもパンツを彩るために用意されたそれを狩るということは、テロリズム的な革命意識を感じざるを得ない」
「なんでそうなるのかまったくわかんないんだけど――胡桃木君、ひとつ訊いていい?」
「何だね、麻生」
「例の痴漢ってさ、胡桃木君じゃないの?」
 ……………………。
 一瞬。
 確かに教室中の空気が凍りついた。
 教室に残っている男子は、胡桃木だけ。
 あとは全員、女子。
 だからだろうか。
 絶対零度めいた圧倒的な重圧が、胡桃木を中心にのしかかっていた。
「……いや、俺ではないぞ」
「怪しいもんだけど」
「大体、俺ならリボンを切り取るなどという真似はしない。パンツの尊厳を踏みにじることになるからだ」
「さっきと言ってることが違うんだけど」
「あれはあくまでも変態殿の思想を代弁しただけに過ぎない」
「じゃああんたならどうするっていうのよ」
「むしろリボンを取り付けて回る。主にストライプの下着を中心に」
「充分変態すぎるわぁぁぁっ!」
 私が胡桃木の横っ面に拳を打ち込んだのを合図に。
 周囲の女子が彼に飛びかかり、罵声と暴行の惨劇ショーが繰り広げられることになった。



 私たちが体操着に着替えてグラウンドに出たのは、始業開始からたっぷり十分程経ってからのことだった。
 血痕のついた体操着に男子たちは驚いていたが、月代先生が咎め立ててくることはなかった。
 いい先生だ。
 そしてその日。
 胡桃木が教室に戻ってくることはなかった。
 合掌。



***3***



 本当に強い人間は。
 どんなふうに笑うのだろうか。笑って見せることができるのだろうか。
 試しに鏡の前で笑顔を作ってみた。
 気持ち悪かった。
 同じ顔だというのに、あの子には笑顔がよく似合っていた。
 どうして自分には似合わないのだろう。
 不思議だった。
 それだけじゃない。一挙一動まで細かく見ていけば、私とあの子の相違点はいくらでも見つけることができた。
 それは仕方のないことだ。
 だって、私は”私”なのだから。
 あの子とは違う。
 それから、”彼女”とも。
 だけど、うまくやっていけると思っていた。
 その思い上がりが、私を壊すことになったのだけど。
 イライラしていた。
 本当に、あのときは腹が立っていた。
 右手を見下ろす。
 あの日、真っ赤に染まった私の手。
 この世に現存する中でも、最高の愉悦を感じた――はずだった。
 でも、行き着いたのは快楽の果てなどではなく。
 どうしようもない後悔と、絶望だった。
 まさかあの子があんなに強いだなんて思わなかったから。
 泣き虫で。
 いつもおどおどしていて。
 私以外には敬語でしか喋れなくて。
 友達もいなくて。
 笑顔が――凄く、可愛くて。
 そんなあの子を、あれだけ傷つけたのに。
 私はこの手まで汚したというのに。
 それでもあの子は、全てを甘受した。
 自分が悪いのだと思いこんで。
 ごめんなさい、と消え入りそうなほど小さな泣き声で謝りながら。
 最後には、弱々しく微笑むのだ。

 きっと、あの子は気づいていたのだろう。
 それが私に対する唯一の武器だということを。
 剣による攻撃をことごとく貫通してしまう、出来損ないの盾。
 斬れば斬るほど、確実に刃を削り取られていく。
 最弱にして、最強の盾。
 ここぞという時に鞘となり、剣を包み込んでしまうその様は、どこか母性的なものを連想させた。
 母性的でありながら――それは紛れもなく、”女の子”そのものでもあった。

 あの子に姉として接していくうちに、あるひとつのことに気づいた。
 ワルキューレ――ヴォータンとエルダの娘たち。神話の中の、九人の戦乙女。
 その長女、ブリュンヒルデ。
 彼女は父の命に背き、楽園から追放された。
 与えられた使命とは、苦しみから勝利を取り戻したひとりの英雄の殺害。
 実の妹との間に子をもうけた英雄とその妻の生き様を見て、彼女は本当の愛とは何なのかを知ることになる。
 結果、ブリュンヒルデは二人を殺すことなく、果ては子供の名付け親にまでなり、父の命令に逆らったとして、深い眠りに堕ちて、紅蓮の炎に幽閉されることになった。

 ――私という人間を形容するのに、ブリュンヒルデという存在は非常に適していると言えた。
 そしてあの子もまた、同じように。
 私たちは、厳密には違えど、似た者同士だったのだ。
 二人のブリュンヒルデ。
 愛に生きたワルキューレ。
 そんなあなたが、愛しくてたまらない。
 あなたの愛を手に入れることができるのならば。
 いくらでも逆らい、拒み、背反しましょう。
 指輪の盟約であろうと何であろうと。

 私の剣は、今も昔も――ジークフリートを殺すためだけにあるのだから。



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