第十一話 「混濁」

***1***



「風邪?」
 夕食時。いただきますの言葉も忘れて、夏生さんは食卓についた小春の顔を見るなり、食べ物よりも先にそう口にしていた。
「はい……今日は学校も休んで……ずっと部屋で寝てました……」
 真っ赤な顔で、小春は明らかに無理をして微笑んでみせる。
「どうする? ごはん、食べられる?」
「あ、それは……大丈夫だと……おなかぺこぺこだし……」
 答えながら、ちまちまとおかずに口をつけていく小春。
 肉じゃがに焼き魚、あとはみそ汁にごはんといったラインナップなので、病人でも食べられないことはないと思うのだけど。
「それじゃあ秋葉ちゃんも?」
 と、夏生さんは今度はこちらに視線を向けてくる。
 私はうなずいた。
「ええ。小春を一人にしてはおけませんから」
「お母さんには連絡したの?」
「いえ……どうせ捕まらないと思いますから」
 それで、夏生さんも納得したようだった――不本意ではあるだろうが。
 一度ウチの母親が仕事に出てしまったら、通勤途中か帰宅途中でもなければ一切携帯には繋がらない。そのことは夏生さんもよく知っているはずだ。
 父親は元々、海外にいる。いきなり電話して娘が風邪引いたから帰って来いというのも無理な話だ。
 そんな家庭だからこそ、隣に住んでいる夏生さんが心配して私たちの世話を焼いてくれているわけで。
 この人も学校の友達付き合いとかあるだろうに、大変だなぁ――と他人事のように感心してしまう。
「それにしても……せめてパジャマにくらい着替えたらいいのに」
 小春の格好を見て、夏生さんがため息をついた。
 今の小春は思いっきり普段着だった。いつもの私とおそろいのワンピース。長袖とはいえ、そろそろ寒くなりつつある今日この頃、風邪を引いているのにこんな格好をしていたんじゃ確かに身体に良くはない。
「朝、家を出る前までは大丈夫だったんです……そのまま部屋に戻ったから……」
「着替えるようには言ったんですけどね」
 肩をすくめて、私は告げた。
 ベッドに倒れ込むなり寝息を立てられたら、私にはどうしようもない。
 無理矢理脱がせても良かったのだけど――私がそれをやると、色々と……ねぇ。
「ごはん食べ終わったらすぐにパジャマに着替えるのよ。そのままお部屋に直行。分かった?」
 お箸を片手に、優しく夏生さんが諭す。小春も、こくんとうなずいてみせた。
 そのまま、言葉少なに食事を進める。
 病人にも食べられる――とは思ったものの、意外と塩辛い。少し火を通しすぎたか、肉じゃがからは甘みがほとんど抜けてしまっていた。
 これは今の小春には少々きついのではなかろうか。
 そう思い、小春の方を見やると――
「うぇぅ……」
 箸を止めて、赤いんだか青いんだか複雑な顔色をして目下の肉じゃがと睨めっこをしていた。
「ご、ごめん、小春。やっぱり辛かった……?」
 恐る恐る訊いてみる。小春は無言で、首を縦に振るだけだった。
 あちゃー……失敗した。
 今日は元々、夏生さんと一緒に作るつもりだったのだが、学校の用事だか何だかでなかなか来ないので、私が一人で料理することにしたのだ。
 というか、小春のだけ別の献立を用意するべきだったかなぁ。
「小春ちゃん、無理して食べなくていいのよ?」
「う……へいき……お姉ちゃんが作ったものだったら……何でもおいしいです……」
 うわー。
 いじらしいこと言ってくれちゃって、かぁいいなちくしょー。
 ……って。
 一人で萌えてる場合じゃない。
 そんなの、どこからどう捉えてもお世辞以外の何物でもないじゃないか。
 現に小春の顔色はどんどん悪くなっていくし。
「けふっ! けほっ、けほっ、けほっ!」
 唐突に、小春が激しく咳き込みだした。
「ちょっ……小春! 大丈夫!?」
 私は慌てて席から立ち上がり、小春の後ろに回って背中をさすってやる。
「けほっ、けほっ……ぇぅ……」
 涙目で口元を押さえている小春が、なんだか痛ましい。
 あーもー、どうしよう……。
 こういうとき、どうすればいいか分からない。
 自分以外の誰かの痛みなんて、曖昧すぎて何も感じないから。
 ……あれ?
 ふと見回してみると、夏生さんの姿がない。お箸がお茶碗の上に置かれていて、席はもぬけの殻だった。
 とたとたとた……と、二階の私たちの部屋あたりから足音がする。そのまま足音は階段を下りてきて、台所の方を経由して戻ってきた。
「秋葉ちゃん、小春ちゃんの寝間着ってこれでよかったんだっけ?」
 夏生さんの左手には、ピンクのパジャマがあった。
 私と小春はパジャマもおそろいのもので統一しているので、どっちがどっちのかなんてぱっと見では分からないのだが、とりあえず私はうなずいておくことにした。
 夏生さんはパジャマを椅子に置くと、右手に持っていた水と錠剤の風邪薬を小春に飲ませた。
 んく、んく、と小気味の良い音を鳴らして、小春はコップの水を飲み干した。
「はい、小春ちゃん。食事の続きは明日の朝。今はわたしの言うことを聞きましょうね?」
 小春の唇の端から零れた水を、夏生さんはためらいもせず自分の服の袖で拭ってやっていた。
「ふぃ……」
 と、小春からはそんな可愛らしい返事。
「……あれ? 秋葉ちゃん、そんなところでうずくまって、あなたも風邪引いたの?」
「い、いえ、おかまいなく……こう、抑えきれないものとちょっとばかし悔しさみたいなのが、激しく私を苛むんで……」
 夏生さんのすぐ後ろで、私は床にうずくまって肩を震わせていた。
 不謹慎ではあるが、病人の小春はまるで赤ちゃんのように可愛いというのと、その看護をしている夏生さんが様になりすぎていて羨ましいというのと。
 その両方に身悶えていたわけだが、正直に答えるわけにもいくまい。
 答えられるか。
「それじゃ小春ちゃん、両手上げてくれる?」
 夏生さんの言葉に、小春は黙って従う。
 力無く両腕を頭上に持ち上げ、その姿勢が辛いのか、ふらふらと前後左右に小さな身体が揺れる。
 すっ、とあまり突っかかりもなく、小春の身体から衣服が剥ぎ取られる。パンツ一枚だけの、霰もない姿。
 それだけならば見慣れていた。だが、熱に浮かされた今の小春はどこかいつもよりも輪をかけて子供っぽいというか……幼児性を醸し出しているように思えて、私の胸をドキドキさせた。
 妹が病気の時くらい、そういう気持ちは自粛しろよとは自分でも思うのだが。
 風邪なんて寝ていれば治るものだし。
 だと、思うし。
 あまり深刻に考えていない私がいるのも確かだった。
「はい、足上げてー。次、もう片方の足。ちょっとだけ手を上げて、袖を通すから。そうそう、ボタン止めるからもう少しだけじっとしててね」
 手際よくてきぱきと小春にパジャマを着せていく夏生さん。
 それにしても手慣れているなぁ、と私は感心していた。
 ……ふむ、手慣れている……か。
 どこで、どうやって、手慣れたのだろう?
「夏生さん――」
 どうでもいいことだと思った。それでも会話もなくただじっとしているのはなんとなく居心地が悪かったので、それについて尋ねてみようと口を開いたとき。

 とぅるるる。とぅるるる。

 家の電話の着信音が鳴り響いた。
「……あ、私が出ます」
 自分の家なのにおかしな言い回しだ、と自嘲しつつ、私は電話機のある方へと向かった。



***2***



 受話器を持ち上げて、スピーカーの向こうから聞こえてきたのは。
「もしもし、丘野さんのお宅でしょうか? 私、佐倉と申しますけども」
 千歳ちゃんの声だった。
 確かに――小春が欠席して、彼女が心配して電話をかけてこないはずがない。むしろ夕食時とは遅いくらいだった。
 ……少しからかってやろうか。
 ふと思いついて、私はいつもより声のトーンをやや高く、それでいて小さな声で喋った。
「あ、千歳ちゃん。こんな時間にどうしたんですか?」
 小春の声マネである。自分でも会心の出来だと思った。
 だが。
「……先輩。何の冗談ですか」
 あっさりバレていた。
 そうだった……この手のネタで千歳ちゃんを騙すのは不可能だってことくらい、分かっていたはずなのに。
 でも、さっきのは日向くらいならあっさりと信じてくれるだろう。
 今回は相手が悪かっただけだ。
 うん。
「いやー、ごめんね。ちょっとからかってみようと思っただけなのよ」
「あまりそういうことはしないでください。小春が穢れます」
 えらい言われようだった。
 てゆーか私ら双子じゃん。このくらい許してくれてもいいんじゃないの?
「色々反論はあるけど、なんだか私の中で勝手に片づいてくれそうだからいいわ。それで、今日はどんなご用事?」
「小春が今日、学校を休みました。それだけで電話をするには充分な理由だと思いますが」
 爽快感すら覚えてしまうほどに、ぽんぽんと受話器の向こうから皮肉が飛び出してくる。
 まぁ千歳ちゃんはそれが楽しいからいいんだけど。
「ただの風邪よ。パジャマに着替えさせて、これから寝かしつけるところ。二、三日も寝ていれば治ると思うわ」
「本当にそれだけですか?」
「それだけじゃなかったら病院に連れていってるってば」
「熱は何度ですか?」
「朝計ったときは三十八度ちょいだったかな」
「顔色は?」
「赤かったり青かったり。あぁ、青くなったのは多分、ご飯食べて気分が悪くなったせいだろうけど」
「咳とかは激しい方ですか?」
「んー……それなり?」
「苦しそうにしていませんか?」
「そりゃ風邪引いてるんだから苦しくないはずないと思うけど」
「汗はちゃんと拭いてあげていますか?」
「……えーっと、千歳ちゃん?」
 質問を投げかけてくるごとに、どんどん千歳ちゃんの口調は熱を帯びていた。それに、だんだんと早口気味にも。
「先輩は雑だから、ちゃんと小春を看てあげているか心配で……」
「あのね。そんなこと言われなくても分かってるわよ」
 などと答えつつ。
 そういえば自分のしたことというと、朝体温を測って部屋に連れていって学校に欠席の連絡を入れてあとはたまに様子を見に行っていただけで……あとは居間でテレビを見て、夕食の買い物に出かけたくらいだった。
 とても千歳ちゃんに話せる内容ではない。
 なので、黙っておく。
「それに今は夏生さんがいるから大丈夫よ」
「あぁ……そうですか。安心しました」
 心底ほっとした吐息が受話器越しに私の耳をくすぐる。
 そんなに信用ないか、私。
「ところで、今からそちらに伺っても大丈夫ですか?」
 と、いきなりそんなことを言い出してきた。
 やっぱりね、そうくると思ったよ、千歳ちゃん。
 ちらり、と私は横目で小春の様子を窺った。
 小春は椅子に座って、目を閉じて口を半開きにし、息を荒らげていた。
 夏生さんの姿はなかった。何やら二階から物音がする。ベッドを整えに行ったのだろう。
 うーん。
 ぶっちゃけ、病気で弱った小春は可愛い。
 小春には悪いけど――姉としてもどうかと思うけど――可愛いんだから仕方がない。
 出来れば独り占めにしたい。
 千歳ちゃんに今の小春の姿を見せたくない。
 極めて個人的な邪めいた情熱のために、私は彼女の来訪を拒否することにした。
「ダメ。夏生さんがいるから大丈夫って、千歳ちゃんも認めてたじゃない」
「でも、やっぱり心配なんです。日比谷さんもいつ帰ることになるか分からないじゃないですか」
「夏生さんは今晩は泊まるわよ。母親いないときは大体、あの人が泊まりに来てるし」
「ですが……」
「それに小春は今、風邪引いてるの。ウチに来たら千歳ちゃんにも感染っちゃうかもしれないでしょ?」
「…………」
 言い返してはこない。さすがにここまで言えば、納得――というより、諦めがついたのだろうか。
「……先輩、ずるいです」
 ややあってから、弱々しい声音でそう告げてきた。
 何がずるいのかよく分からなかったけれど。
「早ければ明日にはちゃんと学校に行けるようになってるわよ」
「分かりました……先輩。小春をよろしくお願いします」
 その言葉を最後に、ピッ、という電子音と共に通話は途切れた。
 ……ふぅ。
 まぁいいんだけどさ。
 最後のセリフ、どう考えても小春の姉の私に言う言葉じゃないわよね。
 一体、私のことをどんな目で見てるんだか。
 ため息をついて、私は受話器を戻す。と――

 とぅるるる。とぅるるる。

 再度、着信音。
 もしかしてまた千歳ちゃんだろうか?
 あの子なら電話を切った後に不安になって、またかけ直して来かねない。
 私は、うんざりと受話器を取った。
「はい、丘野ですが――」
「あ、もしもし? あたしあたし、日向。秋葉が珍しくガッコ休むもんだからさー、心配になって思わず電話かけちゃったよ、あたしってばなんて友達想い! そんでどうしたのよ、風邪? まっさかー、秋葉が風邪なんて引くわけないもんね! みんながインフルエンザで苦痛にのたうち回っていても、秋葉は平然といつもの冷めた目つきで見下ろして、なんか口元とか笑みが浮かんでそうみたいな? というわけであたしの内部ではズル休みってことで落ち着いたわけだけどぶっちゃけそこんとこどうなのよー、ってそこにいるのは秋葉で合ってるよね?」
 がちゃん。
 叩きつけるようにして、私は電話を切った。
 というか、通話相手も確認せずに喋ってたのか、あいつ。
 相手が日向だと分かったとき、さっきのように小春の声マネでからかってやろうと思ったのだが。
 奴の暴言を聞いているとなんだかどうでもよくなってきたので、やめた。
 しばらく電話の前で佇んでいると、案の定、着信があった。
 日向がかけ直してきたのは明らかだったので、私は電話線を引っこ抜いた。
 着信が止んだ。
 めでたしめでたし。



***3***



 夏生さんが居間に戻ってきた。
「小春ちゃん、お布団整えてきたから、お部屋に行きましょう」
「やー」
 ソファの上で。
 ひしっ、と私の腕に抱きついて、小春はその場を動こうとしない。
「寝ないと治るものも治らないのよ? いい子だからお部屋行こ? ね?」
「いーやー」
 一際大きく首を振って、私の胸に顔を埋めてくるマイ妹。
 ……いや、埋まるほどのものはないにしろ。
「もう……ねぇ、秋葉ちゃんからも言ってあげて」
「私っすか」
 促されて、小春を見下ろす。
 と――
 思いっきり、視線が合った。
 私の胸元から上目遣い、それも涙目で。
 ……うあー。
「というわけで人間やめてベッドになろうかなと思う次第」
「秋葉ちゃんまで何を馬鹿なこと言ってるのっ!」
 私の進路希望は、夏生さんに即座に一蹴された。
 本気だったんだけどな……結構。
「仕方ない」
 素面の小春では、寝ぼけているとか条件が付かない限りここまでベタベタと甘えてくることはない。願わくばもう少しこの状況を堪能していたかったのだが。
 私はこっそりと嘆息して再度、小春に向き直った。
「小春、夏生さんの言うことを聞きなさい。ずっとここでこうしていたら、明日にはもっと酷くなっているかもしれないのよ? そんなことになったら明日は引きずってでも病院につれていくからね。注射されるわよ。腕とかお尻とかそれはもう色んなところから」
「お姉ちゃんが刺してくれるならべつにいいですよぅ」
「マジでっ!?」
 歓喜のあまり小春をソファに押し倒そうとした瞬間、夏生さんがそこにいるということを思いだし、なんとか私は衝動を制御することに成功した。
 やっべー。うっかり私の脳内で「刺す」が別の漢字に変換されちゃったよ。
 さらにその一瞬、同じ女である私が妹を「刺す」ためのいくつかの手段を模索し、代用品となる器具の使用に行き着いたのだが、これは懸案事項として私の胸の内だけにしまっておこうと思う。
「個人的なおしおきとして小春に刺したいけどそこまで私も鬼じゃないわ。いい? これが最後よ。おとなしく夏生さんの言うことを聞いて、部屋に――」
「ちゅーっ♪」
 むにっ。
 と。
 何か。
 ホットでいて、甘く、それでいてクールな、ほどよい弾力の、さっきの肉じゃがの味が、でも柔らかくて、ああ、吸い付く、引っ張られる、もって行かれる。
 思考がもの凄い勢いで掻き乱される。ちらちらと渦の奥から剣の切っ先のようなものが黒い輝きを放っているような気がした。
 あの剣で。
 全て、壊してしまえたなら。
 でも、それは所詮、私の頭の中の世界での話。
 目を開け。リアルはすぐそこだ。
 理解した。
 私は小春にキスされていた。
「ちょ、ちょっと、小春ちゃん!?」
 慌てた様子で、夏生さんが私から小春を引きはがす。
 ……あ。
 小春との接触が断たれた瞬間、”光”が夏生さんに向けられるのを感じた。
 だめだ。そっちに行っちゃ。
 キミは、あのとき、”彼女”の中で、折れたんだから。
「ダメだってば、そんなことしたら秋葉ちゃんにも風邪が感染っちゃうでしょ!?」
「むー……」
 途中でキスを妨げられたせいか。
 凄く小春は不機嫌顔だった。
 それと同時に、赤みも増してきている。そろそろ限界だろうか……。
「ほら、お部屋に行くわよ、小春ちゃん」
「やー」
「お願いだから言うこと聞いて、ね?」
「やーってば」
 小春は断固として頷かない。
 夏生さんもかなり困り果てている感じで、眉を八の字にしかめていた。というかちょっと泣き出しそうだった。
 こんなとき母親なら、引っぱたいてでも寝かしつけるのだろうが。
 夏生さんとしてはそこまでやっていいものかどうか、自分が踏み込んでいい領域の境界線を見極めている最中なのだろう。
 私は――私には、元よりそんな資格はない。
 母の代行者なんて、そんな立派なものにはなれない。
 それでも、私に踏み込んでいい領域があるとするなら。
 やっぱり、ひとつしかないだろう。
 私は意を決し、小春をこちらへと振り向かせようと――
「おふたりにひとつずつ質問がありますっ!」
 唐突に、小春が叫んだ。
 私と夏生さんは同じように身を竦ませて、びしっと姿勢を正してソファに座り直す小春を見ていた。
 妹のやたらと真剣な眼差しが、まずは私の方を射抜く。
「お姉ちゃんはどうしてお姉ちゃんなんですか!」
 まったくもって意味の分からない質問だった。
「それは……双子だし……私のが先に外に出てきた……から?」
「そんなことを訊いてるんじゃありません! お姉ちゃん、減点いちっ!」
 何故か怒られた上に減点された。
 い、意味わかんねぇー……つか可愛いー。
「つぎっ! 夏生お姉ちゃん!」
「は、はいっ?」
 小春の気迫に気圧されてか、夏生さんはその場に正座していた。
「…………」
「…………」
 黙ったまま二人、じっと見つめ合う。
 それから十数秒。
 先に姿勢を崩したのは、小春だった。
「ちゅーっ♪」
「――――――――――――!?」
 声なき悲鳴が夏生さんの口から――いや、夏生さんと小春の口の間から漏れた。
 ついでに私も叫んでいた。声は出していないはずだが、もしかしたら出ているかもしれない。そんな絶叫を。
 長い、長いディープキス。
 もちろん、大人のそれとは違い、舌と唾液が絡み合うこともなければ、熱情的ですらない。
 ただ唇を押しつけているだけ。
 夏生さんの鼻を、指でつまみながら。
「んーっ、んーっ!?」
 息苦しいのだろうか、顔を真っ赤にして夏生さんが喘いでいる。必死に小春を離そうとしているようだがびくともしない。並の吸引力ではないらしかった。
 夏生さんが横目で助けを求めてくるが、私は黙って二人のキスを見守るだけだった。
 ……てゆーかさ。
 それ、私の。
「んーっ、むーっ!」
 何度か夏生さんに背中を叩かれて、当人も大分苦しくなっていたのか、すんなりと小春は唇を離した。
 それで終わるかと思いきや。
 小春の唇の隙間から赤くぬらりとしたものが覗き、ぺろっ、と夏生さんの唇を舐め上げた。
 潤んだ眼差しは昂揚のためか、熱病のせいか。
「……ごちそうさま」
 赤く彩られた、どこか扇情的な微笑を浮かべて、小春は囁いた。
 ふっ――と。
 そこで糸が切れたように、夏生さんの膝の上に倒れてしまった。
「はーっ、はーっ……いったい、なんだったの……」
 肩で息継ぎしながら、夏生さんが切れ切れに言葉を吐き出す。
「小春ちゃんて、風邪のときはいつもこんな感じなの?」
「いえ……というか、私も小春もあまり風邪は引かない方ですから」
「将来、お酒とか絶対に飲ませちゃダメなタイプよね……」
 確かに。
 私はげっそりとうなだれる夏生さんの膝の上から、小春を抱き上げた。
 いわゆるお姫様だっこというやつである。
「このまま部屋に連れていきます。最初からこうすれば良かったんですよね」
「一人で大丈夫? 重くない?」
「小春が起きてたら、またなだめるのに一苦労しそうですね、そのセリフ」
「……そうね」
 くすっ、と微笑みながら、夏生さんが立ち上がる。大分、落ち着きを取り戻したようだった。
「秋葉ちゃんは今日はどうするの? わたしと一緒に寝る?」
「いえ。小春が夜中に目が覚めたときに、寂しがるといけないんで」
「でも、感染っちゃうわよ?」
「小春が安心して休めるなら、そのくらい安いです」
「……ちゃんとお姉さん、してるのね」
「まぁ」
 言葉通りの意味程度には。
「さっき小春ちゃんに言われたことを気にしてるのかと思って。わたしなりにちょっとしたフォローのつもりだったんだけど?」
「あぁ。あれは違いますよ、多分」
 私が返した言葉に、夏生さんはいささか訝しげだ。
 続ける。
「あれは、”初めてあの子が私に話しかけた”。それだけのことです」
 反応はない。夏生さんの表情に変化はなく、口が開くこともなかった。
「それじゃ、おやすみなさい。また明日」
 夏生さんに背中を見送られながら、私は小春を抱いて部屋に向かって歩き出した。



***3***



 案の定、ベッドに寝かしつけると同時に、小春は苦しげに息を荒らげだした。
 小春と一緒の布団の中、定期的に塗れたタオルで妹の顔を拭いてやりながら、私はさっきの小春の言葉の意味について考えていた。
 もし深読みでないのなら。
 さすがは双子といったところだろうか――相方のことに関しては酷く敏感だ。
 敏感であるが故に、一方的に断絶された通信に疑問を覚えるだろう。
 解が出ることはない。
 人の身である限りは、有り得ない。
 それが私にとっての唯一の生命線。
 ただ、それとは別に。
 小春に拒絶されてしまうことが怖い。
 先刻、深層意識の渦の中で垣間見た黒い輝き。
 バルムンク。
 守護も統治もない、支配、略奪、破壊。
 そういった運命の下を生き抜いてきた一振りの剣。
 まだ早い。
 貫くにも、斬るにも、まだ早い。
 そもそもこれには、そういった使用方法は適さない。
 見せるだけでいい。
 それだけで全てが終わる。
 だから、まだ早い。
 ……そっと、小春の唇に指を這わす。
 可愛い小春。
 私の小春。
 まだ。
 まだ、早いから。
 これからも騙してあげる。
 ずっと、いつか。
 私たちは、この世界でたった二人きりのワルキューレ。
 おやすみなさい、ブリュンヒルデ。
 また明日。



 ――明日。
 すっかり元気になった小春と私は、何事もなかったように登校した。
 夏生さんは風邪を引いて、自分の部屋で寝込むことになった。
 ざまあみろ。



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