第九話 「電子の街(前編)」

***1***



 我が公塚小学校のトイレは、綺麗な方だと思う。
”みんなの集い”と称される、月に何度か行われる全校生徒で行うレクリエーションの大半が、学校全体の大掃除に費やされているためだと私は考える。
 毎日、掃除をしないわけではないが、やっぱりこういう場所はみんな嫌がるせいか、どうしてもおざなりになってしまう。
 ところが、レクリエーションで掃除をするときに限って教師も参加するものだから、その日だけは念入りにやらざるを得なかったりするのだ。
 常に監視されているようなものだから、仕方ないのだけど。
 まぁ、手を抜いたからといって、通知票には何ら影響ないというのも事実なわけで。
 小学生特有の集団意識がそうせしめているだけのことだ。別にそれは、小学生に限ったことではないが。
 と、そんなことは改まって考えるほどのものでもないので、さっさと用を足すことにする。
 個室に入って鍵を閉め、スカートの中に手を突っ込んでパンツを下ろす。和式なので、しゃがまないといけない。腰をかがめついでに、足でレバーを踏んで水を流しておく。これは乙女として生きるための最低限のマナーである。
 この水音が止むまでに事を終えなければならない。膝を両手で抱えながら、私は夢想を開始した。
 太股の隙間から覗く自分のそこを、小春のそれと重ねる。
 徐々に押し寄せてくる尿意に、個室で鍵も掛かっているとはいえ、小春ならばきっと恥ずかしげに頬を紅潮させるだろう。
 そして限界に達したとき、唇をきつく横に結ぶのだ。
 水洗の音に紛れてもうひとつ、汚濁の水音。
 体液の解放と同時に、大きく息をつく。肺から酸素が抜けると同時に、ぶるっ、と身体が震えた。
”小春の”黄金色の放物線もまた、それにつられて小さく揺れた。
 全てを出し終え、備え付けのトイレットペーパーでさっと拭き取る。小春は潔癖性だから、三回くらいは拭くに違いない。多分。
 立ち上がって、ちゃんと拭けているかどうか確認してからパンツを穿く。
 もう一度、レバーを踏んで水を流して――
 私は、夢想を終了した。
 こういうとき双子だと便利だ。完全に小春になりきったつもりでおしっことかできるし。
 実際に小春が出す瞬間に口を引き締めるのか、三回拭いたりするのか、私は知らないが。
 小春のことだ、きっとそうに違いない。
 …………。
 なんか虚しくなってきたな……。
 しょんぼりとした足取りで個室を出て、手を洗い、私はトイレを後にした。



***2***



 ばったりと。
 トイレからの帰り、廊下で二葉崇とでくわした。
 相変わらず、警戒心がありありと現れた目つきで私のことを睨んでくれる。
 可愛くない男だ。
「あら、今日は一人なのね、崇くん」
 自分でも少しわざとらしかったかなと思いながら、私はお嬢様然と微笑んでそう声をかけた。
「ああ……別のクラスの奴に貸してた本を返してもらいに行ってただけだからな」
 崇は、律儀に説明してきた。
 はっきりしないことを言って、私にあらぬ疑いをもたれるのを恐れているのだろうか。
 あらぬも何も、もう手遅れなのだけどね。私は知ってしまっているんだし。
 かと言って、私がそれを餌に崇を脅迫するつもりがないというのも事実である。ただちょっとばかり彼をからかうネタができた。それだけのことだ。
「ふぅん」
 確かに、崇の手には一冊の本が収まっていた。カバーがかかっているので何の本か分からないが、サイズからして文庫本であるということは間違いなさそうだった。
「どんな本を読んでいるの?」
 ちょっとした好奇心で、私は尋ねた。普段、日向に質問するときと、何ら変わらない調子で。少なくとも――私にとっては。
 それでも崇には、私の言動が気になって仕方がないのだろう。もし相手が私ではなく、いつもよく遊ぶ気の合う友達だったなら、彼はどうということもなく本のカバーを外して見せていたかもしれない。
 崇はしばし逡巡するように手元の本を見下ろし、
「別に……丘野には関係ない」
 顔を背けて、私の隣を通り過ぎようとした。
「そっか」
 私は苦笑混じりに、ちょうど真横に来た彼に聞こえるようにつぶやいた。
 崇の足音は、どんどん後方へと流れていく。その逆方向へと私が歩き出そうとしたとき、
「……ただの」
 彼の足音が止まっていた。
 振り返ると、彼は気まずそうにこちらを向いていて、カバーの上から本をトントンと指先で叩いていた。
 後のことを怖がっているのか、純粋に私に悪いことをしたと思ったのか――分からないが。
 いずれにせよ、彼は私と向かい合う気になったようだった。
「ただの解説書さ。パソコンのな」
「パソコン?」
「ああ。三組の小田がパソコン買ったらしくてさ。ちょうど俺が触り始めの頃に読んでた本があったから、そいつを貸していたんだ」
「へぇ」
 特に何の感慨もなく、私はうなずいた。
 パソコンねぇ。正直、私はキーボードもろくに打てない機械音痴――不器用とも言う――だから、あまり興味はないのだが。
 好奇心程度に、弄ってみたいと思うくらいで。
「あ」
 と。
 それは私でも、崇でもなく。
 ちょうど六年二組のある方から歩いてきた千歳ちゃんの声だった。
 私の目の前で立ち止まり、彼女は露骨に嫌そうな眼差しを向けてきた。
 ……相変わらずほんっとに可愛くないなぁ、この子は。
「……こんにちは」
 千歳ちゃんが、軽く頭を下げてくる。私はそれに手を挙げて応えた。
「こんにちは。どうしたの?」
 どうしたの、とはもちろん、なんでここにいるのかという意味である。
 この学校の校舎は二つに分かれていて、それぞれ三階建てになっている。
 西棟が、一年から三年までの。東棟が、四年から六年まで。
 職員室や保健室などは西棟にあり、音楽室や家庭科室のような主に授業で使用する教室は東棟にある。
 五年生の千歳ちゃんが三階にいるということは、六年の教室に用があったというわけで。
 小春と一緒ならばわざわざ尋ねるまでもないことだが、千歳ちゃん単体でここにいるというのは珍しい。
「小春が来ているかなと思ったので」
 仏頂面で答えてくる。
「小春なら今日は日直だからって、私よりも先に家を出たわよ。先生に雑用でも押しつけられているんじゃないかしら?」
「あ……そういえばそうでした」
 千歳ちゃんは、はっとして、それからすぐにがっかりとした顔になった。
 この子なら、小春のスケジュールを逐一チェックしてそうなものだけど。
 まだまだ甘いわね。そんなことで小春ラヴを掲げようだなんて十年早いのよ。
「あ、二葉先輩。こんにちは」
 そこで千歳ちゃんは私の隣に崇がいることに気づいて、少し慌て気味に挨拶をした。
 ちゃんと、笑顔で。
「こんにちは、佐倉さん」
 崇の方も、爽やかに微笑んで返す。
 ……なんなんだろう、このそこはかとない差別感は。
「この間の剣道の試合、見に行きました。決勝戦は……残念でした、二葉先輩」
「はは、仕方ないよ、俺なんてまだまだだからね。そういえば佐倉さん、見に来てくれたんだよね、試合。BBSにも書いててくれてたし」
 何やら聞き慣れない単語が崇の口から飛び出した。
 びぃびぃえす?
 なんだそれ。
「あ、読んでくださったんですか」
 ぱぁっ、と千歳ちゃんの顔が明るくなる。
 崇はうなずいて、
「佐倉さんのハンドルって凄く可愛いから、目に付きやすいんだよ。あれって何かの漫画の登場人物の名前だったりするの?」
「いえ、あれは……私が自分で考えました」
 まるで少女のように――事実、少女なのだが――顔を真っ赤にして、千歳ちゃんはうつむいてしまった。
 スポーツをやっていて身体がそこそこ出来ている崇と比較してすら大人びて見える千歳ちゃんが、自分よりもやや背の低い男子の前で顔を伏しているその姿は、傍目から見ていてちょっと面白かった。
「あはは、気にすることないって。佐倉さんらしくて、良いと思うよ」
「あ……ありがとうございます」
「なーんて、あんまり書き込みないからね、ウチのBBS。来てくれる人も決まってるし。ハンドルの印象なんて、実は全然関係なかったりして」
「も、もうっ、二葉先輩ったら……」
 首から上を完全に真っ赤にして、千歳ちゃんは少し怒ったように頬を膨らませた。
 ……………………。
「……どうしたんですか、丘野先輩?」
「い、いや……べつに……なんでも……」
 私は顔とお腹を同時に押さえて、うずくまってしまいそうになるのをなんとか堪えながら、肩をぷるぷると震わせていた。
 ち、千歳ちゃん……男を前にするとキャラ思いっきり変わんのね……ギャップありすぎて、おもしろすぎっ……。
「BBSといえば……二葉先輩のところのホームページって、ドメイン取得してるんですよね。どこかのレンタルサーバーですか?」
「ああ、あれはね、自宅サーバーなんだ」
「え、そうなんですか!?」
 目を見開いて、身を乗り出す千歳ちゃん。
 私には何のことやらさっぱり分からないが。というか笑いを堪えるので必死だった。
「親父のいらなくなったPCを俺が弄ってね。設定に苦労したけど、本を見ながらなんとか形にしたんだ」
「すごい……憧れます」
「それなりのスペックのPCと本があれば誰にでもできるさ」
「でも……CGIもろくに弄れない私には無理ですよ」
「ウチの日記で使ってるやつだったらあげるけど?」
「せっかくだから自分で作ってみたいなと思いまして。何度かやってみたんですけど、どうしてもうまくいかなくて……私はどちらかというと、ハード系なので」
「今度、教えてあげようか?」
「本当ですか?」
「うん。帰ったら、それ系のサイトのアドレスをメールで送っておくよ。俺が作ったCGIの解説と一緒に」
「ありがとうございます!」
 胸に両手を添えて――これは小春がよくやる仕草と一緒だ――、嬉しそうに千歳ちゃんが笑う。
 で、まぁ、なんだ。
 今度はおかしさより、奇妙な疎外感を覚えているわけで。
「ねぇねぇ、君らさ」
 ちょいちょいと招くように手を振りながら、私は二人に声をかけた。
 二人は、同時に振り返ってくる。どちらにも今しがたまでの和やかさはなく、揃って警戒心が表情に浮かび上がっていた。
「そんな異次元言語で会話されても、私が話についていけないんですけど」
 私がそう告げると、二人はぽかーんとした顔でこちらを見つめてきた。
 ……なんだ。なんか変なこと言ったか、私。
「ただのパソコン用語ですが」
 最初に答えてきたのは、千歳ちゃんだった。
「丘野、パソコンとかやらないのか?」
 続いて、崇が尋ねてくる。
 なるほど、パソコンか。
「小春は興味あるみたいだったけれど。私自身は、あんまり。なんだか、難しそうじゃない?」
「触ってみるとそうでもないけどな。確かに色々と用語があって、ややこしくは感じるかもしれないけどさ」
「そう、それ。用語よ。英単語だけならまだしも、びぃびぃえす? とか略称で言われてもわけわかんないのよ、馬鹿」
「なんでそこで馬鹿呼ばわりされにゃならんのだ」
 崇はため息をついて頭をぽりぽりと掻きながら、再び質問してきた。
「パソコン用語っていったら、何が分かる?」
「クラッシュとか?」
「……どうしてそこでいきなりマイナスな用語が出てくるんですか」
 呆れたように、千歳ちゃんが突っ込んでくる。
「じゃあ、フォーマットだっけ? イニシャライズ? どっちだっけ」
「負の単語しか、先輩の頭の中には存在しないんですか」
 千歳ちゃんは頭を抱えて、うめいた。
 だって本当にそのくらいしか知らないんだから、仕方ないじゃないかよぅ。
「しかし意外だなぁ。丘野なら、そのくらいお手の物って思ってたけど」
 かゆいのかただの癖なのか、今度は首のあたりを指先で掻きながら崇が言ってくる。
「何よ、それ。誰にだって苦手なことはあるわよ」
 憮然と答えた私に、崇は軽く笑ってみせた。
「名前がアキバっぽいじゃんか。だから機械とか得意だってイメージがあってさ」
 ――崇にとっては。
 なんのことはない。普段、教室で友達と軽口を叩き合うノリだったのだろうが。
 千歳ちゃんが場の空気を変えてくれたおかげで、彼も――私も、忘れていたことがあった。
 彼にとって私がどういう存在なのかを。
 私が握っている、彼の秘密を。
「……あ、いや、ごめん。そんなつもりじゃ……ないんだ」
 私は我知らず、刺し通すほど鋭く細めた視線で崇を見据えていた。それに気づいた彼は、尻窄みに謝ってくる。
 まぁ、秘密云々は別にするとしても。
 私は、あのイカれた街と自分の名前を一緒にされるのが嫌いだった。
 日本最大の電気街といっても、集うのはどいつもこいつも生粋のオタクばかり。
 道端には堂々と卑猥なアニメキャラの絵が展示されていたり、電子部品よりもゲームとかアニメのグッズのがたくさんあるっぽかったり。それは私の先入観かもしれないが。
 そこまではいい。それらの文化は肯定しよう。
 ただ、なんであんなに臭いわけ?
 何年もずっと同じ服を着ているっぽい連中がカバンをぱんぱんに膨らませて、どのくらい洗ってないか分からない頭の毛を振り乱しながら徘徊している様子は、私の目には地獄のようにしか映らない。
 健全な人間らしい生活を犠牲にしてまで、自らの欲望の赴くがままに物品を購入しまくり、電磁波に取り憑かれたかのように日々を過ごしていく、人の成れの果てども。加えて、縦横限定奥行き皆無な平面図形崇拝者。
 そういった人種が全てではないことは分かるが、全体の三割以上は確実にその手の臭いを放っている。少なくとも私はそう思う。
 そんな街と私の名前が同じ漢字であるというだけで腹が立ってくる。
 でも小春が、「春と秋で季節感的に似たもの同士っぽいからわたしはすき」と言うのでは、自分の名前を憎んでも憎みきれないわけで。
 ぶっちゃけどうでもいいと言えばどうでもいいことではあるのだが。
「でも、先輩はこういうことには興味がある方だと思っていたのですが」
 私と崇の間で流れている空気を感じ取ったのか、千歳ちゃんが話を元に戻してくる。仏頂面のまま言われても、あまりフォローになっている気はしなかったが。
「ないない、全然ない。機械系は特にね」
 単に私が不器用だからという理由があるのだが……それは内緒にしておく。
「小春とはパソコンの話はしないんですか? あの子、凄く欲しがっているようでしたけど」
 そう喋りかけてくる千歳ちゃんの声は、いつもよりも幾分か柔らかく聞こえた。
 まるで子供が親に、遠回しにおねだりしているような。
「しないわね。私が興味ないって知ってるから」
「先輩とそういう話ができるようになれば、小春もきっと喜ぶと思うんですが」
 私は千歳ちゃんのその言葉で、彼女の思惑を察した。
 なるほど、私が買う気になるように仕向けて、小春にパソコンをやらせようという魂胆か。
 だが、この程度の押しで折れるような私ではない。
 ていうか、普段から私につんつんした態度をとってるぶん、分かりやすいのなんのって。
「ダメよ。あの子、ほっとくとテレビゲームだって何時間もやっちゃうんだから。目が悪くなるわ」
 と、私は千歳ちゃんの狙いを一蹴した。
 事実、小春に目を悪くされては困るのだ。私が。
 小春の可愛い顔――同じ顔してる私が言うのもなんだが――が眼鏡なんて無粋なもので覆われてしまうなんて、私には耐えられない。
 ……いや。
 眼鏡っ子顔な小春も悪くは……でも……うぅ……。
 ………………。
 …………。
 ……。

「お姉ちゃん……眼鏡ないと何も見えないよ……」
「大丈夫よ、私はここにいるわ。さぁ、足を開いて。小春の綺麗な花びらを見せてちょうだい」
「はぅ……怖いよ、お姉ちゃん……」
「ここには私たちしかいないのよ。それは分かるでしょう?」
「う、うん、でも……よく見えないから、誰かいそうな気がして……恥ずかしい……」
「ふふ、可愛い子……でもね、言うことを聞かないと私、ひどいお仕置きをしちゃうかも」
「い、痛いのやぁ……」
「だったら言う通りにしなさい。ね?」
「は、はい……」
「そう、ゆっくり広げるのよ」
「……お、お姉ちゃん……」
「なに?」
「そこにいるの、お姉ちゃんだよね……?」
「ええ、そうよ。ここにいるのが私以外であるはずがないわ。小春のこんないやらしい姿、私以外の人間に見せてなるものですか」
「お姉ちゃんっ……」
「小春……」

 ……。
 …………。
 ………………。
 はっ。
 危ない、もう少しで妄想世界にトリップしてしまうところだった。
「……先輩?」
 露骨に危険なものを注視するような目つきで、千歳ちゃんが声をかけてくる。
「いえ、なんでもないわ。ええ、なんでも」
 平静を装いながら、私は答えた。妄想のせいで胸がドキドキしてしまっていて、注意して舌を回さなければ声が上擦ってしまいそうだったが、それはなんとかなったようだった。
 それを見ていた崇が、肩をすくめながら一言。
「丘野って、妹のことになると人が変わるからなぁ……変な意味でさ」
 変ってどういうことだよ、おい。
「変ですよね」
 千歳ちゃんがそれに同意してみせる。
 この子にだけは言われたくないなぁ。小春が絡むと性格変わるのは君も同じでしょうに。
 とにかく。
「ダメだったらダメ。小春にはパソコンはやらせない、私もやらない。以上!」
 早口でそうまくし立てて、私は二人に背を向けた。
 廊下を歩きながら、思う。
 大体、パソコンなんてひきこもりを促進、増殖させている元凶じゃないのさ。
 インターネットとかいうやつの中にも、悪い奴はいっぱいいるっていうし。
 そんな混沌とした世界に小春を放り込むわけにはいかない。
 そう、絶対にだ。



「今日ね、千歳ちゃんから聞いたの。お姉ちゃんが、わたしにはパソコンをやらせないって言ってたって……」
 その日の夕食、帰るときからずっと沈んだ顔をしていた小春に理由を問い質してみると、千歳ちゃんから昼間の会話の内容が漏洩したせいだということが判明した。
「そっか、そうだよね……お姉ちゃん、興味ないもんね……目も悪くなっちゃうし……ダメだよね……ぐす」
「OK、マイシスター。早速、我が家にコンピューターの導入を検討しましょう」
 ……所詮、私なんてこんなもんさ。
 泣くのは反則だってば、小春ちゃん……。

(十話につづく)



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