第八話 「試行実験」

***1***



「こんにちはー、お姉ちゃんいますかー?」
 昼休み。
 マイエンジェルの降臨である。
「入ってらっしゃいな」
 私はいつも通り、小春を手招きで呼んだ。
「おじゃましまーす」
 途中、すれ違う上級生ら――同い年なのだが――に上目遣いで軽く会釈しつつ、小春は私の前の席の椅子を引いて、遠慮がちにそこに腰を下ろした。
 その席の人は昼休みになるといつも運動場に遊びにいくので、別に気兼ねをする必要はないのだけど。雨の日とか、たまに机に突っ伏して寝ているときがあるけど、まぁその、なんだ。ぶっちゃけ邪魔?
 ……邪魔者といえば。
「今日は千歳ちゃんは?」
「あー、なんか今日は委員会みたいで」
 両手の人差し指を合わせながら、そう答えた小春の表情は少し寂しげだった。
「委員会? あの子、何か委員やってたの?」
「クラス委員ですよ。ほら、文化祭近いじゃないですか。たぶん、それでじゃないかなぁ、と」
「文化祭ねぇ。ご苦労なことで」
 私は肩をすくめて、苦笑した。
 クラス委員で、文化祭の打ち合わせ。てきぱきと周囲に指示を出す千歳ちゃんの姿が容易に想像できる。
 今度は、小春が尋ねてくる。
「そういえば麻生先輩はどうしたんですか?」
「うん。四時間目の授業のことなんだけど」
 私は、前の列の一番端っこの席の方を指さした。それを追って、小春もそちらに目を向ける。今は誰も座っていないその席に。
「あそこの席の子が鼻血出しちゃってね。それで、日向の席ってそこから三つ隣だから」
「なる……間近で見ちゃったんだ」
 それで小春は納得したようだった。
 日向が血を見るのを苦手としていることは、このクラスでは結構、有名な話である。
 軽いときで貧血。ひどいときは嘔吐しながら気も失うこともある。というか、今回はその後者だったのだが。
 かすり傷のような、滲む程度の出血なら問題ないらしいが、鼻血みたいな量の多く、水気も多い出血だと、視界の隅に捉えるだけでアウトなんだとか。
 交通事故の現場に居合わせでもしたら、日向の方が死んでしまうんではないだろうか。さすがにそれは無いとは思うけど。
 血が苦手というのは属性的にかなり乙女ポイントの高い要素ではあるが、吐くにまで至るとなるとさすがに私もちょっと引く。
 普段、日向のことをないがしろに扱ってきている私でも、それが彼女にとって絶対にからかってはならない部分なのだということは理解しているつもりだった。
 だからそれについては深く触れるつもりもない。引いてしまった時点で、私にはその資格がない。
「そういうこと。今は保健室で寝てるわよ」
「そっか……大変だなぁ」
 日向の席の方を本当に心配そうな眼差しで見つめながら、小春がつぶやく。
 こう言ってはなんだけど……おかげで久しぶりに小春と二人きりの昼休みが過ごせるのだ。その点に関してだけは、日向の血嫌いに感謝したい。
「さてと、小春」
 私は席を立って、小春に手を差し伸べた。
「行きましょう。人気のないところに」
「……なんで?」
 本気で顔に疑問符を浮かべながら、小春が訊き返してくる。
 なんでって……そりゃ……。
 …………。
 しまった。
 二人きりだけど学校だから厳密な意味での二人きりじゃないということに憤るあまり、うっかり理性よりも先に本能が口を滑らせてしまっていたらしい。
 というか、なんでいきなり「人気のないところ」とかいう言葉が飛び出しますか、私。
 それなら、散歩にでも誘って校舎裏にでも連れ込んだ方がよっぽどクールだったんじゃないのか?
 あー、馬鹿。
 私の馬鹿。
「そこで何故と問うのは無粋というものだよ、丘野妹よ」
 横から投げかけられたその言葉が。
 私には絶望の鐘の音に聞こえた。
 なんだってこんなときに沸くかなぁ、こいつは……。
 ……いや、こんなときだからこそ沸くのか。
「あ、胡桃木先輩。こんにちはー」
 にっこりと微笑んで、小春は突如として現れたその男に挨拶をした。
 ああ……そんなひまわりのような笑顔……こんな害虫に……もったいない……。
「うむ」
 胡桃木は嘗め回すように小春を観察すると、満足したようにうなずいて見せた。
「どうやら経過は順調のようだな、丘野妹」
「はい、おかげさまでー」
 ぴったりな呼吸でうなずいて返す小春。
 …………あれ?
「ちょっと待って、あなたたち……」
 声が震えていた。だが、それでも私は問わねばならない。
「……いつの間に、そんなふつーに話し合えるような関係に……?」
「そういえば丘野は知らなかったか?」
 胡桃木は首を傾げつつ、腕組みをした。
「俺は常々、丘野の身体のある一部分についてそこはかとなく疑問を抱いていたのだ」
「ある一部分?」
「この間のことだ。ちょうど俺がそのことについて悩んでいたとき、廊下で丘野を発見してな。あぁ、言うまでもないと思うが、それが丘野妹だったわけだ」
「だから一部分って?」
「俺が溢れんばかりの若いエネルギッシュな衝動を抑えられるような人間ではないということは、自分が一番よく分かっているつもりだ」
「一部分って何」
「即座に俺は行動に移した。そしたら、いつもだったら痛烈に殴ってくるはずの丘野が、何故か怯えた小動物のような眼差しで上目遣いに見つめてくるではないか」
「人の話を聞け! 一部分ってどこっ!」
 私の絶叫を完璧に無視して、胡桃木は表情に翳りなど落としながら、続けた。
「らしくもない……俺としたことが、単純なミスだった。まさか丘野と、丘野妹を間違えるとはな。悔しかったよ。だから敢えて俺は、丘野妹の身体で疑問の解明に乗り出すことにした」
「乗り出すなぁぁぁっ!」
 思わず胡桃木に殴りかかろうとした私を、細い腕が制止する。小春だった。
 ……なんで。
 なんで?
「お姉ちゃん、別に変なことされてないから。大丈夫ですよ」
「だって、小春っ……」
 目眩がしていた。ぐわんぐわんと、頭の中で重鐘が鳴り響いている。
「ちょっとお話しただけですから。胡桃木先輩のお話って、面白いんですよー」
 小春の花のような笑顔が、痛々しかった。
 辛かったろうに。苦しかったろうに。
 それでも私には悟られまいとして……無理に笑っているのだ。きっと。
「なんかやたら女の子の下着とかに詳しくて。わたしも知らないこと、いっぱい教えてもらったり」
「そんなことは夏生さんに聞きなさい!」
 怒鳴りつける私に、小春は不服そうに頬を膨らませて、
「えー、だって、夏生お姉ちゃん、わたしにはまだ早いって言って何も教えてくれないんですよ」
「それにしたって、男にそんなこと聞くのは……というか、よりにもよって胡桃木に……」
「失礼だな、丘野。今のご時世、無知では生きていくことすら難しいのだぞ」
「女の子の下着についてなんか知らなくったって生きていけるでしょうが!」
「まぁ聞け、丘野」
 私の両肩に手を置いて、胡桃木は神妙に目を細めた。すぐにでも振り払ってやりたかったが、身体がいうことを聞かない。情けないことに、少し硬直してしまっていた。
「俺はただ、スカート長短におけるパンツの存在意義について語っただけだ。卑猥なことなど何もない」
「充分卑猥すぎるわ!」
 叫んで、ようやく身体が動いた。私は胡桃木の手を払いのけ、そのまま小春の方に詰め寄った。
「小春、正直に答えなさい。一部分というのは何処なの? 一体、胡桃木に何をされたの?」
「えっと、それは……」
 言い淀む小春。
 しばしの沈黙が続いた後、先に声をあげたのは胡桃木だった。それに小春が続く形で。
「ひーみつひみつー」
「おとめのひみつー」
「いぇーい」
 最後は二人揃ってハイタッチ。
 ……私の中で、何かが音を立てて瓦解した。
「うわああああああああああああああああああっ!」
 胡桃木の首を絞めて前後にがくがくと揺さぶりながら、私は喉が張り裂けんばかりに絶叫した。
「きゃあああっ!? 落ち着いてっ、落ち着いてお姉ちゃんっ!」
 小春の必死の制止の声が、悲しくて、痛々しくて。
 私は泣きながら、胡桃木の首を絞め続けた。



***2***



「……で」
 うんざりと。
 まだ少し顔色の悪い日向が、戻ってくるなり嘆息した。
「状況的にはお約束極まってる感じでものすごく分かりやすいんだけど、ここまでいつも通りだと逆にあたしに対する嫌がらせなんじゃないかとすら思えてくるわねー」
 日向の見下ろす先には――床にうつ伏せに倒れた胡桃木の身体。じんわりと床に血が滲んでいる。
 私は小春をその躯から遠ざけるように、両腕で庇うようにして立っていた。
 再度、日向が嘆息する。
「何があったかなんて、もう聞くのも馬鹿馬鹿しいってゆーかなんてゆーか」
「今日は事情が違うの。こいつは即刻、排除すべきだわ」
 告げて、小春を抱きしめる腕に自然と力がこもる。
「そ、そこまでしなくても……胡桃木先輩だって、別に――」
「ダメよ」
 宥めようとしてくる小春の言葉を、私はぴしゃりと遮った。
「妊娠させられたらどうするの? この男に触れられたが最後なのよ?」
「いやよやめてさわらないでこどもできちゃうー」
 どこか投げやり気味に歌い出したのは日向だった。
「まぁ、なんだ。いつものことだから気にしないで大丈夫よー、小春ちゃん」
「だって、胡桃木先輩、血が出てるしっ……それに麻生先輩だって、血が……」
「んー」
 言われて思い出したというふうに、日向は足元の胡桃木の頭部周辺に視線を落とした。
 あの後、胡桃木は机の角に頭をぶつけて――私が狙ってやったのだが――先日の古傷が開いたのか、血をだらだらと流しながら気を失ってしまった。
 もう出血は止まっているようだったが、床に残った赤黒い染みがそこはかとなく凄惨さを醸し出していた。
「なんでだろねー。胡桃木くんの血は、別に見ても大丈夫なのよねぇ」
「そ、そうなんですか……」
「どっちかっちゃ和むってゆーか」
 また随分と融通の利いた血嫌いですこと。
「まぁ胡桃木くんは血ぃ吐いてなんぼって感じだし。気にしない気にしない」
 あっはっは、と日向は笑った。
 そんな日向を見て、小春は思いっきり引いているようだったが。
「……ご歓談中のところ、申し訳ないんですけど」
 ゆらり、と。まるで幽鬼のように。
 水がけモップを片手に、眼鏡の向こう側でどんよりと瞳を曇らせた恵理ちゃんが、日向の隣に現れた。気配もなく。
「後始末するのわたしだってこと、忘れないでね」
「ご、ごめんなさい……」
 得体の知れない圧倒的な迫力に気圧されて、私は思わず謝っていた。
 ここのところ立て続けだったからなぁ。さすがに怒るよなぁ、いくら温厚な恵理ちゃんだって。
「ほら、胡桃木くんも起きて。お掃除の邪魔」
 と、恵理ちゃんはモップの柄で胡桃木の頬をつついた。
「う……ん?」
 悩ましげな声を発しながら、のそりと胡桃木が起きあがる。顔に違和感を覚えたのか、服の袖で顔を何度も擦っている。
「むぅ……? 何やら憧れの彼と初夜を迎えた少女が翌朝ベッドのシーツについた自らの赤い染みに頬を朱に染めるような恥じらいが俺の心というか顔を苛んでいるのだが、これは如何に?」
「どこからどう連想すればそういう発想に至るかな、この男は」
 恵理ちゃんのおかげですっかり毒気を抜かれた私は、ただ呆れ顔でそうつぶやくことしかできなかった。
 やがて胡桃木は、床の血痕と服の袖についた血から、自分の顔が血まみれになっていることに気づいたようだった。
「なるほど」
 ふっ、と胡桃木は遠い眼差しで儚げに苦笑した。
「また丘野に散らされてしまったわけか」
「……あなたが言うと、すごくいやらしい意味に聞こえるのは私だけかしら?」
 それとも、私の連想力も胡桃木と同程度ということなのか。
 小春や日向は分かってないみたいだし。
 ……鬱になるから、それについては考えるのはやめよう。
「ふむ。いつも迷惑をかけるな」
 言葉少なに恵理ちゃんに謝りながら、胡桃木は彼女の持っていたモップで顔を拭いた。
 ……おいおい。
「こうやって君の仕事を増やしてしまっていることは、断じて俺が悪いわけではない。おっと、だからといって丘野を責めないでやってくれ。暴力もまた人同士のコミュニケーションの一環なのだ。眼鏡の似合う、博識な君なら理解してくれるはずだ――って、どうした?」
 私たちは揃って汚物を見るような目で胡桃木を見やりながら、窓際の方まで避難していた。恵理ちゃんもモップを手放して、教壇の方に向かって後退りをしている最中だった。それだけじゃない、教室中の誰もが胡桃木との距離を離している。
「どうしたんだみんな? もう血は拭ったぞ?」
「平然とモップで顔を拭くんじゃないわよっ!」
 私が怒鳴って初めて、胡桃木は自分が何で顔を拭いていたのか気づいたらしかった。簾状のそれを見つめて、ははっ、と爽やかに笑ってみせる。
「なんだ、モップだったのか」
「それだけかよ」
 つい男言葉で、私はうめいてしまった。
「いいから、顔を洗ってきなさい。そのモップもちゃんと水で濡らして来るのよ」
「丘野がそう言うなら仕方ない。行ってこよう」
 珍しく素直に聞き入れて、胡桃木はモップを持って教室を出ていった。
 はぁ……と私たちは同時にため息をついた。
「あはは……ほんと、面白い人ですよね、胡桃木先輩って」
「小春。笑い声が乾いてる。無理してフォローしなくていいわよ」
「はぅ……」
 小春は、気まずそうに肩を落とした。
 あんな虫ケラのような男なんかに小春の思いやりがカケラでも投げかけられるのは耐え難いことだったが、そんな慈悲深い女神のような心優しさを持った妹に、私は内心こっそりと欲情していた。
 ……ふぅ。
「そういえばさー」
 唐突に、日向が話を振ってくる。
「胡桃木くんて、秋葉に異常なくらいちょっかいかけてくるじゃない?」
「殺したいほどにね」
「小春ちゃんにはどーなの? ほら、容姿だけならまったく同じだしさ」
 そうだった。
 その話を詳しく聞かなければならないのだった。
「小春、さっきの話の続きよ。胡桃木に一体何をされたの?」
「えっと、本当にいやらしいこととかはなんにも。下着の話と、あと手相を見られただけです」
「手相?」
「はい。お姉ちゃんの太陽線っていうのがすごく気になってたみたいですよー」
「太陽線て」
 またとんでもなくマニアックなところにこだわってるな、あの男。
「あとは、たまに廊下で会うたびにちょっとだけお話をしてたくらいです」
「本当にそれだけ?」
「です」
 こくん、とうなずく小春。
 どうやら嘘をついている素振りでもないし……大したことはされてないみたいだし、別にいいのだけど。
「あ、面白いこと思いついた♪」
 にぱっ、と顔を輝かせて、日向が提案してくる。
 またろくでもないことを言い出すんだろうが……。
「胡桃木くんの、秋葉への本気度チェーック」
「……なによ、それ」
「ほら、今日は二人ともお揃いの服じゃない?」
「ええ」
 特におろし立てというわけでもない、いつも二人でよく着るワンピースだ。セーラー仕立ての襟首周りが可愛いということで、小春のお気に入りでもある。
「そいでさ、髪型も統一して、二人で並んで立ってるの。帰ってきた胡桃木くんにどっちが秋葉か見分けることができるか試すのよー」
「なんであいつごときのためにそんなことをしなくちゃ――」
「あ、それ面白そうっ、やりましょう、お姉ちゃんっ!」
 ぐいぐいと私の服を引っ張って、小春はすっかり乗り気だった。
 日向はにやにやしながら、私の反応を待っている。
 くそ……小春ならこういう企画には絶対に乗ってくると踏んでたな、この女。
「ま、いいでしょう……」
 渋々、私は了承した。
 もし何かあれば、また胡桃木を血の海に沈めればいいだけのことだ。
 それに小春が楽しんでくれるなら、たまにはこういう遊びも悪くはない。
 相手が胡桃木というのが、いささか不満ではあったが。
「よし、じゃあ決まりねー。小春ちゃん、髪の毛おろしてくれる? 秋葉はもうちょっと表情を柔らかくして」
 小春は言われた通りに後ろ髪を束ねたゴムを外し、私は顔の筋肉から力を抜いた。
 どこからともなく取り出したブラシで小春の髪を梳かしながら、日向が私の顔をじっとりと見据えてくる。
「もうちょい柔らかく」
「……こう?」
「少しだけ笑って」
「……これでいい?」
「怖っ」
「あなたがやれって言ったんでしょうが!」
 叫びながら、胸倉でもつかんでやろうと手を伸ばそうとしたが、いち早く危険を察知したのか、日向は小春の後ろに身を隠していた。
「いやーん、秋葉こわーい。小春ちゃんたすけてー」
「このっ……!」
 小春の肩越しに睨み合う私と日向。間に挟まれた小春は、あはは、と苦笑いを漏らすだけだった。
「まあいいや。無表情でいきましょう。小春ちゃんの方で微調整してもらう形で」
「はい」
「……ええ」
 色々と突っ込みたいことはあったが、今はとりあえず抑えることにして、私はうなずいた。
「そろそろ胡桃木くん帰ってくるよ。準備はいい?」
 小春は人形のような無表情で、小さく首を縦に振ってみせた。いつでも来い、といった感じである。
 私もそれに倣って、感情を殺した。二体の同じ造形の人形が並んでいる様子をイメージする。手は前で揃えて背筋を伸ばし、真っ直ぐ前方――何もない虚空を見つめる。教室中の視線が私と小春に集中しているのがはっきりと分かって、少しくすぐったい。思わず身じろぎしてしまいそうになるが、なんとか自制する。
 ややあって――教室の扉が開く音。
「言われた通りに顔を洗ってきたぞ。だが生憎、今日はハンカチを持ち合わせていなくてな。それで洗ったモップで顔を拭いたわけだが、これはセーフなのかどうか皆の意見が聞きたい」
 自らのトンデモ行為を大声で語りながら、胡桃木がモップを片手に教室に入ってきた。
「洗ったモップも濡れてるわけだから……あんまり意味ないんじゃないかな……」
 律儀にも、恵理ちゃんが答える。
「ふむ……それでは自然乾燥が最も正解に近かったわけか。それで、丘野姉妹はいったい何をやっているんだ?」
 モップを引きずりながら、胡桃木が近づいてくる。ていうか、近づくんじゃねぇ。汚い。
「おかえりー。今ね、双子の見分け方について実験してたところなのよ」
 と、日向が適当なことを胡桃木に説明する。
 さすがに彼女も今の胡桃木には近づきたくないのか、一定の距離を常にキープしながら後を続けた。
「髪型も一緒、服もお揃い、こうやって無表情で並ばれると、どっちがどっちってなかなか分かんないもんよねー、実際」
「そうだな」
 胡桃木の視線が左右に揺れる。まじまじと見るわけでもなく、意外とあっさりとした観察の仕方だった。
「胡桃木くんにはどっちが秋葉か分かる?」
「ふむ」
 自らの顎を指でつまみ、喉を唸らせる胡桃木。
「匂いは嗅いでもいいのか?」
「だめでーす」
「触診は?」
「厳禁でーす」
「そうか」
 胡桃木は本気で残念そうだった。
 ていうか、もしそんなことしようものならその時点でこの世界から消すけど。
「冗談はさておき」
 モップを壁に立てかけてから、胡桃木がこちらに向き直る。
「こっちが丘野だろう」
 と、何の迷いもなく、私を指さした。
 ……マジかよ。
「わー、すごーい、胡桃木くん!」
 日向が感嘆する声に続いて、教室内のあちこちでも似たような声があがる。それだけ今の状態の私と小春は見分けがつかなかったということなのだろう。
 その中でも一番驚いていたのは小春で、
「すごいすごい! 胡桃木先輩、どうして分かったんですか!?」
 と、さっきまでの無表情が嘘のように、ぴょんぴょんと飛び回らんばかりの勢いだった。
「雰囲気……そうだな。強いて言うならば、雰囲気だ」
 周りから騒がれて少し調子に乗っているのか、したり顔で胡桃木は語りだした。
「丘野妹の無垢な純粋さ――純潔。それは多くの男を惑わすものだ。約束しよう、君はきっといい女になる」
 何か小学生らしからぬことをのたまってやがるし。
 小春は今でもいい女なのよ。分かってないわね。
「だが、丘野の場合は、それと同質のようでありながら、まったく正反対の雰囲気を纏っているのだ。俺を魅了し、半ば狂わせるにまで至ったその匂いを間違えるはずがないだろう」
「具体的にどんな雰囲気なのよ」
「ぶっちゃけ、殴ってくれそうみたいな?」
「マゾ本能で人を判別するなぁぁぁっ!」
 私は胡桃木が喋り終えるより早く手に取っていたモップを、怒鳴り声をあげると同時に振り下ろしていた。
 そして再び胡桃木は、床を血で染めることになった。



 その日の夜。お風呂場で。
 二人で湯船に浸かりながら、小春が言い出したひとこと。
「ねぇねぇ、お姉ちゃん。今日のあれ、次は千歳ちゃんで試してみない?」
「いや……やめとくわ……」
 それから寝るまで、小春の不満声を聞き続ける羽目になった。

 だってさ。
 あの子だったら、例え私たちのクローンが何十人並んでいようと、速攻で小春を見つけだしそうなんだもの。
 なんてことを言ってやると小春はきっと喜ぶんだろうなぁ、と思いつつ。
 それで喜ばせるのはなんか悔しいので、敢えて黙っておくことにした。



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