第七話 「ずっと今の私たちのまま」

***1***



 金持ってんだなぁ、この女。
 たまに日向に抱くその気持ちは、そっくりそのまま自分に返すことができた。
 ごく一般的な住宅街。一軒家、借家、アパートなどの集合住宅。少し離れたところには公園と、アーケードに覆われた商店街があり、そこを拠点に住人同士の交流も盛んだった。
 私たちの家――丘野家は、一軒家に分類される。
 敷地面積は、通常の一軒家の三倍以上はあろうか。
 塀に覆われた先には庭があり、植木を挟んで建物がある。何度か改築を施してきたために、それほど古びた様子はない。ただ、庭の惨状は酷いものだった。もう大分前から手入れしていないのではないだろうか。雑草が伸びたい放題で、踏み込めないほどではなかったが、見た目上の問題はかなり深刻である。
 そろそろ業者でも呼ぼうかな……。
「それでねー、千歳ちゃんったら勘違いして――」
 今日あった出来事を楽しそうに話す小春に相槌を打って返す。
 正直、千歳ちゃんとか他のクラスメイトの話なんて聞きたくなかったけど、私がそれを我慢するだけで小春の笑顔が見れるのだから、安いものだ。
 そうこうしていると、家の前に着いた。大袈裟な作りの門と、その横手に勝手口。門は車を動かすときくらいしか開かれることはなく、普段は勝手口から出入りしている。
 私はランドセルから鍵を出そうとして――
「あ、いいよ。わたしが開ける」
 既に鍵を右手に持って準備をしていた小春が、勝手口の方に歩いていく。
 かちん、と。
 鍵の開く音がすると同時に、背後から声をかけられた。
「おかえりなさい、秋葉ちゃん、小春ちゃん」
 振り返ると、そこにはブレザー型の制服に身を包んだ女の人がひとり。
「あ……夏生さん」
 と、私は軽く頭を下げてみせた。
 日比谷夏生。高校二年、十七歳。私が彼女に抱いている印象は、”とても頭の良い人”だった。
 腰まで伸ばしたまっすぐな黒髪に、矯正したのではないかと疑わしくなるくらい整った顔立ち。ありていに言えば、彼女は美人だった。ただ……右目を覆う白い眼帯が、その全てを台無しにしてしまっていた。
「夏生お姉ちゃん、ただいまーっ」
 私の隣を通り過ぎて――小春が、夏生さんに飛びかかるようにして抱きついた。
「っと……小春ちゃんは元気ねぇ。そんなに走ると、転んじゃうわよ?」
「もう転んだから大丈夫ですよー」
 そういう問題でもないのだけど、と夏生さんは苦笑した。
 こうして見ていると、この二人の方が本当の姉妹なのではないかとすら思えてくる。
 それは嫉妬ではなく、落胆でもなく――ただ、やるせなかった。
「ほら、甘えるなら秋葉お姉ちゃんがいるでしょう?」
 そんな私の胸中を察したのか、夏生さんはそっと小春の身体を引き離した。
「だってお姉ちゃんには、いつでも甘えられるし……」
 しょんぼりと小春がつぶやく。
「それに、いつまでも甘えているわけにはいきませんから……」
「だからってわたしに甘えてたら意味ないわよ?」
 小春の言葉に、夏生さんは優しくそう言い諭した。
 小春が姉離れ……というか、自立を望んでいることは薄々感付いてはいた。
 もっとも言葉ではっきりと聞かされたのは、これが初めてだったが。
 ふと、気づく。
「夏生さん。鞄持ってないみたいですけど」
 と、私は夏生さんの手元を目線で示した。加えて、彼女は制服のままだ。
 夏生さんは、ああ、とうなずいて、
「一度、家に帰ったの。着替えても良かったんだけれど、秋葉ちゃんたちも帰ってくる頃だなぁって思ったからそのままここで待ってたのよ」
「そうですか。すみません」
「やだ、謝ることないわよ。わたしが勝手にやってることだし。あっ」
 そこで彼女は本題を思い出したというように、両手を胸の前で打ち合わせてみせた。
「そうそう。今日はお母さんいるのかな?」
「そっか。わたし、見てきますね」
 と、小春は勝手口をくぐって、ぱたぱたと足音を鳴らしながら玄関の方へと走っていった。
 私と夏生さん。二人だけが、その場に残される。
 それが何を意味しているか――わざわざ思い出さずとも、一転して重い方向へと変化した周囲の空気がそれを教えてくれた。
 夏生さんは、微笑んでいるのかそうでないのか――曖昧な表情で、こちらを見下ろしてきている。
 私は家の塀に背中を預けて、彼女よりも先に口を開くことにした。
「いつもすみません」
「えっ?」
「私たちのために、良くしてくれて」
「いいのよ、そんなこと。気にしないで」
 と、首を横に振って、夏生さんは朗らかに微笑んだ。白い眼帯がその笑顔の上で、寂しげに揺れたように見えた。
「大変なのは、秋葉ちゃんの方だしねぇ」
「そんな、私は別に……」
「それと一番がんばってるのも、秋葉ちゃん」
 真っ直ぐ――と言っても身長差で見下ろされる形で――にこちらを見つめながらつぶやいてきた夏生さんの言葉の真意を、私は瞬時に理解していた。
 ……どう、だろう。
「私なんて、自分勝手に生きているだけです」
 苦笑して、私はかぶりを振ってみせた。
 違う。
 頑張っているのは私じゃない。
 本当に頑張っているのは――
「そうかしら?」
「そうですよ。私がしなければいけないのは……懺悔ですから」
「心にもないことを言うもんじゃないわよ」
 腕を組みながら、夏生さんが厳しく告げてくる。
 言われると思った。
「小春ちゃんも、そんなこと望んでない。それは秋葉ちゃんが一番分かってるんじゃない?」
「……ですね。謝ります。自分を正当化していました」
「秋葉ちゃんのそういうところ」
 夏生さんは膝をかがめて、ひとつしかない目線を私と同じ位置に合わせてきた。彼女の手が、こちらにゆっくりと伸びてくる。
「小春ちゃんには見せられないわねぇ。絶対に」
 その指先が、私の肩に触れ――
「夏生お姉ちゃん、おまたせしましたーー……って、何やってるんですか?」
 ――ようとした寸前、背後からかけられた小春の声に驚いたのか、夏生さんの手は瞬時に軌道修正されていた。
 ふにっ。
 向かった先は……私の胸だった。
「……………………」
 どう反応すればいいのか分からず、私はただ無言で胸元の夏生さんの手を見下ろしていた。
 夏生さんも冷や汗など垂らしつつ、私の胸に手を添えたまま硬直してしまっている。思いのほかテンパっているのか、彼女は軽くかけ声などあげつつ、
「……えいっ」
 くりん、と。
 親指と人差し指で円を描くように、二回ほど乳を揉まれた。
 ……痛い。
「なるほどぉ」
 と、わざとらしく両手を打ち合わせると、夏生さんは満面の笑顔で小春に向き直った。
「しっとりとこりこりしててまだまだ発育途上というか、あんまり今からおっぱいのこと気にしてると乳年増になっちゃうみたいな?」
 乳年増て。
 小春は目を点にして、ほへーっ、という感じで夏生さんを見つめていた。やがて思考が認識しつつある事態と一致したのか、納得したようにうなずく。
「あ、そか、おっぱいの悩み事だったんですね」
「そうそう、そうなの。ねぇ、秋葉ちゃん?」
「はぁ……」
 釈然としないながらも、私は首を縦に振ってみせるしかなかった。
「そっかそっか、なんか今日は朝からそういうことばっかりで」
 顎の下で両手を組みつつ、小春は何か余計なことを口走ろうとしていた。
「朝もですね、わたしったら寝ぼけてて、お姉ちゃんのおっぱいを赤ちゃんみたいに吸ってたんですよー。もしかしてそのことを気にしてたのかな」
「あ、あはっ、小春ちゃんはまだまだお母さん離れできないのねぇ」
 と、小春の頭を撫でる夏生さん。
 垂らした冷や汗はそのままで。
「お姉ちゃんって、お母さんよりお母さんらしいっていうか。わたしがこんなこと言っちゃいけないんでしょうけど」
「それは……あっ。それで、お母さんは?」
「あ、そだ。いました。今日は帰り、早かったみたいです」
 そう答えた小春の顔が、少しだけ残念そうに曇る。
 いるのか、今日は。
「せっかくお母さんが帰ってきてるんだから、そんな顔しなーいの」
 小春をなだめる夏生さんの声は、先程まで私と話していたときからは絶対に感じ取ることのできなかった優しさが含まれていた。
 夏生さんは私に対してだけは、自分と同年代の人間を相手にするように話をしてくる。
 私を自分と対等であると認めてのことなのか、それともまったく別の何かか。
 どちらであっても、私にとってはやりにくい要素に違いはなかった。
「じゃあ今日はお泊まりは無しかぁ。ウチに余ってるのでおいしい料理でも作ってあげようかと思ってたんだけれど」
 仕方ないなぁ、といったふうに、夏生さんは自分の腰に手を当てた。
 ワケあって、丘野家では両親が帰らないことが多い。そんなとき、よく夏生さんが夕食の用意も兼ねて泊まりに来てくれるのだ。
 小春はそれを楽しみにしていたし、私にとってもありがたいことだった。
 他にもやることはあるだろうに、ただ隣の家に住んでいて、昔から私たちの遊び相手になってくれていたというだけでそこまでしてくれる夏生さんには正直、感謝していた。
 そこまで――といっても、それだけ揃えば充分なのかもしれなかったが。
「でも、やっぱり小春ちゃんたちにとっては、お母さんと過ごす時間の方が大事だと思うの」
 滅多に帰ってこないから。
 夏生さんの言葉の末尾に、私はこっそりと胸中でそう付け足した。
「だからわたしのお料理は、また今度ね」
「……はい」
 素直に、小春はうなずいた。
「よし、それじゃあわたしは試験勉強でもするかなぁ」
 両手を組んで前方に伸ばしながら、夏生さんは自分に活を入れるようにつぶやいた。
「大変ですね、高校生は」
「秋葉ちゃん。そう言っていられるのも今のうちよぉ? 知ってる? 中間とか期末試験って、中学からあるのよ。漢字とか算数のテストなんてまだまだ生易しい方なんだから」
 と、したり顔で私に告げてくる夏生さんの口調からは、先程までのような厳しさは感じられなかった。小春に語りかけるのと同じく、穏やかで暖かい。
「それじゃ、またね。お母さんによろしく」
「あ、はいっ。ばいばい、夏生お姉ちゃん」
「……さようなら」
 黒髪をふわりと翻して去っていく夏生さんの背中を、私と小春は二人並んで手を振りながら見送った。
「あーあ、夏生お姉ちゃんのお料理、食べたかったなぁ」
 夏生さんの姿が隣の家の中に消えると同時に、小春はがっかりと肩を肩を落とした。
 私は、そんな小春の横顔を眺めながら、尋ねる。
「お母さんの料理は、嫌い?」
「えと……そうじゃないけど。どっちかっていうと、夏生お姉ちゃんのがわたしの好きなものを知ってくれてるっていうか」
 言い方は何であれ、夏生さんの料理の方が良いということだろう。
 確かに、小春が苦手な野菜を食べられるようになったのは夏生さんのおかげだ。
 母親と夏生さん、どちらの料理も私にとっては美味しいと素直に言えるレベルのものである。
 それほど大層な味覚を私は持っていないので偉そうなことは言えないが、夏生さんの方が私たちの年頃の舌に受けそうな味付けがされているように思う。
 もし機会があれば食べ比べてみたいものだけれど。
「……それにしても」
 日比谷夏生。
 一体、どういうつもりなのだろうね、あの人は。
「どうしたの?」
 訝しげに、小春が私の顔を覗き込んでくる。
 私は小さく苦笑して、かぶりを振ってみせた。
「ううん。なんでもない。独り言よ」
 誤魔化すことに躊躇いはない。
 脳裏に、先刻の夏生さんの言葉が蘇る。

 ――秋葉ちゃんのそういうところ――
 ――小春ちゃんには見せられないわねぇ。絶対に――

 そう、誤魔化すことに躊躇いはない。
 見抜かれてはならないのだから。絶対に。
 少なくとも……私のタガが外れるそのときまでは。



***2***



「お姉ちゃーん、どうしたのー?」
 磨りガラスの向こう側。
 すなわち――お風呂場から、小春が呼びかけてくる。
 ガラスにうっすらと浮かび上がっている小春の小さな身体の輪郭を、視線でじっくりとなぞってみる。
 どうしてだろう。
 ふと疑問を覚えて、私は自分の身体を見下ろした。
 肩のライン、ふくらみかけの胸、少しぷっくりとしているかもしれない腰周り、まだ色気を纏うことすら許されない太股、それらを支えているとは信じられないくらい細い足首。
 どれもこれも、小春とは瓜二つ――差はあったとしても、身体測定で小数点以下の数値が微妙に異なる程度の違いでしかないはずなのに。
 もう一度、自分に問う。
 どうしてだろう。
 すぐそこに小春とほとんど同じ造形をした一糸纏わぬ肉体があるというのに、磨りガラス越しにぼやけて見える小春の身体を見ている方がドキドキする。
「ねぇ、お姉ちゃんってばー?」
「あ……ごめん。すぐ行くわ」
 再度の小春の呼びかけに反応して、私は風呂場のドアに手をかけた。
 ――と。
 私はそのまま足を止めて、脱衣所の方を振り返った。
 小春とお揃いの下着とパジャマが、既にそこに用意されている。左が私の、右が小春のというように、二人共が所持していてお揃いのアイテムはそういうふうに配置しておくことがあらかじめ私たちの間で決められていた。
「そうだ、タオルタオルっと」
 私は小春に聞こえるようにわざとらしくつぶやきながら、脱衣所の方に戻った。
 タオルを取り上げて大袈裟に上下に振りつつ、洗濯物入れから素早く小春が穿いていたパンツを抜き取り、左側のパジャマの上に乗せられていた新しい下着と交換する。
 ぱさっ、と。
 真っ白な下着を洗濯物入れに放り込んでから、何食わぬ顔で風呂場に足を踏み入れた。
「遅いよー。ずーっと裸のままそこで立ってたけど、何してたの?」
 椅子に座ってタオルで身体をごしごしと洗いながら、小春が尋ねてくる。
「ううん、ちょっとね。そこに虫がいたみたいだったから」
「虫っ!? えー、やだなぁ」
「大丈夫、私の気のせいだったみたいだから」
 本気で嫌悪感に満ちた顔で脱衣所の方に視線を送る小春に、私は桶でかけ湯をしながらしれっとそう答えた。
「後でお母さんに言っとこ……お姉ちゃんの見間違いじゃなかったら、ヤだし」
「それがいいかもね」
 まぁ、その『虫』は既に風呂場の中に侵入していたりするわけだが。
「お姉ちゃん、シャワー先に使っていい?」
「ええ、いいわよ」
「ごめんねー」
 別に謝る必要なんてないのに律儀に断ってから、小春はシャワーで軽く髪の毛を濡らした後、シャンプーでわしわしと洗い始めた。
 私は、先に浴槽に浸からせてもらうことにした。
 我が家の浴槽は、大の大人が三人くらいまでなら入れるくらいの広さがあった。私と小春だけなら、ちょっとした子供用プールとして使えないこともない。さすがに泳げるほどの余裕はないけど。
 そっと、足を差し入れる。ちゃぷん、と水面が揺らぎ、立ち上る湯気とは逆方向に私の身体が沈んでいく。
 たっぷりと、肩まで。
 つま先の方から心地の良い暖流が身体中に拡がっていく。鼻から吸い込んだ湯気の熱は、脳さえもとろけさせてしまいそうだった。
「はー……」
 ひとつ、深く吐息して、極楽気分に浸りながら――
 私は、湯気でぼやけた視界の向こう側にある小春の方を眺めていた。
「お姉ちゃん、今のなんか年寄りくさかったよ」
 固く目を閉じた状態で、丹念に髪の毛を洗いながら小春が告げてくる。
「うるさいの。こういうのはいくつであっても気持ちのいいものなんだから」
 返事をしながら、私の視線は小春のうなじから徐々に背中へと下がっていく。
 あのあたり。
 いずれブラジャーとかするようになったら、あのへんにホックの跡が残ったりするのだろうか。
 今の私たちにはせいぜいスポーツブラがお似合いだけど。
「そういえばお母さんどうしたの? 姿を見なかったけれど」
「んー、洗い物済んだら、寝るっていって部屋に戻ってったよ」
「ふぅん……疲れてるんだ」
 そんなことはわざわざ小春に確認するまでもないことだったが。
 浴槽の縁で頬杖をついて、私は少しだけ目を細めた。
 お尻の谷間が愛らしい。特に割れ目の開始地点。あそこって指でなぞってみるとかなり敏感な場所だったりするのだけど。
 触ってみたいなぁ。
 もし触ったら、小春はどんな反応するのかなぁ。
「まぁ、私たちも後は寝るだけなんだけどね」
「そうだねー。寝る子は育つー、ってね」
「……小春、それは胸のことを言ってたりするのかしら?」
「あー……そういうつもりじゃなかったんだけど、わたしもちょっとそれを思い浮かべたかな」
 あはは、と小春が笑う。
 実に和やかな姉妹トークを繰り広げながら、観察続行。
 ここからでは見えないけど、お尻の穴とか……。
 チリ紙のくずとかついてたりするのかなぁ。
 もう洗ってるだろうからそれはないか。
 見たかったなぁ。残念。
 ……って、あったことを前提に妄想しても仕方ないぞ、私。
 それに小春は綺麗好きだから、そんな乙女として激しくイージーなミスは致しません。
 姉である私が保証いたします。
 小春はとってもとっても清らかな女の子なのです。
「……汚したいなぁ」
「けがしたい?」
 あ。
 やば、またうっかり口に出してしまっていた。
「……怪我したいなぁ、と」
 なんだかよくわからない言い訳だった。
「なんで? 痛いだけだよ?」
「そうしたら小春が看病してくれて、たくさん甘えられるかなー、とか思ったわけよ」
「もう、そんなこと言ってー。お姉ちゃんはそういうキャラじゃないでしょー」
 キャラ言われた。
 それも小春に。
 ちょっとショックだった。
「でも」
 シャワーでシャンプーを洗い流し、小春は犬のようにぶんぶんと頭を振って髪の毛から水気を払い飛ばす――これは小春の癖だった。
「わたしもちょっとだけ、お姉ちゃんに甘えられてみたいかな」
 照れているせいか、シャワーのお湯のせいか――ほんのりと紅潮した小春の頬が、薄ら白く曇った視界の中で、一際鮮やかに彩られて見えた。
 垂れた前髪の隙間から覗く小春の目は、あまりにも真摯すぎて。
 ちょっとだけ、私は胸を締め付けられた。

 お風呂からあがって。
 小春の使用済みパンツを身につけた私の胸には、もうさっき感じた痛みは僅かたりとも残ってはいなかった。



***3***



 ぺた、ぺた。
 スリッパが床を、絨毯を擦る音。
 先程までテレビの音と私と小春の話し声で騒がしかったリビングに静かに響き渡るその音は、少しだけ私の背中に寒気を走らせた。
 静寂。
 夜特有の、無音。
 昼間の無音状態とは違う。
 空気も、空間さえも――何もかもが研ぎ澄まされていて、僅かな物音でさえも敏感に身体が反応してしまう。
 一歩前に進むたびに疼く精神の深層を、自制という蓋で閉じながら、私は家中の電気を消し回っていた。
 昼間は意識しなければ聞こえなかったはずの電気が駆け巡る音を、耳以外の聴覚で追う。
 リビング、玄関、廊下、脱衣所、階段、二階廊下、遊び部屋に使っている空き室。
 いつも通りの順番だ。
 母親の部屋は……今日は主がいる。覗く必要はない。
 最後に、自分の――私たちの、部屋。
 二人ぶんの勉強机に、円錐状の足の低いテーブル、タンスと本棚は共用、そして部屋の隅に、寝台がひとつ。
 シングルと呼ぶには大きすぎるし、ダブルと呼ぶにしてもやや小さい。
 そこでは既に、妹が寝息を立てていた。
 私はそっと物音を立てないように部屋の中に入り、ドア付近の壁にある照明のスイッチを切った。
 ぱちん、と。
 丘野家で最後の明かりが落とされる。
 私はできるだけ物音を立てないように――それでも夜の静寂の前では限界があったが――ゆっくりとベッドに潜り込んだ。
 小春の体温を、真横に感じる。
 すぅ、すぅ、と。
 小春の寝息ひとつひとつが、夜一色のこの世界と共鳴し合う。
 それは、私の勝手な空想。
 だけど、今この瞬間において最も必要な幻想。
 身体の位置をずらして、小春と寄り添い合う形になる。
 そして私は、目を閉じた。
 自分勝手な空想のまま。
 独りよがりな幻想のまま。
 このまま、幸せな明日を迎えられますようにと。

 ――シーツの中で。
 きゅっ、と小春が私の手を握ってくる。

 小春。
 妹。
 私の。
 全て。
 この世界の。

 決して繋がることがあってはならない。
 裏切ってはならない。
 侵してはならない。
 犯してはならない。
 ふたりぼっちのワルキューレ。
 それ以上でも以下でもなく。
 ずっと今の私たちのまま死ぬために。
 私は、明日も生きる。



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