第六話 「また明日」

***1***



「秋葉ーっ、明日は覚えてなさいよーっ!」
 そんな捨てぜりふを吐きながら、日向が交差点を曲がって消えていく。
 日向とはここでお別れ。ここからでも見える、あの一番背の高いマンションに麻生家はある。
 あれを見るたびに思う。
 金持ってんだなぁ、この女。
 まぁ、人のことは言えないんだけど。
「はぁ……やっとうるさいのがいなくなったわね」
 ほっ、と安堵の吐息を洩らす。
「あはは……お姉ちゃん、おつかれさまです」
 と、冗談交じりに肩を揉んでくれる妹にちょっぴり欲情していると、
「……………………」
 鋭い眼光と無言の圧力が、とてつもないプレッシャーとなって私を苛んでいることに気づいた。
 そうか……まだ千歳ちゃんがいたのね。
 日向と違ってやかましくないぶん楽だけど、これはこれで疲れる。
 あー、そうだ。
「そういえば小春、音楽の授業って何曜日にあるの?」
 肩もみ――というか、既に手は動いておらず、私の背中にべったりとくっついてきているだけの小春にそう尋ねた。
「え? 水曜日と金曜日ですけど……」
 小春は答えながら、ちらりと横目で千歳ちゃんに確認を求めた。
 こく、と千歳ちゃんも頷く。
 良かった、それは好都合。
「小春の縦笛、貸してくれない? ちょっと壊しちゃってね。私の方は月曜日と木曜日だから」
「あ、はい。いいですよー」
 快く、小春は了承してくれた。
 どうせ姉妹なのだ。縦笛くらい共用したって何ら問題はあるまい。
 そう、何ら。
 何ら……。
 小春の……縦笛。
 小春の唇が、舌が、唾液が、息が、それら全ての味がたっぷりと染みついた縦笛……。
 うふ、うふふ……。
「はっ!」
「むぎゅっ!」
 と、唐突に立ち止まった私の後頭部に、小春は鼻をぶつけたようだった。
「ど、どうしたんですか、お姉ちゃん……?」
 鼻を押さえながら、小春がこちらの様子を窺ってくる。
 私は乾いた笑いを洩らすだけで……小春のその真摯な眼差しに目を合わせることができなかった。
「いや……ちょっと、自己嫌悪っていうか……ははっ」
 自分が胡桃木と同じ思考に至っていたことに対して。
 ぶっちゃけ客観的に考えてみれば、それが姉妹間における行為なだけに胡桃木よりもタチが悪い。
 いや、別に姉妹でもいいんだけどさ。
 いいんだけど……はぁ。
「丘野先輩」
 凛としていて、それでいて咎めるような口調で、千歳ちゃんが私の名を呼んでくる。
「……何?」
「いけないことを考えていましたね?」
 ……なんでそんなに鋭いんだ、この子は。
 本当に小学五年生か?
 人のこと言えないけどさっ。
「小春の縦笛を、一体何に使うつもりだったんですか」
「あー、まぁ、なんだ。深読みするのはいいけど、真っ赤になってまですることでもないと思うよ、千歳ちゃん」
「わ、私のことはいいんですっ」
 耳まで赤くして、照れているのか怒っているのか判別しにくい様子で詰め寄ってくる。
「私はただ小春のことを心配しているだけです。小春の嫌がるようなことは、絶対にさせません」
「そんなの私だってしないわよ。それに小春と私は同じ家で暮らしてるのに、あなたはどうやって止めるつもり?」
「窓を蹴破ってでも」
「千歳ちゃん知ってる? それ、犯罪」
「知っています」
 しれっとした感じで、千歳ちゃんは頷いた。
 そもそも、どうやって小春の身に危険が及んでいることを察知するのだろう。
 まさか、盗聴とか盗撮とかしてるとか?
 うーん……千歳ちゃんに限って、と言ってあげたいところだけど、この子なら本気でやりかねないんだよなぁ。
 今度の休みの日にでも、家中洗ってみるか。
「あの、いまいち話が見えないんですけど……」
 私と千歳ちゃんの会話についていけなかったのか、表情に疑問符を浮かべた小春が割り込んでくる。
「縦笛って、音楽を演奏するために使うんですよね?」
「うん、そうね」
「他に使い道なんてあるんですか?」
 …………。
 あぁ。
 今のはクラっときた。
 ピュアだ。ピュアすぎるよ、小春ちゃん。
 そんな心の動揺を悟られまいと、私は極めて平然を装いながら答えた。
「ないわ」
「ですよねー。千歳ちゃん、いったいいけないことって、どんなことを想像してたんですか?」
 小首を傾げて、今度は千歳ちゃんに質問を投げかける小春。
「え……あ、その……」
 千歳ちゃんの顔は、火すら噴き出しそうな勢いで変色していた。
 あはは。
 普段クールな人間が、こんなふうに取り乱す様は見ていてとても面白い。
「それは……そのね、口を……つけたり……」
「笛なんだから、口をつけないと吹けないじゃないですかー?」
「つけるだけじゃなくて……えっと……なめたりして……汚れたりとか……」
「口をつけるんだから、汚れて当たり前ですよ? それにお姉ちゃんが使うんだし、気になりません」
 あっけらかん、と小春は笑ってみせた。
 うふふ、小春。汚れるのは笛だけじゃなくってよ?
「そうじゃなくてっ……色々と……いやらしい意味で……」
「千歳ちゃん」
 しどろもどろに説明ようとしている千歳ちゃんを遮って、小春が厳しい声で彼女の名前を呼んだ。
「朝も言ったけど、一方的にお姉ちゃんを責めるのは良くないです」
 小春は腰に手を当てて、すっかりお姉さん気取りだ。
「確かにお姉ちゃんは、口が悪くて乱暴で手の着けようのないところがありますけど」
 ……まぁ……学校での私は、自分でもちょっとアレなとこあるけどさ。
 もうちょっと言いようってものがあるんじゃないかな、小春ちゃん……。
 ちょっぴり哀しい。
「でも、ほんとはとっても優しいんですよ。千歳ちゃんには、お姉ちゃんの悪いところだけじゃなくて、良いところも見て欲しいな」
 そこまで言って、小春は微笑んだ。
 ほんとはとっても優しい。
 ほんとは。
 千歳ちゃんの顔を見る。赤みはすっかり引いていて、いつもの冷静な顔に戻っている。しゅんと肩を落としているように小春に見せている裏で、とても怜悧な眼差しで私を睨み据えていた。
「まぁ、そういうことよ。これから仲良くしていきましょうね、千歳ちゃん」
 と、私はわざとらしく千歳ちゃんの手を取りながらそう告げた。
 彼女は露骨に嫌そうな顔をしてきたが、私がアイコンタクトを送ると、すぐに表情から黒いものを振り払った。
”小春に嫌われちゃうわよ?”
 この件に関してだけは、私と千歳ちゃんはあらゆる伝達手段よりも早く意志の疎通を図れる。
「……よろしくお願いします、先輩」
 ぎゅっ、と私の手を握り返してくる。痛いほどに。
 小春は横でにこにこと笑っていた。
「あ……私、ここだから」
 と、千歳ちゃんは手を離して、退路を見つけたといわんばかりに、まだ少し先にある交差点まで駆けていった。
「また明日、小春。それと……先輩」
「あ、また明日ー、千歳ちゃーん」
「ばいばい」
 小春に続いて、私も手を振ってみせる。
 最後に私の方を一瞥して、千歳ちゃんは交差点の向こうへと消えていった。
「はー……」
 私は、ひときわ大きなため息をついた。
 今日は心身共に、本気で疲れた。
「あは……おつかれさまです」
 と、再び小春は私の肩を揉んでくれた。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「ん?」
 肩越しに、小春が尋ねてくる。
「どうやったら笛っていやらしい意味で使えるんですか?」
「ははっ……どうやるんだろうねぇ?」
 いやらしいことと言えば裸の男女がベッドの上で抱き合ったりする程度の知識しかないであろう小春に徹底的に大人の性教育を施してやりたいという衝動を抑えながら。
 私は苦笑して、ごまかすことくらいしかできなかったのだった。



***2***



 残った二人で、歩きなれた道を歩く。
 他に通行人の姿は見えない。決して普段から人通りの少ない道だというわけではない。この時間、この瞬間、たまたま私たちしかいなかっただけのことだ。
 住宅街に響く、ふたつの足音が心地良い。
 ふと、空を見上げる。
 青く晴れ渡った空。太陽はもう大分斜めに傾いていて、もう休みたいと主張しているかのようだった。
 しばらくすれば、夕日に変わるだろう。世界を朱色に染め上げ、また明日、とだけ告げて、深い闇を残して消えてゆく。
 もしもそのとき――世界に私と小春しかいなかったとしたら。
 それはどれだけ素晴らしいことだろう。
 小春は、絶望すると思う。
 それは仕方のないことだ。
 私にとっても、誰もいない世界で小春を守りながら生きていくことができるか不安だった。
 隣に並んでいる姉がそんな閉鎖的な妄想を描いているとも知らず、小春はいつも通り背筋をちゃんと伸ばして、真っ直ぐ前を見て歩いていた。
 例えば、その歩みを止めるほどの何かがあるとすれば。
 小春の足が、自分の役割を忘れてしまうほどの何かがあるとすれば。
 きっと私が彼女を裏切るという行為は、その資格を得るに充分すぎるほど値するはずだ。
 試してみたいと思わないわけではない。
 けど、それは自分勝手で閉鎖的なだけの空想よりも、ずっと危険な思考だった。
 そんなことを考えながら小春を横顔を見つめていると、その視線に気づいたのか、彼女がこちらを振り返ってきた。
「何ですか、お姉……っ!?」
 ちゃん、と続くはずだった言葉を遮断され、小春は何もない地面に蹴つまづいて、勢いよく前のめりに転んでいた。
「へぐっ……! いたぁー……」
 四つん這いでお尻を突き出すような格好でうめく小春。スカートがまくれあがって、白いパンツが盛大に露出していた。
 私は――思わず込み上げてきたおかしさを堪えきれず、吹き出してしまっていた。
 小春は基本的にドジだ。
 ちょっとよそ見をしただけで転んでしまうほどの致命的なドジっ子。
 本当に、可愛い。
 ごめんね。
 私は胸中で、小春に謝った。
 こんなお姉ちゃんで、ごめんね。
「もう……お姉ちゃん、笑うなんてひどいです……」
 地面に肘をついたままの姿勢で、恨みがましく小春が睨んでくる。
「ふふ……ごめんね」
 私は軽くかぶりを振ってから手を差し伸べた。小春がその手を取ったことを確認してから、優しく引き起こしてあげる。
 その際にもう片方の手で、スカートを直してやることも忘れなかった。どさくさに紛れてちょっとだけ割れ目に指を食い込ませてみたが、どうせ気づいてはいないだろう。
「怪我はない?」
「はい、大丈夫です……ありが――」
 私は小春の唇に人差し指を当てて、その言葉を封じた。
「もう、みんないないわよ」
 そっと指を離しながら、私は微笑んでみせた。
 小春は、はっとしたように私の顔を見つめて、
「うん、ありがとう、お姉ちゃん」
 彼女もまた、微笑んでいた。



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