第四話 「体育の時間」

***1***



 どうかしてる。
 五時間目が体育だなんて。
 給食の後よ? 給食の後。
 食後に適度な運動を、とはよく言うけれど、マラソンとかやらされる日もあったりするわけで。夏場のプールなんか、地獄と呼んでもいい。
 ……もっとも今日の私は、昼休みにさんざん日向を追いかけ回した後なので、そんなことを抗議できたりする立場ではないのだけれど。
 周囲を見渡してみれば、私のような不満を抱えている者は、あまりいなさそうだった。
 であるにも関わらず、全体のテンションは低い。
 時期的に、一ヶ月後くらいには秋の運動会がある。体育系の生徒の多いクラスでは、必然的にそれに向けて頑張ろうとするおめでたい傾向が見られるわけだが、我が六年二組の場合はちょっと事情が違う。
 担任の月代先生自身があまり体育が好きじゃないみたいなので、それがそのままクラス全体のボルテージに影響しているのだ。
 担任が運動嫌いだからといって、決して授業が楽になるわけではない。事務的に課せられるノルマをこなしていかなければならないので、実は結構きつい。
 そんなわけで。
 男子はリレーの練習、女子は組体操の練習に分かれることになった。
 トラックの外側を何組かに分かれて走る男子らの姿と。
 トラックの内側で三重だか五重だかの塔を作ろうとしている危なっかしい女子らの姿を眺めながら。
 私は私服姿のまま、校庭の隅っこで見学していた。
「若いわねー……みんな」
「あんたが言うとすっごい嫌味っぽく聞こえるのよねー……」
 芝生の上、隣で膝を抱えている日向が、少し青い顔をしてそう言い返してくる。
 なんでもあの後トイレで戻したらしく、本当に気分が悪そうだった。
 ぶっちゃけ私は仮病なのだけど。
 わざとらしく私は肩をすくめて、
「学校の授業なんかより、よっぽど実戦的な運動をしたんだから、むしろいたわって欲しいくらいよ」
「秋葉が勝手に暴走しただけじゃないのさー」
「元はと言えばあなたのせいでしょう」
「てかさ、他の女が自分の妹にスキンシップするとこ見たくらいで、普通あそこまでキレる?」
「当たり前じゃない。馬鹿じゃないの?」
「あー……そうだった。あんたはそういう奴だった」
 がっくりと日向がうなだれる。
 そういう奴ってどういうことよ。私はなんにも変なこと言ってないはずだけれど。
「しかしあれよねー。なんてゆーかさー」
「何よ?」
「秋葉って、男の子には興味ないわけ?」
 自分の膝にほっぺたを乗せて、日向が尋ねてくる。
 ああ……なるほど。
 第三者からすれば、私はそういうふうに見えるわけだ。
 なんて答えたらいいんだろう。
 私が返答に窮していると、日向はそれを肯定と受け取ったのか、青ざめた顔をさらに青くした。
「まさかっ……あたしのこともそんな目でっ……?」
「見るか馬鹿」
 手をひらひらと振って、一蹴してやった。
「うあー……なんかそれはそれで傷つく」
「勝手に傷ついてなさい。大体ね、そういうのとは違うのよ、小春は」
「じゃあどんなんなのさー?」
「あなたに話しても仕方のないことよ」
 そう。仕方がない。
 そもそも、理解できるはずがない。
 私が”あのとき”小春から得たもの――与えられたものを本当の意味で理解するには、彼女はまだ幼すぎる。
「ひとつだけ言えることは」
 まぁ、それでも少しくらいの情報はくれてやってもいいだろう。
「自分が好きだから、あの子のことも好きなのかもね」
 と、私は自分の下唇を指先で撫でてみせた。
「なーんだ」
 日向は残念そうな顔をして、
「やっぱり丘野姉妹は百合の花ってことかー」
「花が咲いてるのはお前の頭だ」
 一体、何を聞いてたんだこの女は。
 ていうか、なんで残念そうな顔するわけ?
「で、肝心の男の方はどうなのー?」
「男、ねぇ」
 トラックを走る男子たちの姿を見やる。
 体操着姿の彼らは、お世辞にもかっこいいと言えたものではない。もう少し成長して筋肉がついてきたりすると、それなりに見れるようになるのかもしれないが。
 決して男に興味がないわけじゃない。でも、私の目には彼らは、町内を走り回るジャリ共と同じようにしか映らない。
「どいつもこいつもパッとしないっていうか。少なくともウチのクラスの連中に関しては、どうでもいい奴らばかりね」
「もしかして年上趣味?」
「年上の男にはあまり縁がないからね。よく分からないわ」
 まぁ、大人の男となれば、また判断基準は変わってくるのだろうけど。
「そういう日向は、随分と崇くんにご執心なご様子で」
「あー、うん。あはは」
 日向の青い顔に、少しだけ朱が差した。
 再びトラックを見やる。二葉崇の姿は、すぐに見つかった。
 確かに彼と、胡桃木拓也――悔しいが、この二人だけは芋揃いの男子の中で、一際目立つ存在ではあった。
 身体がそれなりに出来上がっているというか。
 胡桃木は今は足を痛めて休部中だが、サッカー部というだけあって足回りががっちりとしている。こいつはあんまり見ていたくないのですぐに視線を逸らす。
 二葉崇の方は、家が剣道の道場をやっているという話を以前、誰かから聞いた覚えがある。首周りから足首まで、随分と整った体格をしている。こういうのを、男らしい、というのだろうか。
 加えて、ルックスも良い。さらに成績優秀で話し上手とくれば、彼に惚れる女子は一人や二人では済まないわけで。
「まぁ、かっこよくはあるわよね、うん」
 膝の上で頬杖をついて、特にどうということもなくそう言った――はずなのだが。
 日向はそんな私の肩をつかんで、顔を近づけてきた。
「あたしのだからね……? あれは」
「そんな今にも人を殺しそうな目をして脅さなくても大丈夫よ、興味ないから」
 日向の手を振り払って、私は嘆息した。
「そうよねっ、秋葉は男より、女の子の身体見てる方が好きなんだもんねっ」
「……あんまりそういう誤解されるようなことは口走らないように」
 うんざりと日向に釘を刺しておく。あまり意味はないと思うが。
 そう。興味はない。
 異性としては、これっぽっちも。
 ただ――人間としては、非常に興味の沸く男だった。二葉崇という存在は。
 しばらく崇の姿を目で追っていると、ちょうどこれからバトンを渡されようとしている彼と目が合った。
 軽い悪戯のつもりで、私は手を振ってみせた。
 ほんの、軽い、悪戯。
 引き金。
 彼はバトンを受け取り損ね、前の走者ともつれあって盛大に転んでいた。
「あーっ! 崇くぅぅぅんっ!?」
 傍らで日向が発狂する。
 慌ててバトンを拾って走り出す彼の姿を眺めながら。
 私は日向に気づかれないよう、声を殺して笑っていた。



***2***



 五時間目の終了を告げる鐘が鳴り響く。
 整列させられているクラスのみんなは、月代先生の言葉に黙って耳を傾けている――ように見えるだけで、その実、上の空で聞き流している連中が大半だろう。
 運動会に向けて頑張ろう、とか、他のクラスに負けないように、とかいった生徒のやる気を煽るような言葉は一切なく、月代先生は淡々と事務的なことばかり喋っていた。
 怪我をしないように、とか言っていたが、それも結局は保身のため。後々、自分が面倒事に巻き込まれたくないという一心からの発言だろう。
 少し前までは、ここまで機械的な先生ではなかったのだが。
 まぁ、仕方ないか。
「――以上。早く着替えを済ませて、六時間目に遅れないように。礼!」
 月代先生の号令で、全員が頭を下げる。
 その瞬間、張りつめていた空気が一気に緩んだ。
「あーっ、終わったーっ」
「ちょっとくらい遊び時間入れてくれてもいいのになー」
「俺、もう足パンパン」
「あたしなんか塔の一番下だったから、腕と背中がもう痛くて痛くて……」
「爪割れちゃったー、ねぇ、誰かバンソーコーもってない?」
 みんな口々に、愚痴やら疲労を訴えている。
 その中の女子が二人ほどこちらへやってきて、それぞれ私と日向の肩に腕を回してきた。
「なによもー、二人だけ見学しちゃってー」
「そうよ、二人いないだけで大変なんだからね?」
 大変とかいわれても、私と日向は三人一組の小さな塔を作る役回りなのだが。
 いわば本体の飾りだ。
 本当なら一番端っこで一人でポーズを決めてるだけの役をやりたかったのだけど、あそこはいかんせん競争率が激しくて、速攻で抽選洩れした。
 大体にしてからが、女子に組体操をやらせようというのが間違っているのだ。
 そういうのは男にやらせときゃいいのよ。
「あははー、でもアレが重くってさー」
「アレ、って、日向ちゃんまだ生理始まってないんじゃなかったっけ?」
「それをなんであんたが知ってるのかすっごーい気になるけど、アレってのは秋葉のパンチのことだよ」
「あー、でもさ、秋葉ちゃんはもう始まってそうだよねー」
 私に振るのか。
「まだよ、私は」
「えー、うそぉー!?」
 大袈裟に驚いてみせる女生徒A。ごめん、名前忘れた。
「なんかそれ、意外よねぇ」
 こちらは少し控えめに驚いている、女生徒B。とりあえずあなたにもごめんなさい。
「普段はおすまし顔の秋葉さんも、結局はまだまだおこちゃまってことよー」
 口元に手を添えて、おほほほ、と日向が笑ってみせる。
 むかつく。こいつにそういう仕草をされるとすっげーむかつく。
「秋葉は他人の血で消化してるから必要ないんだって」
「……あんたはいちいちひとこと余計よ」
 ごつっ、と音が鳴る程度に強く日向の頭を小突いて、私は芝生から腰を上げた。
 それと同時に、私の眼前に立ちはだかる影ひとつ。
「丘野、聞いたぞ」
 胡桃木だった。
 私は素早く身を翻し、その勢いで胡桃木の左側頭部めがけて裏拳を放った。
 ――が。
 私の拳は、彼の右手によって防がれていた。
 胡桃木の分際で、生意気な……。
「早い者は、小学四年で始まることもあると聞く。遅い者は中学以降と、人によって時期は様々らしいが……」
 女の子の初潮について真剣な面持ちで語りながら、胡桃木はいやらしい手つきで私の拳を撫で回していた。
 気持ち悪っ!
「離せ馬鹿!」
 胡桃木の手を振り払い、私は汚されてしまった自分の手を抱くようにしながら、半歩だけ後ろに身を退いた。
 まるで何事もなかったかのように、胡桃木は両腕を広げて続ける。
「だから恥じることはない。生理による出血は、女性としての誇り。それが理解できない雌豚がいくら血を垂れ流したところで、純潔の価値が上がるわけでもない」
 何気にすごいこと言ってるな、こいつ。
 どうでもいいけど、そういうことを女の子の前であんまり言うもんじゃないぞ。ほれ、女生徒A・Bさんがものすごい形相で睨んでるじゃないのさ。
 日向だけは相変わらず、にこにことしていたけど。
 いつの間にかすっかり顔色もよくなっちゃって。
「で、だ。そんな丘野に、俺からひとつプレゼントを贈ろうと思う」
 と、胡桃木は体操着の袖口から手を差し入れ、そこから白いガーゼのようなものを取り出した。
「……何それ」
「ナプキンだ。いざというときはこれを使うといい」
 ふっ――と、一息。
 鋭く息を吐き、私は高々と振り上げた右足で、胡桃木の左頬を打ち据える。
 しかし浅かったのか、胡桃木はわずかによろめいただけだった。
 くそー。
「なんであんたがそんなもの持ってるのよ! ていうかどこに入ってたのよ、それ!」
「乳首に張っていた。汗を吸ってくれるかと思ったんだが、よく考えたら向きが逆では無理だな。ははははは」
「爽やかに言うな変態がっ!」
 もう一度、裏拳を放つ。
 今度は綺麗に決まった。受け身すら取れずに胡桃木が地面に転倒する。
「あははははっ、災難だね、胡桃木くーん」
 芝生の上でぴくぴくと痙攣している胡桃木を指さして、日向が盛大に笑う。
 女生徒A・Bはちょっと引いていた。
「行きましょう。六時間目に遅れるわ」
 つい、と胡桃木の亡骸から顔を背けて、私は校舎に向かって歩こうと――
「待ってくれ、丘野……ひとつだけ言わせてくれ……」
 したとき、胡桃木のうめき声に呼び止められた。
「何よ?」
 横目で地面に伏した彼を見やりながら、私は続きを促した。
「これは俺の名誉に関わることだ……頼む……」
 胡桃木の左手が持ち上がり、震える指先で私の腰のあたりを指し示してきた。
「俺は、さっきのお前たちの会話を聞く前から……」
 私は、
「丘野の生理が始まっていないことくらい知って――」
 シュートを放つように、胡桃木の脳天をつま先で蹴り上げた。
 それで、胡桃木は完全に沈黙した。
「……秋葉ちゃん、胡桃木くんには相変わらず容赦ないねぇ……」
 頬を掻きながら、女生徒Bさんが苦笑いしている。
「容赦できるような相手に見える、こいつが?」
「んー……確かにこういうのが将来、会社でセクハラとかしたりするんだろうけど……」
「公然猥褻もいいところよ、こいつのは」
 私は大きくため息をついた。
「とりあえず戻りましょうか」
「そーねー」
「ねぇ、胡桃木くん、このままにしといていいの?」
「いいんじゃない?」
「えっと……まぁいいか」
 胡桃木を放置することについて、実にスムーズに全員の了解が得られたところで、私たちは揃って歩き出した。
 あ。
「ごめんなさい、先にいっててくれる?」
 私は日向たちから離れて、両手を合わせた。
「どしたの?」
「そこの手洗い場で、手を洗ってくるわ。胡桃木を殴って汚れちゃったし」
「でもあそこ、汚いよ?」
「胡桃木の皮膚よりかはマシでしょう」
「うぃー。いってらっしゃーい」
 元気良く手を振ってくる日向を後目に、私は駆け足で手洗い場に向かった。



***3***



 屋外に設けられたこの手洗い場は、体育の時間の後や部活の後に、主に男子によく利用される。
 女子があまり使わないのは、蛇口の錆び付き具合がひどかったり、流しのあちこちに苔が生えていたり、たまに虫がいたりと、あまり見た目が衛生的ではないせいだ。
 それ以外にも、すぐ目の前が校舎なので、上の階にいる生徒が手洗い場をめがけて窓から唾を吐いたり、色んなものを投げたりするのが一時期問題になったこともあった。
 月に何度か掃除しているはずだから、運動中に汚れた手足を洗うくらいなら問題はないと思うのだけど、それでもここには汚いというイメージが根付いてしまっているわけで。
 低学年の子は、あまり気にしないようだけど。
 まぁ私は別に、こんな場所で物思いに耽りにきたわけではない。
 私は、手洗い場にいた先客に声をかけた。
「怪我でもしたの?」
 びくっ、と肩を震わせて、彼――二葉崇は水で肘のあたりを洗い流しながら、こちらを振り向いてきた。
「丘野……か」
 崇の顔が暗く翳る。私の苗字をつぶやくと、彼は自分の腕に視線を戻した。
 見やると、彼の肘には少し深い擦り傷ができていた。もう血は止まっているようだったが、放っておけば化膿する恐れがありそうではある。
「さっき、転んでたときの傷?」
「……そうだよ」
 私の言葉への返答は、冷たい。
 休み時間。教室の一角に常に笑いを咲かせている彼が、私へはこういう態度しか取ることができない。
 それが少しつまらなくあり、愉快でもあった。
「そこの水だとあまり衛生的によくないんじゃないかしら? ちゃんと保健室へ行って来てはどう?」
「いいさ。このくらい、すぐに治る」
「そう。でも、心の傷の方はまだ治ってないみたいだけれど」
 きっ――と。
 崇が私を睨んでくる。肩も少し震えているようだった。
「誰のせいだと……思ってるんだ」
「いいの? 私にそんな口を利いて」
 ありがちな脅し文句。我ながら、言っていてちょっと恥ずかしい。
 しかし、崇にとっては予想以上に効果的だった。彼は再び、私から視線を逸らす。
「他の誰でもない、あなた自身が撒いた種なのだもの。私に押しつけられても困るわ」
「だから何度も言ってるだろ! 悪いのは、俺だけじゃ……」
 崇は声を張り上げたが、だんだんと尻窄みになっていって、語尾の方に至ってはよく聞き取れなかった。
「あなたがそうやって言い訳するのは自由よ」
 私は崇の隣の蛇口をひねって水を出し、胡桃木を殴って汚れた手を丹念に洗った。
「でも、問題は他の人がどう思うかでしょう? 自分に最も都合のいいようにあなた自身が解釈したって、何の意味もない」
 肘の傷を手のひらで覆いながら、崇は黙って私の言葉に耳を傾けている。
 下唇を噛み締めながら。
「それにあなたは、自分がしたことの意味を理解している。だから私と目を合わせられない」
 二時間目の後の休憩時間。あれは日向の顔を見て目を背けたのではなく、私と目が合いそうだったからだ。
 さっきの体育の時間。私がじっと自分のことを見ていることに気づいて、バトンを取り損ねた。
 分かりやすい。
 非常に分かりやすい。
 それでいて、面白い。
「どうしろっていうんだ、俺に……」
 呪詛めいた声で、崇がうめく。
「誤解しないでね。私はそのことであなたを脅すつもりはないし、みんなに言いふらすつもりもないわ」
 水を止め、スカートのポケットから出したハンカチで手を拭きながら。
「ただ私は、あなたがいつまで六年二組の優等生でいられるかということに興味があるだけよ」
「丘野!」
 それで激昂したのか、崇が濡れた手で私の肩をつかんでくる。
 服が湿って、じんわりと冷たさが広がっていく。
 私は彼の手を半眼で見下ろし、肩の冷たさよりもなお冷たい声で告げた。
「……やめてくれる? これ、お気に入りの服なのだけど」
「あっ……」
 慌てて、崇が手を離す。
 彼がつかんでいたあたりをわざとらしくハンカチで払って見せて、私は彼に背を向けた。校舎に向けて歩き出す。
「早くしないと次の授業、始まっちゃうわよ」
「……ああ……」
「それと」
 振り返らずに、彼に告げる。
「共犯者によろしく」

 それから。
「くそっ!」
 手洗い場の方から、崇が毒づく声が聞こえたのは。
 私が校舎の入り口に差し掛かった頃のことだった。



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