第三話 「休憩時間」

***1***



 いきなりだけど、担任の月代先生がホームルームから二時間目と三時間目の間の休憩時間まで、朝この教室で起こった惨劇にはまったく気づかなかったことをお伝えしなければならない。
 おおらかな先生だ。
 でも実は、その逆。
 一見、眼鏡の似合う好青年。時折見せる笑顔が女生徒の若葉のような心を鷲掴む――はずもなく、その実態はクラスではあまり評判のよくない厳しい先生だ。
 普段なら、保健室に担ぎ込まれた胡桃木のことについて、くどくどと口やかましくお説教を垂れるのだけど。
 そうしなかったのには、理由がある。
 気づかなかったのではなく、気づかないフリをしていたのだ。
 私が関わっていたから。
 彼は実に賢明な人間だと思う。
 処世術というものを心得ている。
 その調子で、これからもよろしくお願いします。月代先生。

「ねーねー。今日の数学の宿題、やってきたー?」
 二時間目が終わるなり、日向が私の席に駆け寄ってくる。
 彼女の目は期待の色で爛々と輝いている。
 無性に意地悪したくなった。
「見せてあげないわよ」
「えーっ! なんでよ、この薄情者っ!」
「そうくると思ったわ。だからあなたにチャンスをあげる」
「なになにっ!?」
「そこで逆立ちして三回まわってワンと鳴いたら――」
「ワンっ!」
 私が「まわって」と言い終わる時点で彼女は既に逆立ちスタイルになっていて、「鳴いたら」のあたりで二回転半くらいまで成し遂げていた。
「ぷりーずゆあのーと!」
 スカートがまくれて全開でパンツを露出しながら、日向はしばらく逆立ちしたままの格好で私を見上げていた。
 男子の好奇の視線が、彼女の臀部に集中している。というか、女子も見ている。
 普通、見るよなぁ。教室の中でこんな馬鹿なことやってる奴がいたら。
「…………」
 私は無言で、二、三度シャーペンを押して芯を出し、その先端を日向のお尻に突き刺した。
「ぎゃああああああああああああああああっ!?」
 全然可愛くない悲鳴をあげて、彼女が床に転倒する。続いて、自分のお尻を押さえて悶え転がった。
「あっ! 穴っ! 穴がぁぁぁっ!?」
 げっ、ピンポイントでそこに入っちゃったのか。
 このシャーペンはもう使えないな……。
「あにすんのよーっ! 使い物にならなくなったらどうしてくれるつもりっ!?」
「そこは滅多に使う場所じゃないから安心しなさい」
「使うじゃない、毎日っ!」
 どうやら便秘には困っていないご様子。
 健康的ですなぁ。
「ここまでやったというかされたんだから、はいっ!」
 と、日向は手を差し出してくる。
 私は今しがた彼女の菊座に挿入しかけたシャーペンを手渡した。
「ちがーうっ! つーか汚ねーっ!」
 顔を真っ赤にして叫びながら、日向は私のシャーペンを床に叩きつけた。軽快な音を立てて砕け折れ、その破片があちこちに散らばる。
 周囲にいた他の生徒らは、きゃーきゃー騒ぎながら破片から逃げ回った。
 すっかり汚物扱いされるようになってしまった私のお気に入りのシャーペンを切なげに見つめていると、日向がこちらの肩をつかんできた。
「あたしの尊厳を全力で踏みにじっておいてノート貸さないなんて、まさか言わないわよねぇ……?」
 あ、目が笑ってない。
 この子にしては珍しい、マジギレしていらっしゃる。
 でも私はからかうことをやめない。
「どこぞの優等生さんにでも頼めば? あなたにとってもその方が一石二鳥なんじゃないの?」
「どこぞの優等生、って……」
「ほら、アレ」
 と、私は教室の一番後ろ、窓際あたりの方を指さした。
 男女関わらず、十人くらいの生徒があるひとつの席を囲んでいた。
 同じ”囲む”という状況でも、朝のあれとは大違い。和気藹々としていて、しきりに笑い声が聞こえてくる。
 その中心には、ひとりの男子生徒。
 ある意味、胡桃木とは対極の位置にいる男子である。
「たっ、崇くんに……?」
 常日頃暴走風味な日向も、彼の名前が出ると急におとなしくなる。
 二葉崇。成績優秀、スポーツ万能、人当たりもよく、学校の中で彼の側に人がいないことはない。
 いわゆる、クラスの人気者というやつだ。
 そういうことになっている。
「いや、でも、その、ほらっ。初めてのときは痛いっていうしっ」
「……現実に還ってきなさい。まだあなたは何のフラグも立ててない」
「崇くんがそんな簡単に勃つはずないじゃない!」
 何故か憤慨された。
 今、思いっきり言葉のすれ違いがあったような気がするのだけど。
 この女、一体どんな幻想を男に抱いてるんだろう。
 そっちの方が気になった。
「はっ!」
 唐突に日向が後ずさりして、息を呑むような声をあげた。
「どしたん」
「目っ、目ぇ合っちゃったよっ」
 小声で告げてくる。
 見やると、崇の両の眼はまっすぐに日向の姿を捉えていた。
「どうしようどうしようどうしようっ?」
「落ち着きなさい。好感度上げるチャンスじゃない。笑えばいいのよ、クールに」
「わかったっ」
 彼女の顔面が、ぎこちなく笑みを形成していく。
 ……………………。
 すげー。
 人間の口って本当に三日月型に歪むんだ。
 日向のホットな笑顔を見た崇くんは、あからさまに彼女から目を逸らしたのでした。
「なんでぇぇぇっ!?」
「……彼の心にトラウマとして残っていないことを祈りなさい」
 頭を抱えて発狂する日向をいなしめて、私は席を立った。
 二時間目と三時間目の間に挟まれるこの休憩時間は、たった十五分しかない。
 しかし十五分もあれば、小春の様子を見に行くことくらいはできる。
 今日は日向のせいでえらく時間を浪費してしまったが、今からでも決して遅くはない。一言だけでも言葉を交わせれば、それで充分だ。
 時計を見ると、休み時間は残り五分。
「よし」
 誰にともなく決意を表明して。
 駆け足で教室を出ようとしたそのとき。
「丘野、聞いてくれ!」
 ちょうど出入り口の境目で、教室に駆け込もうとしていた胡桃木と出くわしてしまった。
 咄嗟に回避しようと横をすり抜けようとしたが、びっくりするほど素早い動作で胡桃木が私の手をつかんでくる。
 そのまま半回転して、まるでフォークダンスをしているような格好になってしまった。
 ……最悪。
「保険室の先生を知っているか?」
 突拍子もないことを訊いてくる。
 保険医の先生といえば、あの美人で胸のでかい人のことか。
「知ってる。だから手を離して。殺すわよ」
「今まで気づかなかった。あの先生はとてもエロい!」
 私の警告を完全に無視して、本能丸出しの発言をしてくる胡桃木。
「思わず欲望に屈しそうになったよ……でも、お前が俺に残してくれたこの頭の痛みのおかげで、なんとか耐えることができたんだ!」
 と、胡桃木は包帯の巻かれた頭を軽く左右に振ってみせる。
 どうせなら、こいつの馬鹿が治ればよかったのに……。
「でも無理だったんだ」
 どっちなんだよ。
 こっちが頭痛いわ。
「そこでだ! ベッドで身悶える俺の前に、白衣の天使が現れたのさ!」
 ぐるん、と胡桃木が身を翻すと、互いの立ち位置が逆になる。私がこいつをリードする形になってしまった。
 なんでだ。
「恥じらいながら俺の看護をするお前は可愛かった……」
「ちょっと待ちなさい、なんで私なのよ!」
「あぁ、俺の脳内の話だから気にするな」
 そこで私は思いっきり頭を後ろに引いて――
 全力で、胡桃木の後頭部に頭突きをかました。
「ぐああああああああっ!?」
 包帯に、じわりと赤い染みが浮かびあがる。傷口が開いたらしい。
「あんたの妄想の話なんて聞きたくないの!」
「くっ……どういうことだ? さっきまでの丘野は、ごめんねごめんね、と何度も謝りながら優しく俺を包み込んでくれたのに……」
 私は無言で、膝を彼の股間にめり込ませた。
「ぉ――――――――!?」
 悲鳴すらあげられず、胡桃木が前のめりにうずくまる。
「サッカー少年は素直にボールに発情してなさい。じゃね」
 解放された両手をもみほぐしながらそう言い残して、私は走り出した。

 私の健闘も虚しく、五年の教室を目前にして、校内にチャイムが鳴り響いてしまった。
 それでも小春の元へ向かおうとする私を、五年三組の担任が阻む形で終了。
 六年二組に戻った私を待っていたのは、激怒状態の日向だった。
 尊厳がどうの、ノートがどうのとやかましい。
 知るか。



***2***



 授業は退屈だ。
 というわけで、月代のつまらない授業を受けている話なんて別にしたくないからスルー。
 昼休み。
 小春は膨れっ面だった。
「むー……」
「小春ー、いい加減、機嫌なおしてよー、ねー」
「いやです」
「ほらほら、見て見て。小春ちゃんのために取っておいた給食のデザート! 年に一回出るか出ないかのレアもの、三色ゼリーよ!」
 三色ゼリー。まんま、赤、白、緑の三色のゼリーを重ねて凍らせたもので、冷たいまま食べるとこれが意外とかなりおいしかったりする。今はもう温くなってるけど。
「小春は一気に食べちゃう派? それとも一色ずつ味わっていく派? ちなみに私は後者ね」
「いりません」
「そんなこといわないでー、ねーねー。なんだったらお姉ちゃんが食べさせてあげるからー」
 蓋を開け、スプーンですくって小春の口元に運ぶ。
 小春はしばらくスプーンの上で揺れるゼリーを見つめたあと、大きく口を開いて食い付いてきた。
 餌付け成功!
「かぷっ」
 と思いきや、スプーンの柄を持つ私の指を噛んできた。
「痛い痛い痛い痛いっ!?」
 本気だ。この子、本気だ!
 慌てて小春の口から指を引き抜くと、人差し指と親指に歯形がついていた。軽く内出血を起こしている。
 こんな小さな口にスプーン丸ごと入るだけの奥行きがあったんだ……。
 我ながら妙なことに感心しながら、指の傷を丹念に舐める。
 ふふ、小春と間接キス……。
「あはははははっ、フラれちゃったねー、秋葉ー」
 楽しげに笑っている奴がひとり。日向だ。
「うっさいわね。こっちは必死なのよ」
「秋葉ってクラスのみんなには無愛想なのに、小春ちゃんにはすごく優しいんだもんねー」
 私の机の側まで持ってきた自分の椅子に逆向きに座りながら、日向が揶揄するような嫌な笑みを浮かべる。
 どうでもいいけどパンツ見せんな。汚い。
「恵理ちゃんもそう思わない?」
 と、日向は隣に立っている眼鏡の女の子――恵理ちゃんに同意を求めた。
 ていうか、いたんだ……恵理ちゃん。
 今朝は胡桃木の血痕の処理、お疲れさま。
「うーん……そうだね、普段の秋葉ちゃんを知ってると、なんだかギャップあるかな」
 遠慮がちに答える恵理ちゃん。
 それは私からしたら、小春にも言えることなんだけどね。
「一体、小春に何をしたんですか」
 と、きつい口調で尋ねてくるのは、小春の付き添いでやってきた佐倉千歳ちゃんだった。
 今、みんなは私の机の周りに集まっていて、つまるところここは六年生の教室なわけだが、上級生に囲まれる中、五年生の彼女が一番年上に見えてしまうのは流石というかなんというか。
 その発育具合、あやかりたいもんだね。
「何もしてない」
 肩をすくめて、私は答えた。
「そんなはずないでしょう。現に、小春は――」
「私が何もしなかったから拗ねてるのよ。ほら、二限の後の休憩時間。私、今日は千歳ちゃんたちのクラスに行かなかったでしょ?」
「あぁ」
 それで彼女は納得したようだった。
「私は、いつもそうであって欲しいと思いましたけど」
「……どういうこと?」
「丘野先輩の顔を見なくて済みますから」
 と、千歳ちゃんは挑発的な眼差しでこちらを見下ろしてきた。
 へぇ。
 今日は朝のあれといい、いつになく攻撃的じゃない?
「千歳ちゃんさー、私も小春と同じ顔してるんだから、素直に小春が二人いるーって感じで喜べないの?」
 少なくとも私だったら萌え転がりたいのを必死で抑えてると思う。
「私は、顔だけで小春を見ていませんから」
「言うじゃない」
 私は席を立って、千歳ちゃんと向かい合った。それでも私が見下ろされることに変わりはないんだけれど。
 ちょっと悔しい。
「心を目視できるあなたは、外見は同じでも、より綺麗な方を選ぶ、と――そう言いたいわけね?」
「より、だなんて。ご自分も綺麗の部類に入るような言い方はよした方がいいですよ。誤解されてしまいます」
「なるほど、よく分かったわ。そこまで言うってことは……覚悟はできているということね」
 私は握っていたスプーンをナイフに見立てて、構えを取った。
「これはキャットファイトなんて生易しいものじゃないわ。殺し合いよ」
 私がそう告げると、千歳ちゃんの双眸も鋭く細められた。
 対峙する私たちふたりを見て、日向は何故か大爆笑。
 恵理ちゃんは眼鏡がずり落ちそうな勢いでおろおろしていた。
 小春は――
「……お二人は、仲がいいんですね」
 不機嫌な顔はそのままで、私と千歳ちゃんを交互に見やっていた。
 ……いや、今の一連の流れを見て、どうやったらそういう結論に至るわけ?
 私はすっかり萎えて、机にスプーンを置いて椅子に座り直した。
 萎えたといっても、別に本気ではなかったけどね。
「どっちかいうと私は、小春ちゃんと仲良くなりたいなー、なんて思うんだけど」
「まるで今まで仲良くなかったみたいな言い方ですね」
 小春はあくまでも他人行儀な口調で、伏し目がちにこちらを睨んでくる。
 あー……きつい。
 良い子モードで拗ねられるのは、マジ勘弁。
 手の施しようがない。
 家でなら、まだなんとかなるんだけど。
「まーまー、小春ちゃんも許してあげなよー」
 小春の肩に腕を回して、日向がなだめるようにそう言う。
「秋葉はシスコンって病気みたいなもんなんだから、薬をあてがう感じでちょっと笑いかけてやったら帰りに何か買ってもらえるかもよ?」
「…………」
 この女。
 さっきのノートのこと、根に持ってるな。
 器の小さい奴だ。
「ほら、笑って笑ってー。小春ちゃんの笑うとこみたいなー」
「……でも」
「でもじゃなーいの。笑って手を繋いでそれで仲直り。おーけー?」
「……はい」
 こくん、と頷く小春。
「よーし。じゃあ秋葉、いくわよー。いーち、にー、さーん、はいっ!」
 カメラのシャッターを切るように、日向が小春の頭を軽く叩く。
 にこっ、と。
 ぎこちなかったけど、小春の顔に花が咲いた。
 か、かわぇぇぇぇぇぇ。
 思わず綻びかけた口元を右手で覆い隠す。目元のゆるみは、なんとか自制した。
「はーい、よくできましたー」
「んきゅっ」
 日向に頬ずりされて、小春が猫のように目を細める。今まで聞いたこともないようなプリティボイスを発しながら。
 ……ちょっと待て。
 貴様、私の愛しい妹に何してやがりますか?
 というかそれは私だけがやっていいことじゃないのか。
 私は再びスプーンを握りしめ、席を立った。今度はその銀の先端を日向に向ける。
「これは殺し合いなんて生易しいものじゃないわ。今から一方的かつ、圧倒的な暴力があなたを壊す」
「やばっ、シスコンがお怒りだ」
 さっ、と小春から飛び退いて、日向は逃げ出した。
 逃がすか!
「ちょっ……! 誰か、丘野さんを止めてー! また私が血を拭かないといけなくなっちゃう!」
 背後から恵理ちゃんの制止の声があがるが、誰も止めようとする者はいない。
 他の生徒たちは、なんだまたかー、という感じで見物しているか、けらけら笑って状況を楽しんでいるかのどちらかだ。
「ああっ! またわたしの椅子がっ!」
 日向を追いかける途中で拾った椅子の持ち主が叫んだのが聞こえた。
 ああ、またこの椅子か。
「どうした、何の騒ぎだ!? おお、丘野! また俺を殴ってく――げぶぁっ!」
 私の行く手に割り込んできた胡桃木を一蹴する。
 今、殴ってほしいみたいなことを口走ってなかったか?
 まぁいいや。
「あはははははっ!」
 何が可笑しいのか、日向は逃げながら笑っていた。
 なんかすごいむかつく。
「待ちなさい! あんたも胡桃木と同じ目に遭わせてやるわ!」

 昼休みの終了を告げるチャイムが鳴るまで。
 私と日向は追いかけっこを続けた。
 やっとの思いで日向を捕まえて、マウントポジションを取ることに成功したものの、完全にバテてしまっていて横っ面を一発殴るのが精一杯だった。
 そんな私たちを一瞥して、
「……馬鹿な人たち」
 私と日向の横を通り抜けながら千歳ちゃんはそう言い残して、小春と一緒に教室を出ていった。
 その際に、小春が困ったような、呆れたような微笑みを見せてくれただけで。
 こんな馬鹿なことをやっている自分が、なんだか救われたような気がした。



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