第二話 「いつもの朝」

***1***



「おはよう」
「おはよー」
 赤と黒。二種類のランドセルが、挨拶と共に交差し合う。
 校門をくぐり、上履きに履き替え、教室に入って席に座るまで、それは続く。
 学校という箱庭の中で、自分が他者と共存していくために必要な行為のひとつ。
 これさえこなしておけば、後は適当にやっていてもどうにかなる。
 実にシンプルだ。
 楽でいい。
 余所の学校ではどうだか知らないが、この公塚小学校では他のクラスのみならず、学年が異なっていてもそれなりに生徒同士の交流がある。
 それは閉鎖的にならないようにと、学校全体でのレクリエーションが月に何度か催されるためだ。
 だから自ずと、顔見知りが増えていってしまう。そんな相手に挨拶をされたら、こちらもそれに倣うしかない。
 だけど、それ以上踏み込む必要はない。
 知り合い以上、友達未満。その関係を維持し続けるだけでいい。
 私のような人間にとっては、このくらいの距離感がちょうどいい。
 でも小春にとっては、それさえも精一杯のようで。
 萎縮しながらか細い声で挨拶を返す小春は、生まれついての引っ込み思案だった。
「おはよー」
「お、はよぅございます……」
 見知らぬ女生徒と廊下ですれ違う。
 彼女は笑顔で手を振りながら。
 小春は困ったような微笑を浮かべて、腰のあたりで手を振り返す。
 私はそんな妹に萌えていた。
 かわいいなぁ、小春は。
「はー……」
 妹は視線を落として、深く溜息をついた。
「いい加減、慣れなきゃー、って思いながらもう五年生だよ、わたし」
「可愛いからいいんじゃないかなぁ」
「そういう問題じゃないと思うんだけどー……」
 おっと、ついうっかり本音が。
 なるべく平静を装って、取り繕う。
「人間、持ち味が重要だってこと。みんながみんな同じような感じだったら、なんか機械みたいで気持ち悪いじゃない」
 まぁ、私はその機械の一員なわけだけども。
「それはなんとなくわかるんだけど……」
 ちらっ、と小春が私の方を見てくる。
「ん?」
「お姉ちゃんとわたしって、双子なのに全然似てないしね」
 確かに。
 容姿は瓜二つ。性格はまったくの正反対。
 一般的にこういうパターンが珍しいのかどうかは他の双子を見たことがないのでよく分からないけど、女の子ばっかり出てくるゲームの世界では常識中の常識だった。
 初めてあの手のゲームをやったときは、めまいがしたものだ。
 男の妄想は果てしないな、と。
 つまるところ、そんな一般社会から足を踏み外した連中の妄想が具現化したのが、私らのような姉妹なわけで。
 あー、考えるんじゃなかった。
 鬱。
 まぁ、それはいいとして。
「やっぱり、今朝のこと気にしてるの?」
 なんとなく訊いてみる。気にしていないはずがないと知りつつ。
「うん……だってほら、お姉ちゃん今日はわたしとおんなじ髪型してないし」
 あー、なるほど。
 今日の小春は、後ろ髪を二本に分けてゴムで縛っている。私は何もしておらず、普通に肩口に髪の毛を垂らしている。
「いつもはわたしに合わせてくれてたでしょ? それで今朝はあんな話をしたから……なんか意識しちゃって」
 少し寂しそうに、小春がつぶやく。
 別に私は、今朝の話を体に表そうとしていたわけではない。
 というか、言えるはずがないじゃないか。
 パンツ洗ってたから髪の毛いじってる時間なかったなんて。
「思春期真っ盛りの男子か、私は……」
 額を押さえ、声にだして私は自分を恥じた。
「え、どういうこと?」
「ううん、なんでもないの。なんとなくよ、なんとなく」
 妹の疑問符に対して適当にはぐらかしていると、小春の通う五年三組の教室が見えてきた。
 小春との楽しい楽しい通学タイムもこれまでか。
 はう。
「じゃあまた後でね、お姉ちゃん」
「ん」
 ぱたぱたと教室の入り口へと駆けていく妹の後ろ姿に手を振りながら、私も自分の教室へ向かおうと――
 したそのとき、教室に飛び込んだ小春を、待っていたといわんばかりに迎え入れた女生徒と、目が合った。
 佐倉千歳。
 小春の親友とも呼べる女。
 長い黒髪に、すらりとした長身。遠目からでも目立つ、胸の膨らみ。とても十一歳には見えない大人びた容姿で、初めて彼女を見たときは中学生高学年くらいと見間違えてしまったほどである。
 だからだろうか。
 彼女が私を睨むその眼差しは、圧倒的な迫力があった。
 そして今も彼女は、尋常ならざる敵意をその眼光に湛えて、私を鋭く見据えていた。
「……おはよう」
 軽く手を振りながら、挨拶をしてみせる。この距離から私の声が彼女に届いたとは思えなかったが、相手はそれに倣って小さく頭を下げてきた。
 そんな様子を見て、少し怒った顔で小春が彼女に向かって何やら言い諭しているようだった。
 すると彼女は、今度は眩しいくらいの笑顔で深々と頭を下げてみせた。
 小春も満足げにうなずいて、私の方を見て微笑む。
「…………」
 傍目から見ると、どっちがお姉さんなんだか分からないな。
 いや、実際に小春の方がお姉さんなんだけど。
 それから小春は親友と手を繋ぐと、引っ張るようにして教室の奥へと姿を消した。
 最後に再び、佐倉千歳と目が合う。
 殺意にも似た寒気を感じた。
「……ま、いつでも来なさいな、千歳ちゃん」
 小さくそう言い残して、歩き出す。
 私の唇の端は、かすかに綻んでいた。



***2***



 六年二組。
 そこが私の通う教室だった。
 小春とは同い年だけど、学年違い。
 それについては特に語る必要もないので割愛。
 ただ、いち小学生に対して普通なら起こるはずのない出来事が起きてしまっただけのことだ。
 中学生とか高校生には頻繁に起こるようなことなのかといえば、それも滅多にないことのような気がするけど。
 とにかく割愛。以下略。乙女のヒミツ。
 誰にともなく言い訳して、私は教室の扉をくぐった。
「あっ! 秋葉ーっ!」
 ……いきなりうるさいのに捕まった。
 麻生日向。お団子頭がトレードマークの、元気ハツラツな女の子。私のクラスメイト。
 ――とでも言えば、多少は良く聞こえるだろうか。
 実際は後先省みず、本能の赴くがままに動き回るだけのイノシシ女だ。
 猪突猛進とは、まさに彼女のためにある言葉だと思う。
 今まさに彼女は私の方へ向かって、教室の対角線上に正反対の場所から豪快にダッシュしてきているわけで。
「聞いてよ聞いてよ! もう大変なんだから!」
 大変なのはお前だ。
 でも、机の角に何度も腰をぶつけながら、それでも果敢に疾走するその様は、美しくないこともない。
 痛いんだろうなぁ。我慢してるんだろうなぁ。ていうか気づいてないんじゃないかなぁ。
 そんなことを考えているうちに、日向が私の前に到着する。
「はいっ、これっ!」
 と、いきなり椅子を渡された。
 って、なんで椅子?
 真ん中の方で女の子が泣きそうな顔でこちらを見ている。椅子のなくなった机の側を、所在なげにうろうろしながら。
 ……ご愁傷様。
「……これで私にどうしろと?」
「あのね! 聞いてよ!」
 その言葉、そっくりそのままお前に返したい。
 ジト目で睨む私を無視して、日向は続ける。
「胡桃木くんがね! いやー、もうどっから説明したらいいものか!」
 ぱしっ、と自分の膝を叩いて見せる。
 胡桃木。
 朝から嫌な名前を聞いた。
 教壇の側。先程まで日向がいたあたりに、人だかりができていた。
 比率は男子が三に対して、女子が七といったところか。彼らに追い込まれる形で、壁に背をつけてひとりの男子生徒がへらへらと笑っている。
 胡桃木拓也。
 このクラスでは、ちょっとした異名で彼は呼ばれる。
 とても稚拙かつ、汚らわしい名前で。
「あいつがどうかしたの?」
 胡桃木のやることなんて、ひとつしかないと思うけど。
「それがねー、今日の日直って恵理ちゃんなんだけど、ほら、彼女ってそれでなくてもいっつも朝一番に登校してくるじゃない?」
 やたら早口で喋りながら、日向は私の肩に腕を回してきた。
 こうやってベタベタしてさえこなかったら、彼女なんて私にとってはただの雑音として処理しておけるんだけどなぁ。
「そしたら今日はなんと先客がいたんだって! それがなんと――」
「胡桃木がいたんでしょ。それで女子の机に悪戯かなんかして――」
「胡桃木だったのよ! いやー、びっくりよね! 誰も予想だにしなかった人物の登場に、クラス中もう大騒然!」
「…………」
 耳が悪いのか、純粋に頭が悪いのか、どっちなんだお前は。
 胡桃木を囲むクラスメイトたちの声が、断片的に聞こえてくる。女子は「サイテー!」だとか「ヘンタイ!」だとか「病気になったらどうするの!」だとか散々な言いようなのに対して、男子は口では胡桃木をからかっているものの、この状況を楽しんでいるように見える。
「で、あいつは結局、何をしたわけ?」
 いいかげん椅子が重くなってきたので、さっさと日向に話を促すことにする。
「それがねー、恵理ちゃんの話だと、それはもーべろべろと縦笛なめてたんだって!」
 うわぁ。
 ガキか、あいつは。
 いや、ガキなんだけど。
 被害者の女子、誰だかわからないけど、とりあえず南無。
 まぁ、間接的に被害を加えてくるレイプ魔とエンカウントしたと思って諦め――
「秋葉のねっ!」
 ……………………。
 あー……。
 あははっ。
 あー。
 なるほど。
 私は日向から渡された椅子の役割を理解した。
 日向の身体を払いのけて、椅子の足を引きずりながら、私は人だかりに向かって歩き出した。
「わ、わたしの椅子っ……」
 椅子の所有者が蚊の鳴くような声で抗議の声をあげようとしたが、その言葉は最後まで続かなかった。
 胡桃木を囲む群衆が、私の接近に気づいたようだった。彼ら――彼女らは、一斉に飛び退くようにして私に道を明け渡す。
 あれだけ糾弾されて尚、飄々としている胡桃木としばし見つめ合う。
 先に反応を示したのは、彼の方だった。
「おはよう、丘野! いい朝だな!」
 日向ばりのテンションで、にこやかに手を振ってみせてくる。
「お前、ちゃんと笛洗ってるか? ぶっちゃけあんまり気持ちのいいもんじゃなかったが、そんな生々しさもまた大人への階段の第一歩であることに気づかせてくれたお前の笛に、ありったけの感謝を込めてこう言いたいぞ。ごちそうさまでした、と」
「おそまつさまでした」
 最底辺の声音でそう告げ返して、私はあらかじめ頭上に持ち上げておいた椅子を全力で振り下ろした。
 
 ――壁と床にこびりついたソレの事後処理は、日直の恵理ちゃんの仕事になったということだけ記しておく。
 胡桃木の異名?
 小学生がこういう馬鹿にあだ名をつけるとしたら、相場は決まってるじゃない。
 まぁ、そういうこと。



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