奄美大島からの飛行機は高度を上げる間もなく、10分位で喜界島に着きます。かつて定期航空路だった(現在も定期運行しているのだが、運輸省の認可の上では不定期航空路として扱われているらしい)ときには、世界最短の定期航空路だったのだとか。
鹿児島からは飛行機(直行便)で90分位、3500トンの船で11±1時間(季節によって全然違う)位かかります。
私自身は時間さえあれば船で帰省するのが好きです。
特に夏場など、夕方鹿児島を出港して、
薩摩富士と称される開聞岳に沈む夕陽を見ながら甲板でビール、
陽が沈んだら見知った顔と2等船室で黒糖酒を酌み交わし、
船酔いとも酒酔いともつかぬ眠りについて、早暁の港に着く。
というのが、最高です。
海岸線の周囲が50kmくらい、島を一周する県道は40km弱、車でざっと1時間。やや瓢箪に似た形の、南北に長い、隆起珊瑚礁の小さな島です。島全体が鍾乳洞みたいなもので、地下水は豊富なのですが、川はありません。島に「川」と名の付くものはありますが、水無川です。
奄美の中では沖永良部島、与論島も似たような島ですね。
喜界島を含む3つの隆起珊瑚礁の島にはハブがいません。
連れてきて野に放しても生きられないのだと言いますが、
真偽のほどは ? です。
そんなこと試してみた人はいないでしょうから。
標高が一番高いところで208m、平ぺったい島ですが、隆起と侵蝕の繰り返しで、島の西側は海岸段丘的な地形に、東側は急峻な断崖になっています。その200m前後の断崖から眺める太平洋の眺望が最高だと私は思うのですが、他に何も見るべきものがないということかも知れませんね。
ただ、洋上のある方角から見る島の姿は女性の姿に見えるらしく、
その昔ペリー提督が「クレオパトラアイランド」と呼んだという話も
あるのですが、私自身が文献を当たったわけでは無いので、
真偽のほどは保証致しかねます。
しかし、町の観光課なども島のテレカにそう書き込んでいるので、
あながち嘘ではないのでしょう。
現在の人口は9000人少々。御他聞にもれず、過疎と高齢化の町です。現在住む人のいる集落(島の人たちは何のためらいもなく「部落」と言います。これは奄美・沖縄ばかりでなく、全国の郡部に共通することですが)が21、幼稚園・小学校が各9、
奄美では小学校に隣接して市町村立の幼稚園が設けられていることが
殆どです。大きな町以外には私立の幼稚園というものはありません。
複式学級になってしまったところも多いようです。私が子供の頃は人口12000人弱で、複式学級は無かったんですけどね。人口の減少よりも、子供の減少の方が激しいのは、過疎地に共通の悩みのようです。中学校と保育所が各3(何故か保育所は中学校のある「部落」にだけあります)、高校は1校、普通科・商業科が各1〜2・1クラス。これも私が通っていた頃は、各2・3クラスだったんですけど、、。
産業の無い島で、ほんの少し前まで観光誘致にも積極的ではなく(それはそれで一つの見識であるとは思いますが)、基幹産業はいまだにサトウキビ。大島紬は斜陽の極みですから、後は公共事業に頼って現金収入を得ています。ただ、いわゆる「奄振法」には頼っていられない状況ですから、メロンやトマトの露地栽培(ハウスもある)、切り花の出荷、など農業経営の多角化を図っています。観光誘致にも力を入れ始めているのですが、いかんせん何もない島で、「伝説の島」というのがキャッチフレーズになっているようです。
俊寛僧都の伝説(一応お墓があって、古い人骨も出土してはいます)、
天女の羽衣伝説(先祖代々保管している家があります)、源為朝の
伝説(洋上から放った矢を引き抜いたら泉が湧き出たという、
雁又の泉、というところがあります)、平家の落人、奄美の島唄で
有名な悲恋の美女の伝説、、。
こうして並べてみても、大したものは無さそうですね、、。
私なんかに言わせると、何もないのがウリ、で良かったのに、、。漁港整備という名目でなされる公共工事で、海岸線の至る所にテトラポッド。せっかくの海が台無しです。まぁ、これは日本全国津々浦々、どこも似たようなものではありますが。
島の言葉は独特です。同じ鹿児島県と言っても県本土とは全く異なります。
高校を卒業して島を出てきて一番ストレスだったのが
言葉の問題ですね。標準語なら別に問題ないのですが。
鹿児島弁は九州弁の中でもかなり特異であるそうです。
ま、しかし、島を出て17年。
今や私も立派な「bilingual」です。
どちらかと言わなくても「うちなぁぐち」にずっと近いのですが、島によっても「部落」によっても言葉が異なります(これも「うちなぁぐち」と同じですね)。ただ、文字に書くと奄美・沖縄の言葉は殆ど似た単語で、同じ構文ですね。アクセントやイントネーションの違いと、何故か助詞・助動詞に類するものが島によって全く違うので、細かな部分が分かりにくくなっているだけで、基本を押さえてしまえば大体分かります。
1994年のこと、沖縄市(かつての「コザ」)に仕事で行って2泊しました。
上司が民謡酒場が好きで、2晩とも民謡酒場に行ったのですが、
2晩目には、周りの人の言うことが何となく分かってきて、
何だかおかしく、嬉しかったことでした。
多くの人たちからはかなり異質な言葉として捉えられていますが、
たとえば、
あれは日本語ではなく、台湾あたりの言葉が北上してきて
訛ったものでしょう?
などと言われることがよくあります
現実には「うちなぁぐち」も奄美の言葉も、古い日本語の語彙を最もよく残す言葉の一つであります。地名にしても然り。今日の日本語・日本文化のオリジンを辿って行けば、必ず行き当たる場所の一つが琉球弧だと(私が勝手に)思うのですが、、。
正確に言えば「オリジン」はやはり近畿圏なのでしょう。
同心円状に広がっていって、古い「オリジナルの日本語」が
残っているのが、東北地方(最近ではあまり残っていない
らしい)と琉球弧、ということですね。
さて、随分長くなってしまいました。文化や歴史、書いていけばキリがないので、ここら辺で止めます。
最後にひとつ。
私は離島で育ったからこそ抱けた夢や希望の大きさに感謝しています。
自分の生れ島が「帰りたいけど帰れない」場所になりつつある今も、島の中で育んできた「情熱」にはやはり誇りを持っています。
> 少年の日の僕は、今と変わらず随分な怠け者で、何をするともなく水平線を
> 眺めたり、空ゆく雲を眺めては日がな一日過ごすのが好きだった。
> 海の向こう、同じ目の高さにまだ見ぬ世界があり、雲の行く先、同じ空の下に
> まだ見ぬ友がいる、そんな夢想が空腹を満たす糧だった。
わたしは、喜界島でさういふ少年時代を過ごしました。