落ち穂ひろい Part3

 2001年01月から06月の半年間、喜界町国民健康保険診療所長(註1)の向井 浩文(むかい ひろゆき)氏(註2)が琉球新報文化面「落ち穂」の執筆を担当することになった。氏はWEB masterの同級生でもあり、幼時から変わらず、いろいろと教えてくれる「師匠」でもある。(^_^)
 せっかくのことであるから、またまた、落ち穂ひろいパート3として、琉球新報紙面に掲載次第、このページでも紹介申し上げることにした。乞う、ご期待。
註1:本人いわく「所長といっても、予算決定権なし、人事権なし、その他の権限なし。職員の過ちについて、責任をとる義務あり。すなわち、権限はないが、責任はある。昨今の役人のように、権限はあるが、責任はない、というのとは正反対の立場である」。苦労してんだね。> JC (^_^;;
註2:向井氏のコンタクトは右の通り。E-mail: jcmukai@po.synapse.ne.jp

Back to Bak's Home
 第01回:離島の診療所より              第02回:子供の頃の喜界島
 第03回:小学生の頃の喜界島の記憶          第04回:中学受験
 第05回:寮生活                   第06回:先生
 第07回:運動部                   第08回:大学生
 第09回:医者の卵                  第10回:島の医者
 第11回:はまゆり学園                第12回:島主義
 第13回:大和主義

WEB master 註:このシリーズの挿し絵は、かのオオゴマダラ蝶から始めることにした。いずれ、他のモノも使うことになるかもしれないが。

離島の診療所より

オオゴマダラ12  小さな飛行機で、小さな飛行場に降り立つ。海の臭いが、かすかにする。新たな生活のスタートに、少し緊張しながら小さな診療所へ向う。そして古い宿舎へ。空気が違う、臭いが違う、街を行き交う人が違う。しかし、見た目は普通の街である。道路も舗装され、街路樹もきれいで、建物も普通だ。ただ違うのは、ここが小さな島ということである。全てが止まっているように感じられた。1時間がなぜか長く感じられた。1日が異常に長く感じられた。年をとるごとに時間は短く感じられるもので あるが、島に来たとたん、まるで1日の長さが倍になったようだ。夜は、風の音しか聞こえない。これは、私が24年ぶりに島で生活を始める時に感じたことです。うまく表現はできませんが、何か不思議なものを感じました。
 もうすぐ島での生活も、まる4年になろうとしています。最近では慣れましたが、たまに都会へ出ると、時間が異常に早く感じれ、戸惑います。
 喜界島は、奄美諸島の一番北に位置する、周囲約50km、人口約9千人の小さな島です。
 私は、昭和35年に喜界島で生まれました。小学校は島で出て、中学・高校は鹿児島にあるラサール学園を出ました。その後、鹿児島大学医学部、鹿児島大学付属病院を経て、平成9年4月より島の小さな診療所で働いています。私の軌跡は、島で12年間、鹿児島で24年間、そして再び島でもうすぐ4年間になろうとしています。
 今回縁あって琉球新報にエッセーを書かせて頂くことになりました。私の知っていることといえば、喜界島のこと、鹿児島のこと、医療のことしかありません。私の感じた、見た喜界島のこと、鹿児島のこと、医療のことを書かせて頂きます。
 追伸:私の文章で、たんに島といえば喜界島のことを差します。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年01月06日掲載)
↑ Top

子供の頃の喜界島

オオゴマダラ13  私が子供の頃の喜界島は、海があって、畑があって、そこら辺にはやぶが沢山あり、開発とは無縁な島でした。遊びといえば、野原を駆け回ったり、海で釣りをし、貝やウニをとって食べたりと、自然のなかで遊んでいました。時にはサトウキビやスイカを失敬したりと、悪いこともしていました。テレビはありましたが、NHKしか映らず、ヒョッコリヒョウタン島を見るぐらいでした。言葉は、普段は方言でしたが、学校では方言を話さないようにしましょう、という標語が掲げられていました。
 その頃の私の本土(島ではヤマトと言っていました)に対する意識は、人がたくさんいて、悪い人もたくさんいて怖いところ。本土の人は頭がよくて、お金をたくさん持っていて、島の人とは違う人だ、と素朴に思っていました。また本土の人、都会の人は、小便や大便はしないものと思っており、本土へ行ったら便所がなく、小便や大便ができないので大変だと本気で思っていました。今思えば笑い話しですが、要するに都会の人は違う人種だと思っていたようです。
 交通の便が悪かったため、島から出ることは滅多にありませんでした。というか、本土へ行ったら人さらいがいて、親とはぐれたらどこか知らないところへ売られて大変な目にあうに違いない、と本気で思っていたため行かなかった、というのが正直なところです。
 学校では勉強ができるより、ケンカが強いほうが自慢でした。よく、取っ組み合いのケンカをして先生に怒られたものでした。今でも、昔の私を知る人にあうと必ず言われます。あの太った、けんかばかりしていた子供が医者になるとはねー、ヒロユキちゃん。40になっても、なお“ちゃん”づけで呼ばれるのは、やはり故郷である島ならです。一歩外に出れば、年令が基本になります。いい意味での年功序列が、島では残っています。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年01月19日掲載)
↑ Top

小学生の頃の喜界島の記憶

オオゴマダラ14  この島でもかつて戦争があったことを、時々親から聞きました。飛行場があって、そこから日本軍の飛行機が飛び立ち、島の上空でアメリカ軍の飛行機と空中戦をしたそうです。そして、撃ち落とされるのはほとんど日本軍の飛行機だったと。日本は弱かった、という事実を知って、子供心に少々がっかりしたのを覚えています。
 島には、戦争のあとが残っていました。海には、いたるところに急に深くなっている所があり、戦争中に爆弾が落ちた場所で、爆弾穴というのだと大人から教わりました。また防空壕あともいたるところにあり、中へ入ると、さびた刀や鉄かぶと、人骨があり、怖くなって走って逃げたことを覚えています。
 時々突然ごう音が響くことがありました。空を見上げると、ジェット戦闘機が何機か低空飛行で通り過ぎるところでした。あれは、沖縄へ行くんだ、沖縄はベトナム戦争の前線なのだ、沖縄は大変なんだな、と思ったのを覚えています。
 昨年母がなくなり、母の荷物をかたずけていた時に、私の小学校の頃の作文が出てきました。その作文には、忘れてしまった私の子供の頃の気持ちが書かれてありました。小学校4年生から6年生の頃の作文には、決まって島を発展させるにはどうすればいいか、ということが書かれていました。島には都会にはない自然があるので、その自然を宣伝して観光を盛んにすれば島は発展するとか、自分が東京大学に入って偉くなって、島のために貢献するだとかが書かれていました。都会の子供であれば、自分が偉くなって都会のために尽くすとか、都会を発展されるためにはどうすればいいか、などとは、作文に書かないと思います。なぜ、そのようなことを書いたのか。多分それは、島が書かせたのだと思います。海に囲まれた小さな空間、その空間が書かせたのでしょう。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年02月02日掲載)
↑ Top

中学受験

オオゴマダラ15  子供の頃には、よくケンカをしました。あれは、小学校4年の頃だと思いますが、ケンカをした相手が工作室からのこぎりを持ち出してきて、私を追いかけてきたのです。びっくりした私は校庭を逃げ回ったのですが、その時に6年生がなかに入って、ケンカは収まりました。その後校長室に相手といっしょに呼び出されて、こっぴどく叱られたのです。それ以降、私はケンカをしなくなりました。
 私には10才上の兄がいるのですが、その兄は中学校から鹿児島に行ったのです。それは、医者になるためでした。自分も中学校からは鹿児島に行かなくてはならないのだろうな、そして医者になるのだろうな、といつしか私は思うようになっていました。
 小学校6年になった時、ある先生が赴任してきました。その先生は、大きな小学校にいた先生で、大きな小学校の話しをよくしてくれました。医者になるために、小学校4年生の頃から塾に通いラサール学園を目指すこと、夏休みなどは合宿をして2週間ぐらいホテルに泊まりがけで勉強することなど。喜界島のことしか知らなかった私には、大変衝撃的で目を輝かせて聞いたことを覚えています。そうこうしているうちに、自分もラサール学園の入学試験を受けてみようと思うようになったのです。確か夏休みの頃からだと思いますが、その先生の指導を受けて、いわゆる受験勉強を始めました。その当時、島には塾などなかったため、受験勉強といっても問題集を毎日解くという、いたってシンプルな勉強方法でした。受験は2月でした。朝早く船で着いた鹿児島は気温が低く、空気の臭いが島とは違っており、食べ物の味も違い、なにより街が大きく、生まれて始めてタクシーに乗って受験会場へ行ったのです。
 よき指導者に巡り会うこと、良き教育を受けること、島にとって本当の宝物です。その先生は今、島の教育長をしています。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年02月15日掲載)
↑ Top

寮生活

オオゴマダラ16  鹿児島での生活は、寮で始まりました。寮では、中学校1年生から3年生までの約250人が寝起きを共にします。寝室、自習室、食堂、全てが全員いっしょです。寮のスケジュールは、朝6時半に起床、7時に集合して朝礼、その後体操があり朝食、8時に登校。夕方は7時に集合して10時半まで義務自習、11時に消灯となっていました。
 寮の運営は学生の自治に概ね任されており、一番上に寮長がいて、それを補佐するのは規律委員です。規律委員は何をするかというと、字の通り規律を守るのが任務です。規律委員には、だいたい運動部のキャプテンがなっており、その一番上の規律委員長は迫力満点です。たまに自習室でざわつくことがあるのですが、規律委員長の“静粛に!”との一声で自習室はしーんとなるのでした。また規律委員は、新入寮生に 寮のルールを教えることも大切な仕事でした。集団生活をするのは皆初めてなので、なかには自分さえよければよいとか、他人に迷惑をかけなければ何をしてもよい、と思っている学生もいました。そういう学生に、してはいけないこと、してよいこと、年上の者に対する礼儀を教えるのです。島から出てきた私には、見ること聞くこと初めてで、戸惑うことばかりでした。
 私のことは何故か、先生をはじめほとんどの人が知っていました。何か行事があると、必ず私は何かの役に抜擢されたし、催しものには必ず誘われました。授業でもよく当てられました。今から考えると、鹿児島の生活に慣れていない私を気使っての皆の好意だったのでしょうが、当時の私には重荷でした。そっとしておいてほしい、そう思っていました。私の学校での成績は、徐々に落ちていきました。成績が落ちた理由を母や周囲の人は、悪い友達と遊んでいるからとか運動部に入っているからとか言っていましたが、本当の理由は生活に慣れていないことでした。準備もせず、また事前に調査もせず、いきなり島から出てきた私が一番悪かったのです。人間は、おうおうにして本当の理由を間違う、というか敢えて本当の理由を避けて通るようです。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年03月02日掲載)
↑ Top

先生

オオゴマダラ17  中学・高校時代の先生は、島とは違っていました。入学して最初に実力試験があり、試験の答案用紙を返す時に言われたのは、自分の点数を隠すな、ということでした。今風でいう情報公開です。先生の言うには、試験とは人生のなかのほんの一瞬の出来事で、人生には他にいろいろと重要なことがある。そもそも点数を隠すことに労力を使っても何もならない。無駄なことだ。それよりも、次の試験に向けて労力を使うことが先決だと。点数を隠すのは、ひとえに恥ずかしいということですが、点数を隠すのをやめたら、恥ずかしさもなくなりました。また、悪い点数をとった人にいじめなどがあったかというと、それも皆無でした。かえって、誰が何が得意かわかり、教えてもらうのに好都合でした。しかし、恥じを忘れ過ぎた人には、答案を返す時に「うーん、参加することに意義があるな」と、恥じを思い出させるのです。
 校長は日本人ではなく、欧米人でした。欧米人は、決めたられたことは決めた通りに実行します。日本人には、あいまいでなれ合い的な面もあるのですが、欧米人はルールに厳格で、融通もききません。例えば不祥事が見つかった場合、1回目は停学ですが、2回目は退学になります。その原則は、全ての学生に適応され、いくら成績がよくても例外はありません。逆に、例外がないほうがわかり易くすっきりします。最近、欧米人をトップに迎えて再生する会社がみられます。首尾一貫しているのがよいのでしょう。そのうち、日本の総理大臣も欧米人になるかもしれません。
 私はというと、よく怒られ叩かれました。不思議なのは、同じことをしても、私は怒られるのに、他の人はあまり怒られないのです。後に、人には怒りやすい人と怒りにくい人がいる、ということに気がつきました。怒りやすい人は、明るくておおらかで、余り物事にごだわらず、怒ってもあとをひかない人です。怒りにくのは、神経質で、怒るとあとにひく人です。ということは、私は明るくおおらかだと思われていたようです。南の島から来た、それが、ほがらかで明るいと思わせたのでしょう。自分では神経質のつもりでしたが。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年03月10日掲載)
↑ Top

運動部

オオゴマダラ18  中学3年の秋にラグビー部に入部しました。練習は走る、ぶつかるという基本練習が主できつかったのですが、練習後の同級生との会話や皆でジュースを飲んだりしたのが楽しかった記憶があります。きついことも楽しいこともいっしょ、これが本当の友人だと思います。ただいっしょにいるだけでは、友情は芽生えません。今でも集まることがあります。若返ることはできないが、青春に戻ることはできる、そう実感する時間があります。
 ラグビー部には先輩−後輩のきびしい関係があります。先輩からはラグビーの指導も受けますが、目上の人に接する礼儀作法も教えられます。たるんでいる時には説教もされます。時には1時間ぐらい説教され、こんなにだめな所があったものだと、自分のことながらあきれたこともありました。合宿にはOBも大勢参加します。OBから大学に入ったら勉強もしなくていい、医学部に入ればすぐに彼女ができていいぞ、という話しを聞きました。早く大学生になりたいと思ったものでした(大学に入学して、その話しがうそだと気がつくのにそう時間はかかりませんでした)。
 ラグビー部に入部してから、学業の成績も徐々に上向いてきました。時間は制約を受けましたが、その分手を抜くところは抜き、力を入れるところは入れる、要領がよくなったのです。また、先輩や同級生の情報も大きな助けでした。一人ではないのだ、そう思えるようになったのです。
 ラグビーの試合の前に監督から言われることは、トライをしても喜ぶな、審判に文句を言うな、という二つです。トライは全員でとったのであって、自分一人でとったのではない。これが、ワン・フォー・オール・オール・フォー・ワンの精神です。またラグビーは、審判の判断を最終判断としています。その判断が仮におかしくても受け入れなくてはいけません。最近は審判にすぐ文句を言ったり、時には審判に暴力を振ったりする場面をよく見かけます。あれはスポーツではありません、ケンカです。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年03月29日掲載)
↑ Top

大学生

オオゴマダラ12  大学に入って一番変わったのは、周りに鹿児島弁を話す人が増えたということです。大学でもラグビー部に入りました。キャプテンは鹿児島弁まるだしの、生っ粋の鹿児島の人でした。キャプテンの言うことは決まっていて、気合い、根性と精神論ばかりでした。試合に負けても、気合いが入っていないからだと精神論ばかり言うのです。そういうキャプテンにかみつくのに時間はかかりませんでした。試合に負けたのは、精神力が劣っているのも確かに一つの要因だが、技術、体力が劣っていたのが主な原因だ。そして、技術、体力を向上させる練習をしないことが一番の原因だ。気合いだけで勝てるのなら、日本は第二次世界大戦で勝っているはずだ。下級生でありながらそう主張する私を、上級生はあまりよく思っていなかったようです。ある日焼酎を飲みながら、徹夜で議論を交わしました。結論は平行線で終わったのですが、それ以後不思議と溝がなくなりました。鹿児島では、酒を酌み交わしながら議論を徹底的にするのが、仲よくなるコツのようです。
 大学生の頃楽しかったことといえば、先輩に飲みに連れていってもらったことです。居酒屋のこともあれば、OBにとても学生では行けないような所へ連れていってもらったこともありました。そして、先輩やOBの話しを聞くことも楽しみの一つでした。好奇心旺盛な頃でしたので、とにかく社会とは何か、社会にはどんなところがあって、どんなことがあって、どんな人がいるのか、知りたいことがいっぱいでした。最近は大人と若者の交流が少なくなったといわれます。成人式についてもいろいろと報道されております。私がもし知事や市長であれば、成人式の前日に繁華街を貸し切って、成人式を迎える若者と大人の大交流会を開催します。完全な年功序列で、年上の人に失礼な振るまいをした者は、即刻帰ってもらう。年功序列、年上を敬い、年下を可愛がる、これが社会の基本です。費用は自治体持ちで、そのために無駄な公共事業を削る。繁華街が栄えていない街は魅力がありません。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年04月11日掲載)
↑ Top

医者の卵

オオゴマダラ13  昭和61年に医者になったのですが、最初は何もできません。それなりの研修をつまないと、実際に患者さんを診たり治療したりすることはできないのです。そのためには、教育システムがなくてはならないのですが、実際にはそのような教育システムはほとんどないのが実状です。技術は教えてもらうものではなく盗むものという、昔ながらの徒弟制度があるだけです。今求められているのは、よい医者、言い換えればよい教育を受けた医者です。最近の医療の問題の多くは、教育システムがないことに起因しています。皆それはわかっているのですが、皆それを避ける、というかあえて避けようとしているようです。
 いじめも存在します。いじめには、よいいじめと悪いいじめがあります。よいいじめとは、本人のためを考えてするいじめ、例えば協調性のない人を、本人にいじめと思われてもいいから協調できるようにする。悪いいじめとは、気にくわない、虫が好かないという理由でいじめることです。医者の世界、大人の世界には、悪いいじめはないだろうと思っていましたが、それは間違いでした。いじめとは、人間の本能に由来しているようです。いじめをなくそうとよく言われますが、それは不可能です。それよりも、いじめられないようにするにはどうすればよいか、いじめられたらどう対処したらよいかを教えたほうが現実的です。
 医局では、医者は専門家を目指します。日々学会だ論文だと言われると、いつのまにか洗脳されてしまい、患者さんよりも学会や論文のほうが重要に思えてくるのです。私も専門家を目指していたのですが、医者になって10年目になろうとしている時にふと思いました。確かに自分は専門としている分野は詳しいが、それ以外のことはからっきし分からない。もしかしたら自分は専門家のふりをしているのではないか。それよりも、今のままでよいのか。後方でぬくぬくと専門家ずらしていていいのか。これは、本当の医者の姿ではないのではないか。そうだ、島へ行こう。自分の故郷へ行こう。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年04月24日掲載)
↑ Top

島の医者

オオゴマダラ14  平成9年4月に島の診療所に赴任しました。島に来て、集落によって方言が違うということに気がつきました。離れた集落だけではなく、隣りの集落ですら言葉が違うのには驚きました。自分達の集落の独自性を守ってきた結果、言葉が違ってきたものと思われます。小さな島なのに。しかし、その独自性も失われつつあります。独自性を認めない、異質性を認めない現代がそうさせたのだと思います。集落の方言、島の方言、なくなりつつあります。
 島の気候に慣れるのには時間が必要でした。特に夏の暑さにはまいりました。まるでオーブントースターのなかにいるような夏の日差し。往診で2、3軒回ると汗びっしょりになります。島の人はその暑さの中、働いています。しかも、老人でも。本当に頭が下がる思いです。
 島には医者は多くはいません。当然いろいろな病気を診なくてはなりません。大きな病院にいる頃は、自分の専門外の病気は診なくてよかったのですが、島では病気を選べません。逃げることもできません。また、往診や健診、予防接種といった保健事業もしなくてはなりません。幅広い知識や経験が必要です。体力も必要です。患者さんは昼夜を問わずやってきます。夜中に何度も起こされ、徹夜となることもしばしばです。徹夜明けに働くことは大変辛いことで、それが何日か続くこともしばしばです。休みもあってないようなものです。本当の休みは島を離れる時だけです。離島の医者には離島の医者としての教育が必要です。専門家として教育を受けてきた私には、一からの出発でした。完全に準備不足でした。医者は島に来たがりません。島にいると勉強ができないとか、医学の進歩に遅れるとかいろいろと理由はありますが、本当の理由は大変だから、この一つです。大変な思い、苦労をすることはいい経験になると思うのですが。特に若い時には。
 思えば島を出た時、私は準備不足でした。そして、島へ帰ってきた時も準備不足でした。歴史は繰り返すものです。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年05月08日掲載)
↑ Top

はまゆり学園

オオゴマダラ15  喜界島には、知恵遅れ、肢体不自由の人が通う施設があります。施設の名前は、はまゆり学園。私の姉も園生の一人です。私は5人兄弟ですが、姉だけがハンデを背負ってこの世に生を受けました。亡くなった母は、姉が兄弟の不幸を一身に背負って生まれてきたのだから、お前達は姉を大切にしなくてはいけない、と言っていました。亡くなる直前まで、姉をどうか宜しくと何度も言っていました。
 私の姉に限らず、ハンデを背負った人にはある特徴があります。それは、身近な人にはつらくあたり、言うことを聞かないのに、身近にいない人の言うことはよく聞く、ということです。もし姉が自分の家にだけいれば、面倒をみる人は大変な苦労をすることになります。それは、姉にとっても望ましい状況ではありません。福祉とは、外部の人がかかわらないと本来うまくいかないものです。以前は、地域社会の人がかかわっていました。福祉は、空気、水、安全と同じごく自然なものだったのです。医療も同じです。しかし、最近は主に金の問題にすり代えられています。医療費が増加して大変だとか言われます。医療、福祉に金を使うのはまるで浪費のようにいわれます。おいしい空気を吸う、おいしい水を飲む、安全に暮らすことに、金がかかって大変だとは言われないのですが。
 島でも、医療、介護のニーズは高く、施設に入りたくても入れない人、専門病院にかかりたくてもかかれない人がいます。その一方で、必要のない道路や港はどんどん造られています。海岸はテトラポットで埋め尽くされ、きれいな浜はヘドロでいっぱいです。このままでは、島には自然がなくなってしまいます。でも島の人は分かっています。こんなことをしても土建業者が儲かるだけで、島のためにはなっていないと。今構造改革がいわれています。構造改革とは、ニーズのない土木工事をやめて、ニーズのある福祉や医療などの社会保障に予算を振り向けることです。これは、皆わかっていると思うのですが、それを避けるというか、あえて避けているようです。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年05月21日掲載)
↑ Top

島主義

オオゴマダラ16  島ではある主張をしても、これが現状にそぐわないとわかると、その主張をすぐに変えます。日和見主義、別の言い方をすると忠誠心がないということになりますが、島で生きていく限り、これは避けることができないことのようです。
 島の人(シマッチュー)は個人主義です。何か催し物を開催しても、集まりはよくありません。自分がいやなら行かない、気に入らないことはしません。時間を守らないこともよくあります。一般的に島時間といいますが、守らないどころか、行くと約束しても来ない人も多いため、飲み会は家でするほうが無難です。決めたことも、なかなか守られません。特に自分が犠牲にならないといけないこと(最近では痛みを伴うこととも言われます)は、決められただけで終わります。道端を見ると、捨てられた空き缶がいっぱいです。自分が世界の中心の人もいます。特に病気をした時は顕著で、自分の都合に周りが合わせないと気が済みません。その傾向は、年をとるほど顕著になります。一般的に日本人は、個人主義ではないといわれています。でも、日本人はシマッチューと同じく個人主義ではないかと思われます。それは、オリンピックでの日本人の成績を見ればわかります。スポーツでは、人数が多くなるほど個人プレーはやめて、チームプレーに撤しないと勝てません。日本人が活躍するのは、柔道やマラソン、水泳など個人でするスポーツが主です。人数が多くなるスポーツほど、日本は弱くなります。6人でするバレーボールは以前は強かったのですが、今では強くはありません。野球は9人でプレーしますが、基本的には投手と打者の1対1の勝負です。15人でするラグビーに至っては、勝つことすらできません。
 シマッチューは、島を離れると島を懐かしがり、島はいい所だと言います。いい島なら、いつか帰ってくるのかと思うと、島に帰って来る人はあまりいません。言っていることと、やってることは違います。本音と建て前が違います。
 島主義、これはどこかと似ているようです。伝え聞く長田町、霞ヶ関と似ています。どちらも狭い世界だからでしょうか。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年06月04日掲載)
↑ Top

大和主義

オオゴマダラ17  島から出ていった私に、大和主義はきびしく感じられました。だめな人は落ちぶれる、弱ければいじめられる、遅れれば置いていかれる、悪いことをすれば怒られ罰っせられる。これは当たり前のことですが、シマチューの私にはきびしく感じられました。今忘れられないのは、そのきびしさを教えてくれた人です。時にはたたかれ、時には説教され。でもそのあとには、必ずやさしさがありました。いつしか、きびしい人は必ずやさしく変わりました。くじけそうになる時、必ずそういう人に出合いました。でも、そういうきびしい人が少なくなりました。みな、やさしくなりました。やさしくて、問題を先送りするようになりました。でもある時、やさしい人もきびしく変わります。しかも突然に。これを”きれる”というようです。
 島にはきびしさが足りません。やさしさがいっぱいです。やさしいから、人にきびしいことは言わない、ケンカもしない。きびしいことを言う人に従うふりをして、裏で足をひっぱる。やさしいから、依存心が芽生えてしまう。その依存心がために、島のため、農民・漁民のためといいながら、そうではない状況を放置している。狭い空間で生活するためには、そうしないとやっていけない。いつも顔を合わせ、顔を見れば素性はわかり、利害関係、親戚関係、複雑に絡み合う狭い空間。誰が何をして、何を言ったかすぐにわかる空間では。でも、大和主義はいやおうなしに島にもやって来ます。構造改革という名を借りて。
 島も変わらないといけない時代になりました。時代は、島にも大和主義を入れようとしています。でも、大和主義はきびしいだけではありません。どこかにやさしさを秘めています。欧米のドライな実利主義を、背伸びして真似よう、真似ようとしていますが本質は違います。どこかに島のかおりがする。大和主義は、元をたどれば島にたどり着く、沖縄・奄美にたどり着く、そう感じます。そして、島主義と大和主義が融和できる時が必ず来る、そう思います。
(向井 浩文・喜界町国民健康保険診療所長)
(2001年06月19日掲載)
↑ Top