じいさんたちのアメリカ ―堀久俊評伝―


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 ここに、一九五二(昭和二七)年ニューヨークで発行された邦字紙の記事と思しき切り抜きがある (WEB master 註1)。明治初期に十五歳で喜界島を出て二十歳で渡米した堀久俊なる人物の評伝である。出典も不明で、既に文字はかすれ、シミも生じて判読困難な部分もあるのだが、当時の在米邦人の暮らしぶりや米国史の一端をうかがわせる貴重な資料だと感じられるので、以下に一部を紹介したい。

 なお、出来る限り原文に忠実な表記を心がけたが、パソコンで表記不能な字体は新字体に改め、判読困難な文字は●で表記した。

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ニューヨーク日本人社會今昔

  ―長老にきくその當時― 米海軍に勤めた人

 堀久俊は元治元年に生れた。僧俊寛が流刑された鹿兒島の鬼界ケ島の産である。元治元年は西暦で一八六四年。日本では幕末の風雲が急を告げ、米國では南北戰爭がたたかわれていた年である。

 (中略) (WEB master 註2)

 沖縄に縣政が布かれた一八七九年に堀久俊は初代奈良原知事に從つて那覇に赴き自由黨が解黨された一八八四年に渡米した。(渡米年月ははつきりしない。滞米六十七年というから一九五二年からみれば一八八五年に渡米したことになるが、長濱伊三郎の渡米一八八五年より一年前と見るべきであろう)

 彼が米國海軍々艦に乗組んだのは一八八五年(明治一八年)でペリー提督の孫にあたるロージャーズが艦長をしていた。中國人が主として司厨部で働いていたのだが不潔だというので日本人といれかえはじめていた頃だつた。だが同じく東洋人なので、外國の港々で見榮えがしないという理由で上甲板を遠慮させられ水夫以上に拔擢されることはなかつた。當時白人は日本人をリキショウ(力車)、中國人をチンキ、朝鮮人をイボと呼んでいた。(ジャップと蔑稱する言葉は日露戰爭當時黄色紙創始者ハーストがつくつて流布した)。

 日清戰爭が終つた一八九三年頃にはニューヨーク近邊で日本人が四百人近く米國海軍に勤めていた。海軍に勤めれば市民權をくれるということだつたが、日本人が受け取つたものは海軍勤務証明で歸化証ではなく、州市民權証がなければ正式の歸化市民ではなく、これを入手したものは數多い日本人米國海軍勤務者の中で關根英次郎だけであろう。關根英次郎は群馬縣の鐵砲屋の息子で、スナイダー、モーゼル、レミングトン、村田などの銃射能發表會がアメリカでひらかれた時、村田新八の弟何某の從卒として渡米し、アメリカにとゞまつた人である。

 米國海軍に日本人を周旋する口入屋は岩瀬徳五郎がやつていた。水夫のボーデング・ハウスとしてはブルツクリンのサンド街にオショウ婆さんが経營しているものや、金子兼太郎に師事したという漢學者の鈴木辰五郎、ジミー中濱、チヤーリー中川、國本などの経營する船宿合宿部屋同然のものだつた。海軍に就職すると本艦に乗組む前六カ月間ベルモントとよばれた練習船で訓練されるのが普通だつた。給料は月九弗であつたが後に十六弗となつた。

 堀久俊が上陸してぶらぶらしていると、その頃日本から茶を輸入して販賣しているホフマンという男がブルツクリンにだしている店の看板が目についた。大西洋太平洋製茶會社というのである。東洋練習艦隊が横濱に寄港した時が機縁となつて顔見知りとなつたホフマンが店先にいて通りがかりの日本人をよびいれたのである。茶の輸入關係から日本人を使えば便利であろうと考えたホフマンは堀久俊に働いてみる氣はないかとすゝめた。いくら拂うか、とたずねると月十五弗出すという。しかし海軍では「くつてねて」月十六弗なので頭を横に振つた。ホフマンは現在アメリカ全國に蜘蛛の巣を張るチェーン・ストアA・Pの創始者であつた。海軍をやめてから堀久俊は色々な商買に手をだしたが根が潔癖なので商賣にはむかず、寒空にコートなしで歩くので同情した日本人がコートをやるとコートなしで寒むがつている友人に渡して自分は相變らずコートなしで歩くといつた風だつたから、たとえホフマンのすゝめでA・Pに勤めたにしても商賣敵と血で血を洗う競爭には尻を向けてしまつたであろうと思われる。

 米西戰爭が起きたのは一八九八年だつた。きつかけはスペインが米軍艦メーン号を爆沈したというのである。長濱伊三郎の話では、その時巷間に流布された排外好戰スローガンは「リメンバー・ダ・メーン●●フ・ヘルウイズ・スペイン」だつた。堀久俊はまだ海軍にいたので、その眞相を知つている。

 戰爭がある所には不思議に顔を出して戰爭ごとに頭角を現わし、のちには「戰爭宰相」とよばれ現在では冷戰の創始者であり英國保守政府に君臨するウインストン・チャーチルが新聞記者としてキューバに特派されていた。「報道をくれろ、戰爭を提供してやるから」と豪語したW・ランドルフ・ハーストもキューバにいた。メーン號が爆沈される寸前である。

 メーン号に乗組んでいた上村という日本人は、ハバナ沖碇泊中にゼグビー艦長から特命を受けた。それは通風筒を全部油布で封じることだつた。封じられた艘底部にガスがたまつていつた。火藥庫にスリツケギで点火したのが誰だつたかはつきりしないが、メーン號は爆發し船腹に穴をあけられて沈んでいつた。上村がハバナに上陸したことはわかつているが、その後彼の行方は杳として知れない。彼の口を封じるため暗に葬られたのであろう。五十四年前の歴史となつた現在では、米西戰爭を始める口實としてアメリカ側がメーン號を爆沈しておいてスペインか

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 切り抜きの記事は、ここで途切れている。

 若干補足するなら、事件前メイン号に赴き「もう何事もないから帰りたい」と打電した記者に対して「留まれ、写真を送れ、私は戦争を作る」と返電したハーストは、事件直後から激しいスペイン非難の論陣を張り、米国世論を開戦へと導いていった。スペインは国際裁判所や中立国との共同調査を米国に提案したが米国はこれを拒否、単独調査後にメイン号を沖合に沈めた。外部攻撃が原因との調査結果を公表した翌日には最後通牒を送り、スペインが「要求されたすべての条件に従う」と打電した翌日にはこれを黙殺して宣戦布告、最終的に米国はキューバとフィリピンを手中にした。 (WEB master 註3)

 十三年後の一九一一年、メイン号を引き揚げて調査した民間の船舶業者が、メイン号は内部から爆破されたとの調査結果を公表した。だが、米海軍が「石炭庫での発火が火薬庫の爆発を招いた」と論証し、外部攻撃説をようやく否定したのは、一九七六年のことである。もっとも、事件の「自作自演」を認めたわけではない。

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 堀の死後、一九五八(昭和三三)年にこの切り抜きを喜界島に送ったのは、喜界島出身でワシントン在住の哲学者・静岡忠人(WEB master 註4)である。静岡は、同封の書簡の中で「メン号の爆沈事件はアメリカ側で計画的にやった事は歴史家の認めるところです」と書いている。

 もちろん、日本人の関与が当時の定説だったわけではないが、メイン号に日本人乗員がいたのは確かな事実である。在ニューヨークの日本領事が艦長から直接得た情報として、石田、鎮寺、北方、大江、杉崎、鈴木の六名が死亡、生存者は串田、粟生の二名で、計八名の日本人が乗り組んでいたと伝えられている。

 ここに「上村」なる名前は出てこない。堀の語った「眞相」の真偽について、筆者には知るすべもない。が、市民権を目的に軍に入った日本人が謀略戦の一端を担わされたという可能性も、一概には否定できないと思われる。現在でも、米軍の最前線に送られるのは、大学入学資格や何らかの資格を得ようと入隊した有色人種の兵士が圧倒的に多いという。

 静岡の書簡からは、当時ニューヨークの日本人社会で「メイン号爆破の役目を負わされたのは、堀をはじめとする海軍勤務の日本人だった」と語られていたことがうかがわれる。

 メイン号事件に限らず、堀は何かと逸話の多い人物だったらしい。堀の遺骨を引き取りに出向いた静岡は「ニュヨークで随分聴かされました」と書いている。例えば、堀は、多少の金銭を得てもそれをことごとく「人にやってしまったらしい」。日本人と見れば誰彼となく援助し、後に星製薬を創業する星一や、代議士となった中村喜寿らの滞米中にも多くの便宜を図ったというのが、在ニューヨークの日本人から静岡が聞いた話である。

 もっとも、星新一の著作「明治・父・アメリカ」などを見ても、登場するのは野口英世、伊藤博文、新渡戸稲造、後藤新平、津田梅子といった、きら星の如き人物ばかりで、堀久俊の名前は、当然のことながら出てこない。星一が滞米生活を打ち切って帰国したのは一九〇四(明治三七)年であるから、一八九八(明治三一)年までは海軍にいたはずの堀が星に何らかの援助をしたというのも考えにくい話ではある。想像するに、せいぜい日本人社会の中で面識があったという程度のことではないだろうか。静岡が「聴かされた」逸話の真偽もまた、筆者には知るすべのないことではある。

 お下がりのコートであれ、多少の金銭であれ、惜しげもなく人にやってしまうような堀の人柄が、そのような「伝説」を信じさせることになったのかも知れない。あるいは、堀に限らず、若くして海を渡った日本人たちの間では、そういう助け合いがごく普通のことだったのだろうとも思われる。

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 ちなみに、堀久俊の堀という姓は渡米後の通称で、本名は萬(よろず)という。萬(よろず)家は、久俊を頼って一時渡米後に帰国した実弟・良康が家督を相続し、後に姓を改めている。久俊は一九五七(昭和三二)年、九三歳でニューヨークに没し、本人の遺言に従って遺骨のみが喜界島に帰ってきた。今では、米国人妻との間に出来た子孫との音信も途絶えて、喜界島の墓地に静かに眠っている。

 多くの逸話と謎を残した堀久俊は、筆者の祖父の実兄である。

(Apr. 24, 2004 OHGUCHI Bak)



WEB master 註1ニューヨークの邦字紙?:だと思うのだが、確証はない。この切り抜きを送ってきた静岡も特にコメントしていないし、ただ「新聞の切り抜き」として実家に伝わっているものなので、そう記した。WEB master 自身、この記事についてもっと知りたいと思っている。こんな感じの紙面である。もしも心当たりの方がおられたら、bak@po.synapse.ne.jp まで御一報頂けると嬉しいのだが…。(本文へ戻る

WEB master 註2中略?:省略部分には大したことも書かれていないのだが、念のため、記事切り抜きの全文を御覧になりたい方はこちらへ。(本文へ戻る

WEB master 註3キューバとフィリピンを手中にした?:厳密には、キューバが米国領になったわけではないが、米国は当該地域において大きな利権を手に入れた。グアンタナモなんていう基地があるのも、その名残のはず。また、米国領になった地域としては、グアム、サイパンなどがあるはずである。要するに、掲載誌の紙幅に合わせて大胆に省略してしまった結果の表現なのだが、誤解を招いたかと思う。反省。(本文へ戻る

WEB master 註4哲学者・静岡忠人?:静岡は、堀とは縁戚関係にあたる。あの時代、わざわざアメリカに渡って哲学を専攻するというのも不思議な感じがするが、喜界町赤連にある静岡家の墓碑銘にはプリンストン大学に学んで「哲学博士号」を授与されたと記されているので、これに従って「哲学者」と表記した。博士号自体を "Ph. D. (Doctor of Phylosophy)" と称するので、遺族がそれを「哲学博士」と解釈した可能性もないではない。が、書簡を読む限り、当時はワシントンの知人宅に身を寄せ、他者との交わりも控えて、ひたすら読書三昧の日々を送っていると書かれており、その雰囲気から文系の研究者であったことは確かなように思われる。(本文へ戻る