butterfly_photo3 1.鹿児島弁との我が闘争
   a.出会い
   b.反発
   c.我が闘争
   d.和解の兆し
   e.共生
2.お国訛りで話そう
3.補遺(2001年05月13日)

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(WEB master 註:写真は喜界島を北限とするオオゴマダラ蝶)


1.鹿児島弁との我が闘争

a.出会い
鹿児島弁との出会いは小学校3年生の時。
鹿児島から転校して来たS子ちゃんの言葉が「ヘン」だった。自衛隊の通信基地を抱える喜界島では、数名の「都会っ子」 が常にいて、自分たちの言葉と異なる訛りを聞くのには慣れていたが、S子ちゃんの訛りは初めて聞くものだった。
国語の時間、朗読を指名されたS子ちゃんは鹿児島訛りそのままで教科書を朗読した。いろんな訛りを耳にすることには慣れていたが「お国訛り」のままでの朗読を聞いたのは、皆、初めてだった。
   TVの普及と明治以来の「標準語化教育」との成果であろう、
   島の子供達は案外まともな「共通語」で朗読するのが常だった。
思わず皆笑った。教室が揺れんばかりの大爆笑だった。
翌日からS子ちゃんは口をきかなくなった。みんなとも遊ばなくなった。
クラスの皆が狼狽した。 そんなつもりは誰一人なかった。
   自分たちは学校で方言を使うと叱られる「被害者」のつもりだった。
   自分たちが「加害者」になってしまったという事実が信じ難かった。
遊ぼう、と休み時間に声を掛け、学校に行こう、と朝は家に寄る。誰からともなく始めた、S子ちゃんの気持ちを解きほぐそうとする試みも、功を奏するまでには長い々い時間が必要だった。
   当時、奄美の学校の教員はあまり大きな異動もなく、小学校の教員の
   7〜8割は島内の出身者、中学校でもやはり7〜8割が奄美の出身者だった。
   今ではそんなことはない。管理職になるためには3年以上の離島勤務を
   2回はこなさなければならない、というのが不文律になっているから。
苛烈なまでの「標準語化教育」を受けてきた世代の島出身の教員と、その教員に教えられる子供達にとって、授業や会議や、要するに「公の場所」では出来る限り方言を排除し「共通語」で話すことは互いに暗黙の了解とするところだった。

b.反発
高校に進学すると、教員の7〜8割が県本土の出身者になった。授業で、あのS子ちゃんと同じ訛りを耳にすることが多くなったが、そのこと自体に抵抗はなかった。互いに理解できる単語で話せば済むことだった。ある時期までは..。
高校1年の5月頃、ある国語の教師が何を思ったか授業中にこんな事を言った。
   君たちももっとしっかりしてもらわないと。教師の身にもなってくれ。
   管理職になるためには仕方がないから赴任して来たんだ。
   こんな島に好きで赴任して来て君たちの相手をしている訳じゃない。
   ・・・・・。
これ以上は、20年を経た今になっても思い出したくもない。
その日から鹿児島弁・鹿児島訛りで話すその教師への反発心が芽生えた。「理由なき反抗」は是とするところではなかったし、落ち着いて話せることは努めて落ち着いて話したが、理屈の通らないと思えることには徹底してやりあった。
   高2の秋、文化祭の実行委員会で反発はピークに達した。
  「風紀上好ましからざる」催し物の申請を巡って、
   議事を経ずに握りつぶそうとする件の教師は、こう言い放ったのだった。
  「これだから島の子らは困るんだ....」
   僕の中で何かが プチン と音を立てて切れた。僕は感情もあらわに言った。
  「会議の進め方、って先生が授業でやらなかった?」
  「それでも国語の教師?」「議会制民主主義って知ってる?」
気まずさは増していく一方だった。
高校2年の2学期には通知票に2をもらった。
   無理もないことだった。
   その頃の僕はその教師の授業は毎時間寝て過ごすようになっていたのだ。
   評価の4割を占める「平常点」は0点でもおかしくはなかったろう。
いつしか、件の教師への反発が、鹿児島弁・鹿児島訛りへの反発に変わっていくのを、自分でも感じていた。教師憎けりゃ訛りも憎い、というところか..。
   僕らの親の世代は概ね、普段は口には出さないが、
   鹿児島弁に対する反感を持っている。
  「鹿児島人」が言う「島の人」という言葉にはあからさまな侮蔑があり、
   鹿児島に行けばいわれのない差別を受ける。
   親たちの世代がそう信じるに足る事実が鹿児島の町にあふれていたのは、
   そう遠くない昔のことだった。と、親たちは語るのだが。
その鹿児島の町へ、僕は出ていった。大学がそこにあったから。

c.我が闘争
大学生活のスタートはバイト探しから始まった。
正直、楽に稼ぎたかった。家庭教師の口を捜した。
面接に行く度、出身高校は何処かと訊かれ、その度に「医学部生だと言うから、有名進学校の出身かと思ったんだけど」と言われ、結局は「また御縁がある時に」と丁重に断られるのが常だった。
   今にして思えば無理もないことだと思える。
   子供と同じ高校を出た家庭教師の方が現実に即したいいアドバイスが出来る、
   そう考えるのだろうし、鹿児島にはちょっとした「ネーム」の高校が
   あるのだし、島の高校を卒業した僕に割り込む余地はなかったろう。
   ただ、当時の僕はなかなか...。
ウェイター、バーテンダー、土方仕事に配管工事、街角のビラ配り、いろんなバイトをやった。どのバイト先に行っても解せないのは、普段の会話ばかりでなく、朝礼や会議や、どんな場面でも鹿児島弁が使われる事だった。訛っているだけでなく、鹿児島弁特有の単語が随所に織り込まれ、理解に苦労するのだった。
   会議や朝礼は、島の学校での授業であり、職場は学校そのものにあたる。
   と僕は考えた。
   いずれも「公の場所」であり、方言を使えば叱られるはずの場所だった。
東京から帰ってきた大学の同級生が自己紹介に書いた「桜島と西郷・大久保に圧し潰されたおいどん達の町かごんま」という言葉が妙に心に響いた。
   そうだ、この町からは水平線が見えない..。
1年余コツコツ貯めた金で自動車学校に入校した。担当教官が最悪だった。バリバリの鹿児島弁しかしゃべれない。アクセントやイントネーションの訛りはともかく、単語の違いや発音の違いには悩まされた。
   そこ、左。と言うときの「左」が「ひだい」になる。
   緊張してハンドルを握る車内で、いきなり「ひだぁい!」と言われても、
   分からない。ひだい、ひだい、肥大? 何が大きくなるんだろう?
   直進して、「こん猿がぁ!」「右も『ひだい』も分からんとかぁ!」
   頭を殴られる。
仮免許試験を直前に控えたある日、教習中にまた殴られた。
先生、申し訳ないのですが。僕は切り出した。鹿児島弁は分からないのです。分かるようにしゃべってもらえませんか?
「島から出っ来た猿が議を言うな!」言うなり、助手席から蹴りを食らった。
それが教官の答えだった。...もうダメだ。
もう我慢できない...。周回コースの途中に車を停めた。
ざけんじゃねぇよ! 何様のつもりでいやがる! 誰がこんなとこ来るもんか!
バタンッとドアを閉め、自動車学校をやめた。10数万円をドブに捨てた。
僕は鹿児島では生きていけない、心底そう思った。
   無論、鹿児島や「鹿児島人」が全てそうだったわけではない。
   僕の卒業と同時に島を出て来た高校の恩師からは
   親身も及ばぬお世話になったりした。
   いまだに思い起こせば涙が出そうになるほどに。
もちろん、その自動車学校の教官も気の毒ではあったのだ。
生きる場所が違えば、僕のそれに数倍する辛酸を彼が嘗めなければならなかったろう。
そのことに、うすうす気付かぬ訳ではなかった。
しかし、当時の僕にとって、鹿児島弁は「敵性言語」以外の何物でもなかった。

d.和解の兆し
そのうち、いろんな人の口添えで、家庭教師などの「楽して稼げる」バイトにもありつけるようになった。
楽であることも正直なところ嬉しかったが、子供と接することが楽しかった。
鹿児島訛りでしかしゃべれない子供達が
   当時までは、標準語をしゃべれる中高生というのが珍しかった。
   今では、多くの子供達が「TVの中でしゃべっているかのように」
   標準語をしゃべる。ただし、僕よりも鹿児島弁を知らないが..。
島の訛りでしかしゃべれない子供達と同じく、純真で愛すべき存在だという、至極当然のことにやっと気付いた。
嬉しかった。ホッとした。
救われた、と感じた。
中学生相手の学習塾のアルバイトを得るに至って、その実感はより強固なものになった。
   なんのことはない。
   自分がマイノリティであるとき、弱い立場であると思わされるとき、
   言葉は大きな壁になる。
   立場が変わって、やっと気付いただけのことだ。
   なんという軽薄..。
   S子ちゃんはどうしているだろう..。
いつしか僕は鹿児島の女性と付き合うようになっていた。鹿児島訛りでしかしゃべれない人だった。
8年かかって大学を卒業したその秋、僕はその「さつまおごじょ」を妻にめとった。

e.共生
鹿児島県にリハビリテーションの種をまきたい。そう志す僕の診察室を訪れる患者さんの多くは鹿児島のお年寄りだ。鹿児島訛りでしかしゃべれない。中には純粋な鹿児島弁しか話さない人もいて、島を出て17年を経た今でも年輩の看護婦さんに「通訳」を求めることもある。しかし、いつのまにか、古い鹿児島弁であればあるほど、尊いものに思えて、耳に心地よく響くようになってきた。
   琉球弧の言葉は、古い日本語の語彙を最もよく残す言葉だ、
   と以前書いたが、鹿児島弁にもその片鱗を見ることがある。
   当然だろう。同心円状に広がり、伝わってきたものであるのなら、
   お国言葉はみなそうであるはずだ。
お年寄りの話す鹿児島弁の敬語など、本当に「有り難い」ものに思える。
   地方に住む若い人たちは方言の敬語が使えるだろうか?
   どこの地域でも廃れているように思える。奄美・沖縄も然り。
   古い時代の最も美しい日本語はそこに隠されているように思うのだが..。
いつしか僕は慣れない鹿児島弁を口にするようになってきた。
言葉を共有することが生活実感を共有することであるようにも思われて、
   ひとりで鹿児島弁との内なる闘争に明け暮れていた頃、
   島の友人となら二言三言で伝えられることが、
   鹿児島の人には延々としゃべらなければ分かってもらえない、
   そんな苛立ちが僕を苦しめることが多々あった。
   現実には、生活実感を共有するからこそ、
   一言の言葉に同じ思いを込めることが出来るのだが。
ついつい、「おやっとさぁ」「あんべぇはいけんごわひかぁ?」と声をかけてしまうのだ。
それもまた一つの軽薄であると悔やみつつ..。


2.お国訛りで話そう

今の僕は、出来の悪い、国籍不明の「multilingual」みたいなものだ。
女房と、島の母と、首都圏に住み「やまとぅんちゅ」と所帯を持った兄姉と、相手が変わる度に話す言葉がコロコロ変わる。そんな軽薄を蔑む身内の視線を感じながら、自分をどうすることも出来ない。言葉に悩み、言葉にこだわり、言葉で物事を解決しようとしてきた男のなれのはてが、このザマだ。
なぜ、誰とでも島の訛りで話せないのか? 自ら問うてみることも、いまだにしょっちゅう。だが、いまさら、どうしても変えられない。

そんな自分の軽薄を棚に上げて、地方に住む若い人たちに言いたい。

お国訛りで話そう。
恥ずかしいことなど何もない。
それが貴方のアイデンティティーであるのだよ。

お国訛りで話そう。
共有できる語彙を捜しつつ、しかし、お国訛りで話そう。
共有できる語彙は、うちとけて付き合い、
生活を、感動を共有する中で増えてくるものなんだ。
焦ることはない。

胸を張って、
お国訛りで話そう。


3.補遺(2001年05月13日)
早いもので、この偏屈なサイトを開設して3年が経過した。さして多くもない読者の方々(多くは常連さんであり、つまり、彼らもまた偏屈な人たちなのだろう(笑))からいろんなレスポンスを頂いてきたが、中でも最大級に(?)偏屈なこのページに関しては、少なからぬ反応を頂いている。
それに対する返信でも述べ続けてきたことだが、筆者は別に“薩摩憎し”で生きているわけではないし、何が何でも“島こそが最高”と思っているわけでもない。要は「多様なままでいいではないか」という問いかけこそが、このサイトの底流にある気持ちなのだと考えてもらえばいい。
ただ、薩摩(に限らず、いわゆる“地方都市”つまり“地方の中の都会”)にありがちな傲慢さと偏狭さ(あるいは、そういう“差別の構造”自体が入れ子になって重層化し、再生産されているのだが、そのことに気付かない鈍感さ)に対する不満と嘆きが、いまでも筆者の中にないわけではない。
例えば、こんなことである。


 沖縄出身の研究者、比嘉政夫(国立歴史民俗博物館)の回顧に興味深い記載がある。第二次世界大戦末の昭和十九年(一九四四年)、沖縄から鹿児島県姶良郡横川に家族とともに疎開した時、当時八歳の比嘉が一番驚いたのは、学校で先生と生徒が方言で話していることだという(『沖縄からアジアが見える』)。一見、不思議に思えるこの現象は、奄美の方言追放に性急でありながら、自分たちの方言は日本語であるという頑迷な信念が薩摩にあることの証である。奇妙なことにこのような考え方は今も根強く残っている。
 昨年末、南日本新聞の「記者の目」で同社の記者が、名瀬で会った高校中退した女子生徒の話を報告している。それは、鹿児島の高校で教員に「あなたは、いつまでも鹿児島のことばにならんね。鹿児島の人になろうというつもりがないんだね」と言われ、許せなかったというのだ。この女子生徒のショックは大きく、やがて学校を中退する。女子生徒は話を続けた。鹿児島に鹿児島の文化、ことばがあるように、奄美には奄美の文化、ことばがある。なぜ奄美の人が鹿児島の人にならないといけないのか、と。(鈴木達三「違いを認めよう」南日本新聞、1999・11・10)。ことばは、人々の生活に根差していて、その文化を規定する。文化の「違い」を認めようとせず排除しようとするこのような姿勢は、何もこの教員に限らず、二十世紀末尾の今日、時折、顕在化するのに驚くほかはない。
(山下欽一(共著),南海日日新聞社編,「主体としての奄美」,それぞれの奄美論・50 −奄美21世紀への序奏−,南方新社,2001,鹿児島)

しかし、“弱者の仮面”をかぶってカウンターパンチを繰り出すことばかりに腐心するつもりもないし、筆者自身も同じ轍を踏まないとは限らない。そういう意味では、このサイトに書かれていることは、島の人間に対する反語的な問いかけでもある。
それぞれが違いを認め合い、尊重していける社会こそが、ニライカナイであるはずなのだが。
さぁ、みんな、胸を張って、お国訛りで話そうではないか。