奄美からの訴え

丸山 邦明WEB master 註2
蝶の写真  ヤンチュ(農奴)身やあわれ
 クミネ(衽)なんぬきん(衣)着ち
 年取りわんあわれ クッカールー

 奄美大島の瀬戸内の諸鈍という集落の林家には、百人を超えるヤンチュがいた。正月には白木綿をティチ木(紬の染料材)で赤く染めたおくみ(衽)のない狭くかつ短い着物を一枚ずつ与えられ、正月に一回しか上がれない書院にヤンチュたちは集められ、みんな真赤な着物を着て、地主のご馳走になった。酒がまわるにつれて、独りのヤンチュが歌いだした歌が、ヤンチュ身やあわれの歌である。
 ヤンチュとは、まさに奴隷であり、地主の言いなりに牛馬のごとくこき使われ、売買も主人の自由になる存在であった。正月に一度、真赤なおくみのない着物を着せられて、ご馳走を受けて、年をとっていく人生を儚んで歌ったうたである。クッカールーとは、奄美の深山にはいると、全身真赤で、クッカールーと鳴く鳥(赤ショウビン)の鳴き声にちなんで、自分たちの真っ赤な着物姿をそれに見すえたのであろう。
 奄美の人々は、ある意味では、自分たちの苦しみや、悲しみをシマウタに託している。奄美の徳之島犬田布(いんたぶ)で起こった犬田布一揆があるが、その物語を郷原茂樹氏が『奄美物語』の中に、犬田布の歌一揆と題して書いている。薩摩藩から、寺師次郎左衛門という男が、代官として送られ、薩摩藩の財源確保のために砂糖キビを造らせ、黒糖を上納させている。寺師の島トジ(島の妾)であるオリキが寺師に言った。
 「島民から黒糖を取り立てるには、島民を人間を思ってはいけません。島民は砂糖をつくるための家畜なのです。それもただの家畜ではなく、人間のなりをしていて、人間をあざむこうとかかっている、悪知恵のかたまりです。あなたが前任の代官よりも、砂糖の取り立ての成績を上げるためには、よっぽど腹をすえてかからねば、薄汚い家畜どもに、まんまとやられますよ」とけしかける。それで、ますます激しい黒糖の上納に対するしめつけが行われていく、そのような状況の中で歌われたうたが、次のような歌である。
 あだぬ世の中に 永らえておれば
 朝夕 血の涙 袖どしぼる
<こんな辛い世の中に生きていると、
 朝も夕方も、血のような涙で袖をぬらすばかりだ>
 思て自由ならぬ 篭の鳥ごころWEB master 註3
 何時し篭あきて 吾自由なすが
<思い焦がれても、自由にはなれない。篭のなかの鳥のような気持ちだ。
 いつ篭がひらいて、私は自由になれるのだろう>
 以前、喜界島の中央公民館で、東陽一監督の映画『橋のない川』を見た。 "部落" と呼ばれている小森の子どもたちが、差別に立ち向かっていく強さや人に対するやさしさ、また仲間同士の支えあいと励ましあい、家族は勿論、村全体が人間的な温もりの中で育まれている姿を見た。このような人間の繋がりの中でこそ、自分も仲間も高まっていくことを教えられた。そして、差別に怯えてきた、七重が、「うちの生む子には、もう、誰にもエッタ言わさへんで、うち、人間の子、生むんやからな!」と叫ぶ中に、「誇り得る人間」としての覚醒を見た。このような発言の中に、秀昭が言う、「人間はみな平等に尊いという、あたりまえの原理」を知るのである。しかし、このあたりまえの原理を知るまでに、どれだけの歴史的経過と血なまぐさい戦いが繰り返されてきたことか。
 私は今、喜界島に建設されようとしている、世界的な核戦争を想定しての「象のオリ」(巨大円形通信施設)建設の反対運動を行い、八年間にわたって阻止運動を行っている。奄美の社会運動の歴史は古く、1845年ヤンチュの抵抗運動を皮切りに、大島本島におけるヤンチュ解放運動、1913年の徳之島における松原銅山の賃金争議、その他関連ストライキが多く起こされている。それから1947年日本復帰運動が起こり、1953年12月に奄美返還ダレス声明が行われた。近年には、1973年に東亜燃料工業KKが、瀬戸内の宇検村枝手久島に石油精製工場を建設するという問題が起こり、1975年には財団法人日本工業立地センターが徳之島に、使用済核燃料の再処理工場の建設を行おうとしていたのである。そこで、奄美の自然を公害から守る組織を作って阻止運動を行い、また、使用済核燃料の再処理工場の建設に際しては、「死の灰から生命を守る町民会議」を結成して、両方共に島ぐるみの超党派運動をもって阻止運動を行い、勝利を獲得している。私はこのような奄美の社会運動の根っこにあるのが、ヤンチュ解放運動であると思うのである。
蝶の写真  奄美の人々は、薩摩藩からは砂糖きび作りという単作農業と苛斂誅求な収奪、また、通貨の使用や造船の禁止、系図や古文書の没収、すべての島の発展につながるものが禁止され、ただ薩摩藩の財源となる黒糖の生産だけに島民は狩り出され、奴隷労働を強制された。また、中世の琉球王国の成立と共に、奄美の島々は、琉球王国の支配下に組み込まれている。1466年には、琉球王国による喜界島征伐が行われている。要するに、奄美は薩摩藩からもしいたげられ、琉球王国からの支配をも受け、その両権力の狭間にあって、いつも被支配者としての憂きめをなめさせられてきた。
 明治初期において、ヤンチュは奄美の20%〜30%にも及んでいる。彼らは1875年に至るまで、身代金1500斤を主人に出せない者は、ヒダ(ヤンチュ同士の間に生まれた子供)と称して、牛馬のごとく主人から取扱われ、売買も主人の自由圏内にあり、これらヒダの人権ははなはだしく無視されていた。時に、1878年7月の事である。鹿児島の元藩士伊地清左衛門という人がいて、この人権無視を聞くに忍びず、救済のために奄美に渡った。1871年にはヤンチュ解放令が出され、同5年には人身売買禁止令が出ていたのである。彼は渡島後、本部を奄美の名瀬に置き、大島各地をまわり、ヒダスダチ(ヒダ育ち)等に言った。「あなたがたは先祖代々主人に奉公した身代を出さないで、自由の身になるべきである」と説き、人身売買解放のために努力している。また彼は各地のヤンチュ総代を名瀬の浜に集め、大いに団結して事をなそうとしたところ、主人とヤンチュの騒ぎが甚だしくなり、この事がいつのまにか、鹿児島藩に聞こえ、此の騒動鎮圧のために、警視庁鹿児島出張所の巡査十数人が渡来し、ヤンチュ2、3人が巡査によって斬られるという事件が起こっている。このような激しいヤンチュの抵抗にあった地主たちは、あるものは無代解放に応じ、ある者は借用書を書かせて釈放している。このような明治初期における、ヤンチュ解放運動は、この奄美においては彼ら以外には支持者がいなかった。しかし彼らが団結して、鉄の鎖を自ら断ちきろうと行動した事は、奄美の歴史に類のないものであり、従って、この運動こそが、奄美社会運動の原点であると思うのである。
蝶の写真  そして、この原点を見つめ直すところから、現在私たちが取り組んでいる課題の現実認識を確かなものとする作業が必要であると思うのである。なぜなら、今の権力側にある人々の考えの中には、今もなお奄美を以前と全く変わらない目で見ている。何か、奄美が日本のゴミ捨て場でもあるかのごとく、石油精製工場や使用済核燃料の再処理工場を建設しようとしたり、また最も危険な「象のオリ」という最新鋭の通信施設を建設しようとしている。あの湾岸戦争で一番真先に攻撃目標とされたのは、通信施設及び軍事施設である。このように、ことごとく危険なもの、恐ろしいものは、何でも権力に従って泣き寝入りする場所、過疎化のために人口的に苦しい状況にある小さな島や、経済的にも困っている離れ小島がねらい撃ちされている。人の弱みに目をつけて、従わせやすい場所に建設しようとする根性が気に入らない、いや許せないのである。
 そのような差別根性は、昔も今も本質的に変りはない、権力側の発想の中には、いつも自己中心というか、いや人間そのものの中に、自分のことしか考えないという、罪の根源みたいなものを見る思いがする。
 生き居(お)る間(ま)の 世(ゆた)のと思(うむ)て
 後(ぬち)の世(ゆ)に残(ぬく)す 沙汰や如何(ちゃす)が
<生きている間の世の中と思って、わがまま勝手なことをし、
 島民を苦しめているが、後の世に残る評判はどうする気なのか>

初出:榕樹(がじゅまる)第10号,1994年,東京


WEB master 註1
年号などの数字を除いて、句読点を含む一字一句、改行位置等も原文のままである。
ただし、ルビは相当する語の直後に()内に挿入した。
WEB master 註2
丸山氏は日本キリスト教団の牧師さんであり、湾集落の教会に赴任後?0年以上を喜界町で過ごしている。
その温厚な人柄と奄美への熱い想いを買われて喜界島の豊かな自然と平和を守る町民会議の議長に選任され、
爾来10年余、象のオリ反対運動を引っ張って来られている。
WEB master 註3
丸山氏の挙げている歌詞は当時のそのままではない可能性もある。
ある方から、明治以前の「ヤンチュ」の口から「自由」という言葉は出てこないのではないか。と指摘を受けた。
元来、奄美の島唄の歌詞は全て口承文化であり、かつ唄遊びなどの場で即興で歌われたり、替え歌となったり、
型にはまらずに細かな変遷を繰り返しているので、これも後世の唄者の歌い替えである可能性は否定できない。
しかし、差別と収奪に苦しんできた奄美の民草の嘆きを唄っている点には変わりはないであろう。
WEB master 註4
写真は喜界島を北限とするオオゴマダラ蝶。