蝶の写真

ガジュマルとグラマンと....。

WEB master 註:右の挿し絵(写真)は喜界島を北限とするオオゴマダラ蝶

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 1945(昭和20)年の「終戦」まで、私の生まれ島である喜界島には海軍の飛行場があった。正確に言うと、今でも同じ場所に喜界空港がある。特攻機の中継基地になっていたらしく、私が小学生の頃まで、空港周辺には「特攻花」が咲いていて、分厚いコンクリートに覆われた掩退壕も残されていた。
 他にも戦争の名残は残っていて、横穴式の防空壕(註2)は格好の「探検」場所であったし、1970年代になってなお各所に残る「爆弾穴」は少年達の「戦争ごっこ」には格好の舞台であった。ガジュマルの木の近くで「グラマン」の機銃のものとおぼしき錆びた銃弾を拾ったりした日には、まるで宝物でも探し当てたかのように喜んでいたものだった。
 ガジュマルとグラマンと機銃の銃弾....。そこにはもう一つ肝心な何かが欠けていると考えることなど「戦争ごっこに興じる僕たち」には無縁のことだった。
 父母や伯父伯母から聞く戦中戦後の話と言えば、決まって「食糧難」の話であった。
 食べるものが無くて、ソテツの実を水に晒し粉に挽いて作った粥とハンスー(さつまいも)とが常食だったのだと。そう聞かされても、1960(昭和35年)生まれの小学生には、何故に食べるものが無かったのかについて思いを巡らすだけのイマジネーションは無かった。
 戦争を知らないどころか「戦後」すら知らない高度成長期の少年少女には「戦後の貧しさ」ということの意味がよく分からないのだ。貧しいとはお金のないこと。それもある意味で正しい解釈だが、何故にお金がなかったのか、何故に食糧がなかったのか、ということには思いが至らないのである。戦後20数年を経てなお無数の「爆弾穴」が残るようなこの島に、終戦直後どれほどの畑が残っていたか? などという想像は、正直なところ出来なかった。
 実のところ、海軍飛行場があったばかりに、海岸線周囲50km弱の小さなこの島への空襲は島の規模とは不相応なまでに苛烈を極めたらしい。記録に残る喜界島の「初空襲」は1945(昭和20)年01月22日であるが、爾来終戦までの間に空襲日数100余日、襲来米軍機800余機、死者119人、被災家屋1900戸に上るとされている。飛行場に隣接する中里集落は全戸被災しており、他の集落でも、特攻用小型舟艇を恐れてのことか、入り江に面した赤連・湾・荒木・上嘉鉄・嘉鈍・阿伝・白水・早町・塩道・佐手久・志戸桶・小野津の各集落では半数以上の家屋が被災している。他の集落でも大なり小なり被害はあって、ほとんど無傷で済んだのは山手の小さな7つの集落のみだったと言われる。
 沖縄戦の「終結」後は単機〜数機といった小規模編成の(おそらくは記録にも残らなかったであろう)艦載機の「空襲」が毎日のようにあったと言われ、飛行場を穴だらけにし人家を焼き尽くしても飽きたらない「グラマン」が、畑仕事中の島民めがけて250kg爆弾を投下したり、機銃掃射の雨を降らせることも多々あった、というのは子供の頃からよく聞かされていた話ではあった。
 戦争というのは人命を奪うばかりではなく、命や生活を守り育てるに必要なものを破壊し尽くして「敵」の戦闘意欲を、さらには生きる意欲をすら奪うものなのだと気付いたのは後年のことであるが、そのような戦争のさなかの、あるいは戦争に負けた直後のこの島に生活や産業の基盤が残されていなかったであろう事にすら、小学生の私は気付かなかった。
 そんな中でも、島民は逞しく生きてはいた。
 幼い子供を何とか飢えさせないように、と、空襲の隙をみては遠く離れた畑に出かけ、爆弾穴を避けてハンスー(さつまいも)を植え、必死に「戦って」いたのだ。ヲバー(おばさん、おばあさんの意。ここでは私の伯母である)もそんな島っちゅの一人だった。
 1945(昭和20)年のある朝のこと、ヲバーは子供に食べさせるハンスー(さつまいも)を掘りに数km離れた山手の畑へ出かけた。
 畑に着いて間もなく、遠くから爆音が聞こえたかと思うとあっと言う間にグラマン(註3)が姿を現した。今日は結構な数の編隊だった。B29とおぼしき大きな飛行機もいた。制空権を制してすっかり「我が物顔」になっていたのだろうか、かなりの低空飛行だった。
 海沿いの集落にバラバラと爆弾や焼夷弾が落ちていくのが見えた。姑や幼な児を残してきた我が家は無事か、と気をもんでいると、突然向こうの畑に爆弾が落ちた。グラマンだった。
 一瞬血の気が引いた。次の瞬間には全身の血が逆流した。傷を負ったわけでもないのに、まるで殴られたかのようなきな臭さが鼻腔を満たす。ふと見るとグラマンはヲバーに向かって超低空で飛んできた。自分の周りで土煙が上がる、と、手を伸ばせば届きそうな目の前を銀色の機体が通り過ぎていった。機銃掃射だ!
 殺される! ヲバーは必死で逃げた。隣の畑との堺に立つガジュマルの木の幹に隠れるまで、ほんの10mか20mの距離を走るのに何分もかかったような気がした。グラマンは、やはり引き返してきた。背後のガジュマルの幹の向こうから轟音が頭上を通り過ぎ、身体の両横を土煙が走る。助かった、と思う間もなくグラマンは引き返してくる。何としても自分を殺そうと狙いを定めているのだ。幹の向こう側に回って隠れる。と、直後には土煙が上がる。幾度と無く繰り返される命がけの隠れんぼは、実のところ数分間の事だったのだろうが、ヲバーには何時間にも思えた。
 やがて、銃弾も尽きたのか、グラマンはどこかへ飛んでいった。
 助かった。とりあえず、助かった、今日は、助かった。
 でも、ヲバーは動けなかった。全身の力が抜けて、放心状態でガジュマルの幹にもたれてへたり込んでいた。

 我に返ったのは、地面に落ちるガジュマルの影が再び長くなり始めた頃だった。近くの小高い丘に登り、眼下の集落を眺める。まだ各所で煙が上がっていたが、我が家の方角は無事なようだった。きっとみんな無事だ。自分も助かった。ケー(鍬)やハマ(鎌)の入ったティル(竹で編んだ背負い篭)を投げ捨てて、走って帰ろうと思った。
 だが、家に帰れば腹を空かせた3人の幼な児と姑、そして姑の妹が待っている。男手を戦争にとられた家ではヲバーの働きが一家を支えていたのだった。
 黙々とハンスー(さつまいも)を掘った。ろくに肥料もやっていない痩せたハンスー(さつまいも)だったが、目下これにまさる御馳走はない。命が助かったお祝いに多めに持って帰りたかったが、そんな贅沢は無理な相談だった。備蓄にするからと言い訳してみたところで、実のところ明日の命も知れないのだ。そこ数日、人数分のハンスー(さつまいも)をティル(竹で編んだ背負い篭)に入れ、カー(泉、湧水、本来は川の意か?)から水を汲んで畑にかけてやり、やっとこさ家に帰り着いたのは辺りが夕焼けに染まる頃だった。

 いつもなら夕餉の支度の火が赤々と燃えているはずの土間のかまどには火が入っていなかった。人気のない茅葺きの家はしんと静まり返っている。....。まさか....。ティル(竹で編んだ背負い篭)を放り出し、姑を、子供の名を呼びながら、ヲバーは狂ったように屋敷を駆け出した。
 裏の畑に回ってみると、そこに5人の家族はいた。
 姑とその妹とが長男と次男とを背負い、長女はその真ん中で手を引かれていた。皆が所在無さげに立ちすくんでいた。
 「生っちゅたすな....。」(生きていたのか、の意)
 どちらともなく言い出すと、嗚咽がこみ上げてきた。次の言葉の出る間もなく、涙と鼻水でみんなの顔がぐしゃぐしゃになった。
 姑は背中の長男を放り出すと、やおら傍らにあった竹箒を掴んでヲバーの背中を3つ2つ叩き据えた。
 「本当におっかんな? 幽霊やあらんめぇや?」(本当にお母さんかい? 幽霊じゃないだろうな? の意)
 「死ぢゃんち思たが。ぬが早さ戻てぃ来らんたすよ。」(死んだと思ったじゃないか。どうして早く帰ってこなかったんだ、の意)
 普段は気丈で口数の少ない姑が涙声で一気にまくしたてて、そのまま地面にへたり込んでせき込みながら語るには、今日の空襲では何人もの人が死んだらしい。朝のうちに家を出たヲバーが夕方になっても帰って来ないので、近所の皆は「もう死んだものだと思って諦めろ」と言っていたという。
 息子を兵隊にとられ、嫁を亡くし、3人の幼い孫を連れて、これからどうやって生きていこうか。明日は嫁のなきがらを探しに、どこまで行けばよいのだろうか。そんなことを考えて途方に暮れていたという。

 その日の夕餉はいつになく遅くなった。
 掘ってきたありったけのハンスー(さつまいも)を蒸かした。
 数年ぶりに腹一杯のハンスー(さつまいも)を頬張りながら、昼間の出来事を姑に語って聞かせた。ガジュマルの木に命を助けられた、そう語るうちに腰が抜けそうになる自分がおかしかった。照れくさくて、声を上げて笑った。
 昼間には死ぬ思いをしたというのに、夜には声を上げて笑っている、そんな自分がまたおかしかった。
 翌朝、ヲバーはまたハンスー(さつまいも)を掘りに出かけた。
 昨夜はあんなにたくさん蒸かさなければよかった....。少し後悔していた。
 私がこの話をヲバーから聞いたのは、昨年(1997年)、ヲバーが80歳になってからである。あの戦争から50年以上が過ぎ、「戦争ごっこ」に興じる少年がガジュマルの木の近くで「グラマン」の機銃のものとおぼしき錆びた銃弾を拾った日から30年近い歳月が過ぎていた。
 ガジュマルとグラマンと、機銃の銃弾と、そしてもう一つ、あの時私の目に見えていなかったのは、その木の周りを逃げ回って命を拾ったヲバーの姿だったのかも知れない。

 Apr. 12th, 1998. Ohguchi Bak


註1:この文章はフィクションとしてお読み下さい。
   ひとつひとつの挿話は全て実際にヲバーの身の上に
   あったことですが、同時に起こったことではありません。
   多数の事実をコラージュして一日の話としてありますので、
   フィクションとして考えていただいた方が間違いありません。
註2:本来は風葬跡なのでしょうが、私達にとっては防空壕跡でした。
   ここらへんの事情については、大倉忠夫さんの文章をお読みください。
註3:文中の「グラマン」や「B29」等の表記について。
   実際は別の機種であった可能性もあります。
   あくまでも、島の人達がそう呼びならわしていた、ということです。