奇跡は起こる

大工の徳さん〈上園田徳市〉 TOM UESONODA USA

 私は一昨年まで26年間、バリバリの大工だった。58歳だった。ロス、シアトル、サンフランシスコ、サクラメント、モントレーで茶室、床の間、障子、すし屋の改造に飛び回った。ニューヨークですし屋の改造、オレゴンの日本のある大学に茶室を造った事もある。

 夜間高校を卒業してからは30歳まで大阪でいろんな事をしながら、がむしゃらに頑張った。商売が順調に行っていた時に、ふと、金儲けのために働くのに疑問を感じて、商売をたたんで、パラグアイのジャングルへ自給自足の目的で移民した。結果は散々だった。収穫した1年分のトウモロコシが、一晩で盗まれたり、土地の木を盗まれたり、散々な目に合って、1年半でパラグアイを諦めてロスへ旅行のビザで渡った。

 ロスでは英語ができないから、大工になった。大工の“だ“の字も知らない商売人が、6ヶ月ほど、暗燈と障子を作る大工のヘルパーをして、見て覚えた。この大工に教えてくれと言う言葉は禁物だった。見て覚えるしかなかった。6ヶ月目にはこの商売人は、日本語新聞に「大工仕事なんでもやります」と広告を出して独立した。 大工の経験ののない人が大工で生きるにはそう簡単ではない。できあがったのは貧弱だ。何回もお金を貰わないで作り直した。大工の本を見て、現場を回って大工の仕事を覚えた。それこそ必死で大工の勉強をした。茶室を造る時は日本から日本建築の本を取り寄せて、いくつものモデルを造り、切りこみの勉強をして覚えた。だから私は家の造り方を全部見よう見真似で覚えた。お客さんに私の熱心さが通じた。茶室を造った一人のお客さんからは一軒の家と、嫁はんに中古の車をプレゼントしてもらった事もある。

 ワシントンのシアトルではゼネラルコントラクターのライセンスも取った。そのうちに、障子、茶室、床の間の注文が増えて、それらを中心にするようになった。お客さんの言う通りに、命令通りにやった。二日、三日の徹夜仕事も平気だった。だいぶ無理もした。疲れるから、疲れを取るためにビールを水代わりに飲んだ。 60歳までには自分の家を建てたいと17,8年前に買ってあったモントレーの山の中の土地三万二千坪に、嫁はんと二人で電柱を立て、電気のメーターボックスの配線を済ませ、コンクリートの基礎も骨組みも仕事の合間にやった。新しい屋根も、下地の壁も出来た。もう一息だ。仕上がった新しい家を頭に描きながら、頑張った。山の中腹をブルドーザーで押した高台だから見晴らしは最高だ。もうすぐウィンドウを入れようとウィンドウを見て歩いていた。その翌日、関節がはれて歩けなくなった。二,三日したら直るだろうと寝ていたが一向に直らない。 

 とうとう20数年ぶりに医者に行った。即、強制入院させられた。 

 血圧、212、関節炎、痛風、心臓肥大。もうこれで、私の人生は終わりと思った。 親父が57歳で死亡、お爺さんが61歳で死亡、男の血筋は短命なので、私は60歳だろうと、うすうす自分の寿命を決めていたから直さらだ。私の死後の子供や、嫁はんの姿が頭の中でテレビのドラマのように展開していた。

 有り金も、ほとんど、家の建築に注ぎこんでもうない。「もうこれで終わりか?もうこれで終わりか俺も人生も」。この言葉が私の頭の中だけじゃなく、両手両足、体中に詰まっているみたいだった。こんな言葉が詰まった人間の体を絵に書いたらどんな絵になるだろうかと、気違いみたいな事、暗い事ばかりを考えている毎日だった。この世とバイバイのこともいろいろ考えた。空気銃を撫でまわしたりもした。やはり勇気がなかった。ただ、ベッドに横になってなんとなく本の活字を追っている毎日だった。

 毎日おもろうない、と思いながら過ごしているうちに、短い人生だから、充実した日を送ろうと考え始めた。そんな時に、へたくその文章の本を見つけた。それが何十万部も売れているべストセラーと書いてある。飲んベーの大工の私にもこれぐらいの文章は書けると思い始めた。「働いたらだめ」と医者から宣告された私にも机に座って字は書ける。

 胸の奥にあった不可能の夢「私の放浪記」、を作文みたいに書き始めた。それは、喜界島を出て、大阪で夜間高校を卒業して、人間関係の心理学の本を貪るように読み、英会話の勉強に夢中になり、21歳の時は片道の切符で貨物船に乗って、たった100ドルちょっとの手持ちの金で、アメリカへ渡った。金がなくなり、クリスチャンになり、白人宣教師の弟子になってアメリカ全国を布教行脚したり、大阪へ帰ってからは、キャバレーのボーイ、みかんの行商、手相占い、たたき売り、夜逃げの運送をしたり、ヤクザに脅されたり、ヤクザを脅したり、見合いを25回もしたり、北新地と道頓堀の二号さん相手の商売で儲かったり、パラグアイに移民しては自給自足の夢に敗れて、日本語学校の先生をしたり、アメリカへ渡ってきてからの大工人生である。

 去年の正月、サンフランシスコの日本語新聞の新年文芸コンクールに、「喜界島のオバさん」と題名をつけて2400字の文に纏めて便箋紙に書いて生まれて初めて応募した。それがなんと三位に入賞してしまった。奇跡が起きたのだ。表現する言葉もあまり知らない飲んベーの大工が初じめて書いた、初めて応募した作文がエッセイとして三位に入賞したのだ。両足の関節が腫れあがって、便所へ行くのも痛さで泣きながらの日々だった。ベッドで寝転がって新聞を見ていたら三位入賞の活字を見つけたとたん、5メートルも離れている電話へ行って、友達に喜びの電話をしている。どうして歩いて行ったかも覚えていない。「病は気から」という言葉を証明した瞬間だった。

 それからは、目が腐るほど毎日本を読んだ。 

 そんな私に嫁はんは「二宮金次郎」と言って冷やかした。いい文章を見つけると書き写して、暗証するように勤めた。 

 そんな時に「あなたの文章を添削指導します」という広告をロスの小雑誌に見つけた。それは見つけたというより向こうから飛び込んできたと言う感じだった。人間が何かを成し遂げようと必死に頑張っている時は偶然が起きる。その偶然はウヤフジ(喜界島の言葉でご先祖)が起こしてくれると私は思っている。

 手で書いて何回も送って添削してもらった。ペケペケだらけや。がっかりや。そんな時には負けず嫌いの私はむらむらとファイトが出てくる。「取り組んだら放すな、死んでも放すな、殺されても話すな、目的完遂までは」と電通で習った鬼十則が頭の中で暴れまわる。私にはエッセイを勉強する事しかないと心に決めた。仕事と思って書いた。どうしても書かなければならないと思って書いた。「“起承転結”を頭に入れて書くこと」とも書いてあった。大工の私は“起承転結“なんて言葉は聞いた事もない。ニューボキャボラリーや。飽きずに手書きで送っていたら、「手書きは大変だろう、使ってない日本語のワープロを上げる」という。

 身体障害者の年金では生活費も足りない私にはそんな高いのを手に入れることなんか考えた事もなかった。助け神や。手引書と睨めっこしながら三日間でマスターした。家を建てれる大工はワープロも打てると知り合いに自慢した。早い、便利だ。大工のどんな便利な機械より便利だ。およそ10ヶ月の間に1500字から2000字の私の放浪の人生をエッセイふうに75編書いた。 その中から8編を選んで、サンフランシスコ、ロス、シアトルの日本語新聞社の今年の新年文芸コンクールに応募した。結果は、一度に4新聞社に5編も入賞してしまった。シアトルの新聞社には一位と佳作でダブル入賞までしてしまった。また奇跡が起きた。またウヤフジが奇跡を起こしてくれた。応募してから毎晩ウヤフジに祈った。入賞発表の日を過ぎても新聞が配達されるまで祈った。私は思う、力を出し切って、あとは結果を待つだけではだめと思う。力を出し切ったあとはウヤフジに祈らんとアカン。祈り続ける事や。ウヤフジが助けてくれるのや。 これだけの入賞に私は有頂天になって知り合いに電話を書けめくって知らせた。嫁はんは傍で「電話賃が高こうつく、人に自慢したらアカン」と手を引っ張ってる。私は感激やだから、嬉しい事は人に自慢したいのや。喜び、楽しみはおおくの人と分け合ったら最高に嬉しい。それをできない人は寂しい人と思う。

 そんな嬉しい日々の一月が終わり二月に入ってすぐ、東京の文芸社から、合格通知みたいな、表彰状みたいな、私の人生で読んだこともないような素晴らしい名文の手紙が来た。

 私が「本にしてくれ」と送っていた75編のエッセイを是非本にしたいというのだ。「大工の書いたエッセイが本になる」「不可能の夢、放浪記を書いて本にする」。これが実現しそうや。人生を諦めないでよかった。一変に体の調子がよくなった。膝の痛みも楽になった。 でも共同出版には金がかかると言う。未完成の家に有り金はつぎ込み、身体障害者年金生活の私にはそんな金は作れない。 

 だから嫁はんは、文芸社からの名文の手紙を額に入れて壁に下げただけで、もう私の人生は充分と言う。そうかなあとも思った。でも夜になるとウヤフジに、本になるように祈り続けた。諦めきれなかった。 その名文を東京にいる二人の喜界島の同級生と、大阪の妹にファックスした。そしたらすぐに返事がきた。喜界島の同級生からカンパしてもらって出版しようと言う。妹も協力してあげるという。私は本にしたい気持ちはあったけど、「私の遊びに人の金まで借りては出版したくない」と断った。同級生の一人が「波に乗った時がチャンス」と発破をかけてきた。どうにかして金を集めると言う。

 ここで喜界島の同級生パワーが渦を巻くように猛スピードで動き出した。たちまち四人の同級生で86万円の金を作って、文芸社へ第一回目の支払いをしてしまった。残りも妹らとで作ると言う。喜界島の同級生の助け合いのパワーをまざまざと見せ付けられた。ヤマとのクラス会、アメリカ人のクラス会とは一味も二味も違う。喜界島の同級生は、親友であり家族なのだ。これを妹の大阪生まれの息子は「喜界島パワー炸裂」と呼んでいる。うまい事言いよる。あれよあれよと言う間に「喜界島の同級生パワー」によって私の胸の奥にあった「放浪記を本にしたい、不可能な夢」は実現する事になった。諦めたらアカン、人間夢は持つべし。まだある、またしても助け神が、今度は200ドルの中古のコンピューターを世話してくれた。この人は顔を見てない私にワープロはくれるは、コンピュ―ターは世話してくれるはエッセイの添削はしてくれるは、この人は、まさしく助け神だ。友達から「サルにもわかるパソコン入門」を借りて、コンピューターに毎日怒られながら頑張った。一ヶ月と少しで、ワードと、インターネットを大体マスターした。飲んベーの大工でもコンピューターができるのや。意地や、頑張りや、どうしてもせんならんという気持ちや、諦めたらアカンね。ワープロ、コンピュータのお蔭で何十倍も早くエッセイが書けるようになった。大阪の産経新聞に投稿したら、夕刊のフロントページに2かいも載せてくれた。もし助け神が現れなかったら、死ぬまでに本が書けたかどうか。喜界島の同級生パワーを起こしてくれたのも、助け神に巡り合わせたのも、私はウヤフジのお蔭と思っている。

 私は今度の事を通じて、「どんなに重大な事が起きても、諦めずに、自分の置かれたその状態の中で自分のできることを見つけて、最大の努力をして、あらゆる方法で、できるだけ多くの人に当たって、最後に祈り続けたら、ウヤフジが奇跡を起こしてくれる」と思う。

 ウヤフジはいつでも、どこでも私達を見守ってくれている。

 大工の徳さん〈上園田徳市〉

 TOM UESONODA USA