店主のつぶやき あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

琉球新報:落ち穂(H3.11)

 『永田橋市場』

 東南アジアを歩いていると奄美との類似点を多く感じる。密生する動植物、通底する歌舞音曲、高床式の住居、隠し味の効いた脂っぽい食事。テンポのゆるい風景、ギラギラ光らせて照射してくる深度の深い瞳の群れ……。なかんずく親和力の強かったのは各地でなじんだ水上生活者の情景。

 名瀬のマチなみの中央。南の永田山から北の名瀬湾へと蛇行する永田川。永田橋から栄橋にかけて水上に軒をつらねていた木造バラックの永田橋市場。さながら東南アジアの水上マーケットのように川に柱を建てて小屋を作り、川にたれ流しの市場だった。戦後の焼けあとに土地をもたない郊外の人々が自然発生的に集まってできた市場の一つだ。

 市場の入口で生まれた私は市場とともに育った。入口付近には魚、肉、野菜の旬が、中にはおかず、乾物、菓子の類、出口には雑貨、衣料品などがそれぞれ一〜二坪程の店(たな)を構えていてバッパン(オバー)たちのにぎやかな嬌(きょう)声が乱れ飛んでいた。湯治湯という名前の銭湯も同居していて十五年間お世話になった。屋でも暗壕のようで。雨漏りする鰻の寝床の路地は少年には冒険島、少女にはままごとと遊びのころあいの広場だった。市場の入口付近には赤マント、タケタロー、クニタカウジなど有象無象の芸人たちがたむろしていて、そこを突破することが子どもにはときめきの関所だった。

 川端では父が鶏や豚を飼っていて、来客の時や年末には橋の下で潰すのが行事だった。橋の上流には母たちが洗濯をする岩場があり、私たちはその近くで手長エビや鰻や川魚を漁(あさ)って遊んでいた。

 現在の永田橋市場はコンクリートの檻(おり)に閉じ込められてしまい、かつてのおどろおどろしいにぎにぎさはかき消えてしまった。入口にたむろしていた芸人や野良犬たちもそれぞれ収容された。昭和天皇来島の直前のことである。

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