店主のつぶやき これまでの「店主のつぶやき」をあらため、アナログメディアに書いてきたものを収めています。
更新は少ないかと思いますが、バックナンバーを読まれた感想などもお寄せください。

「奄美と鹿児島をつなぐ橋、西田橋(2)

五年前に書いた共著です。
石橋の解体という現実をどう考えたらいいかという問題を、子どもたちにもわかるように書いたものです。
鹿児島県の中の奄美をとおして、みんなの未来をかんがえてみました。
10ページほどの小論ですが、HP用には少々長いので、三〜四回にわけて連載します。

『かごしま西田橋』(共著)
南方新社1995年12月20日発行
196ページ1456円(税抜き)


『石橋のない奄美から』

「奄美と甲突川の五石橋」についてこれから少しのぞいてみましょう。

一九九四年二月二十一日の南日本新聞に、私は、甲突五石橋の問題について投稿し、奄美からの視点でいくつか提案をしたことがあります。
内容が長くてかたいのですが、参考までに全文を引用させていただきます。

鹿児島市・甲突川の五石橋問題について、奄美から見た感想をのべてみたいと思います。
橋づくりの財源の大半に、私たち奄美の先人たちの血と涙が流れているからです。
「雄藩」だった薩摩藩の隆盛と、奄美諸島の黒糖地獄の悲劇は表裏一体でした。

このことについて、鹿児島の歴史家らはたくさんの根拠を提出しています。

「薩摩藩のドル箱は、なんといっても奄美の黒糖であり、黒糖の総買い入れ制度をぬきにしてずしょ調所(ひろさと広郷)の(藩財政)改革計画は立てられなかった」(原口虎雄『幕末の薩摩』)

「島津藩は鎖国中でも(黒糖という)南島にしか生産できない地の利を得て、財政再建に成功したといえる」(増留貴明『五大石橋を考える』)

「調所広郷の、奄美の黒砂糖収奪を中心にした天保の財政改革につづく、しまずなりあきら島津斉彬の集成館による軍事科学事業、そして斉彬によって開眼され、養成されたさいごう西郷、おおくぼ大久保らが明治維新改革の指導権をにぎり、薩摩藩の黄金時代をむかえた時期につくりあげられたものが甲突五石橋である」(村野守治『岩永三五郎と甲突五石橋』)

ぜいたくざんまいの開化政策で、しまずしげひで島津重豪らがつくった天文学的な借金(五百万両)対策として始まった天保の財政改革ですが、一八四〇年までのわずか十年だけで、藩庫金五十万両と、五石橋架橋などの諸営繕費用として二百万両もの貯蓄ができたといいます。

二百万両という金額は、現在のどのくらいの額になるのでしょうか。

@ 米価に換算(金一両=米一石)とすると、一六五〇億円。
A 藩財政と県財政(約七千億円)が同規模として類推したばあい、二兆五千億円になります。

@ の方法は、現代では物価全般にしめる米の価値がそうとう低下しているため、かなり低めにみつもった数字といえます。
いずれにしても巨額です。

いうまでもありませんが、薩摩藩の奄美からの黒糖収奪は、天保の十年間だけに集中したわけではありません。

一六〇九年の琉球侵略によって、琉球国を間接植民地、与論島以北の奄美諸島を直轄植民地とし、明治以降にいたるまで巧妙に支配しつづけていた薩摩藩の財政と鹿児島県民のアイデンティティーは、奄美、琉球の南島経営をぬきにしては形成されなかったのではないでしょうか。

ちなみに、黒糖だけでなく、それを使用したカルカンなどの菓子類、サツマ芋、焼酎、ミカン、モウソウ竹、ラッカセイ、大島紬、黒豚、豚骨料理、薩摩あげ等々の鹿児島県の特産物も南島経営による副産物です。

行政は今回の水害の原因を、もの言わぬ石橋たちに罪をなすりつけようとしているようですが、科学的な調査のもとに徹底して技術的な検討をくわえ、総合治水策をとるべきではないでしょうか。

さらに、国家的レベルの歴史的文化遺産を残すか残さないかは、住民投票に問うべきで、それも鹿児島市民だけでなく、奄美もふくめた県民投票にするべきです。
約四百年間も"経営"してきた奄美の島々にたいして、ついに一つの石橋もかけようとはしなかった県政への注文です。

もし住民とのコンセンサスづくりや、県民投票などの手続きをふまずに、どうしても解体したいのでしたら、奄美に移設したらどうでしょうか。

私の新聞への投稿から一年半が経過し、五石橋もとうとう西田橋を残すだけになってしまいました。
私が最後になげかけた五石橋の奄美への移設案は、住民と行政とのコンセンサスづくりや、保存にむけた県民投票の実施などをうながすための、奄美からの逆説的な問題提起でした。
石橋を通して、住民が主役であるべき日本や鹿児島県の民主主義のありかたそのものが問われていると思ったからです。


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