店主のつぶやき これまでの「店主のつぶやき」をあらため、アナログメディアに書いてきたものを収めています。
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「奄美と鹿児島をつなぐ橋、西田橋(1)

五年前に書いた共著です。
石橋の解体という現実をどう考えたらいいかという問題を、子どもたちにもわかるように書いたものです。
鹿児島県の中の奄美をとおして、みんなの未来をかんがえてみました。
10ページほどの小論ですが、HP用には少々長いので、三〜四回にわけて連載します。

『かごしま西田橋』(共著)
南方新社1995年12月20日発行
196ページ1456円(税抜き)

奄美と鹿児島をつなぐ橋、西田橋」
                              森本眞一郎

 私の住んでいる奄美大島は、鹿児島市まで行くのに船で十一時間もかかります。鹿児島の人たちから見ると、ずいぶん遠いところにあると思うでしょう。同じように、私から見ると、鹿児島もとっても遠い所にあります。

お互い遠いところにある奄美の私が、鹿児島市の西田橋のことについて、いったい何を書くのだろうかとふしぎに思う人も多いでしょう。
実は、甲突川にある西田橋は、奄美や沖縄とたいへん深い関係にあるのです。そのことを理解してもらうために、奄美という地域と鹿児島という地域の関係から紹介していきましょう。

『鹿児島県のなかの奄美』

ひとくちに奄美といっても、たくさんの島々からなりたっています。人が住んでいる島だけでも八つあります。北から、奄美大島、喜界島、加計呂麻島、請島、与路島、徳之島、沖永良部島、与論島などです。

興味ぶかい二つのアンケートから紹介しましょう。
(一)「奄美は何県ですか?」
(二)「鹿児島実業と沖縄水産、あなたはどちらを応援しますか?」

(一)は、毎年、県外の各地でひらかれている「奄美の観光と物産展」で、来場したお客さんからとったアンケートです。その結果は、なんと、いつも「沖縄県」がトップで、「鹿児島県」は二位なのです。どうしてでしょうか。

奄美の島々の南の与論島や沖永良部島からは、伊平屋島や沖縄島などが目で見えます。奄美のことを地図の上では知っていても、歴史や社会のことまでは知らない県外の多くの人たちが、「奄美」は「沖縄県」と答えてもしかたがないのかもしれません。それに、「鹿児島県」の人たちも、奄美の島々が、いつから、どうして、「琉球王国の領土」から「薩摩藩の領土」「鹿児島県の領土」になったのか、その複雑な歴史について、ちゃんと答えられる人は少ないのですから。

(二)は、一九九一年八月二〇日、甲子園大会の準決勝の大熱戦の時、奄美の新聞社が、奄美の人たちに電話アンケートしたものです。鹿実派が四五人、沖水派が二十人という結果でした。

鹿児島県人でありながら、となりの沖縄県の高校を応援する奄美の人たちの数に注目してください。「奄美」という地域は、このようにひとすじ縄ではくくりきれない複雑な位置に今でもあるのです。どうしてでしょうか?その疑問をとくカギは「奄美という地域の歴史」と出会うことからしか見えてこないのです。

『奄美の大まかな歴史』

それでは、奄美の複雑な歴史を大まかに分けてのぞいてみましょう。

アマンユ(奄美の世)大むかし〜一四四〇年頃まで。
奄美の時代。奄美の島々がどこの統治も受けず、それぞれの地域をそれぞれの人たちが経営していた時代です。

ナハンユ(那覇・琉球の時代)一四四〇年頃〜一六〇九年まで。
琉球王府に支配されていた時代です。自然も文化もほぼ同じ圏内にあったためか、暗いイメージはなく、いまでも、好意的に語られています。 

ヤマトゥンユ(大和・薩摩の時代)一六〇九年〜一九四五年まで。
江戸時代の島津氏に支配されていた時代と、明治になってから鹿児島県に支配されていた時代です。奄美の歴史の大きなまがりかどにあたる時代です。この頃の黒砂糖の植民地時代のことはあとでとりあげたいと思います。

明治二年、奄美は「琉球国」から「日本国」の「鹿児島県」へ一方的に併合されます。一方、「琉球国」も明治十二年に「日本国」の「沖縄県」へと処分されます。日本が、台湾や、朝鮮へ進出していく前の段階の、国内植民地がこの時できあがりました。

アメリカユ(アメリカの時代)一九四五年〜一九五三年。
日本の敗戦と同時に、奄美と沖縄は、今度はアメリカの軍政府に占領されたまま統治されました。奄美は八年間、沖縄は二七年間、東アジアをめぐっての日本とアメリカの利権のための道具として犠牲になったわけです。

第二次ヤマトゥンユ(第二次大和の時代)一九五三年〜現在。
奄美の住民はアメリカという異民族支配よりは、「日本復帰」の道を選んでふたたび「鹿児島領」となり、いまでは四十年あまりがすぎました。

「日本なみ」の島づくりを目標に、日本国は特別につくった法律で、公共(土木)事業費を今までに約一兆円も投入しました。その結果、奄美の島々がどうなったかといいますと、自給のための水田の解体、それによる過疎化、伝統的基幹産業(黒砂糖や大島紬など)の崩壊、奄美固有の自然や文化などの破壊という、悪い面での「日本なみ」が急速にもたらされ、「奄美らしさ」を失ってしまいました。


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