書きょうたんじゃが あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

「南海日々新聞」2000年09月26日発行
          ―奄美21世紀への序奏―

               
         
「本当の日本人」 ―森本眞一郎

             分断する「支配者」

           虚実見極め対等関係を

 うどぅん(御殿)ぬ浜らがスガリ崎う(折)りてぃ
  たちがん(立神)ヤキ(山羊)島まさてぃ(一際)きょら(美)さ

 きょら(美)さしるばま(白浜)アダンやはね(防波堤)じゃが 
  ぬが(何)よだんけん(何処も)コンクリ流らし

 百五十年前に名越左源太が「サデクマ黍田人家二軒」と筆にとどめた名瀬市の佐大熊。父はどうやらそのヒキらしい。戦前は十二軒、戦後すぐも二十軒ほどのひなびた部落だった。現在は海浜を埋めたてて国道58号線が走っている。今や奄美群島でもっとも通行量が多い地区だ。

 「これで、八年間の苦悩は一変して、今日、この日の我々は、本当の日本人になったのであります。」 一九五三年十二月二十五日、<復帰の父>泉芳朗は祖国復帰祝賀会で奄美の郡民に叫んだ。

 その後の奄美の島々には日本から大型製糖工場が進出してきた。砂糖生産の農工分離が始まり、農家は原料だけの供給者となった。つぎは水稲の減反奨励。国から県への割りあてを、鹿児島県はサトウキビの価格安定を理由に巧妙に奄美におしつけてきた。シマ島の田袋は消え、集団就職と出稼ぎがつづいた。政府は、今度は二十一世紀へ向けてキビ価格の市場原理を導入しようとしている。県や国にふりまわされてきた奄美の農政。藩政以来の負の連鎖。

 復帰後のシマ々の労働力はこうして、大和本土や紬景気の名瀬市の住宅地へと流出していった。その一つの佐大熊住宅地区は南部の三村(大和・宇検・住用)よりも人口が上まわっている。それが一九八二年からは減少にうつり、今では三戸に一戸は七十歳以上の高齢者。オサ音トゥディナク、保育所もなくなった。

 農業と同じく労働集約型で外貨獲得のチャンピオンだった大島紬も深刻な情況にある。私も十年ほど紬業界にいた。前近代的な雇用制は改善してほしいが、奄美の大島紬くらい多くの家計を支えてきた縁の下の生命産業はないだろう。大島紬の衰退は奄美の域内自給と島内消費が冷えこむ死活問題でもある。大和からあいつぐウトゥルシムンの大型店とともに、個人商店の私などにはまさに非常事態である。しわじゃしわじゃくゎんきゃぬしわじゃ。

 今、サデクマの海浜では巨大な港湾と「二十一世紀への架け橋」がえたいのしれないい何かを結ぼうとしている。対岸の長浜では三万トン級の埠頭工事だ。先や定まらぬこの大不況の中で、財源などないはずの「名瀬市中心市街地活性化基本計画」もあやしい。いくつものトンネルに連動した大型の幅二十メートルの道路とテナントビルの建設は私たちの商店街を逆に破壊するだけだ。私は永田橋や栄市場の界隈で生まれ育ったが、あのバラック小屋のにぎわいの方が島の匂いと活力にあふれていた。

 どうやら二十一世紀の奄美丸も港湾・道路・トンネル・ダム・ハコモノなどがメインで航海するようだ。復帰しておよそ半世紀、ムダな工事でアマクマの自然と環境を破壊しながら、結局、域内での産業育成も労働力の確保もできなかった。奄美の人口は明治の二十年代より少ない。投じられた総事業費は一兆円を優に超える。関係者たちはその成果や収支を私たち住民にぜひ開示してほしい。誰のための基盤整備事業だったのか。日本列島みな入れ子ではあるが。

 さて、私の父母たちは貧しさと屈辱的な「異民族」(アメリカ)支配から、「本当の日本人」になることを懇願してきた。たとえば、関東大震災の時に朝鮮人にまちがわれてニ文字に改姓してきたように。ちなみに、私の父も「森」だった。その心根をつき刺していたトゲは大和人が奄美人にむけつづてきた変わらぬ「異民族観」だ。

 たとえば一九四六年、連合国軍総司令部は日本政府に対して在留する外国人の実態把握と、引きあげ希望者の計画輸送のために、外国人を対象とする人口調査の実施を求めた。「外国人」の対象とされたのは、当時「非日本人(ノン・ジャパニーズ)」という概念で認識、分類されていた朝鮮人、中国人、台湾人、琉球人である。ここで「琉球人」とは、北緯三〇度以南(口之島を含む)のトカラ、奄美、沖縄に本籍を有する者たちのことである。調査を実施した日本政府側の意図は、「本登録ノ完全ナル実施ニ依リテ日本内地ニ於ケル食糧配給、治安確保等ノ上ニ及ボス影響極メテ大」とあるように日本内地人の防衛のためであった。

 海のむこうのアメリカ・大和・琉球のクニ国から切り貼りされてかたどられてきた奄美群島区。歴史的にも長きにわたって「非日本人」だった私たち「シマンチュ」は、お国の特別措置法下で「本土並み」「本当の日本人」というハードルをクリアーできるだろうか。

 「沖縄の心とは、ヤマトンチュウになりたくて、なりきれない心だろう」沖縄県の西銘元知事は日本に復帰して十三年目に朝日新聞に発言、内外で波紋をよんだ。

 いつの世も植民地を併合したあとに、支配者側がしかけてくる分断統治に手をかすのは私たち自身である。それぞれのくらしの視点から、それぞれの奄美、沖縄(琉球)、鹿児島(大和)の虚々実々を微細にふわけして、対等にむきあい、あらたな関係を結びなおしたい。歴史は必然である。原点のシマへ。
                                (本処あまみ庵代表)



一九五〇年奄美大島名瀬生まれ。十五年ほど旅をして、八〇年帰島。大島紬業を経て、郷土誌などのリサイクル店を経営。環境ネットワーク奄美、ライ予防法国倍訴訟の勝利に向けて共に歩む奄美の会などの会員。出版業として『奄美の振興開発』『琉球弧・文学における奄美の戦後』を刊行。共著に『かごしま西田橋』など。



(Morisin)

直前へ戻る INDEXへ