店主のつぶやき あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

南日本新聞:南点(H元.11.26)
『日曜の椅子』

『「翔ぶが如く」異論』

「翔ぶが如く」のブームである。鹿児島県も観光かごしま浮揚の一助にと、便乗してはしゃいでいるようだ。

だが、これを苦々しく思っている者もいるのだ。薩摩に植民地支配されてきた南海の奄美で生活している私もその一人だ。

確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために粉骨砕身した偶像であり鑑であるかもしれない。しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの象徴であったにすぎないのではないのか。それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を踏みにじった薩摩士族の大親分としか映ってこないのだ。

西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、薩摩へあてた手紙では道之島の人々のことを「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を薩摩で教育する際、奄美出身者ということを他言するなと厳しく禁じた。島に残された母アイカナは非業の死をとげる。これは西郷という人間像の一コマではあるが、実は次に述べる彼の政策論とも表裏一体をなしているとしか思えない。

旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって財政を建て直し明治政権を樹立した。奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、彼は、禄支給廃止にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、桂久武に命じて不法な独占「大島商社」を維新後に設立させたのである。これによって薩摩は再び収奪をほしいままにすることができ、奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。

そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する五十五人の嘆願団が上鹿したが、いきなり全員投獄。老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の西郷軍に強制出陣させられた。うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。許されて島へ帰還する途中、二人を除いて全員遭難し、結局生存者はわずかに二十四人であった。(前田長英著『黒糖騒動記』参照)

西郷という人物は薩摩城下士族(私学校党)の行く末しか案じていなかったようで、その支配下にあった藩内の土民(農民)、さらに下層のリキジン(奄美、琉球人)からいかにして収奪して自己保身するかに専心していたのである。彼の諸政策にうかがわれる基本的な理念は、「征韓論」や後の「大東亜共栄圏」などにも通じており、弱者を無視し切り捨てる右翼国家主義そのものである。

「翔ぶが如く」にうつつを抜かしている人たちは、はたして西郷のこのような側面をしっかりと知っているのだろうか。「翔ぶが如く」ブームには中央(権力)が志向している意図が見え隠れしている。

今や富国が現実となった日本国で再び軍神・西郷が神格化・正当化されようとしているキナ臭い背景をこそ、私たちはそれぞれの地域で問いただすべきではなかろうか。それは負の遺産であるから。


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