店主のつぶやき あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

朝日新聞鹿児島版:みなみ歳時記(H9.1.23)

のろしの記憶

 「ち連」…初夢吉となれ!

 元旦(がんたん)の六時半ごろ、ぼくたち家族は奄美大島北部の聖地アマンデー(奄美岳)のいただきから、テルコ、ナルコ(ニライ、カナイのような奄美の理想郷)の空と海のスクリーンを食いいるように見いっていた。
 七時十分、対岸に浮かぶ喜界島の百之台のちょうど中央からティダ(太陽)が金色に光り輝いて出現した。
 「今日ぬ誇らしゃ いつゆりむ勝り いつむ今日ぬ如く あらちたぼれ」。奄美の祝い歌と老若男女の八月踊りの円陣が、山すそのあちこちの広場で始まりだした。
 見はるかす山々と浦々からは、いく筋もの煙が空にたなびきゆらいでいる。
 日いづる喜界島の聖地百之台と、南部大島の聖地湯湾岳からのひときわ太くて高い烽火(のろし)が印象的だ。

 なんだか妙になつかしい。まるであの時の感じだ。一九五一年八月一日からの五日間、米軍統治下の奄美の日本復帰の断食祈願で、名瀬市の高千穂神社の境内でかがり火をたいたとき。
 一八七七年二月九日、黒糖の自由売買のため奄美の人民五十五名の第一陣が、鹿児島の役人の本丸へ決死の直訴に船出したときの、名瀬湾の佐大熊へ集結したたいまつの群れだったか。
 いや、一六〇九年旧暦の三月七日、三千人の薩摩武士団が、このアマンデーの眼下の波静かな笠利湾に侵攻してきたときの、狼煙(のろし)群とノロ(祝女)たちの祈りのこだまだったかも。
 琉球国の十五、六世紀の喜界島征伐と大島征伐のときにも、のろしとたいまつのネットワークが全島を駈け巡ったのだった。
 ぼくの遺伝子に入力されたのろしの記憶。炎と煙は、国や王や軍に翻弄(ほんろう)されてきた奄美のユタ(みこ)的共同体社会の記憶を重層的にあぶりだす。
 それにしてもこの幻想的な情景は何なんだ。「とうちゃん、今日は『ち連』のお祭りじゃがねえ」。踊りながら結、みこ、美祝子(みのりこ)の三姉妹がさえずった。一円(ひとまろ)はサンシン(三線)で歌っている。

 そうか、「地域と地球がうまく循環していける連合社会」(ち連)のお祭りだ。
 インターネットの情報の輪が、致命的な環境破壊と貧富の差を解決するためヒトとカネ中心の産業社会、民族や宗教、国家や国連などの近代の枠組みを取り払ったんだ。
 地域の内発的な自給自足文化の復活と、地球の平和のためにすべての原子力や武器の廃止などが採択された。
 地域が中心のネットワーク「ち連」の船出によって、丸い地球のあらゆる「ち」(血、乳、値、智、治、地など)が一つに結ばれたんだ。
 今日は夢にまで見た『ち連憲章』の発布記念日。
 アマンデーからの祝煙ののぼりは、地球のいのちの祭りだったんだ。
 のろしの初夢、吉となれ!

 ところで、あなたも「ち連」に参加しませんか。

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