店主のつぶやき あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

けーし風:1994年6月

『南西諸島「道之島」の近代化をめぐる研究集会』

奄美のアイデンティティ―を確認するには近・現代史のとらえなおしが不可欠―との趣旨から奄美出身の山下欣一のよびかけで、四月十六・十七日に名瀬市の奄美博物館でひらかれた「『奄美の近代化』をめぐる研究集会」は、のべ百人ほどのミニ集会でしたが内容的にはビックイベントでした。

沖縄から仲地哲夫「昇曙夢と奄美大島」、安仁屋政昭「沖縄戦研究の現状と課題」、奄美から竹島忠男「大山麟五郎氏の人となりと業績」、西村富明「奄美近代史の特性について」、吉田慶喜「奄美の復帰史をめぐる諸問題」、弓削政巳「奄美の歴史意識と歴史像」、鹿児島から皆村武一「奄美の停滞と近代化」、小川学夫「近代におけるシマ唄の変容」、杉原洋「奄美復帰をめぐる国際情勢」、など奄美の近代化について多様な発表と質疑がつづきました。

私は録音担当でしたが、六〇分テープ十本勝負の大熱戦をつたえた鹿児島の南日本新聞は「『奄美の伝統的共同体を遅れたものとみなすのではなく、その内部にも前進的・発展的要素があったことを見るべきだ』『奄美の日本復帰と沖縄の長期軍事支配は表裏一体であり、国際関係の中の奄美という視点が必要』など活発に論議した」とそれぞれの内容を要約したうえで、最後に、「司会を務めた山下欣一鹿児島経済大学教授は『手つかずの奄美近・現代史の分野でこれだけの発表があったのは高く評価できる。今後、奄美にとって明治維新はどういうものだったかなども解明されるべきだ』と総括した」と文化欄で報告しています。

話題がトビますが、五月一日づけの奄美の地元紙にのっていた沖縄からの広告「りんけんバンド南西諸島『道之島』コンサートツアー'94」というコピー、明治維新との関連でよむとアブナイですね。

「南西諸島」―明治六年に海軍省水路局が調査を開始して、同十年に命名、同二十七年から海図などに使われますが、この時期は琉球弧と東アジア情勢の激動期。奄美諸島等は鹿児島藩の「藩治職制の制定の告示」により琉球王国領から鹿児島藩領(同二年)へ一方的に処分されます。琉球王国も琉球藩(同五年)から沖縄県(同一二年)へ、さらに宮古・八重山の中国への分島・増約問題(同一三年)など一連の琉球処分策にウオ―サオ―していたころで、外交的には日本の朝鮮・台湾侵略をめぐる日清戦争(同二七〜二八年)の直前のころです。

南西諸島とは薩南・琉球・尖閣・大東の各諸島の総称ですが広すぎるので地理学ではみとめられていません。「琉球・弧処分」の前後に誕生した海軍の「南西諸島」は、結果として太平洋戦争にいたる大日本帝国がその制海権を周辺諸国に認知させるための軍事的布石だった!のではないでしょうか。

「道之島」‐一六〇九年琉球王国を侵略した島津軍は幕府に奄美のことを「琉球之大嶋」と報告しています。その後一六二四年「琉球道之島」一六四五年「道之島之荒地」として登場してくる。「道之島」には、薩摩藩領から本命の琉球にいたる海の一理塚という支配者の観念が的確に表現されています。

日常なにげなくつかっている地名や固有名詞などが、どのような背景からうまれてきたのか、琉球弧にくらす私たちはシマの民々の視点から検証していきたいものです。

(森本眞一郎)

直前へ戻る INDEXへ