書きょうたんじゃが あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

キョラ四号(H11.1.17)

バックトゥザフューチャー(序論) bR

  これは「神戸事件」総体について言えることだが、「日本」の警察とマスコミたちは、国民に対してちゃんとした証拠と裏づけのある事実関係を明らかにしたうえで、慎重に発表・報道する義務があると思う。公務と公器の乱用が行きつく先は、それこそ「地獄の季節」であり、破滅的なファシズム世界の「暗い森」だということは、アマミノクロウサギたちだって知っているかもしれないからだ。
 策略と陰謀に明けくれてきた(いる)「日本」の「権力者」たちの歴史。「日本」社会の中の懲りない面々は、いつかきた有事という侵略の道をまたもや進軍しつつあるようだ。マスコミによってつくられてきた「日本」の「権力者」たちが、一貫して護持しようとしているものは、(象徴)天皇そのものではなく、その回りで利権を貪ることが可能な私物国家、「日本」というおいしい国体であるのかもしれない。
 「日本人」という国民性が、ぼくにはまだはっきりとは見えていないのだが、過去に稲作と鍛冶と仏教などの、農耕文化を中心とする渡来文化を「日本」列島に持ちこんできたグループが、いまだにこのおいしい「日本」列島をわが物顔で遊び場にしながら、太古からの「日本」列島社会に息づいてきた自然や民々を、食い物にしているような気がしてならない。彼らのグループが富を蓄積するためなら、戦争も、植民地支配も、乱開発も、公害も、原発も、汚職もすべてしかたがないとして、痛みを伴わないような精神と行為は、そこの風土と共に生きてきたグループからは出てこないはずである。
 単純な比較をさせてもらうと、それにくらべて縄文人は、持続する社会(世界)のために、弥生人ほどの富の蓄積と、それを維持管理するための余分な軍備も持たなかった。ゆるやかな部族連合体を継続することで、閉鎖的な国家も形成しなかった。だから、紀元前一万年も前から、世界でもトップレヴェルの高度な文化社会を維持できたのだろう。

神戸から千余キロもクニザト離れてくらしている、ぼくのようなスーパー常識印が判断しても、神戸事件は、どこの誰かはしらないけれど、事件の背後で情報と世論が操られていると思いたくなる。実際のところ、警察を始め、マスコミ各社・各人とも随所で馬脚を露呈している。しかし、本文はそれらを逐一論証するのが目的ではないし、すでに真相を問う類書も刊行されている。
地道に真相を究明してきた関連書をまとめたその名も『真相』(一九九八・一〇・一〇・早稲田出版発行)は、神戸事件の疑惑の全貌についての一番わかりやすい解説書だと思う。これもぜひご一読を。「日本」の権力とマスコミとが、事件の真相追求のほこさきをかわすために、意図的に押しだそうとしている革マル派とは、全く無縁の「日本」の良心を求める多士済済の方たちが、権力によってでっちあげられてきた神戸事件の疑惑の真相について、公正なメスをあててくれている。特に、「政府系サービス生産業」と称する「日本」社会の中での特権階級の公務員たちと、「公器」と称するマスメディアに関わる業界人たちは、同業者によってつくられてきた偏見を一度白紙に戻して、それぞれの立場から独自に検証していただきたい。今後の「日本」丸の行く末を占うバロメーター的事件と思うからだ。

この拙文を書きながらも、ぼくと同年齢のご両親の心情を想うと胸が苦しくなる。しかしいつの日か、少年とご家族らによる事実関係の証言を公的にえることができて、少年の無実を再審で確定できるまで、奄美のぼくたちにできることなら、いつでも協力していきたいと願っている。
昨年の八月三十日には浅野健一氏(同志社大学教授)を奄美にお招きして、神戸事件や警察・マスコミの問題についての話をたっぷり聞く集会を開くことができた。奄美のぼくたちは、神戸事件を差別と疑惑の両面から、みずからの問題として最後までかかわっていこうと思っている。
 できたら神戸と奄美を結ぶ本誌あたりで、奄美差別と真相追求の双方の視座から、神戸事件の本質をつくような独自の特集を組んでみてはどうだろうか。当事者の奄美の人たちにしか感受しにくい事件情報の読みかたというのもあるからだ。

 たとえば、一九九七年五月十五日、ぼくは沖縄にいた。沖縄県民にとってこの日は、土地の使用期限が切れても米軍が使用可能にするために、「日本」政府がわざわざ「駐留軍用地特別措置法」をおぜん立てして実施された屈辱の日だ。日米安全保障条約の最大のゴミ回収車に仕立て上げられてきた沖縄島に、「日本」のマスコミは殺到して押し寄せ、強引な取材に右往左往していた。反戦地主による集会と抗議デモや、「沖縄独立の可能性をめぐる激論会」などが多彩にくりひろげられていた。そこでは、日米の安保条約のありようが、沖縄の現状をとおして「日本」の国民一人一人に厳しく問われていた。なぜ、沖縄人だけが、「日本人」全体の安全を保証するための「生け贄」にならなくてはいけないのか。沖縄は「日本人」ではないのか。平和ボケの「日本人」は、それに答える義務がある、と。
 しかし、それから九日後の五月二十四日に、衝撃的な神戸事件が発生、マスコミは沖縄から神戸へといっせいに踵を返した。当然、「日本」国民の耳目もいっせいに右へならえだった。県民の大方の予測どおりマスコミは沖縄と安保の報道を中断し、神戸事件一色に塗りかえられてしまった。
 その二年前の一九九五年一月十七日には阪神大震災が発生した。「地震による大虐殺」(イギリスの「マンチェスター・イブニング・ニュース」)とまで批判された「政府系サービス生産業者」の救援体制の不備や、事後に山積していた被災者救済金の問題などは、やがておこった三月二十日の地下鉄サリン事件の大惨事によって、一掃されてしまったのだった。いまだに被災者の諸問題は未解決のままである。
 単なる偶然だろうが、あのときの神戸市民と、二年後の沖縄県民の心情は、政府とマスコミへの不信という共通のテーマでつながっている。
かりにだが、この二つの大事件は偶然におこったのではなく、どこかの誰かが、ころあいを見計らってカードを出していたとしたら、おっとっとっのアブナイ世界に入ってしまう。
 ここからは、さらにミステリーの世界になるのだが、神戸事件によって「日本」全体がホラー列島に染まって大騒ぎしているさなか、さらにホラーな日米新安保ガイドライン構想が、ポストオキナワをにらんで浮上し締結されてしまったのだった。
 この新ガイドラインというものは、これまでの安保条約をすべて反古にして、なんと核戦争を準備したもので、第二次朝鮮戦争のシナリオにそっての「周辺有事法」もひかえていた。奄美の喜界島でも「象のオリ」建設の動きが早まるなど、きな臭くなってきた状況下での三月から五月にかけての神戸連続児童殺傷事件だった。案の定、事件後は「少年法改正」や、「心の教育」などがタイミングよく台頭してきた。「自由主義史観研究会」・「新しい歴史教科書をつくる会」など、新「国酔主義」のグループも勢力を拡大してきた。具体的ななにかにむかって「日本」が動き始めているのが、奄美からも手にとるように見える。
翌一九九八年は、金融ビッグバンでゆれる「日本」の金融システムへの税金投入が問題視される中、奇怪な無差別の毒物混入事件が「日本」列島を駆けめぐった。いずれの事件もいっこうに真犯人があがらない中で、なぜか和歌山のカレー事件だけが、すさまじい狂乱報道によって脚光をあびつづけている。警察とマスコミは、神戸事件を焼き写ししたかのようなリークのタレナガシによって、犯人づくりに余念がない。
それにしても、ほかの地域の毒物事件はいったいどうなっているのだろうか。地域の自治会・工場・スーパー・病院・大学などの研究機関を、なんの目的のために巻きこんでいるのだろうか。
まるで、きたるべき危機管理体制(=国民総監視?)とやらの仕組みづくりに向けて、警察はあらゆるメディアを駆使して国民を扇情し、真相を隠蔽しながら、「日本」国民の反応の度合いを試しているようではないか。
実際、政府とマスコミは、北朝鮮の単なる人工衛星打ち上げのニュースを、あたかも中距離弾道ミサイルかのように報道して国民の危機意識をあおりたてた。その誤報によって、在日朝鮮人の子どもたちに対する排外的な暴力が加速した。政府もマスコミも重大な誤報に対してなんらわびるところがない。かねてからの秘密裏の戦略(第二次朝鮮戦争)が裏返しに顕在化してしまって、こぶしのおろしようがなかったのだろうか。
 権力者たちのターゲットにされている若者たちの間では、従軍慰安婦や戦争責任の存在を否定している小林よしのり氏(「新しい歴史教科書をつくる会」)の『戦争論』が爆発的に読まれている。
「戦争に行きますか?それとも『日本人』やめますか?」
 この本の帯にあるうたい文句である。ことほどさように、「日本人」を強調なさるかたがたは、「日本」の侵略の歴史をクリアーするために、またもや「戦争」というソフトを切り札にしてヴァージョンアップなさろうとしていなさる。これが、遊び感覚でのヴァーチャルリアリティーではなく、戦後五十四年目にたどり着こうとしている「現日本人」のリアリティーであるところがなんともすえ恐ろしい。いまや、なにがおこっても不思議ではない臨戦体制づくりが、現実に始まっている。まさに歴史はくりかえしているとしか思えない。

 このさいだから、関連して戦前のことにまでさかのぼってみる。歴史もわれわれ人間と同じように輪廻転生すると思っているからだ。
 関東大震災(一九二三・九・一)の直後には、民衆の暴動をおそれた政府閣僚がほこ先を転ずる意図で、警察や新聞社から「どさくさに紛れて」、「デマを飛ば」して、六千人(?)以上の朝鮮人虐殺をひきおこした。その結果、戒厳令下の羅災地に治安維持のための憲兵隊が増員され、それまでは国会通過が困難だった思想統制(戦争準備)のための治安維持法が成立していった経緯がある。危機管理という治安維持のために、朝鮮人が大震災時の「日本人」の「生け贄」にされてしまったのだ。その混乱の渦中で、大杉栄や伊藤野枝その他の「主義者」たちも闇に葬られてしまったのだった。目的のためにはいつの世も手段を選ばない、「権力者」たちの卑劣な謀略事件のことをぼくたちは忘れてはならないだろう。あれから七十二年後の「阪神大震災」のあとに「神戸事件」が発生し、そこで浮上してきたのが「奄美差別」だったからである。
 戦後には、主な冤罪事件(吉田岩窟王事件・幸浦事件・松川事件など)が次々と無罪確定した一九六三年、「日本」の拷問捜査に対する警察・検察への批判があいつぐ中で、狭山事件が発生。被差別部落民の石川一雄さんが別件で逮捕されて、いまだに係争中である。くわしいことは割愛するが、自白も物証も矛盾だらけの狭山事件もまた、神戸事件と状況や背景がよく似ているのである。
 くりかえしになるが、,神戸事件を媒介として浮上させられてきたぼくたち奄美人の同朋が、「日本」社会の危機管理体制づくりの「生け贄」として、いつか「権力者」に利用される時がくる可能性をおおいに想定しておいてもいいと思う。いつまでたっても弱者に強く、強者に弱いままのこの「日本」社会では、奄美にかかわる人たちは今後、震災や暴動や戦争などの非常時に備えて、いのちと人権を守る運動を全国的に組織化しておく必要があるのではないだろうか。国家総動員体制になってからでは遅いからである。そこでは「人権」も「運動」もすべて「破壊活動」の取り調べの対象となるからだ。

 司馬遼太郎氏は『街道を行く六』(沖縄・先島への道)の中で、「日本」の南端の島々に対する印象を、「原倭人の風姿」・「日本の原風景」・「原始神道」・・というふうに、南島と「日本」の本質を結びつけて現代版の「日琉同祖論」を展開していた。
しかし、戦中の沖縄の地上戦や強制自決といい、戦後の奄美・沖縄の米軍支配といい、現在の不公平な沖縄の米軍基地といい、大多数の「現日本人」は、「日本」の「南西諸島人」を「日本本土人」を防衛するための「南の防人」くらいにしか今だに見てはいないのが実状ではなかろうか。
「少しくらいの問題ならば、『経済振興』という金策で解決すればいいじゃないか」
いつまでも子どもだましのように誠意のない魂胆もみえみえである。
 いっこうに解決しそうにない「本土人」と「非本土人」との不公平な現状が、将来変わりうる可能性はあるのだろうか。その可能性が少ないとみるぼく(たち)は、「日本人」たちに対して自前の提案をすることで、これまでの不平等な関係を対等な関係に改めていく権利があると考える。ぼく(たち)がそろそろ本音で「語り返す」ことで、「日本」社会のありようをとらえ直すクサビになるかもしれない、とほんの少しだけでも幻想したいからだ。世の中そんなに甘くはないことくらいは、認識しているつもりである。江戸時代のころから、甘い黒砂糖を一口なめただけで極刑に処せられてきた奄美の先祖たちが、口をすっぱくして子どもたちに伝えてきたからだ。

                                bSへ続く・・・  

(森本眞一郎)

直前へ戻る INDEXへ