書きょうたんじゃが あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します。

キョラ四号(H11.1.17)

バックトゥザフューチャー(序論) bQ

  現在のぼくは、「日本」の冤罪事件に対する不信感と防衛本能からだろうか、裏づけのない「日本」の警察発表やマスコミ報道などは、できるだけ鵜呑みにしないことにしている。

 神戸事件が発生してからの「日本」のマスメディアは、松本サリン事件(一九九四・六・二七)の時と同じように、異常で誤った犯罪報道(=報道犯罪)を執拗にくりかえしながら、微塵の訂正も反省もないようにみえる。いまや「日本」のマスメディアの本流は、裏づけもとらずに捜査当局のリークをいのちとばかりに、さながら大本営発表を誇大に粉飾してタレナガスことで、読者と視聴者を洗脳するのに腐心しているようにみえる。警察とマスコミの両権力は、またしても共同正犯で、戦前の翼賛的情報統制をしいているとしかぼくには思えない。割れなべに綴じぶたである。

 ぼくが、報道犯罪だと特定できる一連の報道の中でも最悪だったのが、家裁決定直後から連載を始めた朝日新聞社の『暗い森』(大阪社会部編・のち単行本化)だ。朝日新聞は事件後、警察からいち早く入手していた供述調書(実は偽計による自白で証拠能力のないもの)を下じきにしたデマ情報を掲載し、A少年がまちがいなく犯人であるかのように読者を洗脳するために協力してきた。これは法的にもあきらかに守秘義務違反に抵触する。
 ついで、同じ法を犯した『文藝春秋』(一九九八年・三月号)の「少年A犯罪の全貌」(実は捏造した矛盾だらけの作文)と、この違法な供述調書の掲載を援護射撃するために、「正常と異常の間」というわけのわからない露払い文を書いて正体を暴露してきた立花隆氏。
 そして、「少年法改正」や「知る権利」を盾にして、あこぎな商いをやめようとしない新潮社の面々。顔写真掲載の『フォーカス』をはじめ、『週間新潮』・『新潮45』・単行本などを媒体にして、いまだに異常なキャンペーンをはりつづけている。
  おおかたのテレビ局も警察情報に協力する形で、関連ニュースをいまだに意図的に放映している。たとえば、当時、現地では真犯人とされていた中年男の目撃情報を疑うような番組や、神戸事件にある特定の党派の関与を示唆するような過剰な報道などは、いずれもその根拠となる証拠についてはいっさいふれないままだ。情報のかく乱である。

 うちつづくぼくのマスコミ不信を致命的にしたのは、事件後一年目に出てきた『酒鬼薔薇聖斗の告白』(元就出版・一九九八・五・二八発行)だ。著者の河 信基(ハ シンギ)氏は「兵庫県に生まれる。新聞記者を経て朝鮮大学教員(講座長)。現在評論家、主要著書に『朝鮮が統一する日』、『朴 正熙―その知られざる思想と生涯』がある」という人物だ。この出版社からは三島由紀夫氏に関する本も出ている。
 一箇所だけ引きあいに出させてもらう(本書100ページより)。

ーーーーーーーーーーーーーー(引用)ーーーーーーーーーーーー
テントの側を通りかかった時、Aは亡くなった祖母とそっくりの老婆を見かけた。どこのテントに入るのかと立ち止まって見ていると、話し声が耳に入ってきた。テントの反対側で焚き火を囲んでいる被災者であった。
「長田はひどい。まるで空襲にあったように一面、焼け野原や」
長田地区はケミカルシューズの工場が密集し、材料の化学物質が貯蔵されているが地震直後の火がそれに延焼し、手がつけられなくなった。
「出火原因がはっきりせんのやろ」
「あれは付け火らしいという噂がある」
「付け火!? それはデマやろ。こんなときはかならず、どさくさに紛れてデマを飛ばす野郎が出てくるんや」
(略)
「村山さん、今ごろになってのこのこ慰問に来るいうてるらしいけど、家族を見殺しにされた人たちは悔しいやろうな」
「そりゃそうやろ。わしなら、村山だろうと誰やろうと、ただではすまさへん・・・・・・」
「そんなことやったら、死刑になってしまうで」
「それで死刑なら上等や。やってもらおうやないか・・・・・・」
Aは時計をちらっと見ると椅子を持ち上げ、体育館へと歩を進めた。だんだん遠くなる会話を耳にしながら、「あの人たちのいう通りや。僕でもそうするやろな」と、興奮覚めやらぬ口調で独り言を言った。
ーーーーーーーーーーーーーーー(ここまで)ーーーーーーーーーー
 「あとがき」で著者は、「本書はフィクションであることを断っておきたい」としながらもそれに続けて、「しかし、事実を筆者の想像力で語らせ、『なぜあの事件が起きたのか』という疑問にそれながら答えることができたのではないかと内心、自負している。」と自画自賛している。
しかし、頭の悪い読者のぼくには、最後まで「事実」と「想像力」の境界が皆目わからなかった。「本書はすべてがフィクションである」と断ってくれるのなら、これは「物語り」のための「作文」としてわかりやすいのだが。
そもそも著者の言う「事実」とはなにを根拠にしているのだろうか。たとえば、この引用部分にでてくる中の「祖母とそっくりの老婆」とか、「長田地区」での「火付け」・「デマ」・「死刑」など、関東大震災発生時の朝鮮人虐殺を下じきにしたような、アブナイ会話の根拠になった「事実関係」などを著者はそもそもお持ちなのだろうか。ないとしたら、著者は、「想像力」などという文学的な世界ではなく、「政治力」という権力の意図のもとに、本書を媒体にして、それこそ「どさくさに紛れて」、「デマを飛ば」しているだけではないだろうか。
おそらく著者は、「少年が小学校六年の時に書いた地震についての作文から想像した」と答えるかもしれない。だとしたら、著者自身によるこの作文の中にも、少年の環境や事件の背景などをその想像力(という名の政治力)によって、本当はどのように物語りたかったのか、という隠された動機も同時にあらわれているはずだ。
実際、本書には合わせ鏡のように、著者自身のおかれている環境やもくろみなどがみごとに映しだされている。いわゆる馬脚をあらわしているのである。読みかたによっては、いまだに不可解な神戸事件の背景までをものぞかせてくれる一級資料的な言説が、随所に散りばめられているのでいくつか抜粋したい。引用の大半は、著者が少年Aの分身として捏造した「酒鬼薔薇聖斗」に、少年と対話させるプロットで「告白」させている部分からである。つまり、著者自身の「告白」では?と思いたくなるような「酒鬼薔薇聖斗」像をかいまみることができるのである。

 「聖斗は一方的にまくしたてたが、逆に馬脚をあらわすことになった。保身を身上とする自我は欲望に身をまかせることの危険性に気づいた」(90p)
 「命を狙う敵の影に脅えたこともない」(95p)
 「それにしても、最近は荒れ気味だなと思った。思い当たるのは地震の後遺症である。地震後、学校、地域で少年たちの非行が頻発し、暗闇を怖がり、夜よく眠れず、不安や恐怖を訴える子供が多くなった」(105p)
 「新聞によく永田町の論理とか霞ヶ関の常識、なんて出てくるだろう。世間では仲間うちだけでつうじる秩序や通念、常識という欲望ぐるみの道徳観が、裏で堂々と幅を利かせている。要するに、良心というのは単なる常識ではなく、自分にとって何が得で損かを判断するということなんだ」(112p)
 「混乱する世相を逆手に、ますます管理を重視しようとの姿勢すら感じられた」(121p)
 「反抗するものは『恐怖の部屋』、『内申書』、さらに、精神異常者扱いによる体のよい排除、とあらゆる手段を講じて容赦なく打ち砕き、逆らうことを絶対に許さないのだ」(151p)
 「学校そのもは権力ではないが、その背後には巨大な国家権力が控えている。」(153p)
 「ヒットラーの狂人的天才は,既成の社会的秩序を独特のレトリックで単純化しながら徹底的に攻撃し、人間の心の奥に潜む嫉妬、不満、憎悪、屈辱感に火をつけ、生贄を投げ与えることで意のままに操縦することにある」(155p)
 「(バモイドオキ)のオキというのは、祖母の故郷の島から取ったのかもしれない」(158p)
「権力者が法を曲げているのに、法も正義もへったくれもないだろう。」(175p) 
「責任は問われなくても隔離されてすべての行動の自由を奪われる。ただ一瞬の行動のために、何日も、何ヶ月も、ことによったら何年も、二十四時間監視下に置かれることになる」(176p)

読後、ぼくは、神戸事件にハイエナのように群がっている、このようなライターたちに対する怒りと怖れから震えがとまらなかった。A少年が全国民の驚きの渦中で逮捕され、やがて、彼の「命を狙う敵の影」たちが「生(け)贄を投げ与える」ようにして、少年の顔や名前や両親や「祖母の故郷の島」などが、「独自のレトリック」で、「法も正義もへったくれもな」く、「徹底的に攻撃」されるようになった時から、ぼくが一番恐れていたことを本書によって確信したような気がしたからだ。
 それは、「神戸事件」をとおして「学校」の「背後に控えている」、「巨大な国家権力」の目的が、「混乱する世相」(有事)にそなえて、「ますます管理を重視」するために、国民(特に、「日本」の将来をになう青少年たちを管理している学校と、地域住民の動向をチェックできる自治会組織)を「意のままに操縦することにある」ということである。そのために、「権力者」の常套手段として、「法を曲げて」も、将来の「日本」の治安を維持するためには、とりあえずは神戸の奄美人が「生け贄」にされたのではないかというぼくのこの事件に対する疑問を、『酒鬼薔薇聖斗の告白』は実によくときほぐしてくれているのだ。

それともう一つ、ここには、「権力者」がその社会を支配するための常套手段である、分断統治という戦術も顔をのぞかせている。

 神戸市・長田区には、被差別部落民も在日韓国・朝鮮人も沖縄・奄美人も多く、互いに寄りそうようにくらしている。そこは、近代「日本」の縮図といってもいいところだ。つまり、兵庫県生まれで朝鮮大学教員(講座長)を勤めた河 信基(ハ シンギ)氏という著者が、本書で「日本」の「権力者」たちに手を貸しているのは、架空の「酒鬼薔薇聖斗」に不穏な「告白」をさせることで、実在する奄美人たちに特異な印象を植えつけるという使命からかもしれない。そうすることによって、一般の市民はもとより、社会の底辺にいて被害の大きかった被差別者たちにも、うさばらしの対象を与えることができ、不満のはけぐちを分断することも可能になるからである。
 本書やその他のメディアが、いまだに、そして今後とも、キャンペーンを張り続けて執拗に画策しようとしているのは、「こわい奄美人」というイメージづくりのためのスリコミであり、多様な「日本」のマイノリティー社会に、「奄美人」という少数グループを最下層に位置づけようとする差別の階段づくりなのかもしれないのである。
 カミヨの昔から、いくさや震災や合理化という危機管理のさいに、誰よりも先に犠牲にされるのは、その時代々々の最底辺にいて、大声を出してものを言えない「非日本人」的扱いの少数の弱者たちだった。奄美にいるぼくには、「日本」の「権力者」たちによって約四百年もの間、流球文化圏の沖縄同胞と分断統治させられてきている奄美の現状から、本能的にそういう風に感受されるのである。

 ぼくのこのような分析と推測のしかたが、将来にわたっても杞憂に終わってくれることを心から念じてはいる。しかし、注意のしすぎということはないだろう。「日本」社会の中でいまだに、そしてこれからも立場の弱い奄美の出身者たちが、「権力者」によってつくられつつある奄美差別という人権蹂躙を許さずに生きていくためには、それぞれが必死に闘うことで自らの権利を守っていくしかないからだ。ぜひこの『酒鬼薔薇聖斗の告白』をご一読あらんことを。そして、この問題にもっと重大な関心を寄せられ、大いに話題にしていただきたいと心から願っている。ぼくがこの場をかりて言いたいことは、それにつきるといっていい。これからあとの長い作文は、そのことを補足するためのムンバナシとみなしていただきたい。

                                bRへ続く・・・  

(森本眞一郎)

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