『社会文学 第21号』「特集 帝国の周縁」

二〇〇五年四月一日発行 

                 日本社会文学会篇

不二出版(¥1890・税込)

島尾敏雄の帝国と周縁

―ヤポネシアの琉球弧から―

                         森 本 眞 一 郎

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜^〜


                     はじめに


 NHKの天気図について名瀬測候所に電話で確認した。

 「奄美大島は、九州?それとも沖縄ですか?」

 「与論島から北は九州です」

 「トカラ列島は、種子・屋久?それとも奄美?」

 「トカラ列島は奄美です」

 

九州島と台湾島とのあいだに弧状につらなる島々を琉球列島という。
地理学と地勢学用語の「琉球弧」とほぼ同義語である。約千二百q(本
州島と九州島を合わせた長さ)。無人島も入れると百四十六島が点在す
る弧状列島であり、太平洋西縁(アジア大陸東縁)に一連の花綵列島の
ひとつを構成している。

私が住んでいる鹿児島県の奄美群島には八つの有人島がある。
その島々は、地理学では「琉球列島」、あるいは「琉球弧」の「中琉球」だ
が、行政区ではひとくくりに「九州」の南限である。また、文化の範囲では
「九州(大和)文化圏」の南限ではなく、「琉球文化圏」の北限として位置づ
けられている。いずれにしても「奄美」という地域は、人為的な「地理」「行政
」「文化」などを軸にしてくくられるから、「日本(ヤマト)」と「琉球(オキナワ)
」、どこからくくってもはしっこにおかれることになる。

奄美で生息している自然界ものぞいてみよう。

地球の動物地理区では、「アマミ」は「東洋区」(東南アジア・インド亜大陸
・中東をふくむエリア)で、植物地理学では「東南アジア区系」。「アマミ」はい
ずれもその北限にあり、南限はインドネシアである。またしてもさかい目だが、
そこにはさかい目ならではの環境に適した島々固有のDNAたちが、海と陸
とで多様な生態系をはぐくんでいる。

日本列島とは自然も文化も大きく異なる「アマミ」だが、では、そこにくらし
ているヒトたちの位置はどうだろうか。

本稿用に「アマミ」近辺の年表を作成した。「ヤポネシアの琉球弧」を「アマ
ミ」の時間軸にとどめるためである。そのために戦後の項には島尾敏雄も挿
入した。

 二万五千年前 旧石器の集石群(奄美大島キシカワ遺跡)。

 五九六年 掖玖人三人入貢す。

 六五四年 吐貨羅人五人日向に漂着。

 六五七年 吐貨羅国人、海見(あまみ)島を経て筑紫に漂着。

 六七七年 多禰(たね)嶋人を饗す。

 七一五年 陸奥、出羽、蝦夷、南嶋、奄美、夜久、度感、信覺、球美等来朝
        し、各その産物を献じた。


九九七年 奄美人が壱岐・対馬・肥前から三百人を連れ去る。昨年は四百人。
       交易のもつれからか。


一四二九年 沖縄統一。翌年、明が中山王に尚姓を賜る。

一四六六年 尚徳王、喜界島を侵略。

一五〇〇年 中山軍、八重山(オヤケアカハチ)を侵略。

一五七一年 尚元王、第三回の北大島侵略。

一六〇九年 薩摩藩が琉球国を侵略。琉球国は日中両属に。与論島以北の
        「大島(八島)」薩摩藩併合。黒砂糖生産のための直轄植民
        地となる。


一九四五年 大日本帝国が敗戦。
       北緯三十度(口之島)以南のトカラ・奄美・沖縄の島々は米軍政
         府に統治される。


一九五二年 大島郡十島村(トカラ列島)が日本(ヤマト
          
)
に復帰。


一九五三年 十二月二十五日、アメリカ政府が北緯二十七度(与論島)以北の
        奄美群島を日本(ヤマト)政府にクリスマスプ
        レゼント。施政権の返還で、奄美の島々は再び日本(
        マト
)
鹿児島県の統治下に。

一九五五年 島尾敏雄が奄美大島にIターン(入殖)。

一九六一年 島尾が〈琉球弧〉と〈ヤポネシア〉を発信。
       柳田國男が「海上の道」を出版、翌年死亡。

一九六八年 小笠原諸島が日本政府に返還される。 

一九七二年 琉球政府の施政権が日本(ヤマト)政府に返
        還される。


一九七五年 島尾が図書館長を辞して奄美を去る。         
       一九八六年、鹿児島市で死亡。六十九歳。・

 二〇〇三年 奄美の日本(ヤマト)復帰五十周年記念式典。
        平成の天皇と皇后が來島。

 二〇〇九年 鹿児島(ヤマト)の奄美併合から四百周年。

     

     一 「日本の周辺としての奄美」

 

一九六〇年、奄美に移住(なかば亡命)して五年目の島尾敏雄は、「日本の周辺と
しての奄美」を中部日本新聞に書いている。

 

  
 まず、民俗研究者たちが、この地帯に目をつけたとき、そこに、
いわばはるかな古い日本のすがたが生きながらえていたことを発
見しておどろいた。
 ほかの周辺の離島や本土の中の底辺の山村の場合には、あらか
じめ予想された部分的なおくれ」がときほぐされることを期待するわけ
だが、この南島では、琉球の中山王国などの経験があるので、その
地帯だけがひとまとめにされ、際立ったかたちを作りながら、「日本の
中の日本」といってみたいほど、全体として、本土のすがたに似ている
というかたちであらわれてくることが特徴である。
 それは古くからのしきたりの上でだけでなく、最近の政治的な環境(奄
美の八年のあいだの、そして沖縄、先島では今なお続いているアメリカ
の統治という状況)の中ででもなおかつそうである。
 それはたとえばその中で反応を示す南島の社会状態の観察者たちが
「日本の縮図」とか「日本よりも日本らしいところ」などと形容してきたこ
とを見ても察知することができることだ。 つまり、「島」という限られた
環境のために、島自体では基底の文化を創造することがむずかしく、
いつも島の外からの力に、事大と便乗の姿勢をとらなければならなか
ったすがたが、日本国の縮図としてうつってくるのである。

 

 文章最後の、「事大と便乗の姿勢」という形容をおさえておきたい。
島尾はそれを南島人の特質としてたびたび使うのだが、私はそれを
島尾自身の気質だと思うからだ。

文脈をたどると、「はるかな古い日本のすがたが生きながらえてい
たことを発見しておどろいた」のは、「民俗研究者たち」である。戦前
に奄美・沖縄をおとずれて「日本人や稲作のルーツ」などを展開した
柳田國男たちのことだろう。

「『日本の中の日本』といってみたいほど、」「日本国の縮図として
うつってくる」のは、島尾自身の見かただ。

「日本の縮図」とか「日本よりも日本らしいところなどと形容してきた」
のは、「南島の社会状態の観察者たち」である。

三者三様、表現はちがうが、いずれもキーワードとして「原日本」と
いう抽象的であやしいモデルを、「日本の周辺としての奄美」に象嵌
しようとしている。

ここで「南島の社会状態の観察者たち」とは、奄美の日本
(ヤマト)
復帰(一九五三年)直後の一九五五年
から三年にわたり、「内地(ヤマト)」から奄美
の島々にのりこんできた「本土(ヤマト)」の
「九学会連合奄美調査委員会」のメンバーたちだろう。
 島尾もこの年奄美に入殖し、一九五八年か
ら鹿児島県立図書館
奄美分館の館長に就任(奄美日米文化会館館長も兼務)していて
彼らと接触しているからだ。

私など素人には耳なれない「九学会連合」とは?

それは日本民族学会、日本社会学会、日本人類学会、日本宗教
学会、日本地理学会、日本民俗学会、日本言語学会、日本心理学会、
および社団法人東洋音楽学会からなる連合体である。
 この「九学会連合」は二十年後の一九七五年から五年間、奄美諸
島とその北のトカラ列島において第二次調査を行ない、「地域性・重
層性の二点から、奄美が日本列島の中にきわめて特異な地位を占
めることが、各方面から明らかにされたと思う。」(『奄美―自然・文化
・社会―』・一九八二年)と報告している。

「日本列島の中にきわめて特異な地位を占める」という奄美とその
北のトカラ列島。「地域性・重層性」とは、なんだろうか?


 私家版の年表に、「七一五年 陸奥、出羽、蝦夷南嶋、奄美、
夜久、度感、信覺、球美等来朝し、各その産物を献じた」とあった。

古来、列島の境界領域で「地域」の「特異性」(民族性)を主張して、
大和政権のマツリにまつろわなかったネイティブたち。ことばを変えると、
国家と対峙するほどの「特異な」生産活動や言語や宗教(神観念)、風
俗などを「重層」的に維持していた国家(ヤマト)周縁
の先住民族たち。彼らネイティブたちは、殖民地国家ヤマトの「化外」
「境外」に「跋扈」する「異人雑類」であり、彼らを懐柔しながら「同化」さ
せるのが最大の国策(マニュアル)であった。 

先史時代に遡れば、縄文人と弥生人との相克と侵略の歴史がある。
古代には、列島周縁のエミシ・クマソ・ハヤトなどへの侵略がある。
近世からはアイヌ・奄美・沖縄があり、近代からは、台湾・朝鮮・南洋
諸島・満州・東南アジアなどへの大日本(ヤマト)
帝国の殖民政策の足どりがある。そこでは、富国強兵による軍事力が
前輪となり、日本(ヤマト)の学会による「皇民化教
育」が後輪となって内外の各地へと進軍していった。

「人間科学の学際的総合を目指す」九学会連合の「調査」は、一九五
三年以来、文部省科学研究費の助成で行っている。ちなみに、第八回の
奄美の第二次調査(一九八〇年終了)まで、次のような地域を共同調査
している。対馬、能登、奄美、佐渡、下北、利根川、沖縄、奄美・トカラで
ある。離島が五、半島が二、川が一で離島が過半数をしめている。

とざされた離島には深い時の流れがプレスされているからだろうが、
なぜだかここには「日本列島にとってきわめて特異な地位をしめること」
では、チャンピオンであるべきアイヌ民族の
北海道島がはいってい
ない。和人(シャモ)たちからあらかじめ「ほろびゆく
民族」と定められてきたアイヌ民族たちは、すでに和人(シャ
)
との「同化」が進み、「学問」的に調査研究の対象ではなく
なったということか。それともなにか「日本民族」にとって障りになるような
「特異」な理由があってのことだろうか?

島尾敏雄は、彼の理想とする〈ヤポネシア〉像の地図上に北海道島の
中央部からカムチャッカ半島まで北につらなる「千島弧」を日本固有の
領土として取りこんだ。しかし、そこにくらしつづけてきた先住民族のア
イヌのことについてはほとんど言及しなかった。また、島尾の〈ヤポネシ
ア論〉は、「東北」と「南島」との類似性については強調したが、「東北(人)」
や「縄文(人)」とも深いつながりがある「アイヌ民族」との連続性について
も書きおよんでいない。なぜだろうか?

 

  二 〈琉球弧〉と〈ヤポネシア〉の発見

 

島尾敏雄は一九五八年に「奄美郷土研究会」を組織し、奄美を去る
一九七五年まで世話人としてその中核的存在であった。二十年間も奄
美に住みつき、小説などを書きついできた島尾だが、本人の意志にもか
かわらず奄美の歴史や民俗を題材にした小説は、彼の生涯でついに一
本も著すことができなかった。なぜだろうか?

 

「島のことがわからなくなった」「なんにも見えない、といってみた
くなるほどだ」「もう島どころではない、と気が変になりそうなのだ」
(「奄美の島から」・一九七一年)

「琉球弧は、日本だ日本だと言いすぎてきた」「つまり、南島が持っ
ているところの特質は、ヤマト(本土)で展開された日本国家というも
のよりも時間的、空間的にもっと長い広い何かであるように思う」(「琉
球弧に住んで十六年」・一九七一年)

「実のところ今南島について何も書きたくない気持ちになっている」
(「島尾敏雄非小説集成第一巻あとがき」・一九七三年)

 

島尾はここで、「南島」と「日本」との関係についてあきらかにほころびを
きたしている。しかし奄美から日本(ヤマト)の鹿児島に
Uターンしたとたんに癒されたのだろうか、ふたたび〈琉球弧〉や〈ヤポネシ
ア〉概念の創始者として復活する。それでもエッセイや対談のみで、「島・
琉球弧・南島」を客体化した小説を生むことはなかった。その後の
島尾は、
「奄美」
への熱が冷めたように日本(ヤマト)復帰が実
現した「沖縄(本島)」への旅をかさね、「小国寡民」だった「琉球国」へ遡及
していく。
 そのあたりの島尾の心のブレも興味ぶかいのだが、いかんせん島尾が
幻想する共同体は、「国家」の域をこえることはなかった。

「郷土研究」の必要性を日本(ヤマト)全土に警鐘して、
全国(ヤマト)の地域情報を手中におさめていた柳田國男
は、戦前、奄美・沖縄を旅して『海南小記』(一九二五年)をあらわした。戦後の
一九六一年には、彼の遺書である『海上の道』を世に送りだした。同年、島尾も
〈琉球弧〉(初見・「奄美の妹たち」)と〈ヤポネシア〉(初見・「ヤポネシアの根っこ」)
という新知見を打ちあげている。島尾は「ヤポネシアの根っこ」を『世界教養全集
二十一』の「月報第十五号」で発表、この『世界教養全集二十一』には、柳田國
男の「海南小記」や、金田一京助の「北の人」など、「近代日本(ヤマト
)
学」を代表する南北の「教養」が収められていた。

それから六年のち、島尾は『柳田國男全集第一巻 海上の道』(筑摩書房・
一九六七年)の解説を担当することになる。

 

の『海上の道』という主題を、読みとったつもりになり、南島が日本
形成の主要な要素の流入経路だとひとり合点して、そのことばを口に出
して使いもしたものでした。

 

の頭の中には柳田國男がいっぱいつまってしまった感じです。
これもひとつの影響と言わないわけにはいかず、柳田國男の在り方
とその思想の性格を示すようにも思います。

 

柳田國男の「日本形成」の思想が、島尾敏雄の「思想形成」に影響を与え
ているのを私たちはくみとることができる。島尾が柳田から引きつごうとした
ことはなんだったのだろうか?

私がふつうにくらしている北緯二十八度の地点から、島尾敏雄が〈琉球弧〉
や〈ヤポネシア〉という新知見を提唱したその深層を掘りさげてみたい。その
手がかりとして、ここでは次の二点にしぼってみる。

(一)トカラ列島以北を排除する〈琉球弧〉

(二)千島列島までを囲いこむ〈ヤポネシア〉

 

(一)トカラ列島以北を排除する〈琉球弧〉

島尾敏雄は九州帝国大学時代、大陸西域の東洋史を専攻していた。
彼は学生時代に「南方」のフィリッピンから台湾島と上海を旅し、さらに
「半島」から「大陸」にも足を運んでいる。

明治以降、大日本(ヤマト)帝国は、北海道島
(蝦夷地開拓)、樺太島・千島(交換条約)、琉球諸島(琉球処分)、
台湾(領有)、朝鮮半島(併合)、南洋諸島(委任統治)、満州(建
国)と殖民地の版図を拡大していった。島尾青年の旅は大日本
(ヤ マ)
帝国()の版図とかさなっ
ている。

島尾ミホが編んだ(記した)「島尾敏雄『大日本帝国海軍』軍歴」(『島
尾敏雄事典』・勉誠出版・二〇〇〇年)によると、島尾は昭和十九年十一
月下旬、帝国
海軍特別攻撃隊第十八震洋隊(島尾部隊・隊員一八三名)
の指揮官・
帝国海軍中尉として、奄美群島加計呂麻島に駐屯した。

アマミを死地と覚悟し、『古事記』を行李箱の下にたずさえてきた島尾は、
この島に「古事記の世界が生きていた」(「琉球弧の感受」・一九七八年)
ことを「発見」したと何度も言及している。島尾がいう「原日本」との遭遇だ
が、しかし、マレビト(島尾)と巫女(ミホ)との神話的、童話的なモノガタリ
は、戦争という織物のアヤ糸であり、日常をささえる地糸の大半は、そこに
生きる南島人と侵略してきた帝国(ヤマト)の「軍神」た
ちとの血なまぐさい差別的なまじわりであったはずだ。

 

  戦争中、私は海軍部隊に属して一年ばかりを奄美で過ごしたが、
そのとき軍隊内の(それは二、三人をのぞいたあとのすべてが本土
出身の者ばかりだったが)奄美の人々に対するある差別の感情は
印象的であった。つまりこの島の人々は本土の人々とは違うから用
心しろという言い方で接するという固定観念のあったことだ。だから事
態が極端に近づいた場合には、むごい形となって現れてくる根の胚胎
していたことだ。沖縄県ではそれが現実となった。(「琉球弧に住んで
十六年」・一九七一年)

 

「むごい形」とは、軍の命令による集団自決のことである。
 「それが現実となった」
沖縄県、渡嘉敷島での集団自決については、
「慶良間の睫」(《読売新聞》・一九七四年九月三日付)などで言及してはい
るが、日本軍(人)の責任論には何も触れずに歯ぎれが悪い。奄美での発言
もそうだが、旧日本帝国海軍将校の加害者として、島尾自身への省察がない
ばかりか、まるでよそごとのような発言である。無類の戦争を体験し、戦争物も
書きついできた戦後派の作家、島尾敏雄だが、そこで天皇制、戦争責任、殖民
地主義などの戦争がはらんでいる本質的なテーマには一歩も踏みこむことが
なかった、と私は読む。

また、島尾敏雄はさきの「日本の周辺の奄美」で、島々の負の歴史の要因を、
外圧に弱い南島人特有の「事大と便乗の姿勢」に起因させていた。外からの圧力
で島々が変容していくのを、島尾はあたかもそれが、南島の内なる島民性の資質
としてすりかえている。では、島尾自身は、ヤマトでふりかかってきた「戦争」という
最大の外圧とどう向きあってきたのだろうか?

 

ぼくは文弱の徒でしたから、まあ戦争とか軍隊とかが恐いわけですよ。
恐いけども、意志がしっかりしていて、はっきりした思想があって、反戦の行動
に出るというふうなことじゃなかった。ぼくの場合は、逃亡もせず、まあズルズル
戦争にはいっていった。(《中国》・「回想の怨念・ヤポネシア―沖縄・奄美・東北
を結ぶ底流としての日本」・一九七〇年」

 

「まあズルズル戦争にはいっていった」という島尾こそ、「事大と便乗の姿勢」
そのものである。そのような島尾が戦後の晩年近く、次のような歴史認識に言及
することはさらに看過できない。私の島尾敏雄像は、戦後もなお帝国の歴史の補完
者として機能しているからだ。

 

 単に歴史を告発するのではなく、補完者としての痛みを不断に自省するところ
から歴史への洞察力を出発させないかぎり、真に歴史を撃つことはできない」
(『新沖縄文学』四十一号・「琉球弧のなかの奄美」・一九八一年)

 

島尾はこの年、「日本芸術院賞」を受賞している。

 

  第三十七回日本芸術院賞の授賞式が、一日午前十一時過ぎから、
天皇陛下をお迎えして東京・上野の日本芸術会館で行われた。今回の受
賞者は、(略)作家島尾敏雄氏(略)の十一人。体調をくずしたため欠席し
た島尾氏に代わって出席したミホ夫人に対し陛下は「どうか大事にしてく
ださい」とねぎらいの声を掛けられた。(南日本新聞・一九八一年六月二日付)

 

島尾本人は、「歴史の補完者としての痛みを不断に自省」して、「真に歴史
を撃つことができ」たのだろうか。彼の生き方や死に方を追ってみたが、私に
はとてもそうは思えない。

一九四五年八月十三日、出撃命令を待つ島尾特攻隊長の「出発は遂に訪
れず」、彼はヤマトへ生還して「大日本帝国海軍大尉」に昇進したところで軍
役をとき、日本(ヤマト)のメジャーな作家としてデビュー
する。戦後の三十一年間、日本(ヤマト)の文壇をのぼり
つめた島尾敏雄の双六(すごろく)のあがりは、「一九八
六年十一月十二日死亡。叙正五位。勲三等瑞宝章の授与を受ける。同十五
日、天皇陛下の勅使によって『祭粢料』(天皇陛下からの香典)を賜る」(『島
尾敏雄事典』)というゴールであった。最期までカトリックの信者だった島尾だ
が、生涯を天皇制という大きな樹の下でつつがなく生きぬいたのであった。

『島尾敏雄全集第十六巻・第十七巻』(晶文社・一九八三年)は、島尾の「南
島」に関するエッセイ集だ。以下、参照する。

島尾が、「沖縄航路の船に乗り込んで十月の中旬横浜の高島町岸壁
から本州を離れた」のは一九五五年。島尾が〈琉球弧〉という地理学の用語を
地政学的に援用して内地(ヤマト)のマスコミに登場させた
のは、それから六年後のことである。

それまでの島尾は、奄美近辺の島々のことを、おもに「南島」「奄美・沖縄・
古・八重山」としるしてきた。島尾にとって「南西諸島」「琉球列島」というくくりか
たは、どうもしっくりこないと書いている。なぜなら、そこにはトカラ列島以北の
島々が含まれているからだ。島尾は、「琉球文化圏」や「琉球弧」というカテゴ
リーからトカラ以北をどうしても切りすてたかったようだ。それは、言語圏の相
違からだと島尾は理由づけているが、はたしてそれだけの根拠からだろうか?
本稿のテーマのひとつである。

 

化と生活の基底のところで、たとえばこの地帯の方言が琉球方言とし
てまとめることができるように、やはりそれ以北の(厳密に言うと、同じ三十
度以南にはいってはいるが、トカラ列島は以北の部分に加えなければいけ
ないと思っている)地域と対比させ区別することのできる、一つのまとまった
文化圏をかたちづくっていることは否定できないとしても、この三十度以南
の奄美と沖縄と宮古と八重山の四つの区域が、単純に統合的な機構の下
でたやすくひとまとめにされることは考えられな
(「軍政官府下にあった名瀬市」・一九六〇年)

 

ところが、島尾によって〈琉球弧〉から切りはなされたトカラの島々もまた、奄美・
沖縄と同様、古代から日本(ヤマ)()
固有の領土ではなかったのである。

朝鮮資料・『李朝実録』(一四五三年五月十一日条)には、「去庚申午(一四五〇)年、
貴国(朝鮮)人四名漂白干臥蛇島在琉球・薩摩乃間、半属琉球、半属薩摩」とある。

また、申叔舟著『海東諸国記』(一四七一年)にある日本国西海道九州の図の
小蛇島(臥蛇島)の書きこみには、「分属日本琉球」とあり、臥蛇(ガジ
)
島が両国家の境界とうつっている。一九七〇年に無人島となった「
臥蛇島」だが、ここでの島名はトカラの島々を総称しての地名という。

このように、国家の周縁にあったトカラの島々は古代から日本(ヤマト
)
の版図にはなく、中世に琉球王国が成立してからは、琉球と薩摩(
(ヤマト)
)の両属であった。「トカラ」は「トカラ」でありつづけたし、
今でもそれはかわらない。

また、近世の琉球国も日中両属で、日本(ヤマト)でも中国
でもなく琉球であった。現在、日本(ヤマト)に復帰して三十三
年、米軍と自衛隊が殖民地支配のために居すわりつづけても「オキナワ」は「オ
キナワ」である。
 さらに「アマミ」についていえば、薩摩(日本(ヤマト))の直轄
殖民地となって四百年間の支配がつづいているが、いまだに「アマミ」は「鹿児島圏」
でも「沖縄圏」でもなく、「アマミ圏」である。

島尾敏雄は、琉球方言圏とは違うという理由で、「トカラ以北」を〈琉球弧〉文化圏
から排除した。たしかに現在のトカラ方言は九州方言に属している。しかし、トカラの
「文化と生活の基底のところで」は、アマミ・オキナワと底流するふつうの人々のくらし
のいとなみが今も色こく根をおろしている。  

私は、トカラの有人七島を二〇〇〇年と二〇〇一年に歩いたことがある。サンゴ
礁にかこまれたアマミ以南の風景にはめずらしい「御岳」(御嶽)と呼ばれる火山が
島々にそびえているが、トカラの島々の光と影、風と海、クバやガジュマルの杜にい
ろどられた風土はアマミと同質のにおいがした。

トカラ以北はなぜ九州方言なのだろうか?

沖縄島で言語学を教える宮古島出身の知人から聞いた話では、琉球方言をサン
ゴ礁の青色、九州方言を火山の赤色としたばあい、トカラの島々はそれらが混交し
て紫色に染まっている、ということだった。たしかにトカラ列島には、奄美大島のすぐ
北にある宝島と悪石島との間に約百万年前に形成されたトカラ構造海峡があり、そ
こは言語学だけでなく、地理学、生物学、民俗学などでも「琉球圏」日本(
ヤマト)
圏」をへだてる最大の境界ゾーンとなっている。

だから、琉球やヤマトから見れば、そこは国家の境界領域のどん詰まりの場所で
ある。しかし、時間と空間の中心軸を境界のさけめであるトカラやアマミに置けば、
琉球や日本(ヤマト)やその他の世界は逆に周縁の領域である。
そこに国家があろうがなかろうが。

中心と周縁が同時に存在するということは、現代の宇宙物理学の基礎的な
論拠となっている。宇宙や地球は風船のようなもので、銀河に浮かぶムリブシ
(群星)も、地球上のあらゆる地域も、風船の上ではすべてが一様につながっ
ている。だから、宇宙のどの星も、地球のどの地域も、相対的には宇宙の中心で
あり同時に周縁である。ということは、本誌の「帝国の周縁」というテーマにも有効
である、と私は考えている。

一九七一年の『トカラ列島有形民俗資料調査報告書』(昭和四十六年
三月・鹿児島県明治百年記念館建設調査室)には、トカラとアマミとオキ
ナワにくらす人々のつながりかたが具体的に示されている。

この報告書は、鹿児島県立図書館奄美分館に現在も三冊収まっている。
当時、図書館長であり、〈琉球弧〉の概念からトカラ列島を排除していた島尾
敏雄も、この報告書には当然目をとおしていたはずだ。いや、くぎづけになっ
たのではないか。というのは、先にあげた島尾の「島のことがわからない」等
の言説は、まさにこの年から頻出してくるからである。

同時にこの年は翌年にひかえた沖縄の日本(ヤマト)
復帰をめぐって、沖縄の言論人たち(島尾敏雄の思想のダントツの受容者た
ち)が、日本(ヤマト)国に「反復帰・反ヤマト・もうひとつの
日本」を突きつけていた時期でもある。島尾の〈琉球弧〉ひいては〈ヤポネシア
〉の背骨がゆらぎ始め、ついに四年後には奄美から鹿児島へ移住することに
なるのだが、本稿ではこの問題についてはトカラと〈琉球弧〉の関係だけにし
ぼって考えてみる。

「トカラの農業」を担当した小野十朗の調査報告は、島尾の〈琉球弧〉、柳田
の「海上の道」などを検証するうえで最良の手がかりを私たちに与えてくれる。

 

この島(口之島)で祭といえば何を置いても農作物の豊作を祈る
という精神の現われであろうということ。稲作中心の祭ではなく、里
イモ、カライモ、粟、麦(悪石、宝島などには旧四月にムギの祭が
ある)といったイモ、雑穀までを含んでの祭であること。先に記
した八月の十五夜の祭にしても、悪石島、臥蛇島などでは粟の祭
だと言っている点から考えて、むしろ粟の祭が稲の祭に転化したこ
とも考えられ、十島の農耕祭の非稲作的、雑穀的傾向がはっきりし
てくる。 

 

これは、奄美・沖縄の歳時習俗でも同じである。

  

粟・稲・麦などの代表的な作物については、収穫祭に先立って、
穂がではじめた頃にそれぞれの穂花祭(奄美では新穂花・アラホ
バナという)がネーシ(女神職で沖縄のノロの系統を引くと思われ
る)によって行われているが、これは沖縄の首里王府を中心とし
た祭りがここまで伝わっていることを示すものであろう。

 

トカラでも奄美と同様、沖縄のノロ的な祭祀が続いている。

小野は「奄美文化的であること」という項目をわざわざ設けて、次の
ように結論づけている。 

 

ヘラを用いること、丈の高いスルスを用いること、特有な形を
した原始的な(すき)があること、高倉が
あること、馬にウムゲをつけて使うことなどは、十島に見られる
奄美文化または沖縄奄美文化の代表的なものである。これだ
けで十島が沖縄奄美文化圏に属することを検証するに十分で
あろう。つまり、農具(農耕文化)から見て十島は沖縄奄美文化
圏の北限をなすと言え、沖縄奄美文化と大和文化との境界線を
引くとすれば、十島は沖縄奄美文化の方に入れるのが適当と言
えるだろう。

 

 島尾はこの報告をどのように解釈したのだろうか。

小野は十島の農耕具の名称をとおして、方言の問題についても重要な
課題を提出している。

 

ここで注意しなければならぬのは、十島では奄美的な用具を大和
的な名称でよぶ例が多いことである。奄美のイーザイは十島のスキ
、奄美のアジムは十島のテギネ、奄美のチチは十島のウチギネとい
ったふうである。これは文化の境界現象として、こうした現象の起こる
理由を考えてみねばならぬ。

 

薩摩藩は、琉球弧につらなる同一文化圏の島々を分断統治するために、
言語もそうだが、トカラのヤマト化、アマミの琉球化を進めたと思える。
たとえばトカラの姓名は鹿児島(ヤマト)的で、奄美は
朝鮮・中国風に一字姓を強要された。
  しかし、くらしのための基層の民俗は両者とも現代まで続いた。
中世まで自らの国家など作らずに、東アジアの海上を自在に往来していた
日本の周縁の島々。十五世紀の琉球建国時代からは、琉球国とヤマト国と
の周縁に位置づけられ、支配の対象とされてきたトカラとアマミの島々。

中世から現代にいたる琉球弧の島々の「分断」「両属」「交換」という目まぐ
るしい歴史の変遷は、まるでパソコン上の「切り取り」「コピー」「貼り付け」である。
たとえば、一九五三年の奄美の「祖国」復帰は、アメリカ「本国」から日本「本国」へ
のクリスマスプレゼントであった。それによって、たとえば、眼前の沖縄島と互い
通交してきた与論島(ユンヌ)〈人〉は、沖縄島(
ウチナー
)
(人)からは「本土(ヤマト)(人)」の「九
州(人)」となってしまった。

 島尾敏雄の足跡をたどってきて私に見えてきたこと、それは、島尾が〈琉球弧〉
から「トカラ列島」を「排除」してきた理由だ。

島尾が戦後、日本(ヤマト)に復帰してまもない奄美
に亡命してきた当時、日本(ヤマト)国は敗戦により「
大八州(おおやしま)
(蝦夷と南島などをのぞく旧ヤマト朝
廷の版図)以外の旧帝国の殖民地をすべて失っていた。「半島」や「大陸」だ
けではなく、台湾島と太平洋のすべての「ネシア」群を。ただ、アイヌ民族を封
印して内国殖民地であった「北方」の
北海道島だけはかろうじて残ってい
た。同じ内国殖民地だった「南方」のリュウキュウの「ネシア」はアメリカ軍の統
治下にあり、「北方」のクリル(千島)の「ネシア」もソ連領となっていた。

 

島尾は、「アメリカのリュウキュウ」を「日本(ヤマト)
沖縄県」として再併合するために、明治十二(一八七九)年の琉球処分以来
くりかえされてきた琉球と日本(ヤマト)との「民族」的同
質性(日琉・日奄同祖論)を、隣の奄美大島から発信しつづけた。その核と
なったのが、柳田國男や学会の研究者たちが戦後もくりかえし展開してき
た「はるかな古い日本のすがた」=「南島」であり、それは島尾の「日本以
外のなにものでもない日本の中の日本」=〈琉球弧〉=「琉球文化圏」=
「アマミ・オキナワ」であった。島尾の〈琉球弧の視点から〉は、オキナワの
領土を戦後の新日本にたぐり寄せて再併合するための思想(政治)的支
柱だった。くりかえすが、一九七二年の「沖縄の日本(ヤマト
)
復帰」という政治上の内実は、近世に薩摩が、近代に大日本(
ヤマト
)
帝国が侵略した殖民地である「琉球王国」の再併合であった。

しかし、「琉球弧」とは本来、台湾島から九州島までつらなる百四十六
もの島々の総称である。島尾は、〈琉球弧〉と「沖縄」をリンクするために
、奄美を介して「琉球文化圏」=「琉球国」という文化装置を出してきた。
そこで、歴史的にも文化的にも、そして政治的にもなかば「琉球圏」に属
してきた「トカラ以北の島々」を排除する必要があった。そのために島尾
が持ちだしたのが「方言の相違」というカードだった。

これによって、地理学と地勢学上では全島的な用語であり、事実上も
つながっていた「琉球弧」の島々が、それぞれの日本(ヤマト
)
復帰後にはその中の「中琉球と南琉球」だけの〈琉球弧=琉球文
化圏〉の枠の中にとじこめられてしまった。その結果、琉球国の周縁にあ
った「トカラ以北の北琉球の島々」は、島尾の〈琉球弧の視点〉によって排
除され、さらに太い境界と亀裂によって分断統治されていくことになる。島
尾もまた日本国の御用学者たちがそうしてきたように、「大日本帝国」や
「琉球王国」という国家的な観点からでしか、「南島」の島々と自分の思想と
を切り結ぶことができなかったのである。

「琉球弧」を構成する無数の島々の人々は、「日本(ヤマト)
(国)主義者」や「琉球(国)主義者」たちの枠組みなどとは無縁のところ
で、「国家」や「文化」や「方言」などをまたぎながらふつうにそれぞれの島
々でくらしてきた。なぜなら、それぞれの島こそが、シマンチュ(島人)本来の
父祖の母なる「シマ=祖国」だからだ。

 

(二) 千島列島を囲いこむ〈ヤポネシア〉

 

そもそも島尾が描いた〈ヤポネシア〉とはなんだろう。

 

  日本列島の地図を見ますと、主な島々からはみ出た余分なところ
として、千島列島がありますし、また伊豆諸島や小笠原諸島、それに
こちらの琉球弧があります。(「私の見た奄美」・鹿児島県大島郡市町
村議会議員研修会での講演・一九六六年)

 

  ことに日本の島のかたちは、千島弧と本州弧と琉球弧の三つの部分
から成る典型的な弧状を示しています。(『海』・「ヤポネシアと琉球弧」・
一九七〇年)

島尾が地理学から借りてきた「日本列島弧」は、千島弧、東北日本弧、
西南日本弧、琉球孤、伊豆・小笠原弧から形成されている。

島尾は、「〈ヤポネシア〉=日本列島は倭人と蝦夷と南島人から成りた
っている」とも言いつづけてきた。
 が、しかし、見のがしてならないのは、この中の「蝦夷」に北海道島の
中央部(日高山系)からカムチャッカ半島につらなる「千島弧(列島)」まで
が含まれていることだ。

「千島弧」は列島の長さが約千二百q。
「琉球弧」とほぼ同じ長さだ。島の数は三十あまり。
島尾が〈ヤポネシア論>を〈琉球弧論>と同時に発表したのは、戦後最大
の政治問題であった「日米安保条約」が改定された翌年の一九六一年
だった。敗戦後十六年も経過していたが、どういう意図があったのだろ
うか?

千島列島は、日本(シャモ)やロシアの国家領有
(=殖民地支配)以前には
北海道島と同じアイヌ民族が先住して
きた母なる父祖の地である。
 アイヌ民族は主に南千島、ウルップ島、北千島のシュムシュ島などで
くらしていた。十七世紀から十八世紀にかけて、日・露両国人が「探検」
し、次第に進出した。一七五四年にロシア人がエトロフ島に達し、南千島
に勢力をのばしていた松前藩と衝突。
 一八五四年、日露和親条約でエトロフ、ウルップ島間を両国の「国境」
として、南千島を日本(シャモ)領とした。もちろん、
アイヌ民族はカヤの外であった。

一八七五年の「樺太千島交換条約」で樺太島と北千島とを日露が
「交換」し、全千島列島が日本(シャモ)領となる。
日本(シャモ)政府はこれにともない、千島アイヌ全
員をシコタン島に強制移住させた。

この地域は長年ロシアの支配下にあり、また、ラッコ猟の
外国船が往来するために、千島アイヌの多くがロシア語や英
語に堪能でした。日本政府は、こうしたアイヌが外国人密猟
者やロシアのスパイの手引きをするのではないかと恐れ、エ
トロフ島への移住を再三勧告しました。
 しかし、千島アイヌがこれに応じないため、一八八四年武
力でアイヌの家屋や舟を焼き払い、失踪した三人を除く九十
四人全員を色丹島に強制移住させました。色丹島はほとんど
強制収容所という場所で、多くの人口が失われました。
 また、ロシア国籍を取得した千島アイヌもカムチャッカ半島
の中部に移住させられましたが、故郷に近い南部に勝手に家屋
を移転したため、ロシア政府によって奴隷としてコサックに売
られました。(上村英明・『知っていますか?アイヌ民族一問
一答』・一九九三年)
 

戦後の千島列島は、日本(シャモ)の敗戦により
ソ連およびそれを継承したロシアの支配下にある。
日本(シャモ)では、日本(シャモ)
共産党や維新政党・新風などの千島全島(北方四島だけではない)
の返還要求がある。
 しかし、千島は歴史的にも日本(シャモ)固有の領土
ではない。先住民族アイヌ固有のモシリ(国土)である。
 千島列島は本来、日本(シャモ)領でもロシア領で
もない。先住権と自決権を主張しているアイヌ民族に返還するのが
国際法上でのスジである。

一八七五(明治八)年の日本(シャモ)とロシア両帝国
の「樺太千島交換条約」は、それぞれの帝国周縁のシマ争いである。樺太
島にはアイヌ(南部)・ウィルタ(中部)・ニヴヒ(北部)などの北方民族が先住
していた。交換条約は彼らの既得権と生存権などを無視して一方的に締結さ
れたものである。

もとより地球上の土地も水域も、ヒトだけが所有権を主張したり、
交換できるモノではない。ところが、世界の殖民地主義者たちにとっ
ては、海や土地に生きつづける多様な生命のつながりなど、単なる
モノとカネと情報とに数値化されるだけのデータベースである。
 実際、樺太島は石油ガス、千島列島は水産資源などの天然の宝
庫であり、このような経済問題が絡む領土と領海の問題はどこでも
あとをたたない。 

「琉球弧」の島々でも状況は同じである。

戦後、奄美・沖縄を統治して二年目のアメリカ政府は、北部琉球
(トカラ、奄美)に対する日米の「保有」の問題を次のように討議して
いる。

 

「戦略上重要ではない北部琉球を日本が保有することになっ
ている。しかし、ソ連が南端の千島の処理方法に関する態度を
明らかにするまで、アメリカは南部琉球に対する保有意図を、
全琉球諸島に適用すべきである。(米国防省政策企画室第五
十六回会合・一九四七年九月八日)

 

これは、ソ連が「南端の千島」(ハボマイ、シコタン)を日本(
シャモ
)
に「処理」しないかぎり、アメリカも「北部琉球」(トカラ、
アマミ)の「保有」を継続するぞという大国間のゲームであり、列島の南
北の島々は「交換」のための単なるコマでしかなかった。  

日本(シャモ)とロシア両帝国による千島列島と樺太
島の「交換」以前、近世から近代にいたる日本(シャモ)
の北海道島「開拓」(殖民地化)についても、先住アイヌ民族と日本(
シャモ)
国とのあいだには取り決めの条約など一文もない。日露
戦争の五年前、アイヌ民族を指して「旧土人といえども天皇の赤子」として「旧
土人保護法」(一八九九年)が制定されただけだ。

この悪法はつぎの点で歴史的な犯罪である。
日本(シャモ)の殖民地法は、一九九七年まで百年間もア
イヌ民族を縛りつづけてきたからだ。

@      狩猟民族であるアイヌを農業に従事させようとした。

A      農業用地の供与を名目にアイヌの共有地を奪った。

B      「供与」地も開墾に失敗すると没収された。

C      アイヌの文化を「遅れたもの」とみなし同化を強要した。

しかしアイヌ民族は何百年たとうが主張する。

一九九七年、国会でアイヌ語による演説をした萱野茂は、「アイヌモシリ(国土)
日本(シャモ)国に売った覚えも貸した覚えもない」と宣言した。

また、アイヌ民族解放運動の先駆者、結城庄司の歴史認識は、島尾の<「ヤポ
ネシア論」>の侵略性をも根底から照射するものだ。

 

  北海道で日本人の歩んだ歴史は、わずかに一世紀より有していない。
 それにくらべて、アイヌの足跡は有史以来二〇世紀におよんでいる。
 それが「アイヌモシリ」(国)の歴史である。

  同化政策とは、(中略)アイヌモシリ(国土)に対しての侵略という歴史的
な罪悪をも根本から抹殺してしまう考え方である。既得権とは従来あった領
土としてのモシリのさまざまなアイヌ民族の権利をいうことであり、この諸々
の権利は民族として現在に至るも歴史的に放棄したことはないのである。(
結城庄司・『チャランケ』・一九九七年)

 

いま、島尾は東北の父母の地にねむっている。

福島県相馬郡小高町には、「埴谷・島尾文学資料館」も建設された。
島尾がこの世に送りだした厖大な作品群は、映画・演劇のメディアともクロ
スしている。作家・島尾がこの世に伝えておきたかったこと、それはなんだ
ったのか?

島尾は奄美=南島を去る二年前に述懐している。

 

さて、十七年を越える南島での歳月のあいだに私が学んだことは、
ヤポネシア・琉球弧の視点かもしれない。
(『島尾敏雄非小説集成』第一巻あとがき・一九七三年)

 

島尾の〈ヤポネシア〉は、「国家」としての「日本」を、「もっと眼の位置
を高くして眺めたところから」超国家的に発想したものという。そして、〈
ヤポネシア〉というイメージは、島尾の血に流れている東北の「エゾ」「
エミシ」「アイヌ」などの自覚から生みだされたものという。さらに島尾
は、だから自分は生来「はしっこの思索家だ」とも言っている。

しかし、『島尾敏雄事典』という七百ページもの分厚な「事典」にそえ
れた十四ページにわたる膨大な索引群にあたってみても、「蝦夷」「エ
ミシ」「アイヌ」などの項目はひとつもない。くわえて「千島弧」も「トカラ
列島」も排除されている。これはどうしたことだろう。はしっこの思索家
が「学んだことは、ヤポネシア・琉球弧の視点かもしれない」と感慨深
く述懐している、のにだ。

この『事典』は島尾の死後十四年目に、妻ミホなどの近親者たちに
よって編まれたが、生前と死後の島尾ワールドが一目瞭然である。
この中に「アイヌ」や「千島弧」、「トカラ」や「宮古・八重山」などのは
しっこの世界がみごとにはずされていること、それこそが島尾敏雄
の〈ヤポネシア・琉球弧の視点>の真相であり、そこに「日本(国)主
義者」で、同時に「琉球(国)主義者」であった島尾敏雄の国家主義
的な深層があぶりだされている、と逆に私は納得させられている。

 

三 まんなかのためのはしっこ

 

島尾敏雄は、日本列島の北辺の北海道島とそこにつら
なる旧殖民地の千島列島の島々までを日本(シャモ
)
国固有の〈千島弧〉として超国家的に囲いこんだ。それは
、新日本の国策にもかなっていた。北方の島々(とりあえずは南千
島)をソ連から日本(シャモ)に奪還するために
トカラとアマミの島々はオキナワに先がけてアメリカ帝国から日本
帝国
へクリスマスプレゼントされたのだが、これは日米両帝国から
ソ連への牽制球であった。同時に、そのタマは極東の有事のさいに
はアメリカの軍事基地としての顔をもつ変化球でもあった。

一九五三年十二月二十四日、日米両国政府は「奄美返還協定」
に調印した。このとき日米間で「交換公文書」が交わされた。
 それは、「極東に一旦緩急ある場合の付帯事項」であった(中村安
太郎・『祖国への道』・一九八七年)。 

 

「奄美群島及びその領水は、日本本土と南西諸島のその他
の島におけるアメリカ合衆国の軍事施設との双方に近接してい
るため、極東の防衛及び安全と特異の関係を有する。日本国政
府は、この特異の関係を認め、南西諸島のその他の島の防衛を
保全し、強化し、及び容易にするためアメリカ合衆国が必要と認
める要求を考慮に入れるものと了解される。」(「日米交換文書」・
一九五三年)

 

半世紀前の交換文書ではあるが、昨今の米国のための有事法
制化や、南西諸島をめぐる軍事基地の強化策などが、すでに奄美
諸島を担保していたのである。台湾島から中国大陸、さらにフィリッ
ピン海から太平洋や東南アジアにつらなるシーレーン、「南西諸島」
(「琉球弧」)がしめる「特異の関係」とは、日米の戦略的重要性にほ
かならない。

実際、奄美群島の喜界島では、自衛隊の通信傍受施設(旧称
「象のオリ」)建設に計二〇〇億円以上の予算がついている。また、
広大なリーフを埋め立てて建設された奄美空港は、地震や津波時
に最も強い空港である。二〇〇三年には、米軍機の着陸が全国で
二番目(一番は米軍佐世保基地の滑走路の役割を担
う長崎空港)
の多さである。自衛隊機の飛来では、奄美大島(百二十三回)、喜
界島(四十五回)、徳之島(三十四回)、沖永良部島(三十一回)、
与論島(四十九回)と多く、鹿児島県鹿屋の海上自衛隊第一航空
群と
沖縄県那覇の陸上自衛隊第一混成団から出動している。

米軍機の奄美空港利用が増加傾向にあることについて山口大学
の纐纈(こうけつ)篤教授は「米国の中東戦略に絡み、着陸が常態
化している証明だ。アジア太平洋全域の軍事戦略拠点として重要視
する米国政府の方針を鮮明に反映していると考えていい」と指摘して
いる。(南海日日新聞・二〇〇四年三月二十四日付)

一方、沖縄島の辺野古海上基地建設計画をめぐるボーリング掘
削調査に対する住民らの阻止行動は、正念場をむかえている。こ
のリーフ上の空港建設は奄美空港と同様、天変地異に最も強い空
港であることから、懸案の石垣島白保の海上空港の問題などとも根
はひとつである。米軍が要望する「安全」「軍事」空港であるからだ。

南の宮古諸島の下地島空港はパイロット訓練用の民間の飛行場
だが、給油を目的とする米軍機が着陸するようになり、ここでも反対
運動が展開されている。「二〇〇一年五月に米国防省のシンクタン
ク『ランド研究所』が、中国・台湾の武力衝突を想定して、米空軍が
東シナ海に浮かぶ島々(下地・宮古・多良間・石垣・与那国)の各空
港を使用できるよう提案していた」(琉球新報・二〇〇四年九月一六
日社説)という。奄美の島々もそうであるように、日米地位協定で「米
軍機は無料で日本の飛行場に出入りできる」と定めているからだ。

さらに南の石垣市では二〇〇四年九月、戦闘機や輸送艦、
自衛隊員九百人が加わり防災訓練が行われた。十一月には、自衛
隊の誘致がささやかれる国境の与那国島で、「持久走の転地訓練」
にきていた自衛隊員六十人がマラソン大会に参加している。(『けーし
風 第四十五号』・二〇〇四年十二月)

基地の島オキナワとその周縁の島々をとりまく情勢は、このように
日本(ヤマト)列島に先がけて有事体制に邁進し
ているのだが、本土(ヤマト)のメディアではあま
りにもマイナーなあつかいである。

同時に、第二次大戦中、沖縄本島で展開された日米の地上戦
情報は、比較的メジャーとなっているが、「琉球弧の周縁」にあっ
て、地上戦がなかった奄美・宮古・八重山などでの「戦争」はほと
んど知られていない。

菊池保夫の「集団自決の場所―奄美諸島から―」というショッキ
ングなレポートを受けて、私はつぎのような一文を書いたことがある。

 

自決の島

   切り捨てられた非日本人

   「皆さーん、いよいよ最期の時が参りました、   

自決に行く時がきました!」
   島尾ミホさんの神話的な作品「海辺の生と死」 
に描か
れていた世界が現実だったことをご本人にうかがってから、「自決の
島」に生まれたことの宿命みたいなものを感じている。

 松本市在住の菊池保夫さんの研究「集団自決の場所―奄美諸島
から―」(「奄美郷土研究会報」第
三十六号・一九九六年)は、
日本を奄美から相対化する。
 菊地さんは、米軍が奄美に上陸したならば、日本軍の指令によって、
集落ごとの「自決」「玉砕」「住民虐殺」の可能性があったことを示し、奄
美の有人八島の二十六集落に残る、集団自決に関する文献資料を
分析している。
 奄美では集団自決用の非常防空壕(ごう)を「第三非難壕」、沖縄の
八重山諸島では「第三避難地区」と「三」付けで呼んで区別し、集落単
位での避難形態が共通していることを指摘している。沖縄本島の防空
壕作戦とは相違していたという。 
 第一避難壕は家庭用、第二避難壕は遠隔地用、第三避難壕は集団
自決用で、「最期の防空壕」と呼ばれていて、日本軍の命令によって部
落総出で掘らされていた。米軍が奄美に上陸していたら、ぼくの父母た
ちも、「軍の食糧確保と戦場の足手まとい」(前掲論文)のために自決、
ぼくの出生もなかったかもしれない。

 そんなことを考えていたら、神戸在住の高木伸夫さんが「一九四六年
『非日本人』調査と奄美連盟・南西諸島連盟」(神戸奄美研究会報「キョ
ラ」二号・一九九七年)を発表した。高木さんの論文によると、連合国総
司令部(GHQ)は一九四六年、日本政府に、在留する外国人の実態把
握と引き揚げ希望者の計画輸送のために、外国人を対象とする人口調
査の実施を求めた。
 「外国人」の対象とされたのは、当時「非日本人(ノン・ジャパニーズ)」
という概念で認識、分類されていた朝鮮人、中国人、台湾人、琉球人だ。
ここで「琉球人」とは、北緯三〇度以南(口之島を含む)のトカラ、奄美、
沖縄に本籍を有する者たちのことだ。

 日本政府側の意図は「自国の食糧確保と治安維持」のため、厄介者
払いだった。高木さんはその根拠に、
兵庫県内で見つかった、「本
登録ノ完全ナル実施ニ依リテ日本内地ニ於ケル食糧配給、治安確保等
ノ上ニ及ボス影響極メテ大」と書かれた資料を提出している。
 さて、菊地さんが「軍の食糧確保と戦場の足手まとい」を、高木さんが
「自国の食糧確保と治安維持」を、軍と政府の意図として論じているが、
この見事な一致は単なる偶然ではない。
 たとえば現在、「沖縄人」の基地問題を「日本人」は真剣に考えない。
安保賛成、おらが基地は反対だ、なぜか?
 戦後、「日本国」は、天皇メッセージとともに、おらが国の独立・繁栄と
引き換えに、「奄美・沖縄」を切り捨てて米軍統治下に譲った、なぜか?

 明治の前期、大日本帝国は住民に無断で八重山諸島を中国に「割
」する計画を、後期には奄美・沖縄を台湾と「併合」する計画を立案して
いた、なぜか?

 多くの「なぜか?」、を解くかぎが「自国民優先の食糧と治安対策」だろう。
そのためには「外地人や在日非日本人」を徹底的に利用はするが、いざ
いうときには「厄(介者)払い」というのが日本国の不文律であるからだ。
(朝日新聞・鹿児島版・「みなみ歳時記」・一九九七年二月六日付)

 

菊池さんの報告は奄美と八重山からの調査だが、沖縄本島と
周縁離島では軍の防空壕対策も違っていたようだ。
そこには、「琉球弧」とひとくくりにはできない琉球弧内部での中央
と周縁の差異がある。
たとえば、琉球弧の各諸島間でも「大島本島」、「沖縄本島」、「宮
古本島」、「石垣本島」というふうに中央と周縁の入れ子的構造が
あるのだ

また、日本列島各地で掘られた戦中の防空壕だが、その地域
住民の集団自決用に、まさに墓穴まで掘らせていたのかどうか、
その実態把握と列島内での地域差の比較なども今後は視野にい
れておきたい。
 「本国」「本土」「本州」「大本営」など「本」(まんなか)の防衛と繁
栄のために、枝葉末節(はしっこ)の地域を切り捨ててきた列島の
負の歴史は、原発や産廃、軍事基地やダムなどなど、形を変えな
がら今も列島の各地でこりずにくり返されているからだ。

〈ヤポネシア〉、そのひびきは美しい。

太平洋の西縁の海原にたゆたうペンダントとしての日本列島。
その「本体(まんなか)」をアジア大陸の北辺(千島弧)と南辺(琉
球弧)からつなぎとめるための島かざり。

それが、島尾敏雄が戦後日本のあるべきすがたとした〈ヤポネ
シア〉だった。
同時に、島尾の〈琉球弧の視点〉も、「沖縄本島」や「大島本島」
をまんなかにしてのまなざしであり、トカラや喜界・与論、宮古・
八重山などはしっこの島々までにはとどかなかった。

日本というのっぺらぼうな国家像を、多様なネシアで彩るため
に発想したという島尾敏雄の「もうひとつの日本」、〈琉球弧〉と〈ヤ
ポネシア〉。

だがしかし、美しいひびきと「いくつもの日本」というよそおい
をあらたにして、またぞろ『古事記』をかかえた隊長さんたちに
踏みこまれてはたまらない。

 

   おわりに

 

私は奄美の大島に生まれた。

現在、名瀬市内で古本屋をいとなみながら、先祖が代々
生きてきた山すその佐大熊という郊外の土地で母と家族七人で
くらしている。
奄美大島にもどってくるあいだには、アジアと日本(
マト
)
の島々を漂流してきた。
移動のたびにそれぞれの地域の境界やつながりと向きあわさ
れてきた。「アジアと奄美」「日本(ヤマト)
奄美」「アイヌと奄美」「琉球(沖縄)と奄美」「鹿児島と奄美」「奄
美と大島」「大島と名瀬市」「
名瀬市と・・・」というふうに。

いま、平成の大合併。
島国日本の地域をめぐる境界が目まぐるしく漂流している。
むかしから境界は、国々所々の時の権力者たちの力関係でアメ
ーバのように移動してきた。

境界とはなんだろうか?

日本列島から目を転じると、地球の諸大陸も島である。
海底のプレートにのって大洋を漂流しつづけている。
流動するそれぞれの島を舞台に、人間も万物も分裂と
合体、漂白と定住をかさねてきた。地球の島々は大小にか
かわらず、地球の根っこで一様につながりながらそれぞれ
のDNAをしたたかに生きてきた。
たとえオカミやオクニが、島々の将来を勝手に「切り取り」
「コピー」して、どこに「貼り付け」ようが、島は島でありつづ
けた。

とはいえ、島の内部は複雑怪奇である。
たとえば、奄美・沖縄では地域を構成するコミュニティの
最小単位を「シマ」という。
ヤマトの「ムラ」、アイヌモシリの「コタン」だが、奄美での
シマは広い意味ではクニと同義である。
そこでは私たち一人ひとりがシマそのものであり、同時に
島とクニである。
そこには帝国も周縁もない。
それぞれの内なる完結したシマ世界があるだけだ。

ただ、シマごとの境界はどこでもいくえにもかさなっている。
そのさかいを相対的に異化しようが、無化しようが、あるいはさ
けめにクサビを打ちこもうが、たがいに根っこを結びあおうが、
シマはやはりシマでありつづける。
私のシマでふつうにくらし続けること、それがこの世で与えられ
た一番幸せな生き方であると信じている。 

北緯二十八度二十三分、東経百二十九度三十分、ここが
私のシマのまんなかだ。
同時にここは、よそのシマからははしっこにすぎない。
その条件は万物に一様につながっているから、ちょっと
気をつけてみれば、一瞬にしてよそのシマ島の具合や
調子や加減なども感知することができる。
なぜなら、たとえそのシマが遠くアメリカやイラクや北朝
鮮であったとしても、そこは蜘蛛の巣のようなシマ島の一
部だからだ。

本稿で私は、島尾敏雄の〈ヤポネシア〉を「帝国」、
〈琉球弧〉を「周縁」として位置づけ、チシマ・トカラ・ア
マミ・オキナワ・・・とつらなるシマ島のつながりを考え
てみた。

島尾敏雄という「日本を代表(?)する作家」が、
奄美から提唱してきた〈ヤポネシア〉と〈琉球弧〉。
その根っこを、奄美の土壌から掘りだして料理し
てみたかった。
島尾の思想を疑いだしてここ数年来、イメージし
てきたことではある。 

私が掘りだした島尾の根っこは、「日本人」や「琉
球国」、つまり、ヒト世界にしか通用しない「国民」や
「国家」という切りカブからのびていた。
 そのカブの根は、地球上のシマ島にあまねく深く
はりめぐらされていて、そうたやすくは掘りおこせそ
うになかった。
 いま、私自身のカブや根っこと向きあっている。
そこは、帝国も周縁もないふつうのシマ世界だ。 

              (初稿2004年12月)