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南日本新聞「ホンとの出会い」2002年10月13

『南島イデオロギーの発生』

♪名も知らぬ遠き島より〜

流れ寄る椰子の実ひとつ〜

日本(やまとぅ)から遠い奄美の島にも思わぬホンが流れ寄る。村井紀の元版『南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義―』もそのひとつだ。

昨年、藤井令一が『島尾敏雄と奄美』を出版して、「奄美にとっての島尾敏雄」を催した。そこで、村井の『増補・南島イデオロギーの発生』に出あい、溜飲がさがった。元版は絶版。諦めていたら、先日、ドンブラコと流れてきた!

島尾が奄美から発した「ヤポネシアと琉球弧」の概念をここ数年、ぼくは懐疑的に読んできた。島尾の思想は、「南島」や「北方」の異域を「日本」の固有の領土として囲いこむ装置だ、と思い始めたからだ。奇しくも村井は、島尾や吉本隆明らの『南島論』は柳田の「新国学」(植民地学)と軌を一にしている、と十年前に論考していた。

思えば、「南島」が浮上する背景には、「日本」の外交政策がある。たとえば、古くは遣唐使の「南島路」。明治以降の日本の侵略を支えた「南進論」。今日では「奄美沖の工作船」などが、日本の安全保障の問題としてかまびすしい。

村井によると、『海南小記』や『海上の道』で「日本民俗学」の指標を構築した「柳田民俗学」は、「南島」を「日本の源郷」と位置づけた。同時に農政官僚で日韓併合にも関与した柳田は、初期の対象だった山人やアイヌの異民族、朝鮮や満州など「北」の植民地問題を隠蔽して、「南」へと転向した。そして、聖なる「南島」を「発見」し、近隣のアジア民族との比較を回避し、列島内の「一国民俗学」に閉じこめた、という。

柳田や南島論者たちは、島津藩のトカラ・奄美の侵略や、日本政府の「日琉合邦」や、現在も「特別措置」(植民地化)されている「南島」の現実(政治)などにはふれない。一九六〇年代から七〇年代、柳田の「日本民俗学」は、島尾、吉本、谷川健一、司馬遼太郎などの文学や思想に継承され、「日本」探索の「知」の求心力となった。

同時代、プー太郎のぼくはアジアの海にいた。戦前、アイヌ・奄美・琉球・朝鮮・マレイ人種たちは、国策から日本人と同祖とされ同化の対象だった。今は「縄文」や「いくつもの日本」という「知」がはやりだが、ポスト柳田学の国民国家的潮流だろうか。

さて、奄美に回遊し古本の渚で遊ぶ。波に洗われ肉をそがれたホンたちが漂着する。流れ寄る「日本の知」に「奄美の血」がさざめきだす。(了)

森本眞一郎(本処あまみ庵主)

「ホンとの出会い」

南日本新聞十月十三日付

 


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