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「晴読雨読」 琉球新報読書コラム03年1月19日

 戦後の混とん、うねりたどる

間弘志著
「全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動」

  南方新社・0三年二月二十二日発行・3800円+税


 一九五三年十二月二十五日、奄美が沖縄の島々を足げにして、「
国日本」「母県鹿児島」にまた帰っていったのは、吾ンが三つ児のとき。吾ンも日の丸ふって「バンザーイ!」とおらんだのだろうか?

五十年目のこの年、復帰のイベントが名瀬市だけでも百件以上はあるという。沖縄の友人からも「奄美人は大いに暴れてください!」とのエール。はて、当の沖縄びとたちは、三十年目のフッキガミをどのように迎え、マツり、送り帰したのだろう……。

(はざま)弘志の『全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動』は、なまなましい記録集だ。著者は吾ンのトゥジの同級生。高校時代から復帰関係の文化活動をしていたという。「復帰運動を知らない=体験しない世代だからこそ、遅れてきた青年の視点で、復帰運動なり、文化の実態を客観的に見ることができ、論評することができるかもしれない」と述べている。

じっさい、分離期の大島支庁、軍政府、復帰協議会、本土、国会、米国、沖縄移住・・・、あるいは報道、文学、演劇、映画などの編年が、ポスト復帰世代の手で一目瞭然となった。各項目の解説には著者ならではの問題提起がそえられている。分離期間、奄美群島の政府に自治権はなかったが、七年三ヶ月で七回も改称された。このウトゥマラシャン(ヒルマサン)変わりようにこそ、沖縄とは別な奄美の顔がある。

一九四六年ニ月ニ日の分離宣言で、「北部南西諸島米国海軍政府」が開設され、「臨時北部南西諸島政庁」に改称。ンが生まれた一九五十年、「北部南西諸島政庁」から「奄美群島政府」に。一九五一年に「臨時琉球中央政府」が発足。一九五二年には「琉球政府奄美地方庁」に降格。一九五三年、八十七ヶ月ぶりに「鹿児島県大島支庁」が復活。現在まで半世紀、あらたな植民地体制が続いている。

敗戦後の奄美には仕事がなく、島のくらしは密航や蜜貿易に依存していた。吾ンの親父は闇船を摘発されて陸に上がり、HBTの仕立て直しの仕事があったが、多くの奄美の人々が食と職を求めて沖縄へ渡航した。彼女や彼ら分離難民たちは、奄美の早期復帰を沖縄でどのように引き受けてきたのだろうか。「沖縄移住」の年表から、当時、沖縄の地元紙に掲載された見出しのほんの一部を引用しよう。

「在沖奄美人二万四五五六名/地方庁発表」「沖縄市町村会/奄美人は返せと要望」「日本復帰で外人扱い/在沖奄美出身者」「大島沖縄間航路/あすから外国船扱い」「“在沖奄美人”の取扱い/永住許可は期待薄か」「池畑嶺里琉銀総裁解任」「泉有平副主席も解任」。「在沖奄美人の外人登録/一月中にもれなく」「改正選挙法来春交付/在沖奄美人には選挙権与えぬ」・・・・・・。

「琉球」政府内で「奄美」だけが「日本」へ早期復帰した背景には、「朝鮮」戦争後の「中ソ」をにらんだ「アメリカ」の国際的な戦略と、奄美の運動内部での確執があり、総括はされていない。世間には、偽装の結婚もあれば離婚もある。将来、沖縄と奄美がともに歩んでいくには、互いの歴史・文化の検証が肝要だろう。本書の発行日は二〇〇三年の二月二日。奄美が分離された日である。

 

もりもとしんいちろう。一九五〇年名瀬市生まれ。本処あまみ庵主。「環境ネットワーク奄美」委員。共著に『鹿児島西田橋』など。