コラム酒池本林 怪しい店主の近況報告です。

「酒池本林」200008(3)

「シマ喪失者のシマ論―佐大熊から―」
(3)

「黒潮祭り」の会場は下佐大熊の公園だが、ここは、むかしは「大浜」と呼ばれていたそうで、名瀬市の小宿の「大浜海浜公園」のようなビーチロックが広がり、アダンの群生林の長い白浜には塩焼きや珊瑚の石灰焼きのヤドリ(小屋)が建っていたそうだ。ガシティ(うに)など魚介の豊かな海の畑(イノー・干瀬)の上に、現在の公営と一般の住宅が次々に建ち始めたのは、1968年8月に埋め立て工事が完了してからだ。

ぼくは1965年に鹿児島へ向かい、高校だけはとりあえず卒業したのだが、1969年には東京の大学を初退!した。中退ではなく、教科書を購入する前にイッチぬけてしまったからだ。そして1970年に奄美にフラリと戻ってきたら、実家はオヤジの生地の名瀬市郊外の佐大熊にひっこしていて、風太郎のトラさん(小生・1950年寅年生)も魂消たのだった。

上佐大熊は棚田がひろがる田園風景だったのが、公営と一般の新興住宅地区に大変貌していた。
オヤジ名義の田んぼや山などが開発地区になり、小金がはいったのだろう。山を削った一般住宅
地は「開発」した市が「森本団地」と名づけて、公務員が占拠している。

さて話を本筋に戻すと、「黒潮祭り」の夜に、親戚の西元武義アニと逢ったのでビールを飲みながらの雑談が、貴重だったのだった。マツリのアトまで飲み続けて酔ってしまったが…。

「いなさん(小さい)頃、サデクマの積みたて金ぬ集金ばしゃんじゃが、12軒有たっとぉ…?吾んや大正10年のまぁ(生)れで、小学生あたんかな(ら)、戦争ぬ前ぬ事どぉ。戦争らが戻てぃちゃん時や、2〜30軒べーり(くらい)なとたやぁ。昭和ぬ23年じゃが…。」

すごい!すごい!!こんな話初めて聞いた。うちのオヤジは、フ〜タロ〜がホ〜ロ〜のタビから戻った1980年の翌年に(ホットしたのだろう)、ホントにポックリと逝ってしまったので昔の話など全然聞いていなかったのだ。笠利から名瀬に嫁いできたきた母は歳のためウロ覚え状態で…。

「八月踊り?おー、やー(家)回りだか、1軒1軒、回たっとぉ。相撲?うりや(それは)サデクマなんてぃやすらんたんば、デクマ(大熊)・ウラガン(浦上)がり行じ、取りょたっとぉ。」

幕末に「人家2軒」のサデクマが、昭和10年代には12軒になり、昭和23年には2〜30軒、2000年の現在は減少は続いているが約1100軒というわけだ。「八月踊り」と「出張相撲」の登場にもドギモをヌかれた…市役所の市民課でもっと詳しく調べてみるか…。(つづく)


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