コラム酒池本林 怪しい店主の近況報告です。


シマ喪失者2000/08/19

今月の「書きょうたんじゃが」・『島々清(かい)しゃ』(1993年発行)更新のために、国道58号についての文章をひさびさに読みかえしてみた。
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「今走っているこの道は国道五八号線ですよ」
「沖縄島のルート五八?」
「オーイエー!鹿児島市に明治政府の立役者の西郷隆盛の銅像がありますね、その前からスタートして鹿児島港へ行き、種ヶ島とこの奄美大島に上陸します。そして、沖縄島の国頭の奥部落まで一気に飛んで那覇の国場川の明治橋にいたるのです」
「あっさー、明治の琉球処分というか、薩摩の琉球侵攻といおうか、これはイミシンな道であるわけさー」。
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ぼくが住んでる名瀬市の佐大熊町は新興住宅地区で、山を背に東シナ海の名瀬湾に北面している。
空港からイミシン58号沿いに山羊島トンネルを抜けると、下佐大熊だ。テトラポットの背後、旧「大浜」の埋立地跡に建設された五階建ての公営住宅の林立が…約600戸。息を呑むようなエメラルドグリーンの亜熱帯色の海中には、さらに埋め立て中の土石の山が…。何のためだか、巨大な「21世紀へのかけ橋」も建設中だ。そしてここの車の往来数は、奄美の14市町村でダントツ・トップである。山側の上佐大熊は水田地跡にやはり公営住宅群が…約500戸。

1960年代〜1970年代の「日本列島改造論」の開発の波は、ここ奄美の海浜や田園地帯にも大津波となっておしよせてきたのだった。なぜ大げさに大津波かというと、公営住宅ができる以前は10数戸しかなかったからだ。さらに、江戸時代の末期の地図には、「サデクマ黍田人家2軒」と記されている……。

ぼくの住まいは山ふところにおおわれているのだが、死んだオヤジのものになっている。昔は山羊島の辺りまでそうだったらしい。少ない親戚筋は、「本家はここ。ここからみんな分家していった」という。総合的に判断すると、「人家2軒」のうちの「一軒」らしいのだ。山すその「森本家」と浜がわの「盛谷家」は、いまだにジッコンにしているからだ。

2軒しかなかったからだろう、墓地も八月踊りもないまま、1100戸もの大世帯になった今でもないものはない。ぼくのシマは先祖のサデクマなのか、生まれ育った永田橋市場近辺なのか、いまだに判然としないまま、あちこちのメディアに「シマ」のことを書きつづけている。「シマ喪失者のシマ論」に近いのだが、次回もこのテーマで掘り下げてみたい。

2000/08/19(morisin)


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